第5章「夜の終わり」

 窓の向こうの暗闇に突如光が走るとほぼ同時に轟音が響き、奏は思わず手元の書類に向けていた顔を上げた。

「ひゃ~、雷が落ちたんだねぇ」

 窓ガラスに両手をついて楽嶺が楽し気に、「あ、また一つ落ちた」などと報告してくる。その実年齢よりあまりに幼い様子に苦笑しつつ、奏は事務机から腰を上げ楽嶺の隣に立った。

 二人がいるのは白亜の生徒会棟だ。星祭に向けて学園の生徒の多くは遅くまで校舎に残って準備をしていたが、祭の開催の指揮を執る生徒会も例外ではなく、この時間まで打ち合わせをしたり書類を片付けたりして残っていたのだった。

「奏ちゃんももう寮に戻りなよ。王子様がこんな遅くまで働いてるなんて」

「王子だからこそだよ。それに生徒会長でもある。皆の先頭に立って働かなきゃね」

「そんなこと言って体を壊したりなんかしたら、首都の王妃様が悲しむよ?」

「重々気を付けるさ。楽嶺こそもう寮に戻って良いんだぞ。お子様は眠い時間だろ?」

「えへへ、俺は奏ちゃんのフクシンだから最後まで一緒にいるんだよー」

 同学年とは思えない程無邪気な楽嶺の発言に、長時間の書類仕事で強張った神経も緩む感じがする。腹心、なんてあの言い慣れない様子では、きちんと文字にして綴れないんじゃないだろうか。

「ひどい雷だけど、嵐でも来るのかな。それなら外に出したままの大道具とかを校舎内に入れるように生徒に呼びかけなきゃ」

「いや、この雷は……」

そう言って奏は言葉を切った。しばらく口に人差し指を当てて考え込んだ後、

「楽嶺、ちょっと用を思い出したからしばらく出てくるよ」

と、くるりと窓に背を向けた。

「ちょ、ちょっと、奏ちゃん!?」

 楽嶺の慌てた声を背中に、奏はさっさと部屋を出て行ってしまった。


* * *


 額に強い衝撃を受け、目の前に火花が散った。遅れて鈍い痛みが襲ってくる。それで先程から私を押さえつけている蛟に、掴まれた髪ごと頭を床に打ち付けられたんだな、とわかった。

「流火!」

 私を憎々し気に見つめたまま、視線も向けずに背後の流火さんの名前を呼ぶ。彼女はすぐさま扉を開け放ち、廊下へと躍り出た。式神は銀環の鍵を両足でしっかり掴んで窓ガラスを突き破り、学園の広い庭園の上を滑るように飛んでいく。

「追え!何が何でも灼にあの鍵を手に入れさせるなっ」

「はいっ」

 流火さんは簪でまとめた赤毛を翻し、小鳥が穴を開けた窓ガラスをさらに体当たりで粉々にしながら走り去った。

「やってくれんじゃん……っ!!」

 ぐりぐりと額を床に押し付けられて痛みに呻く。ぬるりとするのは多分血だろう。だがやれることはやったという興奮で怖い物無しの私は、蛟の力に抗い下から睨みつけてやる。こんなこと、もしかしたら人生で初めてやったかもしれない。

「へぇ、良い目をするようになったじゃないか」

 意外にも蛟は怒りをしばし引っ込めて、面白そうな顔をした。

「お前が<半神の血>だってわかってからそれなりに観察してたんだが、文句の一つも言わずに巳司の野郎に飼われて、まぁ反抗心の無いつまらない奴だなって思ってたんだよ」

 言いながら私の腕を無理矢理引き上げ、立ち上がらせる。

「行くぞ」

 蛟は痛みと貧血とでおぼつかない足の私を教室の外へと引きずっていく。

「どこへ……」

 目の前の背中にばさり、と翼が現れたのはその時だった。ぐらつく視界を覆う漆黒の大きな翼だ。改めてこの男が灼君と同じ、鵠王国の吸血鬼であることを実感する。蛟は片腕だけでかなり乱雑に私を抱え上げ、すっかりガラスが割れ落ちた窓枠を蹴り上げて夜闇に飛び立った。


