第2章「聖女の血」

――

――――・・・・・・

……――――…………

「ごめん」

――――……

…………

――


 頬をなでる初夏の風にうっすら目を開ける。

 開け放された窓から入る光は随分と明るい。いつも起きている時間をとっくに過ぎているようだ。登校前の他の生徒達のざわめきがほとんど聞こえないあたり、既に一時間目の授業が始まっているのであろうと見当をつける。

 気怠い体を無理矢理起こして布団を捲ると、制服を着たまま眠っていたらしいことに気づく。なぜ寝間着に着替えもせず自分は眠ってしまったのか、とぼんやりとしたまま思考を巡らせたところで稲妻のように激しい痛みがこめかみを打ち、再び布団に倒れ込んだ。その瞬間、


赤い目、黒い翼、ぶちりという音、鋭い犬歯を突き立てられた痛み、ぬるりと首筋を這う触感、急速に失われる――


昨夜の最後の記憶がフラッシュバックした。

「……っ」

 なんとかまた体を起こし、机の上に置かれた手鏡に手を伸ばして自分の姿を確認する。そこに映っているのは寝起きかつひどい頭痛で土色になっている自分の顔と、それ以上に目を引く首元に付けられたはっきりとした牙の痕だった。


* * *


 あの後どうにか二時間目の授業からでも出ようと頑張ってみた。しかし貧血でふらふらして起き上がることもままならない。結局全ての講義を欠席しほとんど一日をベッドの上で過ごすこととなった。

 それでも眠ったり起きたりを繰り返しているうちに少しは体調もましになり、物事を考える余裕も出てきた。そこで外の空気を吸いがてら旧図書館に行くことにする。昨晩のことについて考える手がかりを探すため、あそこに置いてある吸血鬼に関する資料を読み直そうと思ったのだ。


「あ、琴里さん!」

 やっぱりというかなんというか。薄暗い旧図書館のそこだけ明るいサンルームを覗いてみれば、ウジャクが私が探していた本を広げつつくつろいでいた。窓から差し込む陽光の届かない場所で立ち止まる私の姿を認めて、彼は本をテーブルに置いて立ち上がり寄って来る。

「今日は授業に出ていなかったみたいですね。朝から教室内に琴里さんがいないか探していたんですが全然見当たらなくて心配していたんですよ。体調が悪いんですか?いつにも増して顔が青白いですよ」

 相変わらず一人でよく喋る奴だなと思うものの、本当に心配そうな表情をして私の顔を覗き込んでくる姿に不覚にもほっとしてしまった。ついさっきまで悪夢のような夜を引きずっていたのに、ここに来てようやく日常に戻って来たような気がする。

「……体調を崩すのはいつものことよ。これくらい慣れているわ。それよりお茶を入れてくれない?」

ウジャクが座っていたソファの反対の端にすとんと腰を下ろす。

「クッキーの瓶も戸棚から出してちょうだい。朝から何も食べていないの……わざわざ私を探していたってことは、何か聞きたいことがあるんでしょう?いいわ、付き合ってあげる」

ウジャクはわかりやすく破顔して、「すぐに用意します!」と食堂にお湯をもらいに行った。


「ところで琴里さん、その首元の傷はどうしたんですか?まさか吸血鬼……」

 私はぎょっとして思わずその部分を手で押さえた。しまった、絆創膏で隠しておくべきだった。私が吸血鬼に襲われたことが生徒会や巳司に知られたら、また面倒なことになる。

「馬鹿言わないで……虫に、刺されただけよ。昨日の晩、窓を開けたまま寝てしまったから、悪い虫が入って来たみたいなの。そんなことより聞きたいことは何?」

 思いつくままに言い訳して強引に話題を変えたが、不審に思われなかっただろうかとウジャクの方を見やる。彼は気にした素振りもなく、素直に促されてくれた。

「琴里さんに聞きたいと思っていたのは、「星祭」のことなんです」

 生徒は皆その話で持ちきりなのに僕一人だけがわからなくて気になっていたんですよね、と苦笑しながら、ウジャクが慣れた手つきでお茶の準備を整える。初めは兄貴分であるイルカさんに聞こうと思ったが、生徒会の仕事で忙しいようでなかなか捕まらなかったのだという。

「そういえば昨日から準備期間に入ったんだったわね。言ってみればどこの学園でもやっているであろう単なる学園祭よ。それをこの学園は毎年七月七日に「星祭」と呼んで開催しているというだけね」

 表面的な話だけを答えると、ウジャクは不服そうな顔をした。聞きたいことはそういうことじゃないらしく、二人分のお茶を並べるとテーブルに身を乗り出して続けて質問してくる。

「でも、それだけじゃないんでしょう?特別の日付に特別の名前で学園祭を行うに至った経緯があるんでしょうし、何やら秘密の儀式をやると小耳に挟んだのですが……」

 私は温かなティーカップに注がれた柔らかい深緑色の液体を啜った。彼が故国から幾ばくか持ち込んだ茶葉らしい……道理で懐かしい感じがするわけだ。その味にほだされるように、一つ一つ丁寧に答えてやることにした。

「昨日一緒に読んだ「攫われた娘」でも、娘が攫われたのは七月七日だったでしょう?」

「あ!」

 ウジャクが合点がいったというように手を叩く。

 そう。七月七日は鵠王国の建国記念日。あの伝承の中で村人達が娘を残して出かけようとしたのが、首都・北辰の建国記念祭なのだ。

「鵠王国の国民はこの日を大々的に祝うのだけど、中でも最大の祭典が行われるのが王城のある北辰(ほくしん)とここ、天河学園なの。要は天河学園における建国記念祭が星祭ということ」

「首都が盛り上がるのはわかるんですけど、もう一つがなぜ天河学園なんですか。いくら国中の貴族の子弟が集まっているとはいえ、辺境と言って良い土地だと思うんですけど」

「それは天河学園が建てられているこの白鳥島が、鵠王国の建国の地だからね」

「え、そうなんですか!?」

「ええ。元々、白鳥島は土着の陸東人にとっての聖なる場所であったらしい」

「聖地ってことですよね。地理的な特徴からでしょうか。川の中に浮かぶ島なんて人々の日常から隔絶されているために神秘性が感じられて、そういう扱いをされていてもおかしくはないですね」

