第6話 私といて楽しい?
先生は仕事がない時大抵いつも絵を描いていた。何枚もの風景画。なぜそんなに描く必要があるのか、あたしにはわからなかった。
夏休みが終わったあとも、あたしはいつものように朝から美術室へ入り浸って、先生が絵を描いているところを見ていた。
中学2年生の夏。先生たちがちょうど
当時のあたしは無自覚だった──あるいは、気がつかないふりをしていた──けれど、その時にはもうすでに先生に惹かれていたんだと思う。絵なんて少しも好きじゃなかったのに、あたしは毎朝先生の絵を観にいった。まるで取り憑かれているみたいに。
いつからだったか、先生は苦しそうに絵を描くようになった。一年生のクラスが荒れているって、校内ではもっぱらの噂だった。苦しそうに絵を描く彼女の姿が自画像を描いていたときのあたしとなんとなく重なった。
「先生、苦しい?」
だからそう訊いた。描くことが苦しいんだろうか。それとも描かずにいられない現実が苦しいんだろうか。先生は曖昧に微笑むだけだったけれど、片えくぼはもう見えなくなっていた。
「私、誰かのために絵を描くのって初めてかも」
先生がぽつりとそう言った。言葉が部屋の中に積もっていくみたいだった。
「別に、無理しなくていいですから」
「無理なんてしてない。須藤さんこそ、無理して毎日ここに来なくていいんだよ」
「無理なんて──」
「じゃあ」
してない、と言いかけたところを、先生に遮られた。
「じゃあ須藤さんは、どうして毎日ここへ来るの」
「…迷惑ならやめます」
「ううん。そうじゃなくて、楽しくないでしょう?私が絵を描いてるの、ずっと観てたって」
「そんなことありません」
「じゃあ、須藤さんは」
先生は縋るような目で、あたしの瞳を覗き込んだ。でもそれはあたしの思い込みかもしれない。今となってはもうわからない。先生との距離が近づいて、ふわりと柔軟剤の匂いがした。
「私といて楽しい?」
そうです、と素直に答えればよかった。屈託なく。先生に真っ直ぐに瞳を覗き込まれたとき、心の奥底までこの人に見透かされているような気がした。あたしがどうしようもなくこの人に惹かれていると、もし悟られたら、この人はあたしを軽蔑するんじゃないだろうか。制服の下の背骨を直接触られたみたいに、ゾクリと背筋が跳ねて、弾かれたようにあたしは立ち上がった。
「…絵が、好き、なので」
それだけ言って、私は美術室を飛び出した。ああどうか、あたしの本心に、あの人が気がつきませんようにと願いながら。保身のために嘘をついたあたしのことを、先生は許してくれるだろうか。絵なんて少しも好きじゃなかった。
教室に駆け込んで、担任の先生に「あら須藤さん、早いのね」と言われても、考えるのは先生のことだった。 先生に悟られるのが恐ろしかった。だけど同じくらい、先生のことが心配だった。あのままどこかへ消えてしまうんじゃないかと思った。
それなのに怖くて翌日も、翌々日も、美術室には行かれなかった。美術の時間にも、掃除の時間にも、もう以前のように先生と話さなくなった。拒まれるくらいなら拒んだほうがマシだと思った。そうやって、幼稚で汚くて利己的な恋心はますます膨れ上がっていった。
気がついたら秋が終わっていた。二学期が終わる頃、あたしは玄関前で先生に呼び止められた。須藤さん、絵、渡せなくてごめんなさいね。
「別に、気にしてないですよ」
「私、須藤さんに何か、失礼なこととか、しちゃったかな」
「いいえ。何も」「じゃあどうして?」
「別に。忙しいんです、私も」
先生はそっか、と言って弱々しく笑った。目の下のクマがひどい。表情も、昔はもっと豊かだったはずだ。先生をそんな顔にさせた原因は一体なんなのだろう。荒れていると噂の一年生たちだろうか、それとももっと別の何かだろうか。何もできない自分も、先生のことを何も知らない自分も憎くてたまらない。
「絵、卒業まででいいので。先生、体に気をつけてくださいね」
先生は少し安心したように頷いた。
だけどそれが、先生と交わした最後の会話になった。
冬休み明け、学校に先生はいなかった。休職中です、とだけ説明された。他のことは何もわからなかった。生徒の間では担任していたクラスの生徒から嫌がらせにあったとか、他の教師から嫌がらせにあったのではないかとか、様々な憶測が飛び交った。美術の授業には代わりの先生がやってきて、 代わりに授業を進めた。もうあたしの絵を褒めるような変わり者はいなかった。
「須藤って、君のことだよね」
代わりの先生がそう言って、あたしに一通の手紙を差し出してきた。先生の名前が書かれていた。
中にはあたしに対する、絵を渡すことができなかった謝罪の言葉と、素敵な大人になってね、というメッセージが書かれていた。
帰り道、あたしの踏み出す足の一歩一歩が、後悔となってあたしの脳裏に押し寄せてきた。
──じゃあ、須藤さんは私といて楽しい?
あのとき、あたしがあんなふうに保身に走って、本心を隠しさえしなければ、先生はあたしのもとからいなくなったりしなかったんじゃないだろうか。
先生の絵は、いつもなんだか寂しかった。絵に意味なんてないと言っていたけれど、先生があたしにたくさんの絵をみせたのはその寂しさに気が付いて欲しかったからかもしれない。 不器用な先生なりのSOSだったのかもしれない。なんて、後から考えればなんとでも言える。先生が姿を消してしまった。わかっているのはそれだけだった。
休職期間を過ぎても、先生は学校にやってくることはなかった。
あたしは家の物置に置きっぱなしにしていた自画像を引っ張り出してきて、ぼーっと眺めた。腹が立って、ビリビリに引き裂いてやろうと思った。おまえのせいだ。何もかもおまえのせいだ。
──須藤さん、苦しい?
あたしは微笑んで、それからゆっくり頷いた。
そこから先、あたしの身に起こったことは、少なくともこれよりも記憶に新しいはずなのに、朧げで支離滅裂で、本当にあったことなのかどうか定かじゃない。
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