第1章「籠の中の鳥たち」

「迎えに行くよ」

と、記憶の中の少年は言った。

 ぼろぼろの小さな体から生えた黒い翼と両眼の赤い輝きは、私を恐怖させ、怒らせ、そして悲しませる。

 だけど彼のその最後の言葉は今も私の心の奥深くで燻っている。

 理由は簡単。結局のところ私は今も、その約束に縋っているからだ。


* * *


 昔の夢を見た。

 ベッドの上で重たい目を開ければ、ぼやけた天井。しばらくそのままぼんやりした後で、片手をサイドテーブルに伸ばし手探りする。ようやく探し当てた眼鏡を掛け、起き上がった。

 裸足のままよろよろと窓辺に向かいカーテンを開けると、部屋いっぱいに柔らかい朝の光がなだれこむ。ガラス戸を開けて見下ろせば、校舎を中心とする白の建物群を朝日に照り返る若葉が彩っている。髪を揺らす風は日を追うごとに夏の気配を強めていた。

 天河学園の良く晴れた五月の朝。客観的に見て素晴らしい一日になりそうな朝だ。

 だが、主観的には最悪だ。頭が痛い。吐き気がする。体がだるい。雲一つない青空に対して八つ当たりしたくなるくらいには調子が悪い。尤もこれは私が生まれた時からの通常運転なのだけど。

 私、綺羅琴里(きら ことり)は生まれた時から体が弱い。常に頭痛やらめまいやらに悩まされ、ひどい時はベッドから起き上がることもままならない。加えて重度の近視と乱視であり、眼鏡がなければ活動不能。運動なぞ危なくてさせてもらえない。その結果、当たり前のように私は屋内に、そして書の世界に引きこもり、まともに人と関わることのできないつまらない娘と成り果てた。

 だがそんな人間にも義務はあるわけで、その一つが天河学園をきちんと卒業することだった。だからどんなに体調が思わしくなくとも可能な限り授業には参加し、最低限必要な単位は取得しなければならない。自分で自分の体を観察するに、今日の調子なら少なくとも午前の授業は耐えきれるだろうという判断を下し、私はクロゼットを開けた。

 そこには紺地に紫の縁取りがされたブレザータイプのジャケットと、白の膝丈のフレアースカート。学園指定の女生徒用の制服だ。のろのろと身にまとい、最後に黒いレースのリボンをハーフアップで髪に結ぶ。鏡をおざなりに眺めていつも通りの自分を確認し、昨日のうちに中身を用意した鞄を手に部屋を出た。

 廊下を何歩か進んだところで、そういえば窓を開けっぱなしにしてきてしまったということに気が付いた。引き返そうかとしばし立ち止まるも、やっぱりいいやと思い直す。

 仮に雨が吹き込んだり侵入者がいたとしてもささいなことで、大勢には何の影響もない。そんなことで私の運命は変化のしようもない。今日もきっといつも通りに義務を果たすだけ。それだけのつまらない一日になることだろう。


* * *


 食堂で出された朝食をどうにか半分弱まで胃におさめたところであきらめ、授業を受けるため教室へと向かう生徒たちの波に混ざる。眠たげな喧騒の中、

「この学園にも陸東人が増えたものね。見てよ、あの黒い目と髪。まるで悪魔の子みたいじゃない?」

「まったく、醜いわよね。それなのに数だけは多いんだから。あんなのを養子に取るなんて信じられないわ」

「ほんと。そういう連中は鵠王国の貴族としての誇りを失ったのかしら」

などと女生徒たちがこちらに聞こえるように言って、くすくす笑った。

 この国に来てから千回以上は聞いた悪口で、彼女らにとっては挨拶代わりのようなものだろう。無視して講堂に入り朝礼の列に並ぶ。と、横からぽんと肩を叩かれた。

「おはよう、琴里。相変わらず地獄に片足突っ込んだような顔してるわね」

 朝からこんな失礼な挨拶をしてくる奴は一人しかいない。私は不機嫌を隠すこともせず、

「おはよう、光矢(こうや)。あなたは相変わらず意味もなく明るいわね」

と、同じ天河学園の制服を着た少女に冷たく返す。

 腰まで伸ばした金髪は癖っ毛で、あちこちに元気よく跳ねている。少し釣り目がちの青い目を大げさに瞬きさせて、彼女は鼻を鳴らした。

「もうっ。お姉様に向かってなんて口の利き方かしら」

「「お姉様」じゃなく、「お義姉様」だけどね。しかも同い年。私と光矢みたいな正反対の人間が万が一血がつながっているようだったら、それは間違いなく神様が寝ぼけて間違えて人間の運命の糸を絡ませちゃったんでしょうよ」

 私のにべもない返答に、光矢は「もう、かわいくなーい」とふくれた。

 綺羅 光矢(きら こうや)。五年前に私を引き取った鵠王国の貴族、綺羅家には姉と弟の二人きょうだいがおり、その姉の方が彼女だった。私とは同い年で学園でも同学年に在籍しているのだが、ほんの数か月あちらの方が生まれが早いという理由で彼女は自身を<姉>と認識している。私は彼女を「姉」と呼んだことなどないが。

 そもそも、彼女は陸西人で貴族、私は諸事情あってそこに引き取られた陸東人で外国人で平民だ。本来相容れることなど何もない。それなのに彼女はどういうわけか他の生徒達と同じように私を見下すのではなく、手のかかる「妹」として私に構った。それが慣れない私にはむずがゆくて、昔からどうしても素直に受け取れずにいる。

「ところで、今日はなんで臨時の朝礼があるか知ってる?」

 話題を変えるように私は尋ねた。陸東人である自分は周囲からは侮蔑の対象として見られており、友人が作りにくい。そのため情報源が少なく、どうしても学園内の出来事や問題については疎くなってしまうのだ。

「ああ。また、「吸血鬼」が現れたんだってさ」

「!……ついにその件について学園が正式に通達するわけね」

「うん。いたずらに生徒を不安にさせてもいけないってことで伏せられていたんだけど、昨日で被害者も十人目でしょ。生徒会が発表する前に生徒達にはとっくに噂は広まって、怯える子も出てきていたし。さすがに学園側も注意喚起も兼ねて生徒達に状況説明をすることにしたみたい。で、今日の臨時集会というわけね」

 全部イルカからの受け売りだけどねー、と笑う光矢。

「学園としてはあくまでも「悪質な人間が学園に潜み、伝説における吸血鬼を模したやり方で生徒を襲っている」っていう扱いにして、やっぱり公式に吸血鬼の存在を認めるわけではないようね。とはいえ生徒会はまだ犯人についてまったく手がかりを掴めていないし、役員の中にも本当に伝説の吸血鬼がいるんじゃないかって思い始めている人もいるらしいんだけど」

 ちなみに彼女自身は「あんなの、昔話に出てくる化物でしょ?」と、吸血鬼のことは信じていないらしい。私は努めて平静を装い「そう」とうなずく。

「十人もそんな奇妙な襲われ方をすれば、吸血鬼がいるかもって考える人も出てくるでしょうね。ところで昨日襲われたのって、誰?」

 何の気もない風に尋ねると、光矢は同じクラスの女生徒の名前を上げた。話したことはないが、金髪と白い肌の綺麗な、かわいらしい少女であったように思う。……体の不調とは別に喉の奥に重たい石でもつまったような息苦しさを覚え、私はうつむいた。

 不運なことに、私は吸血鬼というものが間違いなくこの世に存在することは知っていた。ただ、今回の犯人が本当にその吸血鬼であるのかはわからないが。

 壇上に皆が待ち構えていた生徒会長が現れ、生徒達のざわめきがおさまる。天河学園の現生徒会長にして鵠王国の王子、奏殿下。彼は一礼して、先程光矢から聞き出したのと凡そ同じ内容を全校生徒に発表した。

「……幸いこれまで死者は出ていませんが、これは大変非道な行いです。生徒会が全力を挙げて犯人を調査していますから、皆さんはいつも通り勉学に励み、学園生活を過ごしてください。しかしなるべく学園内を一人で出歩かないよう注意お願いします。また何か気になることがあれば、気軽に身近にいる生徒会役員に伝えてください」

 凛として、それでいて心に染み入るような穏やかな声に、私は床に落としていた視線を自然と上げて彼を見つめた。

 全校生徒の注目を一身に受け、それに動じることなく職務を全うする姿にため息をつく。黄金の髪が飾る美貌と、その唇が紡ぐ清らかな声。彼を初めて目にしたのは入学式の式辞の時だった。その時からずっと彼は完璧だった。賢く、美しい人。