「それもあると思うけど、実際魔を祓う力を持つ土地であるとは聞いているわね……ともかく、そういう現地の人々から信仰のある特別な土地を手に入れることは侵略の上で大きな意味を持つ。鵠王国の王族と貴族の先祖達は白鳥島を手に入れた時、そこで王国の建国を宣言したの」

 聖地――白鳥島での建国宣言以降は連戦連勝。瞬く間に版図を拡大し、結果として今の大国、鵠王国がある。この成功の理由を聖地の加護を得たことに帰する者も多い。そのような考えから建国の地に学園を建て、貴族の子供達にそこで学ばせることによって、王国の歴史を知りその将来を担う誇りと覚悟を持たせようとしているわけだ。

「その一環として学園を挙げて建国を祝う……まあ中身はと言えばさっきも言ったようにただの学園祭で、ごく普通にクラスや部活単位で劇や展示をやったり露店を出したりするんだけど」

「なるほど、そういう来歴があったんですね。では秘密の儀式というのは……?」

「それはおそらく<星>への参拝のことじゃないかしら」

「<星>?」

「星祭がただの学園祭と違う最大の特徴」

 私は立ち上がって本棚から大きな古い地図帳を取って来る。開いたのは白鳥島の全体図が描かれたページだ。ウジャクが隣から覗き込む。

 白鳥島は天河という名の大河に浮かぶ、その名のとおり翼を広げた白鳥の姿に似た形をした島である。全体が森で覆われている白鳥の胴の部分に太線の四角があり、その中には白い建物群が描かれている。そこを指差して、

「まずここが天河学園」

と説明する。さらにそこから人差し指を白鳥の長い首にそって動かし、嘴の所で止める。そこには絵も無くぽつんと<星>という単語だけが書かれている。

「これが……?」

「そう、これが<星>と呼ばれるモノがある場所。ここが鵠王国の始祖、翔王が建国を宣言した場所と言われている。島全体というより、この場所こそを「聖地」と呼ぶこともあるわね。ここに通じる道は学園の敷地から一本だけ敷設されているのだけど、基本的に閉鎖されていて見張りの兵も常駐している。星祭の日にだけ一般の生徒にも参拝が許されるの。生徒は一人ずつ供物として細長い紐状の錦を持ってこの一本道をたどり、<星>に供えて帰って来る。この一連の儀式があるからこそ、天河学園の学園祭及び建国祭は「星祭」と呼ばれているようね」

「へぇ……ちなみにその儀式って外国人である僕にも参加できるものなんですか?」

「ええ。学生は全員参加。そこに留学生も含めるというのは、おそらく鵠王国とその王家の聖性を周辺諸国に見せつけるためなのだと思うけれど」

「聖性を、見せつける……?」

「ええ。<星>というのは、その名を付けられるにふさわしい美しい遺跡なのよ。確かにあの地を手に入れた王とその王国が間違っているはずがないと思わせるくらいにはね」

「なるほど、それは楽しみですね」

 ウジャクはテーブルに乗り出していた身をソファに戻し、満足げな顔をしてお茶を啜った。そして、

「それにしてもほっとしました。鵠王国にとって重要な祭事だというので、他の学生達が楽しそうに準備しているのに僕ら留学生は何も参加できないんじゃないかと不安になっていたんですよ」

と笑う。どうやら学園祭の詳細について知りたかったことは確かなようだが、それ以上に学園祭に参加できるのかということを心配していたらしい。

「何も参加できないどころか、生徒である限り例の聖地参拝はもちろん、学園祭の出し物には何らかのかたちで参加必須よ。所属するクラスか部活単位のどちらか、あるいは両方で作品を展示するか舞台で出し物をやらなければならないから」

「そうなんですね。うわぁ、おもしろそうです。琴里さんはどうするんですか?」

明らかに期待を含んだ眼差しをしてウジャクが尋ねてくるが、

「部活で作品展示をするに決まっているじゃない」

と、私はきっぱりと答える。陸東人である自分がクラスの活動に参加しても、他の生徒も私自身も嫌な思いをするだけだ。それならば民間伝承研究会という名目で一人、適当に展示をした方が良い。元々この部ははそんな望まない集団行動を回避するために作ったのだから。

 だがそれを聴いたウジャクは、

「そうですか、じゃあ一緒に頑張りましょうね!」

と言って、さらりと私の気楽な個人活動を阻止しにかかってきた。

「いや、別にあなたはクラスの方で参加すれば良いじゃない。私は勝手に一人でやる……」

「まーたそういうこと言う」

 ウジャクが拗ねた顔をして私の言葉を遮る。

「昨日、入部届を受け取ってくれたじゃないですか。僕だって民間伝承研究会の立派な一部員なんですよ」

 入部届を受け取ったというか、無理矢理持たされたのだが。何にしろ、私としては星祭など学園に通うという義務の一環に過ぎず、義父や巳司から文句が出ない程度に参加する気しかないのだ。ウジャクの星祭に気合を入れて参加しようという様子を見る限り、やる気のない私に構うより、その差別や偏見をものともしない人当たりの良さでクラスの活動に参加した方が良いんじゃないだろうか。

 そう言おうとしたのだが、ウジャクはテーブルの上の私の手をそっと握り、

「要は他の生徒と馴染めないから、一人でやろうとするんでしょ?クラスにうまく溶け込めないのは、同じ陸東人である僕だって一緒です」

安心させるように微笑んだ。

「……」

 ふと、去年の星祭を思い出した。作品を完成させ展示してしまえば当日は暇なもの。でも一緒に屋台を回ったり舞台を見たりする友人もおらず、一人、いつもと同じようにこの旧図書館で本を読んでいた。校舎の方からは楽しげな音楽の演奏や賑やかな生徒達の歓声が遠く聞こえていた――

「だからこの二人でやりましょう?去年は嫌な思いをしたかもしれません。でも今年は僕がいるんです。きっとそんな思いはさせませんよ」

「……っ。勝手にすれば!」

 ウジャクの手を振り払ってそっぽを向いた。じわじわと顔に熱が上ってくるのがわかる。我ながらかわいげのない、いっそ失礼ですらある態度だなとは思っている。しかしウジャクはやっぱり都合良く解釈してくれたようで、

「はいっ、ありがとうございます!」

と答えたのだった。


* * *


「兄さん、どういうつもり?」

 鵠王国の二人の王子の弟の方であり、生徒会長でもある奏はその美しい顔を歪ませて蛟に問いかけた。

 生徒会棟の中の二階にある、生徒会長に与えられた執務室。複雑な意匠が施された家具で統一されたその豪奢な部屋は、日が沈む前の最後のほの暗いオレンジ色の光に満たされていた。

 そこにいるのは兄弟二人だけだった。来客用のテーブルとソファがあるにもかかわらず、二人とも離れて立ったままで睨み合う。奏は兄をまっすぐと。蛟は体を窓の方に向けたまま弟を横目に。

 彼らは決して談笑できるような仲ではなく、最後に二人きりで話したのはもう数年前のことだ。互いに長話などする気はなかった。

「神経質な奴だな。死人は一人も出ていないだろ」

 蛟がわざとらしく溜息をつく。そして、

「しかしひどいな。すぐに兄貴を疑うなんて」

と口元を歪めた。

「だって一連の吸血事件……兄さん以外に誰がいるって言うんだい!?」

 兄の一向に責任を感じていない様子に苛立ったらしく、奏は珍しく声を荒げた。彼にとってはいつも不思議だったのだ。蛟が両親を怒らせる行動ばかりをすること、王子としてふさわしい振る舞いをしないことを。

 だがそんな奏に対し蛟が返した言葉は予想外のものだった。

「もしいたら、お前はどうするんだ?」

 蛟は相変わらず体を逸らしたまま、奏を流し見る。その声は隠し切れず楽しげだ。

「まさか……「あいつ」が生きているっているっていうのかい!?」

 奏がぎょっとした顔をする。

「はは、ただの可能性の話さ。大体あいつは死んだはずだろ?お前が何のためらいもなく俺を犯人に指名するもんだから、ちょっとしたいたずら心で言ってみただけだよ」

「兄さん!冗談でもそういうことは……っ」

「悪かったって。もう話はこれで終わりでいいだろ。流火を待たせているんだ」

「ちょっと、まだ話は」

「わかったわかった。ほどほどにしておくって。じゃーな」

 蛟は返事を待たず部屋を出て行き、後には奏だけが残された。

「……」

 蛟の言葉は冗談のはずだ。だがこの胸にわだかまる不安は一体何だろう。奏はしばらくその場に立ったまま動けないでいた。


* * *


 それは私がまだ、ただの「琴里」だった頃のこと。


 私が生まれ育ったのはギス族の小さな村だった。

 村、といっても深い森の中の限られた空地に建てられた複数の天幕の集まりという、簡素なものだ。何かあればすぐに天幕を畳んで他の場所に移動することができる。おそらくそのような集落の在り方は、一族の「ここに定着してなるものか」という意志の表れであろう。ギス族は何百年も前に鵠王国に奪われ追い出された土地を今も取り返す気でいる。

 そんなギス族には一族以外の者には知られてはいけない重大な秘密があった。それが特殊な血を持つ人間の存在だった。


<半神の血>――


 一族の中でたった一人だけが受け継ぐ特殊な血。その血を飲めば、病や傷を持った者は癒され、戦に臨む者には勝ち抜く力を与えられるという。心悪しき他の民族にでも知られたなら悪用されかねぬ存在を、ギス族は一族の宝としてひた隠しにして守ってきた。

 それが私。母からその血を継いだ<半神の巫女>である。生まれた時から自分の血を皆に与えることで、一族を守ることを使命としてきた。

 一方で特殊な血を持つ反動なのか、私は――母も、祖母もそうであったようだが――めっぽう体が弱かった。常に頭痛や体の怠さに悩まされ、頻繁に寝込んだ。そして視力が弱かった。

 ギス族最大の秘密というだけに、私はそれはそれは大切に扱われた。長老の隣の天幕を一つ宛がわれ、一番仕立ての良い着物を着せられた。一族の全ての者によって世話をされ、お姫様のように傅かれた。

 それが時々どうにも息苦しくて我慢できなくなると、私は誰にも言わずこっそりと集落を抜け出すことがあった。特別に何かするというわけではないが、一人で森を歩き回って花を摘んだり湖で水遊びをするくらいだ。そうしてぼんやり物思いにふける。私のこと、一族のこと、これからのことなんかを。

 「彼」と出会ったのはそんな時だ。黒い目に黒い髪。一見、典型的な陸東人の少年だった。しかし服装は一般的な陸西人のもので、おそらく隣国である鵠王国から来て一時的にこの辺りに滞在している人間であろうと見当をつけた。

 彼の名を、灼(あきら)といった。

 義父に言いつけられて薬草を採りに来たのだという彼と、私は意気投合した。私はいつものように世話役たちの目を盗んで天幕を抜け出して。灼君もまた言いつけられた仕事の合間を見つけて。年頃の同じ子供と遊ぶのは私にとって初めてのことで、とてもとても楽しかった。木々の間を駆け、水辺を泳ぎ、木陰で寄り添ってうたた寝し……それまで一人でやっていた遊びを共有できる誰かがいることは素晴らしいことで、普段の置物じみた私からは想像もつかないくらいにはしゃいでいた。そしてそれは彼も同じだったと思う。

 幸福な日々はほんの数日間で終わりを告げた。灼君が言いつけをサボって遊んでいることが、彼の厳しい義父にばれたのだ。

 この時わかったのだが、この少年は鵠王国王家のヒシュウ国に対する表敬訪問の一団に従者の一人として属していた。国王一家とその従者達は、ヒシュウ国の皇子の誕生日祝いの宴に参加するために訪問していた。

 鼎(かなえ)王、令歌(れいか)妃と彼らの二人の息子である奏王子、蛟王子という王家全員が訪問したというのだから、単純な交流だけでなく何かしら重要な会合が行われたのではないかと考えられる。

 とはいえ普段滅多に自国を出ることができない彼らにとってはちょっとした旅行も兼ねていたのではないだろうか。王族とその従者達は皇都での祝賀からの帰路に国境のキトの町に立ち寄り、そこの高級旅館にしばらくの間滞在していた。

 キトはギス族の住まう山のふもとにあったので、一族の者がしばしば出稼ぎに行ったり品物を売ったり買ったりして私達にとっては最も親しみのある町だった。灼君と私が出会ったのは、この王家の滞在中のことであったのだ。


「お前、言いつけも守らずに何を遊んでいるんだ!?」


 険しい崖の上だった。

 そこは川向こうの鵠王国の景色がよく見える場所だった。彼が自分の故郷について教えてくれるというので、前日にここで落ち合おうと約束していたのだ。ギス族の集落の中で箱入り娘染みた育てられ方をした私にとって外の世界は何であれ興味深く、わくわくしながら向かったところ、そこにいたのは灼君とその義父だった。

 彼の義父というのが、王家に仕える侍医――巳司瀬杖であった。灼君は山で薬草を摘んで来るよう言いつけられたことを口実に、私に会いに来てくれていた。しかしなかなか戻ってこない灼君にしびれを切らした巳司がここまで登って来たのだ。

 私は灼君とは別の人間がいることに驚き、木陰に身を隠して様子をうかがった。

 灼君は崖の縁に追い詰められるようにして立っていた。真っ青な顔をして小さくなり、地面を見つめている。

 対する巳司は二十代後半頃の、今と変わらず白衣を纏ったぞっとするほど冷たい目をした男だった。彼は言いつけを守れなかった子供を叱るというより、苛立ちを抑えることもなくそのままぶつけているようだった。

「奏様が風邪を召されてお薬を必要とされているのだぞ!そんな時にお前は……っ」

 げほっと灼君が空気の塊を吐いて倒れこむ。巳司が灼君の腹を蹴りつけたのだ。私は小さく「ひっ」と悲鳴を上げ、隠れている木の幹をぎゅっと掴んだ。

「これ以上痛い目を見たくなかったら、すぐに立ち上がって言いつけた物を取って来い」

 彼はまるで虫けらを見るかのような目で灼君を見下ろし、命令する。灼君は虚ろな目でふらりと立ち上がるも、「でも……」と呟く。おそらく私との約束があるためにそこを離れることに迷いが生じたのだろう。そんな灼君の様子はますます巳司を苛つかせたようで、

「がぁ……っっ」

子供の頬を容赦なく殴りつけた。

 その場所が悪かった。崖の縁に立っていた灼君は殴られたそのままの勢いで後ろに吹っ飛び、空中に投げ出された。そして一瞬の間を置いて何かが落ちる鈍い音。

「灼君!!」

 もうじっと隠れていることなんかできなかった。私はその場にいるもう一人の人間のことなんか意識から吹っ飛び、崖下へと向かう回り道を走る。

 灼君を殴りつけた巳司の方はというと、まさか崖から落とそうとまでは考えていなかったらしく驚いた顔をしたまま固まっていた。突然現れ駆け出した私の姿を茫然と見送る。

 いくら箱入り娘染みた生活をしていたといっても、この山は私の庭のようなものだ。鮮やかな模様が大きくはためく貫頭衣を小枝に引っ掛けることもなく道なき道を走り、かなりの速さで目的地にたどり着いた。

「灼君……」

 声が震える。崖下には細い川が流れており、その河原に灼君は仰向けに倒れていた。彼の体の下に敷かれた丸っこい石達にじんわりと赤いものが染み込んでいる。私は駆け寄り、彼の顔を覗き込んだ。蒼白な顔をした彼は私の声を聞きつけたのか、ゆっくりと目を開く。灼君の黒い両目はしばらく虚空を彷徨い、ようやく私の顔に焦点を合わせた。そこで私は少しほっとする。

「灼君、良かった。生きてい……」

 生きているのね、と最後まで言えなかった。突然、灼君が瀕死の人間とは思えない力で私の肩を掴んだのだ。

「っぇ……?」

 訳が分からず動けないでいる私の両肩を支えに彼はゆっくりと身を起こし、


ずぷり、


と私の首元に犬歯を突き立てた。

「!?」

 声も上げられず、ただただ体を強張らせる。だがすぐに噛み付かれた場所が熱く疼き、次いで体から血が大量に失われる感覚に背筋が凍った。これまで<半神の巫女>として一族の者達に血を与えることは多々あったが、指先をほんの少し切って一滴与えるくらいのもので、これだけの量を一気に奪われることは初めてだったのだ。

「灼君……いや、いやっ……なんでぇ……っっ」

 自分が何を話しているかもわからない。失血によるショックで霞がかった視界で、自分の首元に顔を埋める灼君の細い背中からばさり、と闇夜のような黒い翼が飛び出すのを目撃する。そして満足したのか、これまで一心不乱に血を啜っていた所から彼が頭を上げた時、その両目は紅玉のように不吉に輝いていた。

 朦朧とした頭の中で、「化物」という単語が現れて消える。今、灼君は先程の弱っていた様子が嘘のように、禍々しい生命力に満ちていた。だが、

「ぐぁっっ!」

彼はすぐに私の視界から姿を消した。私たちを追ってきたらしい彼の義父が背後から現れ、再度彼を容赦なく蹴り飛ばしたのだ。彼は河原の上を数メートルに渡って転がった。ぴくぴくと動くその姿は死にかけの鴉のようだった。

 目の前の危機が去り、私は少なからず安心する。しかし私を救ってくれたと思った男は、大きな手で私の頭を掴み乱暴に自分の方を向かせた。巳司は痛みに顔を歪める私の顔をまじまじと見つめた上で、向こうに倒れている黒い翼を生やした灼君を一瞥し、再び私に視線を戻す。そして、にやりと笑った。その冷たい目に喜色と興奮を浮かべて。

「まさかこんなところで見つけるとはな……<半神の血>!!」


 そこで目の前が真っ暗になった。

 意識を失う直前頭を過ぎったのは、なぜか赤い目をして黒い翼を生やした灼君のことだ。出会ってから数日間が眩しいほどに幸福だった反動で、彼が私の血を吸ったことがひどく悲しかった。結局彼も他の皆と一緒で、<半神の血>が目的で私に近づいたのだ。「君といると楽しいよ」という言葉は嘘だったのだ――……



