第3章「夏の学園迷宮」

「琴里さん、最近なんか楽しそうですね」

「え……そ、そう?」


 何か良いことあったんですか、とウジャクに予想外のことを言われ、私は思わずページをめくる手を止めた。

 そんなことを言われたのは生まれて初めてかもしれない。私としては表面上は普段通りに見えるように過ごしているつもりだったのだが。

 確かに変化はあった。かつて私を襲い、鵠王国に連れ去られる原因を作った吸血鬼――灼君が私のもとに現れたのだ。彼は私をこの学園から逃して故郷へ連れて帰ってくれるのだという。

 だが私はそんな彼を無条件に信じることはできない。彼が学園の生徒を次々と襲っている吸血鬼であるかもしれないからだ。そこで私は彼に一つ条件を突きつけた。

 私を信じさせたいのなら、学園を騒がす真の犯人を見つけなさい。そいつを私の前に差し出した時に初めて、私はあなたについていくことにしよう、と。

 こういった経緯があるわけで、決してウジャクの言うような「良いこと」があったとは言えない。とはいえこの出来事はほんの少し、ほんの少しだが私に希望なるものを抱かせた。もしかしたらこの鳥籠から外に出られるかもしれない、決まりきった運命を変えることができるかもしれないというそんな希望。

 本気で縋っているわけじゃないが、ウジャクに対して自然に微笑みかけることができた。

「別に何も無いわよ。それよりウジャク、最近生徒会に頻繁に顔を出しているようだけどどうしたの。生徒会長とのパイプ作り?」

「そんな大それたこと考えていませんって。ただちょっと営業活動中なんです。生徒会役員の方達に顔を覚えてもらって、星祭の時に僕ら民族伝承研究会に良い仕事を割り当ててくれたらなーって」

「呆れる……あなたは私以上に部活動に熱心ね」

「任せてください!副部長ですから」


* * *


「織物ってさ、こんなに何色も糸を使っていてこんがらがらないの?」

「慣れ、かしらね」

 私が複雑な模様の布地の一段を織り上げたところを見計らって、灼君が声をかけてきた。

 あれから灼君は毎晩私の部屋を訪れている。日が沈むと同時に窓からひょっこりと顔を出し、他愛のない話をして、私がベッドに入ったのを見届けて、また窓から去って行く。その間彼が私の血を吸ったことは一度も無い。

 私は心の中で何度も信じていない、まだ信じない、と自分自身に言い聞かせるのだけれど、灼君と言葉を一つまた一つと重ねる度に確かな気持ちが積み重なっていくのを感じていた。

 織り機の前で作業をしている私を、灼君は勉強机のところの椅子の背を体の前に持ってきて座って眺めている。この大きな織り機は私の数少ない聞き容れられたわがままの一つで、綺羅家に買ってもらえたものだ。日々を無為に過ごしている私にとっては、読書と並べて趣味といえるものだと思う。ギス族にとって織物は女の仕事で、私も幼い頃から杼を握っていた。

「ギス族の娘達が織っているところは何度も見ているけれど、琴里ほど鮮やかな手つきは初めて見る。仕上がりも一級品だ」

「当然よ。これでも少なくとも村を出るまでは、同年代の中では一番の腕前だったの」

 灼君が何の含みも無く素直に褒めてくるので、そういう経験の少ない私は必要以上につっけんどんな返答をしてしまった。ここで素直に「ありがとう」と言えたらかわいげがあるんだろうけど、などと柄でもないことを考える。それを打ち消したくて、

「で、本当の吸血鬼の方は見つかったの?」

と、責めるように訊ねた。

「まだだけど、一応心当たりはあるんだ。ただどう接触するか……」

「心当たりがあるの!?」

 驚いて問い詰めようとしたところで、とんとん、とノックの音がして口を噤む。目だけで灼君に合図してクローゼットの中に隠れさせる。彼が完全に姿を消したことを確認したところで、扉の向こうに「はい」と返事をした。私の部屋を訪ねてくる人間なんて一人しかいない。

「こんばんはぁ」

 ドアを開けて遠慮なく入り込んできたのは予想通り光矢だった。この時間でも制服をちゃんと着ており、度々講義中に居眠りしている昼間より元気に見えるくらいだ。それもそのはず。

「……また逢引?」

ついついじとりとした目で奔放な義姉を見ると、

「ふふっ。琴里の部屋に泊まるって申請は寮母さんに出してきたわ。心配ご無用よ」

気にした風も無く笑ってみせる。今から冒険に出掛けるという少年のような無邪気な笑みだ。

 彼女は迷いなく部屋の奥まで歩を進め窓を開けると、窓枠に足を掛ける。二年生である私と光矢は共に二階に部屋を宛がわれているが、私の部屋の窓を開けたところには、足場に丁度良い大振りの枝を持った木が植わっている。これが門限の時刻以降の秘密の外出にもってこいなのだ。

 学園内に恋人を作った光矢は、度々彼に会うため私の部屋を経由して夜中に寮を抜け出している。私は相手の男子生徒が誰かは知らない。綺羅家の長女である彼女は父親から将来的には有力貴族へ嫁ぐことが望まれているので、そうそう大っぴらに付き合うことができないのだ。

 光矢はあまり隠し事が得意ではなく、私自身がそれなりに彼女から信頼されていただけに、未だに彼女の恋人の名前も知らないというのはちょっと意外な感じがする。そこから私は光矢の恋愛の相手が、義父が決して認めないであろう貧乏貴族か、はたまた外国人である留学生ではないかと推測している。

「ちゃんと朝までには戻ってきなさいよ。吸血鬼の件だってまだ解決してないんだから」

「わかってるわかってる」

 ひらひらと手を振って、明るい金髪が窓の外の闇へと消える。

「大胆な子だね」

「ほんとにね」

 光矢が去ったのを見計らって灼君が出てきた。面白いものを見るような顔だ。私は窓は開けたままカーテンだけを閉めて、彼の方に振り返る。

「で、さっきの話の続きだけど。学園内の吸血鬼の正体に心当たりがあるって……」

「うん、まあ、二人程……いや、やっぱり一人かな。あっちはこういうことしなさそうだし……」

 煮え切らない返答をして、ぶつぶつと考え込む。

「……僕は誰にも見つからないように動かなければならないから、なかなか接触を取れなくってね。あくまでも僕がこの島に侵入した目的は君を連れ出すことだから、それ以外のことで下手を打つわけにはいかない。必ず「彼」を捕えて僕が学園の生徒を襲ったのではないことを証明するから、もう少しだけ待って……」

 その時だ。

 聞き覚えのある声が窓の向こうから悲鳴となって響いたのは。

 私も灼君もぎょっとして風で揺れる閉じたカーテンの方を振り返り、すぐにお互い顔を見合わせる。

「今の声は……光矢?」

 自分でも声が震えているのがわかる。思い切ってカーテンを開くが、窓の向こうは闇に閉ざされ何も見えない。だが、あの声は光矢だ。血がつながらないながらも自分のことを気にかけてくれ、それなりに長い時間を過ごして来た義姉の声ぐらいは聞き分けられる。

 意を決して窓枠に足を掛けようとしたところを、「待って」と灼君が呼び止める。

「君を明らかに危険な場所に向かわせるわけにはいかない」

「でも……!」

「大丈夫、これを使う」

 灼君は窓の外に向かって真っすぐ突き出したこぶしをふわりと開く。そこに現れたのは、雀ほどの大きさをした全身黒い色で、両目だけが灼君と同じように赤い小鳥だった。

「行け」

 チチ……と囀り、闇の中に吸い込まれるように飛び立つ。

「それは……」

「使い魔だよ。これが僕の目になってくれる。まずはこれで様子を見よう」

 そう言って灼君が目を閉じる。瞼の下には、使い魔の目を借りてここではない場所の光景が映っているのだろう。私は不安に慄く心を抑え、何も見えない窓の向こうの夜をただただ見つめ続けていた。


* * *


「木は森の中に隠せって言うだろ?」

 張り出した窓枠に片足を伸ばして腰掛け、もう片方の足だけを壁伝いにぶらぶらさせながら蛟はそんなことを言ってにやりと笑った。

 ここは宮殿めいた造りの本校舎を構成する、塔の部分にあたる。この学園で最も高い場所にある教室のため、生徒や教師の足は遠い。結果、ここでは滅多に講義が行われることはなく、すっかり打ち捨てられ物置と化していた。蛟は、だが、そんなこの場所をいたく気に入っていた。誰も近寄ることの無い静かな空間で、学園の敷地全体を俯瞰することができる。

 今日も学園のあちこちで若者達の賑やかな声がさざめいている。全ての講義が終わり、生徒達が教室から解放された頃合だ。星祭の準備期間に入り、普段以上に校舎に残っている生徒は多い。宴の開幕はもうすぐだ。

「何を、何に隠すんです?」

 この場所に来るのは蛟以外ではただ一人、流火だけだ。彼女はいつものようにかんざしでまとめた赤い髪をさらりと揺らし、姿勢よく立っている。切れ長の目が印象的な美しい女だが、その美しさが女っぽい媚を決して含まないところが彼女の美点だ。

「既に奏王子はあなたのことを、学園の「吸血鬼事件」の犯人として目を付けています。その状況でこれ以上目立つ動きをして彼を刺激するようなことは得策では……」

「俺が目立つ分には良いんだよ」

 蛟はようやく窓から視線を外して答える。

「俺が隠したいのは灼の存在だ」

「彼を……ですか?」

 不審そうに流火が形の良い眉をしかめる。

「ああ。この学園に<半神の血>がいることはわかっている。だがそれが誰かっていうことは俺も奏もわかっていないんだ」

 五年前、鵠王国が隣国のヒシュウ国に表敬訪問した際、宮廷医師として同行した巳司瀬杖が<半神の血>を発見し、鵠国王家にもたらした。王家が喉から手が出るほど欲しがっていた一方で、伝説上の存在だとみなされていたそれが姿を現したことは、歴史的な大事件であった。

「わかっているのは巳司の野郎を除けば、灼だけ」

 巳司が<半神の血>を見つけた理由。それは灼がそれの血を吸ったことによりその身に流れる吸血鬼の力を顕現させたところを目撃したからだった。だからあの二人だけは確実に<半神の血>の姿形を知っている。

 巳司は王命は絶対という人間だ。さらに次代の王に奏を推す一方で、蛟のことを疎んでいるから、絶対に明かしてはくれない。

 残る灼は<半神の血>発見の際のごたごたで行方不明になっており、おそらく死んだのであろうと見なされていた。だが蛟が内密に命じた調査の中で、隣のヒシュウ国で生きているということがわかった。

 灼も吸血鬼である以上、生きてさえいればきっと知ってしまった極上の血である<半神の血>を再び手に入れようと動くはず。かくして彼はやって来た。この学園という名の、堅牢な鳥籠の中へ。

「灼が見つけるであろう<半神の血>が、奏王子に見つからなければ良い……そのためにあなたが囮、あるいは目眩ましになるということですね」

「ああ。流火は理解が早くて助かる」

 蛟が満足そうに唇の片端を吊り上げると、流火は当然だと言わんばかりに頷いた。

 灼が島に上陸した時に流火に彼を襲わせたのは、少しでも早く<半神の血>の元に向かわせるためだ。負傷により弱った体を癒すため、本能は一刻も早くあの特殊な血を求めるはずだ。

「灼が<半神の血>を手にしたところで、俺達が横からかっさらう。それまでは奏に見つからないように灼を泳がせるんだ。灼が<半神の血>を吸血する一方で、俺は学園内の生徒を何人か吸血する。奏は俺をどうしようもない屑だと思っているから、俺が手当たり次第に吸血していても王家の品位を貶めるなと小言を言うくらいで大して気に留めないだろうよ。そうやって<半神の血>を俺の被害者に紛れさせることで、本命が奏の目に入らないようにするんだ」

 そのためにお前はまず、灼をしっかり見張っておけ。命じると、流火は「仰せのままに」と言って、すっとその場を立ち去った。そうして教室にまた一人になると、蛟は再び視線を窓の外へと向ける。

 先程と変わらず学園の敷地ではたくさんの生徒達が談笑したり、部活に勤しんだり、学園祭の準備をしたりと、思い思いに過ごしている。その中のどこかに、求めるモノがいるのだ。

「大事なのは奏より先に<半神の血>を手に入れること。俺があいつを越える力を手に入れ王位に就くためにはそれしかない」

 蛟は一人ごちた。


 蛟が見下ろしていた、星祭の準備に取り組む生徒達の内にはウジャクもいた。彼は旧図書館から持ち出した正方形の木箱を両手に持って、小走りに駆けていく。別に急いでいるわけではないのだが、新しいことに挑戦しようというときの興奮で、どうにも逸る気持ちを止められないのだ。

