《9/26/2161/20:16 Takako Himesaki》
『はぁッ、はぁッ』
まず顕れたのは動悸の感覚。強い息切れの感触。
そして、凄まじい恐怖。
タカコは暖色のじゅうたんで出来た廊下を全力で駆け抜けていた。
【来る……ッ! 来るッ!】
視界のすぐ横に、隣で走る人影が映る。綺麗な黒髪のポニーテールの少女——タカコの娘の、ナギ=ヒメサキだ。
その勢いのまま目の前の扉を突破し、振り返ってそのまま閉めた。
『ロックをッ、ロックを……』
扉のすぐ右側にある施錠ボタンを何度も押している。人差し指が折れそうになるほど強く。
ナギが叫んだ。
『お母さん! もう、閉まってるよ、だから、早く逃げよう——』
ナギの目が見開かれる。
バァン! という派手な音と共に身体が吹っ飛ばされる。その勢いでビリヤード台に身体を打ち付け力なく落下する。
『あ……あ……』
ナギは震えたまま後ずさる。
『逃げ……なさい! ナギ!』
タカコは叫んだ。そして——ひしゃげた扉の方を睨みつける。
そこには、決して人間ではなく、しかし、どことなく人間らしさを残した不気味な生命体が立っていた。直径三十センチはあるであろう太く、血管の浮いた腕。背中からは甲殻類のそれのような、赤黒い八本の肢が生えており、その先端は鮮血で汚されていた。胸部はハエトリグサのようにぱっくりと裂かれ開かれており、中から太く柔らかそうなピンク色の舌をのぞかせている。頭部は見るも無残に溶け出しており、顔を構成するパーツはばらばらに配置されもはや元の形をとどめていない。
そして、その怪物の巨大な目玉はナギの方を見つめていた。
『——ッ!』
恐ろしいほどの速度でピンク色の舌がナギへと伸びていく。
『ああッ!』
全身の力を振り絞りタカコはその舌を掴んだ。粘液のぬるぬるした感覚に背筋が凍る。
『逃げて! 早く、逃げて!』
そして、その長い舌はタカコ=ヒメサキの身体に巻き付いた。そして、高く持ち上げられる。
『お母さん……おかあさん!』
ナギ=ヒメサキはわなわなと震えている。
『ナギ……な、ぎ』
怪物の舌の、身体を締め上げる力が増大する。
『クッ……う、ァあああああ』
バキン、バキン、と肋骨が破壊される音が体内から響いてくる。
タカコはかすれた声で言う。
『行って……早く、行って』
『あ……あ……』
身体を震わせながらも、ナギはゆっくりと後退していく。
『私の、愛しい、ナギ』
ナギの両目から涙が溢れ出す。
『うああ、あああ……ごめんね、ごめんね、おかぁさん……』
振り返り、もう一つの扉へと駆けていく。
【……】
【…………】
【……。ああ、ああ、行ってしまった。行って、しまった……】
ミシミシミシ、とさらに凄まじい力で体が締め上げられる。バキバキという気持ちの悪い音はもう聞こえなくなっていて、すべての骨がへし折られたことがわかる。
【これで、よかった、のよね。これで、これで……】
遠くからナギの走り去る足音が聞こえる。
【……】
【…………】
涙が、あふれる。
『……行か、ないで』
そう呟いてしまった、その時だった。
鋭い痛みが腹部を襲う。見ると、怪物の背中から生える太い肢が二本腹に突き刺さっていた。
無理やり、肢が背中側に貫通させられる。
『アァァァァァアアァァァァァ!』
余りの痛みに、絶叫する。
【なんっで、こんな、ことをッ!】
穴を押し広げるかのように、怪物の肢はタカコの身体を裂いていく。
そしてそのまま、タカコ=ヒメサキは——その身を真っ二つに引きちぎられた。
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