 最後に彼は吸血鬼とは別件についてふれ、話を終えた。

「今日からいよいよ、七月七日の星祭に向けた準備期間に入ります。今年も皆さんがこの祝祭を素晴らしいものとしてくださるよう期待しています。ただ先程の話とも関連しますが、準備であまりに夜遅くなるようなことはなるべく避けるようにしてください。どうしてもという場合は、生徒会へ相談するように」


* * *


 朝礼の後、教室で始業を待つ間、席に座り片手をこめかみに当てて頭痛をこらえていると、

「おはようございます、琴里さん!」

 やたら明るく声を掛けられた。「あー、おはよ……」と流し気味に返事をしつつ声がした方を見れば、キョウ・ウジャクがこちらに伺いを立てるもことなく勝手に隣に座り、机に教科書を広げていた。

「ちょっと。他の席もあるのにどうして私の隣に座るの」

 彼は自分とは親しくもなんともない、昨日会ったばかりの転校生のはずである。だというのにこの図々しさは何なのか。呆れて睨みつけるが、ウジャクはどこ吹く風だ。

「いいじゃないですか。琴里さんも同じ講座を取ってたんですね。僕、これが天河学園で初めての授業なんですけど、琴里さんが一緒にいてくれるなら心強いです」

 などと言って、私の棘のある物言いに対して逆ににっこり微笑まれてしまう。陸東人ならではの童顔も相俟って、無邪気そうな笑顔だ。それで何となく毒気を抜かれ、好きにさせることにした。手元の教科書に目を落とす私に対し、ウジャクが話し続ける。

「今朝は突然朝礼があったんで、びっくりしました。イルカ先輩に聞いてなかったら、ゆっくり朝食を食べていて間に合わないところでしたよ。昨日も謁見したんですが、男の僕から見ても奏殿下は本当に美しい方ですね。朝礼で全校生徒にお言葉を述べていらっしゃるところも、堂々とされていて乱れることもない。まさに理想の王子様ですねぇ。心奪われる女性も多いのではないでしょうか」

 ……好きにさせることにしたは良いが、随分よく喋る。少し黙らせようかと顔を上げると、眉間にしわを寄せ一生懸命話題を探そうと喋り続けるウジャクの姿があった。どうも彼はお喋り好きというわけではなく、二人以上人間がいるなら何か話さなければならないという義務感で喋っているらしい。私の方が話す努力をしないがために、ウジャクだけが一生懸命私の気を引く話題を探そうと悪戦苦闘しているようなのだ。彼は彼なりに気を使っているのだろう。少し可哀想になって、私はウジャクに付き合ってやることにした。

「そうね。王子様の心を射止めようとする女生徒は少なくないわ」

「モテモテですねぇ。でもあんなに完璧だったらそりゃそうだろうって納得してしまって、嫉妬心もおこらないですよ」

「本人も優れた方だけど、何より未来の王だもの。王との婚姻ともなれば家にもたらされる利益も大きいでしょう。学園にいる三年間の間にどうにか奏殿下とお近づきになるよう親から言いつけられている娘もいるはずよ」

「うわぁ、やっぱりそういうのあるんですね。でも、確か奏殿下には既に婚約者がいるんじゃなかったでしたっけ?」

「何で外国人のあなたがそんな話を知っているの!?」

 ぎょっとして、私は思わず声を上げてしまった。それは国内にいる上位貴族の間でも少数にしか知られていないことのはずだ。そんな私の反応にウジャクも驚いたみたいだった。肩より少し上まで伸ばした黒髪をまとめる朱色の紐を落ち着かなげにいじりながら、私の顔色を窺うように、

「え?え、えっと、イルカ先輩から……」

と答える。

「……そう。あの人は学園に一年以上もいるから、どこかでそういう噂を聞いたこともあるかもしれないわね。でも、この件についてはあまり口に出さない方が良いわ。扱いの難しい問題なのよ」

「はぁ……」

 詳細はどうあれ、「婚約者がいる」というくらいの噂なら流れているかもしれない。その程度の噂なら、いくらでも起こりうるだろう。過敏になりすぎただろうか。

「あ、そうだ!朝礼と言えば!」

 二人の間に漂う微妙な空気をどうにか晴らそうと考えたらしいウジャクが「昨日から是非琴里さんに話そうとしてたんですけど……」と、別の話題を引っ張り出そうとする。だが彼が次に発した一言に、私は先程以上に動揺することになった。