 一方、流火は校舎脇を疾走していた。

 彼女は構えていた三本の投剣を、黒い小鳥の式神に向かって矢のように投擲する。だが的が小さいので全て当たらぬまま飛んでいった。ちっ、という舌打ち。普段無表情な流火の美しい横顔に珍しく苛立ちが浮かぶ。

 彼女は走る速度を緩めぬまま思案する。あの式神はおそらく灼と琴里の間の連絡通信が主な役割で、その他は今のように軽いものを運ぶ程度のことしかできない。式神自体は大した知能もないはずだ。

 ならば、と彼女は懐からもう一本、投剣を取り出す。灼が潜伏しているのは琴里の自室であろうと目星はついている。女子寮に向かうなら、今、並走している第一校舎の端で南側に進路を取るはず。地の利は断然こちらにあるのだ。

 思った通り流火の約四、五メートル先で校舎の壁に沿って、小鳥が南側に折れる。旋回により当然、式神の速度は落ちる。それを追いかけて流火もカーブに差し掛かったところで、剣を回転をかけながら式神の進行方向にある樹木に向かって放った。回転する投剣は若葉を生い茂らせた枝を一本、ちょうどそこに向かって飛んできた式神の上に切り落とした。

 ささやかな攻撃であるが、前だけに向かって一心不乱に飛んでいた小鳥には大きな衝撃だ。

 流火の狙いは過たず、突然頭上からばさりと降りかかった緑の網に式神は鳴き声を上げながら地面に墜落する。彼女はその間に距離を詰め、懐からもう一本取り出した短剣を逆手に持って小鳥に突き刺した。

 ぴぎぃ、という式神の悲鳴。標本のように地面に縫い付けられた黒い小鳥は、しばらく羽毛をまき散らしながら小さな翼をばたつかせていた。それもわずかな間のことで、一声も発しなくなったところで流火が剣を抜くと小鳥の姿は黒い霧のように風に溶けて消えた。

 あとには琴里によって託された<銀環>の鍵と、大きな黒い羽根が一枚残されていた。これが式神の依り代となっていたのだろう。吸血鬼の羽根は一枚一枚が強い魔力を持っているのだ。

 流火は<銀環>を拾い上げ握りしめながら、

「蛟の邪魔はさせない」

と呟く。何の感情も乗らないその言葉は誓いでも何でもなく、己に対する事実確認のような独り言だ。だがそれに応える者がいた。

「悪いが邪魔をさせてもらう」

 殺気を感じるには距離が離れすぎていた。流火は式神を追ううちに女子寮の前にまで来ていたのだ。

 声がした屋根の上の方を見上げた時には既に遅かった。彼女の主とよく似た黒い翼の羽根が激しく逆立ち、赤い両眼が燃え上がる姿を認めたのを最後に――――――


雷が、落ちた。


* * *


 瞼の裏の暗闇に二色の明かりが煌々と現れた。導かれるようにして目を開ければ、頭上に青色と橙色の光が灯っている。この輝きは<アルビレオ>だ。

「目が覚めたか」

 徐々に覚醒していく意識が、地面の固さだとかぶつけられた額の痛みだとかを拾い始める。

 どうやら私はしばらく気を失っていて、その間に蛟によってつい先程訪れていた<聖地>に運ばれていたらしい。ウジャクと巳司はとっくに学園に戻ったようで、ここにいるのは蛟と私の二人きりだ。<アルビレオ>を支える大樹の下に転がされ、その傍で彼はいくらかピリピリとした空気を纏い立っていた。

「どうしてここに……」

 なぜわざわざ<聖地>に連れてきたのかと、重たい体を起こしつつ尋ねれば、

「お前が飛ばした式神を追った流火が戻ってきていない」

という硬い声。

「灼はお前に危機が迫っていれば必ず助けに来る。式神が流火の追跡を躱して<銀環>の鍵をあいつの許に届けたのであれば、枷の無い完全な状態のあいつと俺は戦わなきゃいけない……吸血鬼同士の戦いは激しいものになる。ここなら星祭の時以外は人もいない。存分にやれる」

