第5話 絵は好き?

 先生の描く油絵は、いつもなんだか寂しかった。

 あの頃あたしは中学二年生で、先生は一年生のクラスの担任をしながら、いろんなクラスの美術の授業を教えていた。絵なんて少しも好きじゃなかった。

 最初のモチーフは桜だった。先生は自由に描いていいよ、と言ったけれど、自由も何もどう描いたらいいかわからなかったあたしは、判で押したような桜の絵を描いて提出した。

「須藤さん、絵は好き?」

 若くて綺麗で穏やかな美術の先生、初めのうち、あたしが彼女に抱いた印象はそれだけだった。生徒が描いた絵の一つ一つに丁寧にコメントをくれるその熱心さは、あたしには居心地が悪いくらいだった。

「別に。何描いたらいいかわかんないんです、絵って」

 あたしがそう答えると、先生はふふ、と笑った。その仕草がなんとなく見てはいけないもののような気がして、視線を落とした。

「こんなふうに抽象化できるのも、すごいことなんだよ」

 先生はそう言って、判で押したようなあたしの桜を指さした。無理がある慰めだなと思ったけれど、顔を上げると先生の表情は真剣そのもので、なおさらあたしには訳が分からなかった。これがすごいこと?平べったくてつまらない、この桜の絵が?


 先生のほっぺたには、笑うと片えくぼができることに気がついたのは、ちょうど桜が散る頃だった。


 二つ目は自画像だった。

 あたしは自分の顔が嫌いだった。太い眉毛に性格の悪そうな目。課題のために配られた鏡を睨みつけながら鉛筆を走らせて描いていると、絵の中のあたしもあたしを睨みつけていた。細かった鉛筆の線はいつの間にか濃く、太くなり、幾重にも重なりあっていた。

 先生はあたしのそばに来て絵を見るなり「苦しい?」 と尋ねた。須藤さん、苦しい?

「別に、普通、ですけど」

「そう?ならいいけど」

 先生は少し心配そうに、顔をあたしの耳元まで近づけて話を続けた。なんだか耳がぞわぞわして、居心地が悪いような気もしたし、むしろずっとここでそうしていて欲しいような気もした。

「自画像はその人の内面を強く反映してしまうって、私思うの。 だからね、心の中が絵っていう形でおもてに出て来て、苦しくなることもあると思うの。苦しかったらいつでも言ってね」

 そう言って先生はまた、ほかの生徒のところへ行ってしまった。

 先生はややエキセントリックだと思う。変わっている。芸術に携わる人間だからだろうか。自画像が内面を反映するなんて話は、あたしは少しも聞いたことがなかった。苦しくなった人が、今までの生徒の中にいたんだろうか。あるいは、先生が──。


 掃除当番が変わって、あたしは美術室の担当になった。

 先生は担任をしているクラスの方の掃除をしていていないときもあったけれど、あたしを見かけると必ずふふふ、と笑って、片えくぼを見せるのだった。いまにして思えば、先生は人当たりのいい人だから、あたしだけに限ったことではなかっただろうに、何と無く自分だけに向けられた笑顔であるような気がして、それがこわいような、嬉しいような不思議な心地だった。

「須藤さん、この後部活?」

 先生の気まぐれだろうか、それともあたしだから?直接訊くには勇気がなかった。きっと違うだろうと思ってもいた。例えそうだとしても、ほんの少し気にかかるとか、その程度だ。そこまで考えて、自分はそもそもなんでこんなにこの人に期待をしているのだろうと思った。4月に会った時には物腰の柔らかい綺麗な先生だなと思っただけだったのに。

「いいえ、あたし、部活入ってないので」

 なんでこの人と話していると、どうなってもいいような気がしてしまうんだろう。疑問を頭の中で転がしながら答える。

「よかった、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど」

 荷物背負ってからでいいから、ここにもう一回来てくれる?先生にそう言われて、いつもより明るい声色で返事をしてしまう自分に気づかないふりをして、美術室をあとにした。


 カバンを背負って戻って来たあたしに、先生は準備室にくるように言った。

 準備室の中には無数の油絵があり、絵の具の匂いが立ち込めていた。すごい、と思わずつぶやいた。先生がふふふ、と笑うのが聞こえた。

「これを処分するの、手伝ってほしいの」

 先生はいつもと全く変わらない調子でそう言った。

「え、捨てちゃうんですか?」

 こんなに綺麗なのに、と言いながらあたしは油絵をまじまじと見た。ほとんどが風景画で、そのどれもがなんだか寂しかった。

「絵に価値はないの。私にとって意味があるのは、描くことそのものなの」

 欲しいならあげる。屈託のない笑顔で先生はそう言った。その顔は、もうすぐ全て燃やし尽くして寿命が終わってしまうと憂えている恒星のように見えた。

「欲しい、です」

 引き寄せられるようにあたしはそう答えていた。あたしがどうしたいとかじゃなく、この人があたしにそうさせるのだ、と思った。先生はまたふふふ、と笑った。こんなの持って帰れないでしょ。向かって右側の頬に、また片えくぼが見えた。

「須藤さんには、小さいのを描いてあげる」

 それは捨てていいよ、と言って、先生はビニール紐とはさみをあたしに差し出す。運ぶのは私がやるから、これお願いね、と笑って。

 絵の具の匂いの立ち込める準備室で、あたしは先生と2人きりだった。心臓がいつもよりほんの少し速く動くのに、気がつかないふりをした。どうしてあたしに声をかけたんだろう。たまたまそこにいたから?もしそうじゃないとしたら?先生が、あたしだから声をかけてくれたんだったらどうしよう。

 家に帰って布団の中に潜り込んでからも、油絵具の匂いと、たくさんの紙の匂いと、先生の笑った顔が、あたしの脳裏に焼きついていた。


 あくる朝、あたしは先生に会いに行った。次の日も、またその次の日も、ずっと。先生は私に絵を描いてくれるという。その完成が待ち遠しかった。桜はもう完全に葉桜になり、一学期も終わりかけていた。

 先生はあたしが戸を開けると決まってはじかれたように立ち上がって、あたしの顔をみるなりふっと安心したように笑うのだった。心を許されたような気がして嬉しかった。ほんの20分くらい、先生が絵を描いているのをみたり、どうでもいい話をしているだけでよかった。


 先生の表情にかげりが見えるようになったのは、いったいいつからだっただろう。

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