この河渡れ-ブラックスワンー

珈琲中毒

プロローグ 境界線上の吸血鬼

 僕は今、視界いっぱいに広がる大陸有数の大河を前にしている。天河(てんが)――いくつもの国と国とを互いが見えないほどに遠く区切る、大いなる流れ。人々の営みに寄り添い、幾千の年月を見守ってきた緩やかなる流れだ。僕は今日、この河を渡り、隣国へ向かうのである。

 その隣国である鵠王国(こうおうこく)の貴族たちには奇妙な慣習があった。彼らは十九歳になると職位を与えられ国政に参加することになるのだが、その直前の三年間を「天河学園」という場所で過ごす。それがどこにあるかというと、僕の目の前にあるこの大河の流れの真ん中。そこに中州、つまり河の中にできた島があり、その上に学園が建てられている。彼らは十六歳から十八歳の時期をここで過ごし、政治と、政治に携わる者としての誇りを学ぶのだという。


「ウジャク殿、そろそろ船の方へ……」


 「はい、すぐ戻ります」と、背後に傅いているであろう町の官吏に背を向けたまま答えた。そのまま川面をじっと見つめる。するとどこから来たものか、子供が作ったのであろう小さな笹舟がゆるりゆるりと流れてきた。それが突然吹いてきた風にあっけなくひっくり返ってしまうのを見て、僕はようやく背を向け船のもとへと歩き始めた。

 これから僕は生まれ育ったヒシュウ国を離れる。そして隣国の進んだ学問を学ぶ留学生、という立場で天河学園に入学するのだ。



 乗り込む予定の屋形船の側に戻ると、あと少しで全ての荷物を積み終えるというところだった。錦できらびやかに飾られた船の中へ、数人の男たちが上等な織物や我が国随一の陶芸家の手による壺といった貢物を運び入れていく。船にしろそこに載せる品にしろ、小国ながら国の面子を保つために豪勢に揃えられている。中にどういう品が入っているのか随分重そうな大きな黒檀の箱を船に載せようと男たちが二人がかりで四苦八苦しているところを僕がぼんやりと見ていると、作業を監督していた船頭の一人が「珍しいですか」と、声をかけてきた。

「?……はい」

 いまいち彼が何について「珍しいですか」と聞いているのがわからず、曖昧に頷く。と、その船頭は荷物を運んでいる男たちを指差した。

 彼の人差し指の向こうで濃い茶色の髪と目をし、色鮮やかな貫頭衣を着た屈強な男達が黙々と働いている。

「彼らはギス族という少数民族です。ケイロン山脈の奥に住んでいるのですが、たまに一族の男達がこのキトの町で力仕事をしたり市で品物を売りに下りてくるくらいですから、都にお住まいの方は見たことがないんじゃないんですか」

「ギス族……ああ!確かに名前は前から聞いていたのですが、実際に目にするのは初めてです。確か二百年程前に元々住んでいた土地を追われ、我が国に逃れてきた……しかし豊かな平野部には既に我が国の人工の九割を占めるヒシュウ族が定着しており、人の手が入っていない国境付近の山々に住まうことになったはず。彼らは僕らの一族とは宗教も慣習もかなり異なっていて、男達は戦ともなれば強靭な戦士として有名、女達の手織の織物はその美しさが都でも評判で……」

「お詳しいんですね」

 船頭が困ったような顔をしてやんわりと遮るものだから、僕は慌てて口を閉じた。彼にとってみれば仕事の合間のほんの雑談のつもりだったのに、予想外に僕がとめどないおしゃべりを返してきたものだから戸惑ったのだろう。悪い癖だ。自分の関心がある分野について話を振られると、相手の反応もお構いなしでついつい熱を込めて長々と話してしまう。こんな出発直前の皆が忙しなく動いている時にすることじゃない。現についに荷物が積み終わり、長兄が向こうで僕に別れの言葉をかけようと手招いていた。


* * *


 緩やかな流れの上、小さな屋形船が重たげに進んでいく。屋根の下は積み荷に占領されてしまい、人間様である僕の方が屋根の外に追い出されたりなどしていた。さらにはそれらを囲うようにして障子まで立てるほどの心遣い。というのも僕の荷物や何より鵠王国への献上物が結構なお値段のする代物なわけで、何かと物騒なことが多い国境地域においてあからさまに見える状態で運ぶわけにはいかないのだ。