 その知らせが入ったのは日が傾こうかとしている頃のことだった。山のふもとのキトの村に出稼ぎに行った男達が血相を変えて集落に戻って来た。脇目も振らず長老の天幕に飛び込み、必死の体で叫ぶ。

「大変ですっ。琴里様が鵠王国の奴らに捕まりましたっ」

「カロウ館……キトの一番大きな宿屋に連れ込まれるのを見たんです。今、ヒシュウ国を訪問した帰りの王族が泊まっている所で……申し訳ありません、護衛の兵が非常に多くとても我々だけでは太刀打ちできぬと考え、まずは知らせに戻った次第です」

 穏やかな山間の集落は俄かに騒々しくなり、一族の男達は皆長老のもとに集まった。

「なんてことだ!<半神の血>があの蛮人共の王に喰らわれれば……」

「恐ろしい力を得て、河を越えてこちらに攻め入って来るだろうな。それだけの可能性があの血にはある」

「我らが土地を奪われたあの悲劇、あの屈辱の再来じゃ。今度は土地だけでなく、一族諸共皆殺しにされるぞ」

「その前に何としてでも琴里様を取り戻すのだっ」

「そうだっ。王があの血に口を付ける前に取り戻せっ」

 天幕が怒号で満ちる。それを受けて男達の円の真ん中に座していた長老が、しわがれているもよく通る声で命令を下す。

「すぐにその宿屋に攻め込むぞ。六星(りくせい)、指揮はお前に任せる」

「はい」

 六星と呼ばれた男が静かにうなずく。貫頭衣から戦士らしくよく鍛えられた手足が覗いているが、その顔つきはというと木陰で書を読む青年のような落ち着いた理知的なものだった。実際、彼はギス族の子供達に剣術や格闘術の他様々な知識を教え、皆から「先生」と呼ばれ尊敬されていた。厳しい状況でも冷静な判断を下せるということで、長老からの信頼も一際厚い人物だ。

「<半神の血>を奪えば、正統な持ち主である我々ギス族が取り戻しに来るのはわかっているはずだから、なるべく早く国境を越えて自国に連れ込もうとするだろう。だが、すぐに日が暮れる。夜の天河は賊共の天下だ。「宝物」を抱えて渡るには向かん」

 長老の言葉を受けて、六星が続ける。

「ならば彼らが琴里様を連れ出すのは早くとも明日の朝と考えて良いということですね。その前に、今晩、夜闇に紛れて宿に忍び込み琴里様を取り戻すべきだと」

「ああ。おそらく<半神の血>だけを鵠王国に運ぶよりも、明日の王族の帰国と共に連れて行くだろう。<半神の血>という貴重なものを運ぶとなればそれなりの人数の兵を守りに割く必要がある。するとその分、国外にいる王を守る戦力は減ってしまう。それならば、王の帰還に合わせて琴里様を連れて行く方が賢い考えだ」

「わかりました。鵠王国の戦士を数多く潰すのでなく迅速に琴里様を奪い返すことを目的とするならば、攻め込む人数は少ない方が良いでしょう……そうですね、十人といったところでしょうか」

 六星は立ち上がり、天幕の中の男達を見回す。彼らは皆、大切なものを奪われた不安と敵国に対する怒りをしばし抑え、二人の会話を息をつめて聞いていた。

「連れて行く人間はお前が選べ。頼んだぞ」

 長老は厳かに青年に一族の未来を託した。その眼差しをしっかり受け止めて、

「わかりました」

六星は答えた。



 夕餉を終えて眠りつく前の穏やかな夜のひと時は、兵士の怒声と仲居らの悲鳴によって打ち破られた。

「賊だ!賊の侵入だっ!」

「気を付けろ、ギス族だっ。奴らは奇怪な術を使うぞ!」

 軽い身のこなしで鈎縄を使って塀を登ってきた貫頭衣の男達は、ひらりと広い庭園に飛び降り、屋敷に乗り込む。先頭は六星だ。彼は片手に剣を携え、目にもとまらぬ速さで廊下を突き進む。これを阻もうと何人もの兵が姿を現したが、六星は顔色も変えず駆ける速さも落とさず次々と切り捨てて行った。

「クスの間というのはあの部屋か?」

 六星が前方の扉の方を示して並走している男に訊ねる。見る限り小さな上に簡素な部屋なのだが、そこには完全武装した兵士達がぎらぎらとした闘争心をむき出しにして待ち構えている。初めから来ることはわかっていたという様子だ。

「はい。間違いありません」

 答える彼はギス族の中で一番目の良い男だ。彼は先行して宿の近くに植わっている高い木に登って塀の中を覗き、様子を探っていた。

 彼曰く、カロウ館は全体の中で二か所警護が厳重な所があったという。一つはシラユリの間、そしてもう一つが今向かっているクスの間だ。前者は貴族達の中でも地位の高い者達がよく利用している宿の中で最上の客室であったため、こちらについては王族が滞在しているのだろうと推測できる。残った方は一般的な客室の一つだ。そんな部屋を強固に守る理由があるとすれば、そこに<半神の血>があるからと考えて間違いないだろう。

 六星は真正面から扉を守る兵士達に向かって行き、進路を確保する。倒しきれなかった兵達については他の仲間達に任せ、扉を蹴り開けた。

「……!」

 部屋の中にもまた兵士達が多数いた……尤も、この旅で王家が連れてきた兵士の一割の数にも満たないのだが。彼らが阻むその向こうに太い針金で編まれた籠がある。その扉には錠が掛けられ、中には白い布をすっぽりかぶせられた生き物がいた。布に隠れされているが体つきから推測するに十代初めの子供。おそらくあれが琴里だろう。

「……すぐにお助けします、琴里様。もうしばらく我慢してください」

 呟くように言って六星は剣を握り直した。

 そこから彼は室内の全ての敵を切り伏せた。一族の子供達皆の剣の師であるだけに、彼の太刀筋は鮮やかで無駄が無い。遅れて部屋の中に入った彼の仲間達も六星に息を合せ、難なくクスの間を制圧した。

 六星は向かって来るものがもう一人もいないことを確認すると、籠の所にひざまずき錠を外す。そして中から引き出してやった子供に掛けられた布を取り去った。

「!……これは」

 現れたのは予想外のモノだった。両手両足を縛られ猿轡を嵌められた黒い髪の子供。だが明らかに男の子供だ。それどころかその両目は赤く、背中には黒い翼を生やしている禍々しい生き物だ。

 これにはさすがの六星も顔色を変えた。背後の仲間達も困惑の声を上げている。当然だ。一族にとって何よりも大切な<半神の血>がいるはずだから、このような危険な場所に乗り込んだのだ。だが命がけで辿り着いてみれば、そこにいたのは……化物だ。では琴里はどこにいるというのだろう?