 蛟は足元に蹲っている私に対し一瞥も寄越すことも無く、目の前の暗闇をじっと見ていた。その姿に彼が、灼君がここに来ることを確信し戦う覚悟を決めていることを察する。

(灼君……)

 私だって灼君が来ることを信じている。彼が必死で私の約束を守ってくれることを知っている。だからこそ恐ろしい。今から起こる戦いがどんな結果をもたらすのか。灼君は、私は、一体どうなるのだろう。

 そのとき中空でチカチカッと光ったと思った瞬間、私達を取り囲むようにすさまじい音と共に何本もの雷が落ちてきた。それは彼の怒りをそのまま形にしたような鋭く激しい衝撃で、蛟はすぐさま黒い翼を傘のように頭上に広げて飛び散る火花を弾く。私もまたその下で両手で頭を覆った。

 思わず塞いでしまっていた目を恐る恐る開けて、周囲を窺う。降り注ぐ紫電の矢に周囲の枯れ木は焼け焦げ、地面からは土埃がもうもうと立っている。その向こうに、懐かしい黒い影が浮かんだ。

「よう、待ってたぜ」

 先程までの緊張が嘘のように、蛟はいつものふてぶてしい態度で、土煙を切ってまっすぐこちらに向かって来る影に声を掛けた。

 土埃が治まって灼君の姿が現れる。彼が全身を覆う黒い外套を脱ぎ捨てると、露わにされた両翼からは<銀環>が外されており、まずはそこに安心する。今まで戒められていた翼は、羽根の一本一本がこれまでに無いみずみずしさがあった。また彼の顔は青白く、だがその両目はいつにも増して赤く、まるで血の色のようだ。馬鹿にするような笑みすら浮かべている蛟に対し、灼君は今にも爆発しそうな激情を抑えている不安定な雰囲気があった。

「……琴里は?」

 こちらから数メートル手前で立ち止まり、地を這うような声で絞り出した彼の一声がそれだった。

「ここだよ」

 灼君に私の姿がよく見えるよう、蛟が地面に膝をついていた私の襟首を引っ張って脇に寄せる。首が締まり息苦しさに睨み上げるが、蛟はどこ吹く風だ。

 灼君は私の無事な姿を目にして少しほっとしたようで、わずかに目元を緩ませる。しかしすぐに蛟に厳しい視線を戻した。

「学園の吸血鬼……もしやと思っていたが……やはりお前か、蛟!」

「ああ、その通り。<半神の血>が在籍していることは知っていたからな。探すために学園内の生徒の血をちょっとずついただいていたんだよ。お前が来てくれて助かったぜ?<半神の血>を過去に飲んだことがあるお前なら、それが誰かってことを確実に知っているんだからな。お前の行動を見張ればこの女に行きつくのは簡単だったよ」

 その言葉に、そういえば生徒会は吸血鬼の被害を逐一報告するよう生徒達に呼びかけていたことを思い出す。蛟は生徒会役員であり、誰が襲われたかを把握することができたはず。そうすると蛟自身が吸血した生徒以外の人間が被害に遭っていれば、それが灼君が吸血した人間、つまり<半神の血>というわけだ。蛟はおそらくその時たまたま目についた生徒の血を吸っていたのであり、その中に<半神の血>が偶然にでも含まれていたのなら儲けもの、といった具合だったのだろう。