「失礼しますっ」

 ウジャクが入っていったのは、ここ最近で随分と慣れ親しんだ生徒会棟であった。星祭の開催を控え、この豪奢な邸宅には、書類の持ち込みや打ち合わせのために生徒が入れ替わり立ち替わり訪れている。棟内の生徒会役員も、それに対応したり指示を飛ばしたりと忙しなく動き回っていた。彼らの間を縫うようにして二階に上がり、生徒会長の執務室の扉をノックした。

「どうぞ」

 いつも通り、奏会長が端正な顔に穏やかな微笑を浮かべてウジャクを迎えた。ここだけは階下の騒がしさとは打って変わって、ゆったりとした時間が流れているように感じる。それでも奏の執務机の上には、普段以上に書類が多く積まれていた。

「お疲れさまです。随分忙しいみたいですね」

「まったくだよ……そこに掛けていてくれ、すぐにお茶を淹れさせるから」

 奏は来客用のソファにウジャクを誘うと、ベルを鳴らして給仕を呼んだ。

「まだいくつか重要な仕事を依頼する先が見つかっていなくてね。立候補は出ていても、いまいち信頼しかねていて……」

 苦笑しつつ向かいのソファに奏が腰を下ろすと、「そのことなんですが」とウジャクが身を乗り出した。

「会長が以前、建国の儀式に必要な供物の用意をしなければならないとおっしゃっていたでしょう?」

「ああ、<星>――建国の聖地に捧げるのだから、中途半端な出来のものは許されない。だから今年はどこに依頼しようかと悩んでいるんだ。去年依頼した手芸部は十分な技術の持ち主がいなくて、ここだけの話、質が悪かった。工芸の講師に頼もうにも、丁度一族の事情で領地に引っ込んでいるところだし。どうしたものか」

 奏は困ったように小さくため息を吐く。だがウジャクはその様子を見て、ぱっと顔を輝かせた。

「あの、その仕事を僕ら民間伝承研究会に任せてもらえませんか?」

 言って、持参した箱をテーブルの上に置き、蓋を開ける。中には色とりどりの糸が複雑に編み込まれた栞が入っていた。奏は思わずといった様子で、その一つを手に取った。

「これは素晴らしい。一つ一つが時間をかけて丁寧に作り込まれている。作り手は相当な技術者のようだね。織り込まれているこの紋様は……?」

「これは旧図書館にある文献に記録されている、王国に古くから伝わる紋様を参考にしたそうです」

「参考にしたそうです、ってことは作ったのはウジャク君じゃないんだね」

「はい。うちの研究会会長の作品ですよ。すごく手先が器用なんですよ。この栞は去年の星祭のために売り物として作ったそうです。ただうちってまったく知名度が無いので、去年はほとんど売れなかったそうですけど」

「民間伝承研究会、会長ね……」

 奏が顎をさすり、栞を表裏にひっくり返したりしてじっくりと見ている。会話の端緒に比べ、俄然興味を感じているようだ。もう一押し、とウジャクが声を掛ける。

「会長、」

「うん、これなら信頼できる。儀式の供物は君達民間伝承研究会に任せよう」

 奏が顔を上げ、微笑む。

「ありがとうございますっ」

 ウジャクは大喜びで奏の手を両手で握って頭を下げた。

「任せてもらえて良かったです。せっかく天河学園に留学しているのに、最大のイベントの星祭にほとんど参加できないまま終わるところでした」

交渉がうまくいって緊張が解けたらしく、ソファに深く座り直して先程、給仕が持ってきた紅茶に口を付ける。

「僕の方こそ、ありがたい申し出だったよ。ただ、君の所の研究会は先に舞台発表や展示の作成は考えていなかったのかい?この仕事は結構負担になると思うんだけど」

「琴里さん……うちの研究会会長なんですけど、あまりこういった行事は得意じゃないみたいで。目立たない簡単な展示だけ用意して、参加した体をつくっておこうとしている様子だったんですけど」

 でもそれじゃつまらないじゃないですか、とウジャクが苦笑する。奏もこうした行事には積極的に取り組む生徒がいる一方、琴里のような態度で臨む生徒もいることは十分わかっている。だがそれも個人の自由でありその人なりの学園生活の楽しみ方と考えているから、ウジャクに合わせて笑った。とはいえ、そういう表舞台に出たがらない才能ある生徒を最良の形で引っ張り出してくれたことから、奏はウジャクを能力のある、好ましい人材と認めた。