 おかげで僕は船尾の所にまで追いやられ、そこに立って遠ざかる川岸を眺めていた。とぷんとぷん、と船頭が櫂を漕ぐ音だけが響いている。

「心配ですか?」

 隣で問いかけてきたのは父の、いや、今は長兄の小姓のソウで、一緒に船に乗り学園に着くまで付いてきてくれるという。過保護だなと思いつつも心強い。僕が幼い頃からうちに仕えていて年頃も近いので気心知れた仲なのだが、僕よりも不安げな顔をして僕のことを見るものだから困ってしまう。

「心配がないとは言わないけど。でも今回のことについてはみんなから期待されているし、僕も自分にはそれなりに自信は持っている……やれるだけのことはやるさ」

 安心させるように笑ってみせる。半分以上は自分に言い聞かせるためのものだけれど。

「お母君がキトまで見送りにいらっしゃることができて良かったですね。一時はそれすら不可能かと思われましたが」

「うん」

「お母君は何と?」

「それが父上と一言一句違わず同じことを言うんだ。『良いですね、ウジャク。我々キョウ家は長きにわたりヒシュウ国王家にお仕えしてきた一族です。その事実はどのような時流にあろうと、いかに離れた土地にいようと変わりはしません。常に王家のため、国のためになるよう励みなさい。誇りを持って行動するのです』ってね。父上が生き返ったか、母上にとり憑きでもしたかと思ったくらいだよ」

 僕の軽口にソウは少し笑ったがすぐに笑みを引っ込め、

「お母君もあの一件では随分気を落とされていたでしょう?その上、ウジャク様まで……家を離れることになりましたから。お辛いでしょうに、旦那様が生きていらしたらきっとされたようにウジャク様を激励されたのです。それでもやはり、本心ではお寂しいのですよ」

と、諭すように言う。

「みんな、みんな寂しがっています。もちろん僕も」

 隣を見ると、彼は僕の方ではなく何もない水面に目を落としていた。着物の裾に半ば隠れた手が、あんまり強く握りしめているものだから白くなっている。僕は何も見なかったふりをして、

「うん……そっか」

とだけ、曖昧な言葉を返した。

「ユリ様だって、可能ならばキトまで見送りに来たかったとおっしゃられていたでしょう?」

「さすがに彼女は都を離れるわけにはいかないだろう。仕方がない。でも、大丈夫だよ」

 無意識にうなじのところで髪を結えている朱色の組紐をいじる。

「きちんとお別れは済ませてきたから」

 先程出発したばかりの河港が、国境の町キトが見えなくなっていく。離れて行く故郷の姿を最後にしっかり目に焼き付けて背を向けた。感傷に浸るのはここまでだ。   

 僕は前に進まなきゃいけないんだから。


* * *


 その島は上から見下ろすと翼を広げた白鳥のようだというので、白鳥島と呼ばれていた。地上から見れば大河の上に突然森が現れたかのように、島全体に背の高い木々が生い茂っており、そのこんもりとした緑に隠れるようにひっそりと船着き場が設えてあった。

 国境地域であるだけに、少なからぬ数の兵士たちが警備にあたっている。ここは主に学園に物資を運び入れるための船が出入りしているらしい。僕が下船している時にも、一艘の船が積み荷を降ろし出て行こうとしていた。船頭たちの衣装を見る限り、ナント国の船だろう。学園は自国からだけではなく他国からも物資を仕入れているようだ。

「やっほー、君がキョウ・ウジャク君?待ってましたっ」

 出迎えてくれたのは学園の生徒だった。いかめしい顔をした国の官吏あるいは学園の教師に重々しく迎えられるかと思っていたのだが、予想外に軽い対応である。態度も、口調も。

 にこにこ笑い弾むように話す彼は明るい茶色の癖っ毛をした少年だった。高身長が多い鵠王国の貴族の中では小柄な方のようで、僕より頭一つ分くらい小さい。そのせいか年頃より子供っぽく見える。

「船旅お疲れ様!学園に案内するよ。荷物?ああ、後から兵士達に運ばせるから心配いらない。付いてきてね」

 言いたいことだけ言ってさっさと先に歩き始めてしまう。冷たいのではなくマイペースというか、やっぱり子供っぽいのだろう。こちらが付いてくるのを疑わず背を向け、スキップを踏むようにして進んでいく。

 僕は慌てて後を追って森の中へと続く細い道へ入ろうとするも、その直前で少しだけ振り返った。川岸に泊められた船の上から下りないまま、僕に向かってソウが深々と頭を下げていた。

「……行ってきます」

 言葉は口の中でもごもごと不明瞭な何かとなり、おそらく自分以外の誰にも聞き取ることはできなかったに違いない。結局のところ僕自身、口にしたくなかったそれだからだろう。


* * *


「まずは生徒会長に挨拶しなきゃいけないから、生徒会棟に連れて行くよ。それにしても外国の服ってのは変わってるね!裾が広いしぶかぶかしてるし、見たことのない紋様が入ってるや。制服は?まだもらってないんだっけ?じゃあ目立つけどその格好で挨拶に行って、その後で寮に連れて行くね。っと、名乗るのを忘れていた。僕は楽嶺(らくれい)。先に言っとくけど、学園じゃ基本的に名字は使わない。なんでも『国を支える時に、家名、身分に関わらず忌憚なく協力し合える絆を結ぶ場となる』とかいう、建学の理念によるんだとか」

 黒々とした森の中、人二人がかろうじてすれ違えるくらいの細長い道が続いていく。木々はみっしりと葉を生い茂らせ、まだ昼間だというのに薄暗い。この季節にしては肌寒くすらある。そんな空気をものともせず、楽嶺と名乗る少年は忙しなく移る子供の関心のごとくころころと話題を変え、楽しげに話し続けている。

「はあ、わかりました……」

 だがこっちはそうもいかない。さっきから体が震えっぱなしだ。というのも、道の両側に広がる森のあちらこちらから聞こえてくる吠え声のせいである。

「気になる?」

 前を歩いていた楽嶺さんがこちらを振り向いて訊ねてきた。僕の様子など気にも留めていないのかと思っていたが、意外にも周囲を観察しているらしい。

「はい。あれってやっぱり……」

「うん、オオカミだよ」

 あっさり答えられる。

「き、危険じゃないんですか!?」

「危険だよ。だから船着き場から学園の敷地まで兵に護衛させてるんじゃんか」

 なるほど、楽嶺さんと僕を間に挟んで前に二人後ろに二人の兵士が槍を片手に周囲に気を配りつつ、付いてきてくれている。楽嶺さんが続けて言う。

「鵠王国の人間が島に上陸する前から生息していたみたいで、国による大規模な駆除作戦は何回か行っているんだけど、なかなかいなくならないんだよね。奴らが魔を喰らう、なんて民間伝承もあるんだし、最近じゃ別にそう躍起になって駆逐することもないのではないかって話も出てるくらいなんだ。とはいえ優秀な兵士クン達のおかげで、学園創設以来オオカミ被害による死傷者はゼロだよー。それにほら、」

 突如目の前に現れたのは石積みの一枚壁だった。上へは見上げるほど高く、オオカミどころか人さえも乗り越えることはできないだろう。幅も分厚く、生半可な武器を使おうと傷をつけることさえできるまい。そこにこぢんまりと裏門が設けられており、槍を持った衛兵が守っている。城壁の上にも多数の衛兵が立ち、周囲の森、そして国境地域に監視の目を向けていた。

「この守りだから、少なくとも城壁の中にいる生徒の安全は保証するよ……というわけで」

 彼は白い歯を見せて笑い、両手を広げる。

「ようこそ、天河学園へ」


* * *


 門をくぐるとここまでの道のりが嘘のように景色が開け、惜しみなく降り注ぐ日光を浴びる白い建物群が眼前に現れた。

 敷地の中央に陣取る最も大きな建物は校舎というより、「城」だった。上空から見ればロの字型をした校舎は円蓋を戴く正面玄関を中心に、円柱と半円アーチのガラス窓が連なり五月の日差しを受けてきらきらと輝いている。

 それを講堂や図書館、体育館などの教育施設だけでなく、女子寮、男子寮、食堂や大浴場など生活のために必要な施設が、城下町のように取り囲んでいる。その一つ一つが美しくも個性を持った建築物となっていた。

