第4章「二人星」

 六月に入ると学園は少しずつ星祭の装いを現し始めた。

 放課後に準備をしていた生徒達は祭が近づくにつれ徐々に取り組む時間を延長していく。当初は作業を終えるといちいち片付けていた作りかけの大道具や工作用具も表に放り出しっぱなしになって、教室は狭くなり廊下も歩きにくくなる。そうして前日ともなれば授業を放り出して発表制作にかかり切りになってぎりぎりまで手直しし、そのまま星祭の朝を迎えるのだ。

 昨年はそんな学園の動きに無関係だった私こと琴里と、私の民間伝承研究会だが、今年は違った。

 宴の賑わいから取り残されたように敷地の隅っこにひっそりと建つ旧図書館。その中のサンルームで私はせっせと機を織っていた。

 使っている手機は生徒会に依頼して取り寄せたもので、自分の部屋に置いているものより小さい。それで王家の象徴たる白鳥が付された錦を織り上げていく。

 この図案も自分で新たに描き起こしたもので、我ながら美しく仕上がっていると思う。既に試作品を一つ作ってウジャクに生徒会へ持って行かせたところ、生徒会長から絶賛されたそうで「このままよろしく頼むよ」との言葉をいただいたということだ。

 そうして私は学園全生徒の分の供物を一人で手作業で作っているのだった。年季の入ったテーブルの上に古書の代わりに色とりどりの糸を所狭しと並べ、休む暇なく手を動かす。そうしなければ間に合わない。忙しくて仕方がないが、いつの間にか星祭の準備期間を他の生徒と変わらない過ごし方をしていることに気が付くと、なんだか胸がむず痒いような気持ちになった。

 このような状況をもたらすきっかけとなったのはウジャクだったが、彼は自分で取ってきた仕事にも関わらずいざ手機を触らせてみればとんでもなく不器用であったことが発覚した。

「琴里さん、足りなくなった糸の補充依頼を生徒会に出してきましたよ」

 生徒会棟からウジャクが戻って来た。織りに関してまったく戦力にならないと見て、提出書類の作成など、生徒会とのやり取りは全てウジャクに任せることにしたのだった。一人で全生徒の分の供物を作成することは大変だったが、結果として自分が生徒会に顔を出さなくて済むようになったことはほっとしていた。

 ウジャクの話では、奏様は供物の作成を依頼した相手がどのような人物かと気にされていたという。だが巳司は私が生徒会にあまり近づかないように言っていた。ささいなことであいつの怒りを買いたくないと思ってしまうあたり、つくづく自分はあの男を恐れているようで情けない。灼君と話し合った通り、この島を脱出するためにはそんなこと言っていられないのだけど。

 ウジャクが「少し休憩しませんか」と言って緑茶を入れてくれる。その馴染み深い香りに絆されて、しばらく手を休めることにした。

「甘いものもあるんですよ」

 テーブルの上の糸や道具を片付けて場所を取り、ウジャクが置いた小さな籠に入っていたのはみずみずしい果物だった。

「あら、さくらんぼ」

 思わず声が弾む。二つつながった小さな赤い果実の姿は愛らしいし、微笑ましいと思う。一つ摘まんでみれば、程良く甘酸っぱい。少し残しておいて、後で灼君にも持って行ってあげようか。

「生徒会から差し入れ兼お裾分けにいただいたんですよ」

 生徒会役員の実家から送られてきたものだという。その人の家の所領の特産品なんだそうですよ、とウジャクが舌の上で種を転がしながら説明を加えた。そして、そうそう奏会長といえば、と続ける。

「会長から琴里さん宛に預かってきた物があるんです」

「私に?」

 わかりやすく不審そうな声が出る。繰り返し言うようだが、私は奏様と直接顔を合わせたことは無い。学園にいる他の多数の生徒達と同様、私が一方的に奏様のことを知っているだけだ。それが何故、私個人宛に渡したい物があるというのだろう。