「この栞を作ったのは琴里さんというんだね。どんな人なんだい」

「初めはなかなか打ち解けてくれないんですが、なんだかんだ僕の面倒を見てくれますし、研究熱心な方ですよ。少なくとも僕は、話していて楽しいですね」

 ウジャクの目は優しげだ。勝手の分からない外国の学園に留学生として単身やって来た彼が、プライドの高い貴族の学生達に馴染むのは難しいのではと思ったこともあったが、心配はないようだ。イルカも留学生の先輩として世話を焼いているようだし、この調子で不安なく充実した学園生活を送ってほしい。だがウジャクはすっと目を伏せ、「ただ」と続ける。

「ただ、体が弱いみたいで、度々講義を休んでいます。だから、今も心配なんですよね」

「何かあったのかい」

 ウジャクが困った顔をして他に誰もいない室内を窺った後、決心したように声を潜めて言った言葉は短い時間ながらも奏を固まらせるものだった。

「琴里さんの首筋に噛み跡のようなものを見つけたんです。本人は覚えがないから虫か何かだろうって言っていましたが、あれは吸血鬼だと思うんですよね。あの跡ができて以来、ますます体調を崩しがちみたいで……」


* * *


「元気そうで良かったね、君のお義姉さん」

 私が医療棟から出た時、ポケットの中に潜んでいた黒い小鳥がそこを飛び出し、私の肩に止まった。

 紅玉のような赤い目をしたそれは灼君の使い魔だ。今は日中出歩くことができず人目のない所に潜んでいる灼君の目となり耳となって、私と彼との間をつないでいる。私に何かあれば、この小鳥を通して感知した彼が駆けつけてくれるというわけだ。

「ええ。大して血も吸われていなかったらしいわね。明日にでも寮の自室に戻れるって巳司が言ってた……本当人騒がせなんだから。これに懲りてもう少し淑女らしくなってくれると良いんだけど」

 そっけない私に小鳥が羽毛を震わせた。喜怒哀楽がわかりづらい姿をしているが、「定期健診がなければ近づきたくない巳司の牙城に頑張って乗り込んだっていうのに、素直じゃないなあ」とか言っているあたり、多分笑っているんだろう。

「別に光矢のお見舞いだけが目的じゃないわ……私達が白鳥島から脱出するためには、必ず医療棟に侵入しなければならないんでしょう?」

「琴里」

「そのための下調べのようなものよ」

 まっすぐ前を向いて、努めて毅然とした態度で言ってみせる。第一校舎につながる渡り廊下に出ると、鮮やかな緑の香りと陽光のきらめき、そして明るい生徒達の声が聞こえてきた。

 消毒液の臭いが充満した不自然に静かな空間から逃れられてほっとする。授業が終わってからすぐ医療棟を訪れたので、教科書などは持ったままだ。一旦女子寮に荷物を置いてから、いつも通り旧図書館に向かうことにしよう。ウジャクは生徒会棟に顔を出していて、こちらに来るのはもう少し後だろうから、あそこでなら灼君と一緒に落ち着いて今後のことについて考えられるだろう。

 歩を進めながら、私は昨晩灼君から聞いた「私と灼君が天河学園から脱出するための絶対条件」を思い出していた。


 夜の自室の明かりは勉強机の上に置かれたランプのみだ。その淡い光の中で私は椅子に座り、灼君は側に立って黒いマントを捲った。

 見せられたのは背中から生やした一対の、マントのそれより深い闇色をした翼。そしてその両翼にピアスのように食い込ませられた銀の輪だった。

「それ、<銀環>よね」

「ああ」

 灼君は自身の翼をぎこちなく動かし、鳥が翼を広げた時に頭の方に向かって出っ張った部分――「小翼羽」と言えば良いのだろうか――に噛み付くように取り付いた太い銀を見て口元を苦々しく歪めた。その銀の輪は長い年月を耐え黒ずんではいるものの、不吉な輝きを保っている。

 <銀環>というものはギス族にいた頃に聞いたことがあった。退魔を生業とする者達の武具の一つだ。

 吸血鬼伝承は世界各地にさまざまなかたちで存在しているが、よく聞かれるのが「吸血鬼は銀を弱点とする」というもの。もともと銀という物質は吸血鬼に限らず、魔に属するモノに対抗する力を持っていると言われている。その銀を吸血鬼の動きを封じることを目的に加工したものが<銀環>なのだ。

「これを付けられていることによって、僕の吸血鬼としての力はかなり封じられている。また僕の翼は本来身の内にしまっておけるものなんだが、それができない。一方で翼があるっていうのに、魔力の制限により空を飛ぶことができない」