「六星様……どうしましょう。琴里様がいない以上、一刻も早くここを離れもう一度探し直すべきです。宿にはまだたくさんの兵がいる。ここでのんびりしていればいくら我々でも数に押されてしまうやも……」

 仲間の一人がおずおずと提案する。六星も同意見だった。一刻も早くここを脱出して再度琴里様を助け出す算段をしなければならない。

 と、そこで目の前の異形の子供が「ふーっ、ふーっ」と猿轡越しに何かを伝えようとしていることに気が付いた。六星は一瞬その魔物に触れることにためらいを覚えるも、猿轡を外してやる。

 久しぶりに直接新鮮な空気を取り込んだ子供はげほげほっと何度かむせた。六星はそれに構わず、

「おい、子供。琴里様を――我々の<半神の巫女>がどこにいるのか知っているのか」

と厳しい口調で訊ねた。

「けほっ……知ってる。あいつが、俺の義父が連れて行った。俺を囮にして一人で琴里だけを鵠王国に連れ込もうとしているんだ……っ」

「!」

 一同に衝撃が走る。

「くそ!」

 六星が手近にあった柱を衝動のまま殴りつける。彼は自分も、長老も大変な読み間違いをしたことに気が付いた。彼らは護衛の数を減らさないように王室一家と<半神の血>を同じ場所にとどめると予測していた。前者も後者も決して疎かにできない対象であるために、王族の帰国と<半神の血>の移送を同時に行うと考えたのだ。

 だが、実際には王家をほとんど全ての護衛と共にヒシュウ国に残し、<半神の血>のみをたった一人で運ぼうとしている。実行者の大胆さに舌を巻く。それは万が一ギス族が琴里の行方に気付き追いついたとしても、戦闘に長けた彼らの来襲を一人で凌ぎきることができるという自信があるからできることだ。

 いつまでもこうしてはいられない。六星は考える。どうするか悩んでいる間にも、敵は天河へと向かっているのだ。国境を越えられたら、おしまいだ。鵠王国は国境を守るために向こう岸に相当数の兵を用意している。<半神の巫女>を取り戻すのは一層難しくなるだろう。

「ムマ、ここはお前に任せる。お前が指揮を執って皆をカロウ館から脱出させろ」

「先生は……?」

 六星は仲間たちの中で一番体格の良い男に命じ、速足で部屋の外に出る。廊下から庭に下りると、そこには馬小屋があった。六星はそこにいる中から一頭を選び、さっと飛び乗る。

「私は琴里様を追う。十分な戦力を連れて行きたいところだが、今は一刻を争う。お前達は全員が無事ここを出ることが大前提だが、敵の注意を俺から逸らすよう派手に暴れてくれ」

 追いかけてきた仲間達にてきばきと指示を下しながら六星は馬を宥め、背負った矢筒を軽く揺らして本数を確認する。

「子供、お前も来るんだ」

 六星に声をかけられ、息をつめて状況を見守っていた灼が驚いたように顔を上げる。他の仲間達もぎょっとしたように六星を見た。

「鵠王国に渡るためには経路がいくつかある。琴里様を連れて行ったのがお前の義父だということだから、普段付き従っているお前にならどういう道筋を通ったかある程度わかるのではないか」

 六星が時間が惜しいとばかりに口早に答える。

「し、しかし、六星様。こいつは我々が憎むべき魔物です。これを信用するなんて……!」

 我慢できないとばかりにムマが抗議の声を上げる。何も言わない他の仲間達も不満げな顔だ。だが六星は「今はそんなことを言っている場合ではないだろう」とぴしゃりと遮り、

「お前はどうなんだ、子供。できるのかできないのか。今すぐ答えろ」

灼をじっと見つめ問い質した。

 傷だらけの小さな化け物は猿轡は外してもらえたものの、両手両足の拘束はそのまま。不吉な黒い両翼でさえも重たい銀の環で戒められている。だがそれでも彼は即答した。

「できますっ。俺は琴里を助けたい……!」

 それを聞くと、「よし、乗れ。案内しろ」と言って、六星は馬を回廊の脇に付け灼の首根っこを掴んで馬上に引き上げた。



 激しい揺れに意識が浮上する。重たい瞼を開けると、辺りは真っ暗闇だった。

 私は馬上に括り付けられた籠の中にあった。馬の蹄が地を叩く度に体が跳ね、針金の格子にぶつかって痛い。きっと衣の下は全身痣だらけだ。しばらく状況が掴めずとにかく身を起こそうとすると、両腕と両足が縄で固く縛られていることに気が付いた。仕方なく首だけを動かし、馬の乗り手を確かめようとする。

「気付いたか」

 籠の前で手綱を引いていた男が馬の速度を緩めないまま、ちらりとこちらを振り返る。暗闇の中でもはっきりとわかる、切れ長の冷たい目。巳司だった。そのことに気付くや否や、意識を失う前に起こったことが全て蘇り、悲鳴を上げそうになったが声が出ない。猿轡が嵌められているのだ。

「暴れられては困るからな」

 私の表情から言わんとすることを読み取ったように、彼は言った。

「さすがに子供を一人国外に攫おうとすれば、人目の多いキトの町の正規の港は使えないからな。外れにある渡しを使う。ヒシュウ国の警備が薄い分、国境沿いをたむろする賊に遭う危険がある。俺も大事な荷物を持って一人で戦うのは厳しいから、なるべく何者にも遭わずに河を渡りたいんだ。だから厄介な奴らの気を引かないよう、お前も大人しくしていろ。この場で死ぬよりは、無理やり一族のもとから引き離されても命があった方がましだろ」