 ウジャクはそんな私の疑問を心得ているというように、

「実は僕、琴里さんのことを会長に話していたんです」

と言いながら、テーブルの真ん中に布で包まれた二十センチ程の棒状の物を置いた。

 布には読めない古い文字で何やら書きこまれ、上から組紐で厳重に巻かれている。その様子を見るからに、明らかに呪物の類だ。

 おそるおそる紐を解き布を広げてみれば、出てきたのは銀のナイフだった。

「これは……」

「この間、琴里さん、首に怪我をしていたでしょう?琴里さんは虫に刺されたっておっしゃってましたけど、あの傷は吸血鬼の噛み痕だと思うんです」

 琴里さんが虫刺されだと思っているなら、下手なことを言って不安にさせるといけないと思ってあの時は何も言わなかったんですけど、と続ける。

 私の方はウジャクにばれていないと思って安心していたが、実際のところは彼は気付いた上であえて黙っていてくれたらしい。尤も一番言ってほしくない相手である奏様の方に話してしまったようだが。

「で、私が吸血鬼に襲われたらしいって奏様に言ったわけね」

「勝手に話したことは、その、すみません。でも生徒会長も朝礼で吸血鬼に関する情報は些細なものでも生徒会に伝えてほしいっておっしゃってたじゃないですか。琴里さんは一人で行動しがちなので、また襲われたらと思うと話さないわけにはいかないって思ったんですよ」

 この言いぶりだと、ウジャクはきっと私が吸血鬼に襲われたと確信しているのだろう。私は余計なことを、と言いたいところをなんとか堪え、

「奏様も星祭を控えてお忙しいでしょうに、推測でものを言って煩わすんじゃないわよ……」

と、もっともらしいことを言ってウジャクを窘めた。

「でも大事なことですよ。そもそも生徒の安全は大事なことですし、今は星祭の儀式の供物の制作は琴里さんの両肩にかかっているんですから。奏会長もお気になさるでしょう……だからお守りとして、これを琴里さんに渡すよう頼まれたんです。何かあった時にきっと助けになるからって」

 二人とも自然とテーブルの上のそれに目を落とす。

「……銀は魔を退ける力を持っていると言われているわね。吸血鬼も例外ではないでしょう。退魔武器としては最高の物じゃないかしら」

 それだけに間違いなく高価な物だ。切れ味が良さそうだし、細工も美しい。いくら彼が王子でこの手の高級品を数え切れないほど持っているとしても、よく知りもしない他人に差し出して良いはずがない。

 そんな私の考えを読み取ったかのようにウジャクが、

「奏会長は琴里さんのことを気にしていらっしゃるんですよ。僕が生徒会に顔を出す度に琴里さんがどんな人か質問なさいますし、機会を見て連れてきてくれるようおっしゃってるんです。理由がほしいようなら休日の生徒会主催のお茶会にでも招待してくださるという話もありますし」

「……王子様に拝謁するなんて私にはもったいないわ」

 会うべきではないだろう。とりあえず今は、まだ。もしくは灼君とここを出られるのなら、一生会わない方が良い。

「奏様にはウジャクからお礼を言っておいて。お心遣い感謝いたします、と」

 言って、テーブルの上のナイフを手に取る。おそらくここで素直に受け取らなければこの話は終わらないし、ウジャクもなぜ私が奏様に会いたがらないのか不審に思うだろう。

 だが意外というか、ウジャクはそれ以上突っ込んで聞いてくるようなことはなく、「わかりました。伝えておきます」とあっさり引き下がった。逆に私の方が不思議に思い彼の顔を伺ってみると、妙に機嫌が良さそうだ。

「何?」

「いえ、琴里さんってやっぱり人見知りなんだなって。それを補うのが副部長の役目ですから。安心してください。奏会長にはナイフのお礼を伝えますし、失礼の無いようお茶会の招待もお断りしておきますので」