「僕、昨日の晩、吸血鬼を見たんですよ!!」


* * *


「いつもの薬を出す。それを飲んで、今日はもう寮に帰って一日寝ておけ」

 白衣の男が聴診器を外しながら、私に命令した。

「はい……巳司(みつかさ)先生」

 ぐらぐらする頭を押さえつつ、私は従順に頷く。午前中はどうにか乗り切ったのだが、食欲がわかず昼食を抜き、五時間目の終わり頃には頭痛が最高潮に達した。体も重く、座っているのもつらくなったところで、授業を途中退出し嫌々この場所を訪れたのだ。

 ここは本校舎のすぐ側に建てられた医療棟だ。生徒達は「保健室」と呼んでいるが、実際は一般的な学校の保健室以上の医療設備を備えている。というのも、天河学園には約百人の貴族の子息令嬢が生活しており、彼らが必要とする時に最高の医療行為を受けられるようにしなければならないからだ。その際大河の中州という立地ゆえにいちいち近辺の町の病院に行くため船を出さなければならないというのでは、迅速な対応ができない。そこで学園の中に病院が一つ建てられた。

 学園が設備の整った医療施設を必要とする理由はもう一つある。天河学園は国境に立地しており万が一近隣諸国と戦争になろうものなら、ここは最前線の基地となる。戦時中には兵站病院としても機能する場所がここなのだ。そういうわけで医療棟は最新の医療設備と二十床の寝台を備えた上に衛生兵も常駐しており、国内の他の一般的な病院に比べても格段に高い水準の医療行為を受けることができる場所となっていた。

 その医療棟を取り仕切っているのが天河学園の養護教諭、巳司 瀬杖(みつかさ せじょう)だ。代々王家の侍医を務めている巳司家の長男である彼がこの学園にいるのは、二人の王子が学園に在籍しているためだろう。巳司は奏殿下と蛟殿下が生まれた時から、彼らを診察しているのだ。

 確か三十代後半であったはずだが、固そうな金髪には既に白髪が混じり始めていた。彼はレンズの厚い眼鏡を掛けており、その向こうの切れ長の目がひどく冷たい印象を与える……いや、これは主観が入りすぎている表現だ。見た目の問題でなく、私は昔からこの男が冷酷な人間だと知っているからだ。

 天河学園に入学するにあたって、病弱な私の主治医となったのがこの男だ。私は定期的に彼の診察を受けるほか、今回のように突発的にひどい体調不良に見舞われたときにも彼の治療を受けるよう言われていた。そのためこうして医療棟に設けられた処置室で椅子に座り向かい合っているわけである。

「いつも言っているが、不調だと自分でわかっているのに授業に出るのはやめろ」

 医療棟を訪れる度、私は自分が「道具」であることを自覚させられる。巳司は無機物であるかのように私に触れて不具合を見つけ、そこにオイルを差すかのように薬を寄越す。主治医と言えば聞こえは良いが、彼自身は自分のことを私の管理者であると明言している。

「お前には果たすべき役目がある。お前がそれを果たすまでお前を生かしておくことが俺の使命だ」

 倒れられては俺の仕事が増えるだけだ、と付け加えることからわかるように、彼が私の体の心配をしたことなど一度として無い。彼が心配しているのは、私のことを「管理せよ」という命令を果たせないことだけ。冷徹で、恐ろしくて、私はこの男が大嫌いだった。

「綺羅公はお前が学園に通うことで立場にふさわしい教養や所作を身に付けることを望ましいと考えているようだが、俺はそれも不要だと考えている。お前の役目はそんなものがなくともこなせるはずのことだ。わざわざ学園に通わせずとも、籠にでも閉じ込めて必要な時にだけ出せば余程管理しやすいものを」

 目の前でこれ見よがしにため息をつかれる。苦い薬を我慢して飲み干した私は、視線に促され一礼して医療棟を退出しようと巳司に背を向けた。だが「ああ、一つ大事なことを言い忘れていた」という彼の言葉に、まだ嫌味を言うつもりかと振り返った。

「夜になったら、決して寮の外には出るな」

 予想外の唐突な命令に目を瞬かせる。

「別にわざわざ出る理由もありませんが……なぜです?」

「今朝の朝礼で「吸血鬼」の件を聞いただろう。万が一お前がそれに襲われたら、面倒なことになる」

 ……なるほど。確かに以前もそれで面倒なことになった。その結果として現状の私があるのだから、彼の言うことも尤もだろう。


* * *


 寮に戻る前に、ベッドの上で読む本を借りるために旧図書館に寄ることにした。巳司に「まっすぐ寮に帰れ」と言われていたが、無視である。いくら調子が悪いとはいえ、何もせずベッドにいるのも退屈なのだ。まだ日が暮れる前だし、構うまい。