 僕の国では多くの建物が木造であるのに対し、鵠王国は石造建築が主流だ。自分の国の文化に誇りはあるけれども、自国の建物にはない壮麗な装飾と重厚な雰囲気に圧倒されてしまう。

 ここに来て僕はようやく外国に来たんだということを実感した。

 正門側に広がる庭園はもとより学園のあちらこちらに美しい花や珍しい草木が植えられ、白い町に彩りを添えている。そして町の住人――つまりは学園の生徒たちがベンチで雑談したり、部活動に参加したりと思い思いに穏やかな午後を過ごしていた。

 僕は楽嶺さんの後ろについてそれらを興味深く観察しながら歩いていたのだが、ふと、あるものが目に留まった。

 校舎の出入り口の一つから出てきた兵士二人が担架を担ぎ小走りに去っていく。ちらりとしか見えなかったが、担架の上からこぼれた長い髪の一房を見る限り、おそらく女生徒だろう。投げ出された手足は、彼らがもともと色の白い人種であることをふまえても白すぎるほどだった。

「あれは……」

「ああ」

 楽嶺さんは僕の視線の先をほんのわずかな間だけ見やったが、

「気にしなくていいよ。すぐにわかる」

とだけ言って、歩き続けた。彼がたまたまこの問題に関心がないのか、それともこの学園において関心を抱くほど珍しい事象でもないのか。どちらにしろ初めてこの国を訪れた僕にとっては、平和であるべき学園生活にそぐわぬ不吉な印象を受ける光景であった。


* * *


 さて、この学園の生徒会は生徒会室ではなく「生徒会棟」という所を活動拠点としている。校舎が「城」であるならば、こちらは貴族か裕福な商人の「邸宅」だ。二階建てと小づくりながら凝った装飾がめぐらされており、校舎を中心とした建物群に調和しつつも他の追随を許さない華やかさがある。

 校舎の中の一室ではなく屋敷を丸々一つ与えられるあたりに、この学園における生徒会の地位が推し量ることができるだろう。さらに僕が入学するにあたって最初に学園長などではなく生徒会長のもとに挨拶に向かうというのも、生徒会がこの学園の頂点だということを証拠づけている。

 生徒会がこれだけの権力を持つのにはもちろん理由がある。

 一つにそもそも学園内において、生徒は教師より地位が高いことがある。先に言ったように学園の生徒は主に鵠王国の貴族の子息令嬢だ。将来国を背負って立つ、特権階級の集まりなのだ。対する教師陣はというと平民、貴族がいたとしても貧乏貴族で土地も資産も持たない次男や三男というのがほとんど。言ってしまえば生徒たちにとってこの学園の教師というのは、学問を教えることを職分とする召使いに他ならない。

 もう一つに貴族の学校というだけあって、この学園の生徒会活動は将来的に執り行う政治の予行演習としての側面もあるということ。一般的な学園の生徒会以上の権力を持ってこそ、真剣味も帯びるというものだ。学園内での決定が将来的に当時の生徒会役員によって国政に反映されるなんてことも少なくないらしい。

 そして最後に一つ、一時的な、けれど何よりも大きい要因がある。それが、生徒会棟の両開きの扉を開けたその向こうにいた、


「初めまして。キョウ・ウジャク君」


涼やかな、誰の耳にも自然と届くような声をした金髪碧眼の美しい少年。

 そこは磨き抜かれた大理石の床と建国史の一幕を描いた天井画の美しい玄関ホールとなっている。ちょっとした儀式にも使えるようなこの舞台の上、待ち構える生徒会役員たちの中で誰よりも目を引くのが彼だった。

「僕が生徒会長の奏です」

 見る者を皆味方にしてしまうような、柔らかく魅力的な笑み。髪には一本一本が光の守護を受けているのではと思わせるほど繊細な輝きがあり、瞳は一等星、肌は白雪に薔薇の花弁の朱色が走る。要約するならば、完璧な美貌。一目見てわかった。