 今の僕の翼はまったくもってただの飾りだよ、と灼君は苦々しく笑う。なるほど。学園内には陸東人の留学生もそれなりの人数が居るので、同年代で黒髪の灼君は学生のふりをできるのではないかと思っていたが、彼は日中は私の部屋に隠れまったく人前に出ようとしなかった。確かに翼が出しっぱなしになっていたのでは「魔物」だと一目見てわかってしまう。それだというのに吸血鬼の力の証である黒い翼は、本来の翼としての役割をまったく果たさないのだ。

「この学園は川中島にあるけど、どうやって入って来たの?闇に乗じてその翼で飛んで塀の中に入って来たんだろうと思ってたんだけど」

「入る時は船の積み荷に紛れたんだ。ヒシュウ国の留学生の乗っていた船だったよ」

「ああ、ウジャクの船ね」

 最近のヒシュウ国からの留学生はウジャクしかいないはずだから、彼の入学時で間違いないだろう。ヒシュウ国の官僚の息子だから、国同士の友好のためにも大量の献上品を船に載せてきたんだと思う。

「ギス族はよく山から下りてきて、渡しで船荷の積み下ろしをして稼いでいるだろう?彼らに頼んで僕が入った箱を献上品と一緒に載せてもらったんだ。そのまま天河島に上陸して学園に運ばれた、そこまでは良かったんだけどね」

「そこまでは?」

「うん。どこからか計画が漏れたか、あるいは僕がどこかで下手を打ったかわからないんだけど、とにかく学園に潜入しようとしたことがばれていたみたいで。学園の門の外で兵士から攻撃を受けた。僕はその時まっすぐ横になった状態で箱の中にいたから、まともに防御もできなくて、森の中を逃げるのがやっとだったよ。その上、森の中で古くから魔物から島を守って来た狼達からも逃げ回って、やっと夜になった時に塀をよじ登って学園内に入ったんだ」

 光矢からは学園内で起こっている一連の事件について、生徒会は吸血鬼の存在を信じておらず、あくまでも吸血鬼のふりをした人間を犯人として捜していると聞いていた。しかし本当のところは吸血鬼の存在をつかんでいるのではないだろうか。だから兵士達は学園に侵入しようとしていた灼君の情報を得て、待ち構えていたと考えられる。

 私は光矢が襲われた時点で灼君と一緒にいたから、学園で生徒達を襲っている<吸血鬼>は灼君ではないと言い切れる。しかし学園側はそんなこと知る由もなく、灼君を犯人とみなしていてもおかしくはない。私達は二人とものほほんとしていたけれど、もしかしたらまだ居場所を見つけられていないだけで、今頃、生徒会は学園の敵として灼君を追っているのかもしれない。慎重にしなければいけないと思う一方で、焦りは募る。

「島を脱出するために一番手っ取り早いのは、<銀環>を外してその翼で飛んで逃げることよね。あなたにその<銀環>を着けたのって……」

 ほとんど脳内で答えは決まっているが確認のため灼君に訊ねてみれば、案の定、彼は沈んだ声で、

「ああ、巳司だよ」

と答えた。

 巳司瀬杖。鵠王国王子である奏の侍医にして、私の主治医。そして灼君にとっては、かつての義父であり主人だ。さらに言えば灼君を徹底的に痛めつけ、私を鵠王国に連れ去った男である。

 医薬と退魔の知識に優れ、荒事にも長けているということで、現在目に見える最もわかりやすい脅威だ。だがそれだけでなく、灼君も私も幼い頃に彼から受けた仕打ちが心身に刻まれているために、強い苦手意識がある。

「おそらく巳司は琴里を鵠王国に拉致する時に、俺が死んだと思っていると思う。あの時、手当してくれたギス族の者からは「<吸血鬼>でなければ死んでいてもおかしくない怪我だった」と聞いている。それにあれ以来、俺はギス族と共に山中に潜んで一度も存在を明るみに出さなかった。だからこのまま巳司に見つからないように動けば良い。そうすれば、問題なく島の脱出まで漕ぎ着けられるんじゃないかと思うんだ」

 二人の間に落ちた嫌な沈黙を振り払うように、灼君が笑ってみせる。その随分無理矢理な笑みを見て私は覚悟を決めた。

 灼君は巳司が王家の侍医としてこの学校に赴任していることはわかっていたにもかかわらず、私のために天河学園に潜入した。学園を騒がす<吸血鬼>を見つけるという条件こそ未だ達成していないが、私が灼君を信用することができるまで、彼は随分と辛抱強く待っていてくれたのだ。

