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「あら? もしかして、私と追いかけっこがしたいのかしら?」

 カトリーヌの足は勝手に動いていた。魔女とは逆方向の、小川のほとりを目指して。

「ふふふっ、いいわよ! なら、とっておきの鬼を用意してあげる!」

 魔女・ジャンヌは邪悪な笑みを浮かべると、手元の書物をパラパラとめくった。七十二の悪魔の一人、灰色の狩人を召喚するために。

「さぁさぁ、私の呼び掛けに応じなさい!! 七十二の悪魔の一人、バルバトス!!」

 美しい蝶が舞い、彼女の書物から黒い光が溢れ出す。その輝きと呼応するように、時を狩る悪魔が姿を現した。装飾の美しい弓矢を持った、灰色の鎧を着た男性。瞳は凍てつくように鋭く、口元は灰色のマントで覆われている。

「あなたの自慢の弓矢で、私の可愛い妹を殺してみせて! あの白い肌を、何度も何度もえぐってみせなさい!」

 バルバトスは小さく頷くと、無言のまま矢を弓につがえ、力強く引き分けた。遠くへ逃げたカトリーヌを、一寸の狂いもなく捕まえる。

 ――ひゅっと風を切る音が、ジャンヌの耳に届いた。その直後、少女の苦痛にまみれた悲鳴が聞こえてくる。

「あはははは!! 素敵!! 本当に素敵だわ!!」

 右足を射抜かれたカトリーヌは、その場に倒れ込んで悶絶している。それを全く気に留める様子もなく、狩人は二本目の矢を放った。今度は投げ出された左腕、その最も痛い部分だ。

「ゔああああああっ……!!」

「ああ、なんて可哀想なカトリーヌ!! 痛くて辛くて、胸が張り裂けそうなのね!!」

 けらけらと笑いながら、動けない妹に近づく魔女。彼女の回りを飛ぶ蝶々も、まるで面白いものを見るかのように乱舞した。

「でも、まだ殺してあげない!! 私の目の前で、もっともっと苦しみなさい!!」

 ジャンヌの白い指が宙を指し、バルバトスに再び指示を出す。カトリーヌはだらだらと血を流しながら、何度も繰り返される苦痛に耐えるしかなかった。


「どう、カトリーヌ? これが魔女の力よ!」

 ……返事をする気力など、とっくに失せている。寂しい温度の涙だけが、小さく頬を流れた。

「あなたが私を魔女にしたの! 私に素晴らしい力を与えてくれて、本当にありがとう!」

 ああ、そうか。姉は本物の魔女になってしまったのだ。ぼんやりと宙を舞う意識の中で、カトリーヌはそう考えた。

「だからね、たっぷりお礼してあげる! いっぱい血を流して、いっぱい泣かせてあげるわ!」

 弓矢を下ろした悪魔は、今度は大きく左手を突き出して、鋭利な長槍を召喚した。静かに草花を踏みしめながら、じっとカトリーヌを見下ろしている。

「いいわよ、バルバトス! あなたの好きなやり方で、私の可愛い妹をいたぶって!」

 空に響く、魔女の笑い声。振り下ろされる、悪魔の長槍。――最期にカトリーヌに届いたのは、血肉が深くえぐれる感覚だった。

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