 両開きの重い扉を押して、私がこの世で最も落ち着ける場所に入る。鞄を置こうといつものサンルームに向かうと、

「あ、琴里さん!待ってましたよー」

当然のようにそこにはウジャクが座って本を読んでいた。

「何でいるの……」

 自分だけの楽園に土足で踏み入られたような気になり、仏頂面で私が聞くとウジャクはきょとんとした顔で一枚の紙を差し出した。受け取ると、「入部届」という表題と「キョウ・ウジャク」というサインが目に入る。

「昨日言ってたじゃないですか、僕、民族伝承研究部に入るって。だから入部届持ってきたんですよ」

 こいつは、と思ったが体調も優れないし朝の時点でもう反発するのも疲れていたので、諦めて書類を受け取ってソファの彼とは反対側の端に座る。ウジャクは満足そうに、側に積まれたクッションの一つを私に寄越してきた。まあいいだろう、私の方も聞きたいことがあったのだから。私は受け取ったクッションを背もたれになるよう置き場所を調節しながら、

「今朝言ってた吸血鬼って、一体どこで見たの?」

と訊ねた。朝からずっと気にはなっていた。だが授業中の私語は禁止だし、一時間目が長引いたため慌ててそれぞれ別の教室に移動し休み時間も話す暇がなかったのだ。

「上ですよ」

「上?」

「この旧図書館の屋根の所にいたんです。昨日琴里さんと話した後食堂に向かおうとしたんですが、その時に物音がしたような気がしたので振り返って……そしたら旧図書館の屋根の上から吸血鬼が月を背にしてこちらを見下ろしていたんです」

「ちょっと待って、それってあなたが吸血鬼を見ただけでなく、相手もあなたに気付いたってことよね。襲われなかったの?」

 私がぎょっとして尋ねると、ウジャクはあっさりと、

「いえ。吸血鬼は確かに僕のことを目に留めましたが、すぐに目をそらしてどこかへ行ってしまいました」

と答える。彼曰く、吸血鬼は旧図書館の入口側の屋根からウジャクを見下ろしていたが、ウジャクが自分を見ていることに気付くと屋根の向こう側の方へ歩いていき、姿が見えなくなったのだという。

 吸血鬼にとって夜一人で歩いている人間なんて格好の餌だろうに、血を吸わないなんておかしな話だ。ましてや生徒会の推測によると、今生徒達を襲っている犯人――彼らはあくまでも表面上はそれを吸血鬼だと認めていない――は学園内に潜んでいる。血を吸わずとも目撃者を生きて帰すなんて、ありうるだろうか。そう考えるとつい、ウジャクを不審の目で見てしまう。

「……それ、本当に吸血鬼だったの?」

 すると温厚な彼もさすがにむっとした表情を見せる。

「確かに血を吸っている決定的な姿を見たわけじゃありません。だけど、彼は鵠王国に伝わる吸血鬼伝承の姿そのままだったんです」

 やや語気を強めて、一冊の分厚い本をどんっと私の目の前に差し出す。それは昨日私が彼に見せてやった、鵠王国の民話をまとめたものだ。彼が開いたのは<攫われた娘>――私が数え切れないほど繰り返し読んだ物語だ。