「……」

 川のせせらぎが聞こえてきた。天河だ。川向こうの暗闇が目に入り、ぞっとする。私はこれからあちら側へと連れていかれるのだ。

 巳司は川辺に馬を止めると同時に地面に飛び降りる。そこには一艘の舟が用意されており、その船頭が手近な岩に猫背がちに座って待っていた。挨拶も無くぎょろりと目だけをやって来た馬に向けて、緩慢な仕草で腰を上げる。その態度から、明らかに真っ当なお客を相手していないだろうと読み取れた。

 巳司は馬の背に括り付けられた私の入った籠を下ろしながら、

「すぐに舟を出してくれ。追手が迫っている」

と命じる。彼の言葉を肯定するかのように、背後から別の馬の足音が迫ってくるのが聞こえた。

「へ、へいっ」

 たっぷり渡し賃をはずんでもらったらしい船頭は、従順に私の入った籠を巳司から受け取ろうとした、が、

「ぅぐぁっ!!」

「!?」

船頭が差し出した腕を引っ込め、地面に転がって呻き声を上げる。その腕には深々と一本の矢が刺さっていた。

「琴里様を返せ、下郎!」

 拘束されて不自由な体を無理やり動かして矢が飛んできた方向を振り返ると、思った通りギス族の中で最も頼りになる人がこちらに向かっていた。

(六星様!)

 ほっとして思わず涙腺が緩む。六星様は間を置かず矢筒から矢を抜いて今度は巳司に狙いを定める。流れるような動きで放たれる強烈な一撃。馬に乗り矢を携えた六星様が誰かに負けるところを私は見たことがない。

 しかし巳司もさるもの。ためらいなく私の入った籠を地面に放り出し、腰に差した武器を抜いて矢を弾く。不穏な銀の閃きを見たと思った瞬間、籠ごと落とされた私は容赦なく地面に叩きつけられた。全身を襲う衝撃に悶えつつ巳司の方を見上げる。

「さすがギス族。ここまで追って来るとはな」

 秘密裏に国境を渡ろうとしていたところを発見され追いつかれたにもかかわらず、巳司は余裕すら感じる口ぶりだ。青白い顔に浮かべた酷薄な笑みを見てしまい、私は寒気がした。だが私をもっとぞっとさせたのは彼が手にしていた奇妙な武器だ。

 それは見たことの無い武器だった。ぱっと見たところでは刀身が幅広の剣。しかしよく見てみれば片刃が二枚、互い違いにぴったり重なっている。例えるならば指穴の無い、巨大な銀の裁ち鋏といったところか。

「敬意を表して俺の最強の刃で相手してやろう。来い、蛮族よ!」



 あっけなく勝負は着いた。

 目の前には血塗れで地面に倒れている六星様。彼が先程まで乗っていた馬は、恐ろしい戦いから逃れることもできず、首と胴体が綺麗な切り口で離れ、転がっている。

「愚かなことだ」

 あまりの惨状に震えることしかできない私が入った籠を無造作に担ぎ上げ、舟へと向かいながら巳司は独り言ちた。

「愚かなことだ。<半神の血>は鵠王国の王のもの。王に逆らえば、滅ぼされるのは当然のことであろうに」

 籠をどさりと船床に下ろし、櫂を手にする。どうやら怪我をした船頭はこの場に置いて自分で舟を漕いで行くらしい。

「待……て…………っ」

 かすれ気味の少年の声。六星様と同じように傷だらけの灼君が、ずるり、ずるりと地面を這って来ていた。先程まで気が付かなかったが、六星様と一緒に来ていてそのまま戦いに巻き込まれて傷を負ったようだ。彼が進んだ後には夜闇でもはっきりとわかる赤黒いものが緒を引いていた。

 巳司はそれに目もくれず、舟を出す。陸地はゆっくりと遠ざかっていく。

「琴里、」

 川岸までたどり着くも、もう進めなくなった灼君が私の名前を呼ぶ。

「琴里……っ」

 暗闇の中、徐々に小さくなっていく赤い二つの光が滲むように見えた。

「迎えに、行く……必ず、むかえにいく、から……っ」

 振り絞った声が聞こえたと思ったのは、幻か。わからないまま故郷は、全ては闇に飲まれた。


*  *  *


 暗い自室の中、私は制服を着たままベッドの上で膝を抱えていた。時刻は午前零時になろうかというところ。

 私は待っていた。

 吸血鬼を――灼君を。

 朝目が覚めたばかりの時は襲われた恐怖ばかりで何も考えられなかったが、ウジャクと話し、心の奥に仕舞い込んでいた過去を振り返ってみて、少しは冷静になれたように思う。

 確かに二度も彼に組み敷かれ吸血されたことは恐ろしい記憶だ。だがその一方で昨晩意識を失う直前に耳に残った「ごめん」という言葉。そして故郷から攫われたあの日、最後に聞いた「迎えに行くから」という叫びのことがある。

 まずは知りたいのだ。恐ろしい吸血鬼である彼が、なぜそんなまるで私を救うみたいなことを言ったのか。そして、学園で吸血を繰り返すことには何か理由があったのだと思いたい。できるなら、彼を信じたいのだ。

 あえて昨晩と同じように開け放した窓から、部屋の中に一陣の風が吹き込みカーテンを、私の髪を揺らす。その風の強さに私は思わず目をつむった。そして再び目を開けた時、夜闇よりもなお暗い、黒い影が入り込んでいた。

 記憶と同じ爛々と輝く赤い両目に、覚悟していたというのに私は体が竦んでしまった。聞きたいことが、聞かなければならないことがたくさんあるのに声が出ない。  

 窓辺に佇むそれはゆっくりベッドの上の私に近づいてくる。私はまるで今から猛獣に喉笛を食いちぎられようとする獲物のように、瞬きもできず目を見開いたまま固まっていた。

 化け物はついにベッドに辿り着き、乗り上げ、右手で私の背中を掬うように引き寄せ、首元でカッと口を開いた。その固く生温い牙が皮膚に触れた瞬間、ようやく私は声を取り戻した。


「嫌……っ!」


 自分でも驚くくらい怯え切った声に、彼はぴたりと動きを止めた。私はこれまで張り詰めていたものが切れたように、体が激しく震え、涙が次から次へと溢れて止まらなかった。ついには吸血鬼そっちのけで両手で顔を覆い、嗚咽まで漏らしてしまう。