 ならば今度は私が応えなければならない。私にとっても彼にとっても恐ろしい敵であっても、二人でなら立ち向かえるはずだ。

「一度付けた<銀環>を外すためには随分面倒な手順が必要だと聞いていたけど」

「ああ。必要な鍵が二つあるんだ。一つはこの<銀環>を物理的に解除するための、鍵穴に差し込む文字通りの金具の<鍵>。もう一つは<銀環>に刻み込まれた術式を解除するための鍵としての<呪文>。これらは<銀環>全てに共通する<鍵>と<呪文>というわけではなく、一つ一つ異なっている」

「それを保管しているのは灼君に<銀環>を付けた張本人である巳司よね。それならどうしても奴の周囲を探らないわけにはいかないということか……」

 ううむ、と腕を組む。巳司に見つからないように、というのがいきなり難しい問題にぶち当たってしまった。だがさっき灼君が言っていた通り、巳司は彼が死んだと思っている。だから灼君の翼に付けられた<銀環>の鍵も杜撰な保管とはいわなくても警戒の緩みはきっとある。それが私達にとっては希望だ。

「おそらく鍵を保管しているのは彼の根城である医療棟だろうね。可能ならば彼が不在の隙を狙って医療棟から鍵を探し出し、誰にも僕の存在を知られずに夜中に二人で学園を脱出できれば、それが一番良いんだけど」

「その通りね。荒事になって力ずくで奪うようなことは、巳司相手では難しいわ。それなら彼に何も気づかせないうちに全て終わらせることが必要」

 私は椅子から立ち上がり、灼君の前に立つ。そして大きな黒い翼を傷めつける銀の枷にそっと触れた。年月を経ようと彼を縛り続ける強力な退魔の力が、指先から感じ取れる。これを外すことさえできれば。

「私が医療棟に忍び込んで<銀環>の鍵を手に入れるわ」

 私は灼君の目をまっすぐに見て宣言した。



 そんな決心の下、光矢の見舞いを口実に医療棟を訪れた。学園内で一番嫌いな場所で、いつもは碌に周囲も見ず検診が終われば逃げるように去っていた。だがここに私の灼君の運命を握る鍵があると思うと、見方も変わる。

 一個の病院としての設備がある医療棟は全体的に人の出入りが多い。生徒や教師、医師、兵士などが一日中出たり入ったりしている。退魔装備などの貴重な物品をそんな所にむき出しで置いているとも思えない。

 病床脇で光矢のおしゃべりを聞いてやりつつ視線を巡らせると、第一処置室が目に入った。いつも私が検診を受けている場所だ。確かあそこには……とそちらに意識を向けようとしたところで、

「いつまで喋っているんだ。どうせ明日には寮に戻るんだから、いい加減帰れ」

と、普段にも増して不機嫌そうな顔をした巳司に追い出された。変に粘っても不自然だから、あきらめて素直に医療棟を出ることにしたのだ。

 灼君は私のこの行動が不満なようで、

「琴里、何度も言うけど無茶はしないでくれ。危険なことは僕がやるから」

「無茶なんかしてないわ。私は私がすべきと思うことをしているだけよ」

「僕には君が焦っているように見える。今日だって巳司に気取られないように、確実に彼がいない時間を選んで医療棟に入るべきだった。君は誰からも不審に思われない普通の学園生活を送ることを一番にして、その中でもしうまく好機を見つけたら後は僕に任せてくれれば良いんだ」

「それじゃいつまでたっても島を出られないわ」

などという言い争いを、二人で延々と続けている。そうして辿り着いた旧図書館で待っていたのは、予想外に早く生徒会棟から戻って来た、顔全体でにこにこしたウジャクだった。見るからに機嫌が良さそうだ。彼は私が館内に入って来たのを見つけるや否や、駆け寄って来て目を白黒させる私の両手を握った。

「聞いてください、琴里さん!」

 ご主人の投げた円盤を上手に取ってきた犬のようなきらきらとした目に、かわいいと思う前にうっとなってしまった。これは私にとって良くないことを持ち込んできた、気がする。

 とりあえず落ち着けと言う代わりにお茶の用意に追いやり、サンルームに腰を落ち着けた。灼君はまた私のポケットに戻る。温かな紅茶に口を付けた時には幾分か興奮を抑えたらしいウジャクが、生徒会から星祭の仕事を取って来たという報告をしてきた。

「生徒会長は星祭の成功に関わる重要な仕事だとおっしゃっていました。これで僕ら民間伝承研究会も一目置かれるようになりますよ」

「別に認められたくて研究会をやっているわけじゃないんだけど……というか私の作った栞、勝手に持って行かないでよ」

 思わず頭を抱えた。先程、灼君と二人で立ち向かおうと決意した相手である巳司が、「目立ったまねをするな」と苛立つだろう様子がやすやすと想像できてしまい、げんなりする。

 それに構わずウジャクは無邪気に「星祭でも最も重要な、建国の儀に関わる仕事を受けられるなんて光栄ですよね。あ、これ。奏会長からお借りした、昨年の星祭で使用した供物の余ったものです。参考に、と」と話し続ける。悪いことをしたなんて全く思っていない様子だ。

 ウジャクと出会ってこちら、彼の勢いに負けてしぶしぶ言うことを聞いてやっていることが多いなと思いつつ、彼が持ってきた二十センチメートル程の長さの錦を受け取る。

「……編みが荒いわね。織り込まれている図案は鵠王国王家の紋章を雑に簡易化したもののようだけど。三十点ってところかしらね」

 ざっと検分してテーブルの上にぽいっと放り出す。その様子を見てウジャクは満足そうに笑う。

「ですよねぇ。だから僕も奏会長に申し出たんですよ。我ら民間伝承研究会にお任せください、琴里さんならこれよりもっと素晴らしいものを提供できますよって」

「あなたは本当に、私に何の断りもなく……」

 暖簾に腕押しだと思いながら苦言を呈するも、

「奏会長も琴里さんの作った栞を見て随分褒めてらっしゃいましたよ。これなら安心して任せられるっておっしゃってくださいました」

などと返してくるものだから、つい「そう、奏様が……」などと感動してしまった。

 不服ながら少なからず嬉しいと感じる自分がいることに気付いたら、後はなし崩しだ。これは、今年の星祭は、一人だった去年より少しは楽しくなるんじゃないかという期待まで起こってくる。

「そうだよ、琴里。せっかく楽しそうなこともあるんだ。だから、焦らないで。今を一つ一つ大切にしながらゆっくり、気長にやろう」

 ポケットの中の小鳥の姿の灼君が私にだけ聞こえる声で、わかったようにそんなことを言った。


* * *


「聞いたよ、兄さん」

 その晩、蛟が次なる犠牲者を探しにぶらりと寮を出ようとしたところで、背後からがしりと弟に腕を掴まれた。

「なんだよ、奏。お前はいつも俺に対して攻撃的だな」

 とりあえず振り返ってへらっとした笑みを浮かべてみせるが、対する奏は掴んだ腕を話さないまま、ますます眉を吊り上げた。

「兄さんの「火遊び」は、まあ、ある程度は仕方ないって思って黙認してきた。でも今回のはひどいよ。普段から保健室に通っているような病弱な女の子を襲ったんだって?普通の生徒なら健康に害はないとしても、そんな子から吸血すれば命に関わるかもしれないんだよ!?」

「病弱な女生徒?」

 はて、と蛟は首を傾げた。

 林檎を見た時に「あれは赤いから美味しそうだ」と思って選ぶように、吸血する相手だって見るからに血色が良い健康体を選ぶものだ。その方が血は甘く、濃厚な味がするに決まっている。

 蛟は吸血する相手を学園の女生徒から適当に選んでいたが、そのどれも首筋に牙を立てればみずみずしい血が溢れ出る者ばかりだったはずだ。

「ちなみにそいつの名前は?」

 思い当たる相手がおらず奏に訊ねる。一応、吸血により失神させた後で相手の生徒手帳を確認して、顔と名前くらいは全員覚えておくようにしているのだ。

「二年の綺羅琴里さんだよ。忘れたとは言わせないぞ」

 憮然とした表情で奏が答える。が、蛟には彼女の血を吸った記憶はない。実際、蛟は彼女から吸血していないからだ。

「……へぇ」

 蛟の唇が歪な弧を描く。蛟が綺羅琴里から吸血していないのなら、灼が吸血したということ。そのことが指し示すのはただ一つ。


――見つけたぞ、<半神の血>!!


* * *


 「焦るな」と灼君は言った。

 でも私達が思うよりも事態は急速に進んでいたんだ――――――――

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