「奏(かなで)、殿下――……!!」

 それまで圧倒されて固まっていたが、名乗られて慌ててひざまずき深くお辞儀をする。

 奏殿下。鵠王国の現国王の二人の息子のうちの一人。鵠王国の王子その人である。未来の王が生徒会長なのだ。これで生徒会の地位が低いわけがない。

「お初にお目にかかります、キョウ・ウジャクと申します……っ」

 玄関ホールで左右の壁に静かに立ち並ぶ生徒会役員たちの目が一斉に僕に集中している。その中で楽嶺さんの「連れてきたよ、奏ちゃーん」という声だけが空々しく響いた。自国でさえこれまでこんなに注目を浴びることがなかっただけに、こんな場に臨むというだけで尻込みしそうになってしまう。

 ひっそり呼吸を整え、弱気になりそうな自分を振り払う。僕の目的というのはまだこの先にあるものなんだから、この程度であたふたしているようではいけない。

「この度は入学を許可していただき、誠にありがとうございます」

「うん。こちらこそ来てくれてありがとう。他国からの学生はいつも僕らに新しい視点を与えてくれる。君もその一人であってくれるよう願っているよ」

 奏殿下が僕の挨拶に鷹揚に頷き、手を差し出してくる。握手した手は大理石像のように白く綺麗だ。

「ご期待に沿えるよう努めさせていただきます。しかしながら、ヒシュウ国は未だ小国。我々が鵠王国の方々のお役に立てることより、我々が鵠王国の方々から学ぶことの方が多くございます。留学を許されたことがいかに幸運であったかを心に留め、精一杯学問に取り組ませていただきたいと思います」

 留学前から練っていた口上を間違えないよう一言一言気を付けながら述べる。これは未来の王との面会なわけで、失敗は許されない。僕はただの留学生というだけでなくヒシュウ国の威信をかけて、この場に臨んでいるのだ。僕は僕自身の立ち振る舞いによって、我が国がいかに優れた国であるかを示していかなければならない。そうすることで鵠王国に我が国が小さくとも友好関係を結ぶに足る存在であると納得させなければならないのだ。

 とりあえずここまでは問題ないかとそっと様子をうかがう僕に対し、

「そうするといい。その前に一つ」

奏殿下は何か提案するように人差し指をぴんと立てる。

「?」

「殿下、って呼び方はやめてくれないかな。僕は学園においてはまだただの一生徒に過ぎないんだ。そんなに固くならないで。先輩の一人として頼ってくれると嬉しい」

 苦笑しつつそんなことを言ってくれたので、国の代表として隣国の王子と面会しているという僕の気負いと緊張が相手にあからさまに伝わっていたことに気付く。その恥ずかしさだとか仮にも王子様に気を使わせた申し訳なさやら不甲斐無さやらで、僕は顔にカーッと血が上ってしまった。あんまりに恐縮し次の言葉につまってしまった僕に、

「そうそう。そんなしゃちほこばった態度を取る必要はねーよ」

と、まったく別方向から声がかかった。

 それは奏殿下によく似た顔の少年だった。彼は腕を組んで壁に寄りかかり、つまらなさそうな顔で僕らの形式ばった挨拶を見ていた。奏殿下と似ている、ということでぴんと来る。彼はおそらく。

「副会長の蛟(みずち)だ。どーぞヨロシク」

 鵠王国の国王の二人の息子のうちのもう一人、つまりはもう一人の王子。奏殿下の双子の兄、蛟殿下である。

「この学園には鵠王国の進んだ文化や技術を求めて、たくさんの周辺国からの留学生が集まってきているんだ。俺たちにしてみればお前もその一人に過ぎない。だからお前が良いことを言おうが、失敗をしようが大して印象にも残らねえよ」

 蛟殿下はけだるげな口調で、ここまでの僕の頑張りを一刀両断した。真実であろうとわかってはいるが、酷い侮辱だ。僕もさすがにむっとする。

「兄さん!なんてことを……」

 先ほどまで穏やかに笑っていた奏殿下もこれには眉を顰め抗議したが、彼の兄はどこ吹く風だ。

「だってお前らがあんな中身のない挨拶を延々と続けるからさ。時間の無駄じゃないか。そんなことより、ウジャク君ご自慢のヒシュウ国の土産を見せてもらおうぜ」

 悠々と僕ら二人の横を通り過ぎ、背後の荷物の山に歩み寄る蛟様。そこには船に載せてきたヒシュウ国の献上物が兵士たちによって運び入れ積み上げられていた。

「は、はい。この度殿下に拝謁を賜りましたお礼といたしまして、わずかではありますが我が国からの贈り物でございます。どれもヒシュウ国の一級品ばかりなのですが、殿下のお気に召しますか……」