「琴里の血を手に入れるために、俺を利用したわけか」

 苦虫を潰したような顔をする灼君に、

「ああ。王位を取るためにはどんな手を使ってでも奏に勝たなきゃならない。前からわかってるだろ?俺は目的のためには何だって利用する酷極悪非道な人間だって」

と蛟はせせら笑う。だがふとその笑みを引っ込めて、

「……お前がここに来たってことは、流火は」

 ぽつり、と神妙な顔を見せた。

「殺したよ。俺と琴里の邪魔をしたんだ。当然だろ」

 灼君が冷たく答える。蛟はそれを聞いて、

「そうか……」

と言ってわずかな間目をつぶり沈黙した。彼が再び目を開けたときには、いつもの嘲る調子を取り戻していた。

「<銀環>を外したんだろ。そのまま学園から逃げれば良かったのに」

「馬鹿を言うな。琴里を連れ出すことが俺の目的だ。それができないなら、生きてても仕方ない」

「はっ。昔から思ってたけどやっぱお前はバカだよ。女に命張らせて、それを無駄にするなんて、ほんとバカだ」

「無駄になんてしない。琴里を連れて帰る。今の僕には何の枷もない。戦いに遠いお前に負けるはずもない」

「枷がない?さっきから言ってるだろ。俺は目的のためなら手段を選ばないって。枷がないなら新しく作るまでさ」

 蛟はそう言って、ずっと掴んでいた私の襟首をさらに上へと引き上げた。

「ぅう……っ」

 締め付けてくる制服の襟を両手で広げてどうにか気道を確保しようとする私の首筋に、鋭い爪の生えた指先を添える。

「琴里!」

 灼君の焦った声。片手に雷を発生させ構えようとするも、

「動くなよ」

 蛟の鋭い声に、動きを止めた。

「動けば……わかっているな?」

 爪をつう、と滑らせる。首元の濡れたような感覚に、血が出ているのだろうとわかる。

「く……っ」

 灼君は苦々しい顔で先程まで用意していた雷の矢を消し、手をぶらんと下ろす。完全に攻撃態勢を解いた格好だ。蛟ならやりかねないと考えているのだろう。実際既に<半神の血>を飲んだ蛟は、私のことなど用無しでありいつ殺しても構わないはずだ。

「物分かりが良くて助かる」

 蛟は唇を歪め、私を掴んでいるのでないもう片方の手を前に差し出し、ぐっと握る。それと同時に彼の背後の地面を割って細長い水が四本吹き出した。それらは頭上高く伸び上がり、うねり、蛇の形を作る。蛟が「行け」と一声命令すると、水の蛇が一斉に灼君に襲いかかった。

「ぐぁ……っ」

 強力な水圧は岩をも砕く。蛇が一匹、無防備な灼君の肩を貫いた。肩を押さえ膝をつくが、蛟は攻撃をやめようとはしなかった。

 闇夜に何匹もの水蛇が躍り、花のように赤い血を散らす。蛟は決して急所を捉えようとはせず、何度も何度も執拗に灼君を傷つけた。灼君に近づくこともなく、己の手を直接血で汚すこともなく。灼君のシャツのあちこちに血が滲んでいく。

「やめて、やめて……っ!」

 見ていられなくなって、なりふり構わず叫んだ。蛟は私の悲鳴に残忍な笑みを濃くするばかり。灼君は俯き唇をかみしめ、ただただ攻撃に耐えている。蛟はさんざん彼をいたぶってから、殺すつもりなのだ。涙と体の震えが止まらなかった。


――――ああ、琴里が泣いている。

 積み重なる痛みとどんどん失われていく血にうっすら白みがかっていく頭で、灼はそれだけははっきりと聞き取った。それもそのはず。琴里が攫われてから五年間、彼女の涙を流す姿を思い出さない日は無かったのだから。だというのに今また泣かせている……本当に情けない。自分はいつだって彼女を悲しませることをしてしまうのだ。

 視界に映る己の血に染まる地面すらぼやけつつあり、代わりに目の前に蘇ってくるのは過去の日々だ。

 灼は父が自身の妻の侍女に産ませた子供だった。母は灼を孕んだとわかった時、そのことを誰にも伝えず職を辞し実家に戻り彼を産んだ。灼と同じ黒髪の美しい母に執着していた父はどうにか実家に隠されていた彼女を見つけ出し、その時に灼の存在を初めて知った。