 私はとりあえず、「あなた、やっぱり変わっているわね」とだけ言って、作業に戻ることにしたのだった。


* * *


「で、これがもらったっていうナイフ?」

 自室のテーブルに広げた包みの上に鎮座する鋭利な輝きを見下ろして、灼君は腕を組んで眉間に皺を寄せた。どうやら気に入らないらしい。

 あの後ひたすら錦を織り、食堂で遅い夕食を取った後、寮に戻って私の部屋に待機している灼君に先程の出来事を話した。

 灼君は吸血鬼らしく、昼に眠り夜起きる生活を送っている。別にこれは「吸血鬼だから」というわけではなく、単純に学園の中で人目につかないようにするためには夜に行動するしかないからだ。

 そのため昼間は私に例の黒い小鳥の使い魔を預けている。何かあった時はポケットの中で丸くなっているこの使い魔を通して呼びかければ、灼君が駆けつけてくれるというわけだ。だがわざわざ呼び出すほどでもない、今回のような件についてはこうして部屋に戻ってから報告しているのだ。

「……奏……王子に会ったの?」

「いいえ。うちの部員のウジャクがお節介にも、私が吸血鬼に襲われたんじゃないかって奏様に話したのよ。それでどうも心配して下さったらしくて、ウジャクを通してこのナイフを私に下さったってわけ。あの人に会う気は無いけれど、受け取らないと逆に変に思われるでしょう?」

「それはそうだけど」

 そう納得するようなことを言いながら、灼君はナイフをまた厳重に包み直す。そしてそのまま自分の黒い懐に仕舞おうとするから、

「ちょっ……灼君!?」

 思わず私は声を上げた。

「これは僕が預かる」

「でももらったのは私……」

 さすがにせっかくいただいたものをすぐに別の人間に渡してしまうのは、奏様に失礼ではないか。そう思って灼君に詰め寄るも、

「琴里のことは俺が守る。だからこれは君に必要のないものだよ」

と、聞く耳持たず。こちらを見ようとしない横顔は、どこか拗ねているようだ。

 しばらく灼君を説得できないかと試みるも、まったく返そうとしない。結局、まあ良いかと思うことにした。

 確かに上質の護身具になりそうだが、そもそもこのナイフは対吸血鬼の武器である。学園脱出を目標とする私達にとって、敵となり得るのは灼君の他にいる吸血鬼ではなく、むしろ人間で私の管理者を自任している巳司の方だ。その意味で、確かに私が必ずしも持っている必要は無い。

 加えて言えば、灼君と行動を共にするようなってから、こんなふうに彼が私に対して我を通そうとするのは初めてのことだ。ならばこの程度のことは素直に聞いてあげても良いだろう。


* * *


 私達民間伝承研究会が<聖地>の視察を行ったのは、星祭開催一週間前の深夜のことであった。

 本当はもっと早く訪れたかった。私が今まさに作成している供物を捧げる儀式を行うのは、この場所なのだ。

 昨年度の星祭のために一度訪れているとはいえ、この大役を与えられる前とでは心構えが違う。改めてあの聖なる場所の空気に触れ、より美しい供物を作り上げるためにも、そこでイメージを膨らませたかった。

 しかしこの時期ともなれば、生徒は皆、開いている時間の全てを準備に注ぎ込んでいる。我らが研究会も例外ではなく、授業が終わったらすぐに旧図書館に集合し、私はひたすら機を織っているし、ウジャクは材料の調達やら生徒会との打ち合わせやらで学園内を奔走している。おまけにその間も授業は通常通り行われる。そんな中で関係各所との調整に四苦八苦した挙句、ようやく実現したのだった。

 鵠王国の最も重要な土地として挙げられるのが、首都である北辰と学園のある白鳥島だ。前者はともかく僻地にある後者が重要視される理由というのが、国境を守る砦であると同時に鵠王国建国の宣言が為されたという<聖地>の存在である。

 <聖地>は場所で言えば、白鳥が羽を広げた形をした島の嘴の部分にある。学園があるのは白鳥の腹の部分だから、校舎群を取り囲む城壁から出て白鳥の首の細長い土地を暫く進んだ先だ。