 すると「あ……」と目を覚ましたような、呆けた声が聞こえた。そして首元に接近していた頭が少しだけ離れた気配がした。

「ごめん、琴里」

と言って、髪を撫で、背中をさすられる。その手があまりに一生懸命だったので、不思議に思って私は顔を上げた。見下ろしてくる彼は心配そうな、申し訳なさそうな顔をしていた。

「ごめん、本当はこんなことするつもりじゃなかったんだ。君を目にすると、つい本能が勝ってしまう」

 灼君が重ねて謝ってくる。私はどうにか体の震えを抑え、努めて彼を厳しく睨み上げた。

「本能って何?人を襲っておいて、それが言い訳になると思っているの?」

「本当なんだ。昨日、手酷い攻撃を受けてしまって、回復のために必要だったんだ。君の許しも無く血を吸ってしまったことは、本心から悪かったと思っている。だから、怒らないで、琴里」

「……」

 灼君はこれまでの暴力的ともいえるような行動が嘘のように、必死で私の機嫌を取ろうとしているように見える。その様子に私は彼を信じて良いのかどうか判断に迷ってしまう。灼君は私のそんな躊躇を敏感に感じ取ったようで、「聞いて、琴里」と呼びかける。

「俺は君を迎えに来たんだ」

 その言葉の意味を悟る前に、

「え……きゃっ」

灼君は私を片腕で抱き上げ窓枠に脚を掛ける。私の部屋は二階なのだが窓の側にちょうど良い太さの木が植わっており、彼は難なくそれを伝って寮の屋根の上に到達した。

 この時間になると生徒達は皆眠りについているようで、学園はわずかな明かりを除いてすっかり闇に沈んでいる。ひどく静かな夜で、天河のせせらぎだけが遠く聞こえてくる。まるでこの世界に灼君と私しかいないみたいだ。

 灼君は屋根の上に胡坐をかいて座り、その上に私を載せて黒いマントで包むようにして支えてくれた。

「ほら」

 彼が指を差す。星の光を反射させながらゆったりと流れゆく天河。それを越えた向こうに黒い森に隠れるようにしてちらちらと火が焚かれているのが見えた。あの位置は間違いない。

「ギス族の村……」

 私の故郷。私の帰るべき場所。ここからでは小さな炎しか見えないけれど、私はあの明かりを取り巻く光景をありありと想像できる。きっと今頃一族の大人の男達が集まって焚き火を見つめながら、その日一日あったことを語り合っている。狩りの成果、周辺に住む他民族の動静、女子供達の様子。次第に話題は決して住み良くはない深い森の中での暮らしに対する不満へと移り、一刻も早く鵠王国に奪われた土地を取り戻せという話になる。その一連の話題の中で、鵠王国に攫われた私のことも上がることがあるかもしれない。いや、きっと上がっていることだろう。

 黙り込んで川向うを見つめ思いを馳せる私に、灼君が告げる。

「俺は、君をあそこに連れて帰るためにここに来たんだ」

 後ろから私を抱える灼君を振り返ると、彼はひどく優しく微笑んでいた。だが私はその彼に向かって仏頂面で低い声で

「信用できない」

と言っていた。

「そんなこと言って、私があなたを信用すると思っているの」

 予想外に彼が私に対し下手に出てきたので、私の方もついさっきまで怯えていたというのが嘘のような強気の発言をしてしまう。どうも私にとって都合のよいことを言っているようだが、実際のところ五年前とつい昨日の吸血、そして現在天河学園で起こっている騒ぎを鑑みれば、私は彼に対し厳しい態度を取るべきなのだ。そう簡単に彼の言うことを真に受けるわけにはいかない。

「そもそも、学園内の生徒達を次々に襲って血を吸っているようなヒトをどうやって信じろって言うのよ?」

 その言葉に灼君は目を丸くして、

「一体何のこと?」

と言った。

「とぼけないで。今、この学園で何人もの生徒が血を吸われ気を失った状態で見つかっている。こんなことをできるのは、もといする必要があるのは吸血鬼である灼君だけでしょう?」

 しらばっくれているのではないかと思い言い募る私に対し、灼君は眉根を寄せた。

「本当にわからないんだ。俺は確かに人々が言う<吸血鬼>という生き物だけれど、基本的には人間の血を吸わないようにしている……これでも人として生きているつもりだから。代わりに家畜などの血を吸っているんだ。俺が人間の血を吸ったのは後にも先にも、琴里、君だけだ」

「じゃあ、今学園で生徒を襲っているのは誰だっていうの?」

「少なくとも俺以外の誰かだよ」

 それ以外は答えようがないといった様子。私だって無闇に疑いたいわけじゃない。無理矢理私から吸血したことについてはまだ、怪我がひどくて治すために仕方がなかったからだと納得できる。つまり私一人が納得すれば済む問題だ。

 しかし学園の吸血事件についてはそうもいかない。何も知らない無防備な生徒達が数多く襲われている、学園そのものを脅かす大きな事件だ。そして今のところ犯人である可能性があるのは灼君しかいないのだ。

「俺が鵠王国に戻りこの学園に潜り込んだのは、君をここから救い出すためだけだ。他の人間の血を吸うことなんて関心がない。その暇があるなら、すぐにでも君をここから連れ出している。だからお願い、琴里。俺を信用して」

 私をまっすぐに見つめる赤い目。その濁りのない瞳に挑戦するように、私は言った。

「だったら信用させて。あなたがこの学園で起こっている一連の吸血事件の犯人ではないって証明するのよ。あなたが本物の<犯人>を私の目の前に差し出したら、その時はあなたを信じるわ」

 仮にも恐ろしい吸血鬼が何の力も無い小娘に「助けたいから信じてほしい」と頭を下げているにも関わらず、私は捨てきれない猜疑心から随分と不遜な態度を取った。頭の片隅では怒るのではないか、最悪また襲われるのではないかと考えて、身構えていた。

 だが灼君は、

「ん、わかった」

とこっくり、素直に頷いた。そしてふわりと笑って私を抱きしめ、

「うん。俺、琴里に信じてもらえるように頑張るよ」

などと言って頬ずりしてくるものだから、私は慌ててしまった。

「「信用できない」って言葉の意味、わかってる!?」

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