第7話 現実だよ?
もう一度先生に会いたい。
あたしはずっとそればかりを考えていた。先生の影を追うようにして、美術部に入った。意味があるかどうかなんて、その時にはもうどうでも良くなっていた。
描きたいものなんて、先生以外になかったから、ずっと先生の絵を描いていた。後任の美術教師は、あたしを気味悪く思っていたのか、ろくに声をかけてこなかった。今にして思えば、それも当然だった。ずっと同じ人物ばかりを描いているなんて、気味が悪いに決まっている。でもあたしは描き続けた。美術室の絵の具と埃の混じった匂いを嗅ぎながら、先生の絵を描けば、もう一度先生に会えるような気がしたから。
だけどあたしの記憶は、どんどん朧げになっていった。
先生の顔が思い出せない、先生の骨格が、髪の色が、雰囲気が、笑い方が、どんどんどんどん新しい記憶の中に埋没していく。どう描いても、どれもこれも先生とは違うような気がする。どうしてなんだろう。あんなに好きだったのに、いまもこんなに先生のことを考え続けているのに、どうして忘れてしまうんだろう。あたしは思い出の中ですら、もう二度と先生に会えないの?
中学三年生の夏の終わりに、あたしはキャンパスの前で嗚咽を漏らしていた。先生にもう一度会いたい。先生をあんな風にした奴らから、世界から、あたしはどうやったら先生を守れたんだろう。そのときだった。涙でボロボロに溶けた視界に、真っ黒いワンピースが揺れているのが見えた。
「泣いてるの?穂花さん」
「…え」
先生がそこにいた。長髪と白い肌が夕日を照り返していて、ワンピースの黒は、全ての光を飲み込んでいるみたいに見えた。
「なんでここに」
「忘れ物、取りに来たの」
先生が歩くとコツコツと床が鳴った。
「会いたかった?私に」
先生の体は健康そのもので、向かって右側に片えくぼも見えた。完璧に綺麗で、それがかえって現実じゃないみたいだった。
「会いたかったでしょ?」
窓も開いていないのに、金木犀の匂いがした。先生の香水だろうか。あたしは放心したまま頷いた。
「先生、どうして──」
「私」
あたしの質問をその人は穏やかに遮って、それから優しく笑った。
「もう先生じゃないの」
だから先生って呼ばないで。
「穂花さんなら、私の名前覚えてるでしょ」
呼んで。
頭の中に、声が直接響いてるみたいだった。
「…美咲、さん」
その人がクスリと笑った。見たことのない笑い方だと思った。
心臓がドクドク鳴っていた。これが現実なのかどうか、この人があたしのよく知っていた先生なのかどうか、あたしにはわからない。そもそもあたしは先生のことを少しも知らなかったんじゃないか。
「信じてないでしょ、私がここにいるって」
「…だって、現実じゃないみたいで」
現実だよ?
先生のひんやりした右手が、あたしの頬に触れた。ねえほら、現実でしょ?信じられない?私のことが。
わからない。あたしの知ってる先生は、そんなふうに笑わないし。そんなふうにあたしに触れたりしない。
「だから、もう先生じゃないんだよね」
今の私はもう、ただの美咲だから。その人はそう言って、もう一方の手であたしの首筋に触れた。冷たい手だった。金木犀の匂いが一段と濃くなった。
背骨を直接掴まれてるみたいな気分だった。今ここから出て行ったら、この人に背骨ごと持っていかれてしまいそうで、だから逃げられないし、もう逃げたいのかどうかもわからない。これが現実なのかどうかもどうでもいいような気がする。
「ねえ穂花さん、描いて」
ずっと私のこと描こうとしてくれてたの、知ってるんだよね。だから描いて?ここにいる私を。
あたしは頷いた。あたしの意思とは無関係に、この人があたしにそうさせた。
長い長い時間がかかったはずなのに、その人はずっとそこにいた。あたしが絵を描き上げたとき、その人は微笑んで、上手になったねと言った。
「忘れ物取りに来たって、嘘なの」
悪戯っぽくその人は笑った。あたしの見たことない表情だった。やっぱり私の知ってる先生じゃないのかもしれない。じゃあ誰なんだろう。
「本当はね、穂花さんに会いに来たの」
「え」
ひんやりとした手が、また頬に触れた。茶色い瞳が夕陽をうけてきらきら輝いている。
「どうして来てくれなくなっちゃったの?」
私ずっと寂しかったのに。私のこと嫌いになったの?
「そんなこと──」
「じゃあどうして?」
また金木犀の匂いがした。冷たくて柔らかい手の感触が、頬と首筋にあった。目眩がした。このひとが先生かどうかなんて、もうどうでもいい。
「怖かったからです、知られるのが」
「なにを?」
上擦った、微かな声であたしは答えた。
「先生が好きだってことを」
その人はまたにっこりと笑った。
「穂花さん、私もう先生じゃないの」
唇に冷たい感触がして、あたしは目を閉じた。金木犀の匂いに全てを溶かされていく。あたしはこの人のことを何も知らない。この人があの人なのかどうかも、定かじゃない。でもそんなのもう関係ないと思うくらい、恍惚だった。
ゆっくりと目を開けたとき、私の目の前には誰もいなくなっていた。
「先生?」
オレンジ色だった空は青色に染め上げられていた。
先生はまた消えてしまった。あたしの目の前から。確かめるように唇に手を触れて、キャンパスを見た。さっきのは夢だったのだろうか。
「先生…」
キャンパスに描かれたそれは、あたしの描いた絵とは様子が変わっていた。その人がこちらに向かって手を振っている。
あたしはキャンパスを抱え込んで床にへなへなと座り込んだ。先生はここにいるんだろうか。これは先生なのだろうか。さっきのは夢?でももし夢なら、この絵は?あたしは描いてない。あの短時間で、いったい誰が描き変えられる?それとも先生がいなくなったのは、あたしが描いたから?たくさんの疑問が頭の中に湧き上がったけれど、答えになるものは美術室のどこにもなかった。
ありえない。こんなことあるはずない。日が沈んだばかりの薄明の空を睨みつけながら、あたしは途方に暮れた。訳が分からなかった。
でも、でももし本当に──。
でももし本当にここに先生がいるなら、あたしはもう二度と、先生に苦しい思いも寂しい思いもさせない。そう決めた。
「背景を描いてみたらどうですか」
高校の美術教師はそうあたしに提案した。そうしたら寂しくないだろうと。あとから気がついたけれど、多分あのとき石崎先生は、空間に何もないことを寂しいと言ったんだろう。あの人が寂しいかどうかじゃなくて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます