ルリの星空
泉宮糾一
ルリの星空
野放図な小型デブリ――宇宙ゴミが船体に衝突し、亀裂を塞ぎに出向いた船員を大量の放射線が襲った。船員の一人、妻のアイは身体機能を著しく低下させ、帰投時してまもなく昏倒した。その後の二年間、生命活動を維持できたのは奇跡に近かった。娘のルリが「新世代」なのはその被曝のせいかと時折聞かれる。そんな奴はぶん殴って黙らせた。ルリが産まれたのは事故の一年前だ。宇宙を好んでいたアイは、いつか娘が平和に宇宙で遊べるようにと、ボランティア同然のデブリ回収に臨んでいた。俺たち夫婦は一年ごとに育児を分担しようと決めていた。もしも順番が逆だったなら、アイはまだ生きていたのかもしれない。事故の後何度もそんな妄想を言い訳にして、妻の記憶を無理やり呼び起こし、その顔や姿が薄れないようにしていた。
「新世代」の子どもたちは紫外線を捉えることができる。それは当初、大衆の間にまことしやかに広まった噂だった。人類が比較的気兼ねなく宇宙に出るようになって、飛び交うガンマ線を新たなエネルギー資源として活用し始めた頃から、色覚異常の子どもが増えつつあるという研究結果はあったらしい。環境が変わり、恒常化すれば、生物は漸進的に変化する。それにしたって変化が急すぎるという意見もあったが、網膜の錐体細胞の変異を捉えた研究結果が発表されると、大衆は熱狂した。「新世代」の子どもたちにとっての赤も青も、俺たち「旧世代」とは異なり、俺たちが見えない紫外線を彼らは色として認識できる。まだその色を表す言葉は存在しない。ゆえに俺たちには想像もできない。
紫外線とは可視光よりも短い波長だ。「旧世代」の網膜から逃れてしまうその波長を、「新世代」は捉える。彼らは日光を嫌い、星空を好む傾向がある。ルリも同じだった。俺は本心では、ルリをあまり宇宙には引き寄せたくなかった。妻の死に方を思えばルリには、手に追い切れない高度にまで行ってほしくないものだ。しかし、大衆が喧伝するブームの波は、俺たち一般家庭をたやすく飲み込んでしまった。「新世代」の子を持つ親たち、つまり俺の同世代たちは、天体観測ツアーをこぞって企画した。ほら、うちの子はこんなにも多くの光を捉えられる。これぞ人類の革新だ。親たちは満足する。子どもたちもきれいな星空を見られて楽しい。親たちの思惑など、子どもたちには関係ない。友達がみんな行くとルリに言われてしまったら、俺は折れるしかなかった。
ルリが言葉を覚えるのは早かった。自分には母親がいて、もう会えないということも、教える前に知っていた。チューブに繋がれながらも微かな吐息をしていた二年間を、ルリはわずかにでも憶えているようだった。
「お母さんも星が好きだったんだよね」
小学校に上がる少し前に、そう問われた。
「よく知ってるね」
「お母さんの絵がいっぱいあるから」
視界に捉えた映像を直接紙に投影できる技術が開発されて久しい。写真という言葉は俺の子どもの頃の記憶に薄っすら残っているだけだ。手作りの画像は、今ではすべて絵と言われる。妻の残した絵は仕事場となるデブリの危険区域のものだ。事情を知らなければ正しく綺麗な星くずの絵である。
「お母さんのこと、憶えていてくれて嬉しいよ」
アイの残したものはたくさんある。一番はこのルリだ。俺には見えない輝きをその双眸に捉えるたったひとりの娘。五年の育児が終わり、アイを学校に通い出す。お供の育児ロボットとはこれからも長い付き合いになる。始まったばかりの娘の人生を、必ず守ると星空に誓った。
〇
見える色と光が異なる「新世代」の人たちが、小さな子どものうちは平和だった。「旧世代」が彼らを祝福するのが通例で、意思疎通の取りづらさは我慢できた。そのような世間の雰囲気は、「新世代」の年長者が中高生になった頃から翳りを見せ始めた。色覚の違いがもたらす不便を、彼らの代表者がインターネットを介して訴えるようになった。「新世代」の感覚を守り、「旧世代」の押しつけを弾圧するための権利団体が発足した。彼らの運動は世間に驚きと反発をもたらした。今までの社会を守ろうとする意見が持ち上がり、反対に旧弊さに押しつぶされる人権への擁護の声が上がる。白熱する議論はやがて大衆を置き去りにした。過激な運動は恐怖の対象となり、色や光に無関心な人たちの態度は、次第に積極的な忌避へと転じた。「新世代」の話題が口に上る機会は減っていき、もてはやすばかりのブームは沈静化していった。
社会の不安が高まり始めて間もなく、ローリスクな網膜正常化手術の手法が発表されたことは、大衆の多くを安堵させた。せっかく人類にもたらされた革新をなくしてしまう。それを正常化と呼ぶとは何事かと怒り出す人もいたが、所詮は少数派だ。社会の安寧を憂う政府の後押しもあって技術は早急に実現へと運んだ。「新世代」の中にもこれを歓迎する動きがあった。結局のところ、少数派のままでいることには、いつ突き落とされるかわからない恐怖がつきまとう。元より人類の錐体は、生きるために必要な光を取り込めるように、可視光の範囲を狭めてきた。不可視の星灯りと未知の色彩を捨てることを、「新世代」も「旧世代」も問わず、多くの人が望むようになった。
我が家において、網膜正常化手術の話はルリから提案された。彼女はもうすぐ二十歳になろうとしていた。体が悪くもないのに手術をするのは、俺としては嫌な感じがしたが、ルリは乗り気だった。就職することを考えると、社会に合わせた方が都合がいいらしい。
「それにこれで、お父さんと同じになれるから」
そんな風に言われたら、俺が反論できなくなることをルリは十二分に分かっていたのだろう。ルリが嫌でなければ俺の忌避感など些末なことだと、頭の中で繰り返し自分に言い聞かせた。
都市部の大きな病院で手術は行われた。予約制ではあるが、朝入って、お昼過ぎには終了していた。変化した色彩に慣れるように、しばらくサングラスをかけることになった。帰り道、空を見たルリは太陽を直視しないように気をつけて、空を見上げた。
「これがお父さんたちの青なんだ」
複数形だったことを俺は聞き逃さなかった。ルリは孤独を感じていたのだ。そんなことにも気づかず、「新世代」ともてはやしていた自分が恥ずかしかった。
眠そうなルリを後部座席に乗せて車を発進させ、まっすぐ家に帰った。術後の疲れがあるらしく、横になりたいと言って、ルリは自室へ向かった。倒れないようにこっそり見張りながら、ルリが扉を閉めるのを確認する。ホッと一息ついたのも束の間、ルリの悲鳴が聞こえた。テーブルに置こうとした鞄を放り出してルリの部屋に駆け込んだ。
「ルリ!」
乱暴に開いたドアがきしむ。朱色の鮮やかな、ほこりひとつないカーペットの上でルリは立ち尽くして天井を見上げていた。俺が近づいても、口は開いたままだった。
「どうして、お母さんの絵がないの?」
手術したばかりの、うっすら赤い瞳が見開いた。その瞳から涙が溢れた。ルリの手が拭っても拭っても、涙は止まろうとしなかった。
〇
人は紫外線を見ることはできない。網膜にある錐体細胞の長さのせいだ。S、M、Lにサイズ分けされた錐体細胞が、可視光の長短を決める。それが人にとっての色彩の基準だ。見えないという性質は、人の生活を邪魔しない意味でもある。赤外線通信は人を刺激せずに家電を動かすし、紫外線は身体を割かずに患部を探ったりする。
紫外線を扱うこと自体は誰にでも出来る。ブラックライトなんてそれこそ昔からある道具だ。ルリに言われたとおりにそれを買い、部屋に照らした。彼女が催促した意味はすぐわかった。
「これは、天の川か」
直径約10万光年。僕らも巻き込む渦巻銀河の断面図。天井の端から端まで、大も小も兼ね備えた光の大群が模して描かれている。
「これがお母さんの絵なんだな」
隣でルリが頷く。薄っすらとした暗闇でもそれは感じられる。人間は所詮、自分が捉えられる範囲の光しか見ることができない。しかし、見えないところにも物体は存在する。暗闇でもルリは動いている。それくらい目に頼らなくてもわかる。
描かれている天の川は、俺の知っているそれよりも輝きを増している。見えない範囲の恒星まで丹念に描かれた一大創作物。俺はずっと勘違いをしていたのだ。ルリの言う母さんの絵は、仕事の資料ではなかった。それはずっと、ルリを見下ろしてくれていたのだ。
「昔、お父さんはお母さんのことを『お星さまになった』って言ったの、覚えてる?」
ルリに言われる。ピンとは来ない。もうずっと昔のことだから。正直に答えると、ルリは少しむくれて、すぐほころばせた。
「私はずっと、この星のことを言っているんだと思ってた。私はこれをお母さんが描いたものだと知っていた。お父さんも見えているんだと思っていたよ。お父さんが見えない色があるって、知識ではわかっていても、私にはしっかり見えていたんだから」
ルリの手の影が、天井に伸びる。届きそうで届かない。少し跳んで、ようやく指先が触れる。光は消えなかった。すっかり天井にしみ込んでいるらしい。
「いったいいつ描いたのかな」
俺のつぶやきに、ルリも答えない。答えなどきっと、今の俺たちにはわからない。人間の知らないことは、この世界にまだたくさんある。紫外線や赤外線が見えないのと同じことだ。
「本当はね、もっといろんな色をしていたの。星の色そのものだったんだよ」
ルリの声が弾んでいる。この子は本当に星が好きだ。ブームなどなくても、惹かれていたのだろう。やはりアイの子だ。この子の中にアイがいる。
「その色彩は、絶対に忘れるな」
言いながら、明かりをつける。色彩を生み出す天からの贈り物。頷くアイの立ち姿に、記憶よりも鮮明な、彼方の妻の面影を見た。
了
ルリの星空 泉宮糾一 @yunomiss
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