 受け取る側だというのに自ら献上品のことを言い出す蛟様に随分侮られたものだと感じつつも、促されるように挨拶を切り上げその話に移ることにした。実のところ次に何を話せばよいか悩んでいた身としては、話題ができてほっとしたのはこの際見ないふりである。

「へえ、どれも凝ったものばかりだな。奏、この反物とか次の式典の礼服に仕立てたらどうだ?優男のお前がいい具合に威厳を示せる衣装になりそうじゃないか?」

 あの品この品と手触りを確かめたり図柄を鑑賞している蛟様を「兄さん……」と奏殿下が窘める。そして僕の方に向き直って、ごめんねと兄の非礼を詫びつつ、

「ヒシュウ国の民は勤勉なことで有名だ。きっと良い品ばかりだろうね。後でじっくり見せてもらうよ」

と言ってくれた。蛟様は奏殿下が自分の話に乗る気がない様子を見て取って、しぶしぶといった体で僕らの側に寄って来た。

「本当お堅いな、お前は」

「だって兄さん、人の話も聞かずに贈り物を物色するなんて失礼だよ」

「実のない話を延々と続けるのは嫌いなんだ。それならヒシュウ国の国力が読み取れるような献上品の話をする方が実際的だろ」

 軽い口論を始める二人。双子とはいえ、どうにも意見が合わないらしい。鵠王国の二人の王子の仲がよろしくないという噂は本当だったか、と心の中でこっそりメモを取る。尤もどこの国でも王位を争う者同士というのはそんなものかもしれないが。

 僕が目の前にいるということをいち早く思い出したらしい奏殿下が取り繕うように、

「そういえば提出してくれた資料を読んだけれど、ウジャク君は読書家で研究者の卵らしいね。この学園は生徒のあらゆる希望を反映して、大陸にある学園の中でも屈指の講座の数と蔵書の数があるんだ。きっと君はここで満足のいく研究ができるはずだ。君は何に興味があるの?」

と訊ねてきた。ありがたく思う。その質問は僕にとって何より答えやすい質問だ。

「民間伝承です」

 自然と笑みがこぼれるのが自分でもわかった。本当は求められているであろう政治学だとか外交術だとかいった実際的な学問よりも、さまざまな国や民族が語る話を聞いたり読んだりすること、そしてそれについて思索を深めることが好きなのだ。

「中でも「吸血鬼」に一番関心があります!」

 胸を張って答える。可能ならば留学中の一年間でこのテーマに関して論文を一本書き上げようという腹積もりもあるのだ。

 だがそれに対する奏殿下、そしてその場にいた生徒会役員達の反応は不審なものだった。

 奏殿下は一瞬真顔になって、どう返答したものか悩んでいるようであった。他の生徒達も口に手を当てたり、隣同士でちらちら視線を交わし合ったりなどしている。何か間違ったことを言ったかと僕が不安になり始めたとき、答えをくれたのは蛟様だった。

「ははは、吸血鬼か!なるほどね。うん、それはお前、この学園に来て良かったよ」

 高い天井に蛟様の笑い声が響いている。おかしくてたまらないといったふうだ。 そして笑みを浮かべたままの顔を僕のもとに寄せ、ささやくようにこう言った。

「この学園には、今まさにその「吸血鬼」って奴が出没しているんだ。そいつが夜な夜な学園の生徒を襲って血を啜っている。運が良ければお前だって実物に会えるかもしれないぜ?」

 フラッシュバックしたのは、ここに来るまでに見た光景だ。担架に乗せられた少女の白い肌。乱れた髪から透けて見えた首筋には、何かに噛み付かれたような赤い跡がありはしなかったか――