 <聖地>へと続く道は普段は門で固く閉ざされており、兵士達が絶えず見張っている。開かれるのは基本的にこの星祭の儀式のときのみだ。

 それを例外的に開けてもらうことができたのは、ひとえに奏様の厚意に他ならなかった。そうでなければとてもじゃないが許されなかっただろう。現に鍵を外している兵士達は私達、陸東人二人を胡散臭そうな顔をして見ているし、付き添いという名の見張りである巳司は面倒そうな顔を隠さなかった。

 鉄製の古びた門が音を立てて開かれると、人二人がやっとすれ違えるほどの一本道が暗闇に向かって続いている。見張りの一人が松明を持って案内のため先頭に立ち、続いてウジャク、私、最後に巳司という順で一列になって進む。

 岸が近いので夜の大河の静かなせせらぎが両側から響き合い、そこに時折森の中の狼の遠吠えが混じる。実際の儀式では、この道を生徒達がそれぞれ蝋燭一本の明かりと供物を持って、順番にたった一人で歩むことになる。

「ちょっとした肝試しですね」

「そうね。だからこの儀式が苦手だっていう生徒も少なからずいるわ」

 ウジャクは少々興奮気味にあちこちに視線を巡らせている。この男は既に廃れつつあるような民間伝承に関心を持つような変わり種なので、こういったこの国独特の儀式に触れられることに純粋に感動を覚えているようだ。

 そんな無邪気に好奇心を示しているウジャクに心動かされるものがあったか、

「建国の祖が辿った道筋を追体験するんだ」

と、先程までつまらなさそうな顔をしていた巳司が口を挟んできた。

「この先にあるのは、我が国の初代国王である翔王が建国の宣言をした場所だ。かつてまだこの島には学園もなく、東の蛮族どもと狼どもがたむろしていた時代のことだ。現王家は以前、山脈を挟んで西向こうにあった古い国の一貴族だったのだが、政権を巡る争いに敗れて祖国を追われ、その家臣達と共に東の地に自らの国を立ち上げようとしていた。その途上で白鳥島に上陸したんだ」

 どうやら巳司はまだ留学してきたばかりの陸東人に、王国の歴史とこの地における王家の正当性を教授してやろうという気になったらしい。

 明らかに陸東人を蔑んで言う「蛮族」という単語に夜闇の中それとわからぬ程にひっそりと眉をひそめてみたウジャクだったが、話自体は関心があるのだろう。「成程。初代の王は儀式と同様、七月七日の夜に一人でこの道を通って<聖地>に至ったわけですね」と、愛想笑いを張り付けて話の続きを促した。

「まあ、実際には当時、王はお一人ではなく巫女に導かれてこの道を進んだようだがな」

「巫女……ですか?」

「ああ、この島に当時住んでいた蛮族の巫女で、彼女が<聖地>を管理していた。異なる民族といえども力ある存在を見抜く力は持っていたのだろう。彼女は一目見て翔王が未来のこの地の王たりうる存在であることを見抜いて、助けとなる力を授けるため<聖地>、つまりこの地の守り神のもとへと王を案内したんだ」

 暗く長い一本道が終わって開けた空間に出ると、先頭に立っていた兵士に倣い、全員が立ち止まった。

 ウジャクがはっと息を呑む。初めて見た者なら当然の反応だろう。

 突如夜闇の中に光が現れる。その場所は緑を鬱蒼と生い茂らせた島の森の中で、そこだけが不自然に葉の一枚もない、白骨の腕のような木ばかりが立っている。それらの木々に囲まれて、一つは青く、もう一つは橙色の光を放つ大きな石が、中央の一際大きな裸木によってその大振りの枝で支え、抱え上げられているのだった。目を灼くような輝きでなく、包み込むような温かな明かり。