 まだ建国後間もない頃。

 首都である北辰から少し離れた所に、小さな村があった。

 農業とささやかな手仕事で生計を立てる素朴で平和な村だったが、一つだけ村人たちの頭を悩ませていることがあった。

 それが吸血鬼だ。

 火のように赤い目と鴉のような黒い大きな翼を持ったその化け物は夜な夜な村を訪れ、村人を襲った。

 そいつはそれほど多くの量の血を必要としているわけではないのか、人一人を殺してしまうほど血を吸うことはなかった。

 襲われた人間は二、三日も寝込めば回復した。

 それでもその間は働き手が減る上に、吸血鬼を恐れるあまり村を去る者も出てきた。

 村人たちは頭を抱えた。

 だが、ある日思いがけないことが起こった。

 吸血鬼がある晩たまたま襲った若い村娘の血を、いたく気に入ってしまったのだ。それはもう今後一生その娘以外の血は飲む気も起こらないというほどに。

 そこで吸血鬼は自身の使い魔である小さな黒い鳥を村の長のもとに飛ばし、

「七月七日の夜に娘を迎えに行く。おとなしく彼女を差し出せば、今後は村の者を一人として襲わない」

と伝えた。

 村人たちは喜んでこの娘を吸血鬼に与えることにした。娘一人の命と引き換えに村全体が救われるのならば、迷うまでもなかったのだ。

 吸血鬼が取り決めた日は、折しも国を挙げての祭の日であった。

 村人たちは着飾り派手な仮面をかぶって首都の北辰へと行進し、王に捧げ物をするのだ。

 村の長は吸血鬼に遭うことの無いよう、例の娘一人を村に残し、全ての村民を連れて北辰へと向かうことにした。

 ところでその娘の両親は、わが子の不幸を嘆き、こっそり彼女を逃すことに決めた。

 仮面で娘の顔を隠して村人たちの行列に紛れ村を出させようとしたのだ。

 娘は両親の教えの通り村人たちの一団に何食わぬ顔で加わり、北辰に着くや否や市民の中に紛れ込んだ。

 そうして全ての村民が村を出た後に吸血鬼は村に降り立ったのだが、望んでいた娘がどこにもいない。

 村人たちが裏切って娘を連れ出したのだと考え怒り狂った彼は、村に火をつけた。


 燃え盛る村を背に、彼は娘を奪うべく村人たちを追った。

 夜の北辰の都はお祭り騒ぎ。色とりどりの提灯の明かり。たくさんの人が皆仮面を付けて、歌ったり踊ったりしている。

 そんな中で娘はやっと逃げ出せたと広場の片隅で座り込み、ほっと一息ついていた。

 こんなにたくさんの仮面の人々の中では、吸血鬼は決して自分を見つけることはできないだろう。

 しかし逃げだすことができたのは良いものの、両親と別れ村にも戻れないという状況に途方に暮れた。

 緊張も解けて人気のない路地裏で座り込んでいたところ、仮面を付けた一人の男が声を掛けてきた。

「もしもしお嬢さん、こんな所に座り込んでどうかしたのかい」

「少し疲れてしまって……」

 娘が男に事情を話すと、彼は優しくこう言った。

「安心なさい。私の所に来ると良い」

 そして仮面を上げた男の両眼は、暗闇の中でもはっきりとわかるほど赤々としていた。

 娘がはっと息を飲んだ次の瞬間に、吸血鬼は黒い翼を翻し娘を抱えて夜空に飛び立った。

 以来、娘の姿を見た者は誰もいない。

 あの村も吸血鬼の炎によって家も家畜も全て焼かれてしまい、村人は戻ることもできずそのままなくなってしまったそうだ。



「どうして吸血鬼は顔を見ることもできないたくさんの人の中から、目当ての娘を見つけることができたんでしょうね?」

「魔術の類じゃない?地域によっては吸血鬼を魔女と同一視する所もあるわけだし。吸血鬼が村に火をつける場面にしても、魔術だと思われるのよ。<攫われた娘>については他の本にも掲載されているのだけど、この本とは別の人間から聞き書きしたようで、ある本では「吸血鬼が口から火を吹いた」だとかまたある本では明確に「吸血鬼は呪文を唱えて炎を起こした」というふうに語られている」

「なるほど。では僕が見た「彼」も魔術を使うのであれば、吸血鬼と考える証拠の一つになりますね……あ、もう一つこの物語の吸血鬼との共通点を今思いつきました」

 次から次へと話したいこと、考えたいことが出てくる。昔から何度も読んで考察を重ねてきた話だが、二人で読むと別の視点が入って来て面白いものだなと思ってしまった。

 ウジャクは筋道立てて物事を考えられるし見識も広い。議論の相手としては文句の付けどころがないということを私は認めざるを得なかった。私はうなずいて、続きを促す。

「この話の吸血鬼は村人を何人も襲っていますが、誰一人殺された者はいません。僕が見た「彼」が学園の吸血事件の犯人という前提で考えますが、「彼」も既に十人の生徒を襲っていますが、死者は出ていない。これもこの国に伝わる吸血鬼と判断できる共通点だと思うのです」

「……確かに吸血鬼伝説は世界中にあるけど、多くはその被害に遭ったものは血をたっぷり吸われた結果として失血死している。鵠王国の吸血鬼は吸血行為自体は必要としても、摂取すべき血液の量はそれほど多くないのかしら」