 そしてそれと同時に彼の妻もまた、夫の裏切りを知ったのだった。憎しみに駆られた彼女は、自身がかつてかわいがっていた侍女に暗殺者を差し向け、死に追いやった。

 灼は、一人になった。

 父が愛したのはあくまでも灼の美しい母であって、血のつながった息子である灼自身には無関心だった。しかし灼が吸血鬼の力を顕すと、放っておくわけにもいかなかったのだろう、退魔技術に造詣の深い巳司家に、長男の瀬杖を義父として預けることにした。最低限の生活は保障されるものの、灼がもし吸血鬼として暴走すれば始末する、そういう取り決めだった。

 巳司は命令だから最低限の面倒は見たが、灼に対し嫌悪を隠そうともせず、きつくあたった。継母の憎しみは根深く、異母兄弟達は灼に対しほんの少しの憐れみを感じはするらしかったが、基本的には無関心だった。

 そんな中で出会ったのが琴里だった。

 彼女だけが灼の話を聞いてくれた。一緒に笑って、頼ってくれた。初めて未来を夢に描くことができた。

 河向こうで出会った、たった一人の大切な人。だというのに彼女の血を喰らい、それがきっかけとなって彼女は鵠王国に捕らわれてしまった。彼女を守ってきたギス族から引き離し、深い孤独に陥れてしまった。


「じゃあな、灼。お前のことは馬鹿だとは思っていたが、それ程嫌いじゃなかったよ」


 動かない的をめった刺しにするのにも飽きたのだろう。灼の頭上で四匹の水蛇が渦を巻くようにして集まり、一本の水の剣と姿を変えた。蛟がぱちんと指を鳴らすと、それは音を立てて一瞬で凍り付き氷の大剣となり、一段と鋭さを増す。後はその切っ先を灼に向けて落とすだけだ。

「お願いだから……」

 涙と土で顔がぐしゃぐしゃの琴里がズボンを引いて懇願してくるが、邪魔だとばかりに掴んでいた襟首を放し彼女を振り払う。再び地面に倒れた琴里に見向きもせず氷の剣に灼の心臓を貫くよう命じようとするも、

「――、――――」

 灼が下を向いたまま何かを言おうとしていることに気が付いた。彼は既に目が虚ろ、あんなに艶やかだった黒い翼は打ち捨てられたように地面に広がっている。口からこぼれる声はほとんど音になっていなかった。

「何だ、聞こえないな」

 最期の言葉くらい聞き届けてやろう。そういう気持ちでこの時初めて、蛟は自分から灼の許に近づいた。鋭い氷の切っ先に狙いを定められたままの灼の前まで来ると、口元に耳を近づけるため片膝をつく。荒い呼吸の中で、ようやくいくつか言葉が聞こえた。

「頼む……琴里のことだけ、は、助けてほしい……殺さないでくれ……」

 結局のところ灼が考えているのはそれだけだ。可哀想なほどに単純な男。蛟は呆れてさっさと引導を渡すことにした。

「……仕方ない。それくらいは聞いてやる。だけど、お前はここでさよならだ」

 そう言って立ち上がろうとしたとき、今まで身じろぎすらしなかった灼にぐっと服を掴まれ引き寄せられるや否や、熱さと共に激しい痛みが胸元に起こった。

「っな……っ」

 見下ろせば己の胸に短剣が深々と突き刺さっていることに気がついた。鋭く輝く銀の剣。銀は吸血鬼の致命的な弱点の一つだ。

 そういえば流火から、奏がウジャクを通じて琴里に護身用だと言って銀剣を渡したのだという報告を受けていた。まさかそれを灼が持っているとは。

 状況を把握すると同時に、蛟は己のミスを悟った。そうだった。確かに灼は馬鹿で単純な男だ。だからこそ一つしかない目的のためには躊躇しない。他のことは何も気にしない。それは自分の命ですら、だ。

 灼は蛟が琴里を人質にしておく必要がないと判断するよう、己の命ぎりぎりまで攻撃を受け、追いつめさせた。そして蛟が灼にもう反撃の力は無いと考え琴里を手放し離れ、灼に十分に近づいたところで、彼を捉え短剣を突き立てたのだ。