 ウジャクは圧倒され、ただただ光にみとれている。私の方もこれを見るのは二度目だが、それでも敬虔な気持ちと懐かしいような気持ちとで胸がいっぱいになっていた。

「美しいだろう?蛮族達は今はもう失われた言葉で<アルビレオ>などと呼んでいたと聞く。建国の祖はこれを初めて見たとき「天上の宝石」と讃えたそうだ」

 私達の反応を満足げに眺めながら巳司が言う。古の王も巧い表現をしたものだ。まるでサファイアとトパーズの二重星のような幻想的な美しさなのだから。

「琴里さんが作っている供物が、これですか?」

 ウジャクが指差したのは、石を支える枝に無数に結び付けられている細長い錦だ。それらは色鮮やかな新しい物から擦り切れた古い物まで入り混じり、聖なる輝きに彩りを添えている。

「その通りだ。王家は聖地を手にすることで、その守護を得て鵠王国を強大にした。だから天河学園の生徒達は建学以来、<アルビレオ>がこれまで国を守ってきてくれたことを感謝し、更にこれからも守ってくれるよう祈って毎年星祭に錦を捧げてきたんだ。これらは言わば鵠王国の歴史そのもの」

 そして私が今、全生徒分を製作している供物もまた、今年の生徒達の手によって結び付けられ鵠王国の歴史の一部となる。何とも言えない気持ちになって、私は改めてこの輝きを見上げた。

「これが我々の<聖地>だ」

 畏敬の念に満ちた巳司の言葉は、聖地の夜の闇に重く沈んだのだった。


* * *


 はぁ、はぁ、と息も荒く、医療棟へと向かう渡り廊下を小走りで進んでいた。屋内で過ごすことが多いために白い肌は、先程とはうって変わって焦りと体力の消耗のために上気していた。

 医療棟に入ると深夜ということで昼に比べだいぶ人少なになっていた。立ち並ぶ病床には本当に症状の重い生徒数名だけが眠っており、立ち動いている者は遅番の医療兵二、三人くらいのものだった。明かりもぽつんぽつんと蝋燭が灯るだけの最小限で、静かでしんとしている。

「琴里様、どうしましたか。確か巳司先生と<聖地>の下見に行かれたはずでは。一人で戻ってこられたということは、また体調が悪いと言って先生に迷惑をかけているのですか」

 いつ見ても落ちくぼんだ暗い目をした男は巳司の第一の助手の水尾だった。彼は私に対し表面上「琴里様」と敬語を使うが、巳司に心酔しているためその態度は慇懃無礼といって良い程である。

「ええ、急に頭が痛くなって先に寮に戻ることにしました。その前に、先生の診察室に薬があるから勝手に持って行って良いということだったから、取りに来ました」

「そうですか。ならば用を済ませて早く寮にお戻りくださいませ」

 水尾はそう言ってすぐに興味を失ったらしくカルテの整理に戻った。私はその無関心な様子にほっとして「ええ、そうします」と言って、蝋燭を一本燭台から拝借していつもの巳司の部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。そこで一息つき、部屋を見回した。

 蝋燭の明かりで部屋の内装がぼうっと浮かび上がる。部屋の全ての壁面にはガラス戸のはまった扉が付いており、中には大小さまざまのガラス瓶やら何に使うかわからない器具が所狭しと並べられていた。私は明かりを掲げ、その一つ一つを真剣な目で物色して回る。

 そう。私は今、巳司が保管していると考えられる<銀環>の鍵を探しに来ているのだ。灼君の翼の力を封じている<銀環>はかつて巳司が無理矢理付けたものだ。それを外すことができれば、灼君はその翼で私と一緒に川向こうに飛んで逃げることが出来る。

 巳司は私を攫った時に六星先生と共に灼君を殺した気でおり、彼の力を封じるために使った<銀環>の鍵はもう必要がないことから、それほど厳重に保管しているとは思えない。見つけられる可能性は高いと踏んで、私にあまり危険な行動をさせたくないという灼君を説得し、巳司がいないタイミングで彼の診察室に入り込むことにしたのだ。