「もしかしたら、案外優しいヒトなんじゃないですか。「攫われた娘」の話の中でも、娘を差し出せばこれ以上村は襲わない、って言っているくらいなんですし」

「優しい、ってあなたねぇ……」

 真面目な議論をしていたというのに、突如放り込まれたウジャクののほほんとした感想に呆れる。この手の天然っぷりを見せるあたり、おそらく彼は優しい両親に見守られて何不自由なく成長してきたのだろう。そんな偏見たっぷりなことを私が考えているとも露知らず、ウジャクはにこにこと会話を楽しんでいる。

「でもかわいそうなのは、この話の娘さんですよねぇ。どうにか逃げ出したのに結局吸血鬼に連れ去られてしまうなんて」

「どうかしら。娘はむしろ吸血鬼が攫ってくれて良かったんじゃないかと私は思うんだけれど」

 この村の人々は自分たちの幸せのためなら、平気で娘を一人化け物に差し出せる連中だ。例え娘が吸血鬼に目を付けられることがなかったとしても、何かあればきっと同じようにあっさり切り捨てられる。こんな村にいて彼女は果たして幸せになれただろうか。

「例え自分の血が目当ての恐ろしい化け物であっても、自分を必要と思って攫ってくれるなら娘は幸せだったんじゃないかしら」


* * *


 結局、あの後ウジャクと鵠王国の吸血鬼について議論がとどまるところを知らず、そのまま二人で食堂に行き夕食を取りながら話し続けた。食後の紅茶を啜り終えたところでやっと一段落つき、女子寮に戻って来たところである。既に日はとっぷりと暮れている。巳司に見つかれば、謹慎物だ。

 この時間になると寮母は既に自室に引っ込んでおり、談話室で噂話に密やかに笑い声を立てている女生徒が数人いるばかりで寮全体は静かなものだ。受付口の蝋燭立てに立てられた一本を拝借し、部屋へと向かう。明かりはこれ一つきりなので、消してしまわないよう注意してゆっくり廊下を進む。先程までウジャクと賑やかに、これまでにないほど喋り倒した後なので、普段よりこの暗さと静けさが恐ろしく感じてしまう。自分が床を踏み鳴らす音さえもが気になった。

 やっと二階の一番奥にある自室の前に辿り着いたとき、思わず深く息を吐いた。自分でも気づかない内に息を止めて歩いていたらしい。蝋燭を持った手とは別の手でドアノブを握ったとき、

「……?」

ドアの向こうで何か音がして、いる。

 がさがさ……ばさばさ……。小さな音が絶え間なく立てられている。

 なに?

 瞬きも忘れてその場に立ちすくんだ。冷たい汗が背中を流れる。ウジャクと散々語り合った例の吸血鬼の話が頭を過ぎる。だがいつまでもこうしているわけにはいかない。意を決して、鈍い冷たさを皮膚に伝えてくるドアノブを回す。

 ギィ……と、古めかしいドアを押して慎重に部屋を覗き込んで、やっと音の正体に気付いた。風が白いカーテンをまき上げては下ろし、机の上の本のページをめくり続けている……そういえば今朝、窓を開けたまま部屋を出てきてしまったんだった。

「なんだ、馬鹿みたい」

 私はほっとして肩の力を抜き、部屋の中に入った。その時、吹き込んだ風で蝋燭の火が消えたが、音の正体が分かった今はもう気にならなかった。後は着替えてベッドに入るだけなので、窓から入る月光で十分だろう。

 私が後ろ手にドアを閉めようとしたとき、背後でバタンと勝手にドアが閉まった。その音は寮の静かな暗闇の中でひどく大きく響き、私は自分でも有り得ないと思うほどに体をびくつかせた。何も考えずに後ろを振り返る。


「――――!!!!」


 赤い両眼。暗闇の中で蝋燭よりも赤々と燃える二つの灯を直視して、私は叫び声を上げようと――だが、できなかった。

「……っ!ぅぅ……っ!!」

 大きな手で口をふさがれ、そのまま床に転がされ、のしかかられる。暴れようとするのに、ぴくりとも動けない。

 吸血鬼は私の背中に馬乗りになって両ひざで私の両手を押さえつけている。左手で私の口をふさいで声を封じ、右手で私のタイを解き、襟を乱して、首元を露わにして――――――――…………


 背後からかぶりつかれて、私はそれきりなにもわからなくなった。

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