「くっ……小賢しい真似しやがって」

 銀の剣を掴む灼の腕ごと引き抜き離れようとするが、「もう遅い」と、灼は全身を使って蛟をその場に押さえつけた。

 蛟の背を冷たいものが伝う。ここまで来れば灼の考えは嫌でも読めてくる。彼は蛟を道連れにしようとしているのだ。

 最後の最後で甘さが出たな、と灼が耳元で笑う。ずっと伏せられていた両目が力強く見開かれた。蝋燭は燃え尽きる最後の瞬間に最も激しく輝くと言う。彼の目に閃く魔の宿る赤い光はそれであったか。


「堕ちろ」


 その言葉と共に、耳をつんざくような音を立てて、これまでとは比べものにならない巨大な雷が落ちた。それは真っ白な光の柱となって蛟を、灼を飲み込んだ。周囲の枯れ木を焼き、<アルビレオ>は台木が折れて崩れ、距離がいくらか離れた木々も風圧でなぎ倒された。

 地面に倒れ伏していた琴里は眼鏡が吹き飛び、風で飛ばされた小石や小枝によって皮膚を裂かれ、細かい傷だらけになった。白光と爆風とでしばらくは何も見えず、耳も馬鹿になってしまったようだった。それでもしばらくすると風は治まり、うっすらと視覚と聴覚が戻ってきた。

 呻きつつ、ぼろぼろになった身を起こす。辺りを見回せば、クレーターのようにその一帯だけが破壊し尽くされていた。<アルビレオ>は傾ぎ、支えていた枝に結ばれていた錦は全て焼けて塵となり跡形も残っていなかった。木々は倒れ、焼け焦げ、所々で白い煙を上げている。先程の轟音が嘘のようにひっそりと静まり返り、生きているものの気配が感じられない。

 空はうっすらと白みがかってきており、まだ弱い光がこの破壊の痕を照らし出している。今まさに朝になろうとしている中で、琴里は真っ黒な影が二つ、折り重なるようにして地面に倒れているのを目にした。


「灼君……っ」

 私はよろよろと二人と思しきモノの所へ駆け寄った。肉が焼ける臭いが鼻につき、ぞっとした。それは正しく死の臭いだ。

 ひざまずいて地面に投げ出された腕を取る……知らなかった、灼君の傷だらけの手はこんなにも白かったのか。目を閉じた灼君の頬をそっと撫でると、灼君は目元をかすかに動かした。

「琴里……?」

 うっすらと開かれた目に、先程のような激しい炎は見られなかった。今はただ仄かな光が灯るのみだ。

「ええ!私はここにいるわ」

 灼君の目には明らかに私の姿が見えてなかった。少しでも早く安心させたくて、私はぎゅっと彼の手を握りしめる。

「良かっ、た……無事、だったんだね」

 灼君はほっとしたように私の手を握り返した。その手の力が予想以上に弱々しくて、私は動揺した。

「蛟、は?」

 言われて灼君の隣を見やる。蛟は両目を見開いたまま、心臓の音を止めていた。

「……死んでる。もう大丈夫」

 この男に憎しみこそ感じるものの、これ以上気にはならなかった。今気にしなければならないのは灼君のことだけだ。灼君は「そうか」と頷いた後、

「……ごめん。連れて帰る、って言ったけど、もう僕にはできないみたいだ」

ぽつり、とこぼした。

 大丈夫だよとか、絶対に一緒に帰れるよとか、そんな言葉は出てこなかった。灼君が口にした言葉は、誰の目から見ても明らかな、残酷な真実だったからだ。ただ、灼君の手を握る自分の手が震えないようにすることだけで精一杯だった。