 <聖地>に残してきた巳司とウジャクが戻るにはそれほど時間はかからないだろうから、急がなければならない。逸る気持ちを抑えつつ執務机に一番近い棚をまず確認する。

 引き出しを開けると、手の平に収まるほどの小さな肖像画が出てきた。描かれているのは白いドレスを美しく着飾った十代半ばの少女の姿だ。緩やかな金髪に花を差し、薔薇色の頬をした彼女は幸福そうに微笑んでいる。見たことのない女性だが、その面差しが奏様に似ていることからぴんとくる。

「令歌様か……相変わらずの王室狂いね」

 探す手はそのままに、ぼそりと一人ごちる。おそらく奏様と蛟様の母君であり、鼎王陛下のお妃である令歌様のお若いときの肖像であろう。

 昔から巳司は病的といって良いほどの王室至上主義者だったのだ。王家のためになるなら何だってやる男。それは王権にとって利用価値があるというので、隣国から私を拉致してきたことからも窺える。学園内でも次代の王と目される奏様への忠誠の尽くし方を見る限り、今でもそれは変わらないらしい。

 肖像画を戻し、さらに隣の棚を順に確認していくと退魔術の古びた文献を並べた棚に行き当たった。おそらくここに目当ての物が入っているだろうと見当をつけ、引き出しを開けてみれば銀製の器具が雑多に詰め込まれている。引き出しごと棚から出して中身を診察台の上に広げ一つ一つ検分していくと、

「あった……っ!」

 白く細長い紙が首の部分に結びつけられた銀製の鍵を見つけた。灼君から聞いていた特徴にも当てはまる。間違いない、これが灼君の翼を戒める<銀環>を外す鍵だ。

「琴里様、薬が見つからないんですか?」

 どんどんどん、とやや乱暴にドアを叩く音に、びくりとした。水尾が待ちかねているのだろう。確かに薬を見つけるためだけには時間がかかり過ぎだ。

「今見つけたから、すぐ出ます!」

 巳司ももうじき戻るだろう。出したものを元通り仕舞ってここを去らなければ。



 灼君が待つ女子寮へは医療棟から渡り廊下を渡って第一校舎の中を突っ切り、西出口から出るのが最も早い。

 この時間になるとさすがに星祭の準備に残っている生徒達もほとんど引き上げている。展示や演劇のための大道具、小道具が積み上げられた校舎の廊下を照らすものは正門側の窓から差し込む月の光だけで、人気も少ない。

 静まり返った廊下を早歩きで進みながら、右ポケットの中身を手探りで確かめる。重たい銀の感触。

 これで灼君を助けられる。二人で河の向こうへ、ギス族のもとに帰ることができる!

 なるべく表情に出さないよう唇を噛みしめながらも、私はひどく興奮していた。だからその気配に気付けなかったのかもしれない。

 西出口を目前にして、左側の教室の扉が私の行く手を遮るかのように大きく開けられる。

 そして口を塞がれ左腕を掴まれて中に引きずり込まれたのは一瞬だった。

 そのまま床に押さえつけられて頭上で教室の戸が閉め切られたバタンという音を聞くまで、うまく状況が飲み込めなかった。


「やっと見つけた、<半神の血>……!」


 床に転がされて逆さまに見えたのは、蛟王子の残忍な笑み。それがすぐに降りてきて、

「ぁあ……っ!!」

 私の首筋に歯を立てた。ごくり、ごくりと耳元で血を飲み下す音が聞こえる。

「蛟……王子が、学園の吸血鬼、だったんですね……」

 意識を落とさぬよう、どうにか言葉を紡ぎ出す。

 蛟王子は最後の一口を飲み干して、自分が付けた傷跡をぺろりと舐めて「ああ」と頷く。

 彼の後ろには三本の短剣を指に挟んだ流火さんが鍵を閉めた扉を背後にして控えている。私がどうにか蛟王子をかわしたとしても、さらに流火さんを押しのけてここを出ることは難しいだろう。

 状況は最悪なのに、ほっとする気持ちがあった。良かった、学園の生徒を襲っていたのは確かに灼君ではなかったのだ。

「<半神の血>……俺達吸血鬼と呼ばれる者にとって、その血はどのような不利な状況もひっくり返すことのできる、大いなる可能性だ」

「だから、どうだっていうんですか。今は別に戦争中でもない……力が必要なんですか」

「ああ、必要なんだ。俺が奏を打ち負かし、この国の頂点に立つための力が、な」

 蛟王子、いや、蛟の笑みが一層深くなる。

「昔話に聞いた通り、二度と忘れられないような極上の味だったよ。だからこそ、俺以外の吸血鬼にお前の血を吸われるわけにはいかない」

 その言葉に続くものを私は予想できていた。当然だ、大いなる力を持つ者はこの世に二人も必要無い。

「もう、お前は用無しだ」

 鋭い爪の片手を振り下ろそうとする蛟の姿を最後に、私の意識はふっと闇に落ちた。


 河のせせらぎが聞こえる。

 子供が二人、履物を脱いだ足で天河の水面をぱしゃぱしゃと弾いていた。焦げ茶の髪に貫頭衣を着た子供は私で、摘んだ薬草の入った籠を脇に置いた黒髪の子供は灼君だ。

 こうして二人、毎日のように逢瀬を重ねていた。私は大人達の目を盗んで村を抜け出して。灼君は巳司から言いつけられた薬草を摘む合間にこっそりと。

「そっか。あきらくんはつらいんだね」

「つらいのは、そうだけど。それよりもさびしいほうがこたえるな。お母さんもいなくなって、兄弟もいるにはいるけどぜんぜんなかよくないし」

「さびしいのは、なによりこたえるよね。わたしもずっとうちの中にいなさいって言われて、一日中だれとも話さなかったりするんだ。それで、ともだちもいないの。あきらくんが初めてだよ」

「ぼくも初めてだ。初めて同士でこんなに楽しいのはうれしいね」

「そうだね。だれともなかよくなれるわけじゃないもの。初めてでなかよくなれるのは幸せなことなんだよね。こうやってずっといっしょにいられるといいよね」

「そうだね……ずっと、いっしょにいられたらいいのに」

 灼君は呟くように言ってふっと空を見上げた。空は雲一つなく、青いどころか白いほどだ。

 瞬き一つでもしてしまえばその瞬間に、灼君はそこに融けて消えてしまうんじゃないか。そんな気がした。

 ひどく不安になって隣の手を強く握って、

「じゃあ、約束しよう。この先、きっとわたしは川のこっちがわで、あきらくんは川のむこうがわにわかれることになる。でも、そうなっても、また会えるようにふたりでがんばろう。がんばってもういちど会って、それからずっといっしょに生きていこう」

 縋るようにまくしたてる。灼君はこちらを向いて、

「それは……きっと幸せだね」

 そう言って俯き、握った手をそのまま自分の額に当てて、目をつぶる。当時まだ眼鏡も持っていなくてはっきりとしない視界の中でも、灼君が確かに嬉しそうに笑っているのが私にはわかった。

 幼い日の約束。目を覚ました時には消えてしまっているような、ほのかに甘く香る夢。

 そうだ、約束をしたのは私からだったのだ。そんな少女じみた夢を諦めたような顔をしながら捨てられなかったのも、また私だったのだ。

 そして灼君はそれに応えてくれた。危険を冒してこの籠の中に来てくれたのだ。

 私が今諦めてしまえば全てが無駄になる。私がここで死んでしまったら、灼君は翼を戒める<銀環>の鍵を手に入れることもできず、島から出られないまま彼もまたここで死んでしまうだろう。

 重たくなっていく右手をどうにか制服のポケットに突っ込み、扉の方へ向かって放つ。手の平から飛び出たのは黒い小鳥だ。

 嘴に咥えているのは銀の鍵。ずっとポケットに潜ませていた灼君の式神は黒い弾丸のように木製の扉を打ち破り、夜空へと飛び立つ。


「行って!!」


 あらん限りの声で叫ぶ。

 この願いが灼君のもとに届くように。



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