 灼君が構わず、独り言のように続ける。

「ずっと、後悔してた。僕がいなければ、琴里は捕まることはなかった。ふるさとで、穏やかに暮らすことができたんだろうって」

 彼は握っているのとは反対の手で見えない目を覆った。つぅ、と傷だらけの頬に伝う雫に夜明けの光がきらりと反射する。

「だから、幸せにしたかったんだ。ごめん、ごめんね」

 自分の手で琴里をギス族の村に連れて帰ることが、唯一出来る償いだったはずなのに。もう何も出来なくてごめん。

 もう声を発するのもつらいだろうに、そんな自分の状態を放っておいて私に対して一生懸命に謝ろうとする姿が悲しい。そこでやっと私は灼君が背負っていたものに気づいた。

 今まで灼君が私を故郷に連れ戻そうとするのは、単純に彼の優しさだと思っていた。自分の意志と無関係にギス族から引き離された私を可哀想に思って、助けてやろうという気持ちから来る行動だと考えていたのだ。しかし実際はそんな簡単なものではなかった。

 きっとギス族の皆は私がさらわれたことについて灼君をひどく責めただろうし、灼君自身が自分のことを許せなかったんだろう。私を救い出すということは思いやりや正義感などではなく、あの日からずっと灼君の背に重くのしかかっていたことに違いない。私が思うよりずっと、灼君は苦しんでいたんだ。

「ばかだなぁ、灼君は」

 ほとんど見えていないだろう灼君にも私が最高の笑顔をしているんだってわかるように、努めて明るい声を出す。手をぎゅっと握りしめ、覆いかぶさるようにして顔を彼のそれへと近づけた。

「私は幸せだよ。灼君に会えたから」

 助けたい、と言ってくれた。初めて<半神の血>だからということに関係なく、私を守り大切にしてくれた。ひとりぼっちのこの国で、一人じゃなくしてくれた。

 灼君は確かに私の心を救ってくれたのだ。

「灼君に会えてよかった」

 灼君は無邪気に笑った。吐息みたいに。

「ありがとう」

 握りしめた彼の手がぽろりぽろり、と崩れていく。目を閉じた安らかな彼の顔もまた同じように崩れ、黒い灰となってさらさらと朝の風に溶けていく。隣では蛟も同じように全身が灰となって、既に形を失いつつあった。

 灼君も、蛟も灰になって風に乗り、やがて天河の流れに浮かび、森を越え草原を越えていつかは見たこともない海へと流れ出るのだろう。

 明るさを増す朝の光を身に浴びながら、立ち上がる。手の平には何も残っていない。でも心には残ったものがある。

 にわかに背後から数人の足音や声が聞こえ、振り返った。現れたのは生徒会長である奏王子と、楽嶺を始めとする生徒会役員の面々だった。どうやら騒ぎを聞きつけて様子を見にやって来たらしい。

「何だ、この状態は!?」

「昨晩の雷か?これでは星祭が……」

 彼らは<聖地>の惨状に絶句し、次いで本来いるべきでない一般生徒の私の姿を見つけ、ぎょっとしていた。すぐに気を取り直したのは奏様で、

「大丈夫かい?――君は……」

驚きながらも心から心配そうな様子で私の怪我の状態を見て、すぐに役員の一人を医療棟にやった。他の役員にも現場確認や他部署への連絡など、てきぱきと指示を出す。その忙しそうな様子から、なぜ私がこんな時間にこんな場所にいるかは不問にしてくれそうでほっとした。

 彼らがばたばたと行ってしまってその場に二人きりで残されたとき、奏様はそっと指先で私の首筋を労るように触れた。そこは生々しい噛み痕のある位置だ。奏様は私の怪我が雷などではなく吸血鬼によるものだと見抜いているらしかった。

「ひどいな。学園に潜んでいた吸血鬼が暴れていたらしいが……怖かっただろう」

 自分のことのようにつらそうな顔で言う奏様に、私は首を振った。

 見た目こそ恐ろしかったけど、優しい吸血鬼だった。意外と子供っぽいところもあって、初めて出会った時の少年のまま変わっていなくて嬉しかった。

「いいえ……意外なことに、怖くなかったんですよ」

 奏様は驚いた様子だったが、黙って私の肩を抱いてくれた。されるままで、私は朝焼けの空を見上げる。

 陰鬱な夜の終わり。だけど私にとっては二人で過ごした優しい夜の終わりでもある。

 それは泣きそうなほど透明で、美しい夜明けだった。

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