「兄さん、いい加減にしなよ!」

 今度こそ奏殿下が明確に非難めいた声を上げた。蛟様は「はいはい」と言って、僕からひょいと離れた。ここらへんが潮時と考えたのか、

「じゃあな、ウジャク君。楽しい学園生活を送れるよう祈っているよ」

と、僕に軽く手を振り生徒会棟から出て行った。

 帰り際に彼は他の生徒と同じように壁際に控えていた少女に「行くぞ、流火(りゅうか)」と呼びかける。呼ばれた少女は無言でうなずき、かんざしでまとめた燃えるように赤い髪をゆらして彼の背中に従った。

「本当仕方がないな、兄さんは。初日から悪いね、ウジャク君。嫌な思いをしたんじゃないかい?」

 扉が閉まりきって兄の姿が見えなくなったところで、奏殿下があらたまって謝ってきた。

「奏ちゃんが謝ることじゃないよ、ねぇ?あの人はみんなに愛されている奏ちゃんに嫉妬しているんだ。自分の出来が悪いのを棚に上げて、奏ちゃんにあたっているんだよ」

 僕が答える前に、それまで黙っていた楽嶺さんが口を挟む。他の生徒たちもあらかた彼と同意見らしい。さすが兄を差し置いて次期王の最有力候補と言われるだけはある。学園の多くの人間は奏殿下を支持し、彼の味方であるようだ。

 だが兄弟争いよりも今のところ気になるのは、先程の話題だ。

「ええと、僕は気にしていません。それよりも蛟様がおっしゃっていた「吸血鬼」と言うのは……?」

 訊ねると、奏殿下は困ったような顔をした。できれば忘れていてほしかったようだ。

「まあ、隠していても学園にいればそのうち耳に入るか。今学期に入ってから、何者かに襲われて倒れる生徒が数名出ていてね。その全員が大きな外傷は無いんだけど、首の所に何かに噛まれたような痕が残されていて、死なない程度とはいえ血がごっそり抜かれているんだ」

「そ、それはまさに……」

 ごくりと唾を飲み込む僕に対し、楽嶺さんは、

「そ、「吸血鬼」だね。実際、生徒達にはそう呼ばれて噂されてるみたいだ。なんだかんだ言っても閉じた狭い学園だから、みんな噂好きだし広まるのもあっという間」

言いながら、「お手上げ」とばかりに両手を上げてみせた。

「でも怖がる必要ないよ。島に常駐する兵士達の見回りは強化させているし、生徒会も対応策を検討中だ。君も含め学園の生徒の安全は僕らが責任を持って守るよ」

 奏殿下が力を込めて言い切る。それでこの話は終わり、とばかりに、

「いろいろあって疲れたんじゃないかな?そろそろ自分の部屋へ行って休むといい。寮まで案内させるよ。イルカ、よろしく」

と言って、僕に退出を促した。

 最後に深くお辞儀をしてから生徒会棟を出る。一緒に出たイルカと呼ばれた少年が、

「お疲れ、ウジャク。緊張した?」

と問いかけてきた。

「イルカ先輩……っ、疲れました……もう、めちゃくちゃ緊張しました……!」

 息を大きく吐きつつ素直に答えると、彼は僕の頭をよしよしとしてくれた。

 そう、この親しげな対応からもわかるように彼とは旧知の仲である。僕と同じ黒髪を耳が隠れる程に伸ばし、大人びた印象を与える理知的な黒い目をしている彼は、ヒシュウ国と友好関係にあるナント国の一貴族の息子だ。僕の父と彼の父は国は違うものの親しい友人同士であり、幼い頃から僕はよく父に連れられて彼の所領を訪れたし、彼も僕の家を訪れた。一つ年上の彼は僕にとっては面倒見の良い兄のような存在で、随分と懐いていたものだ。僕の実の兄達と違い、学問に強い興味を抱いていたという共通点もその理由の一つであるだろう。彼は一年前から鵠王国に渡りこの学園で学んでおり、後を追うかたちで僕も入学した。

「留学生の先輩としてイルカ先輩がいてくれて、本当に心強いです」

 先導のためイルカ先輩が一歩先に進んでいるが、ほとんど二人並ぶかたちでゆっくり歩きながら寮に向かう。

「自分で言うのもなんだけど、俺もいて良かったと思うよ。この一年間苦労した分、かわいい後輩にこれから気を付けるべきことを教えてあげられるからね」

「気を付けること……?」

 うなずき、いくぶん声を潜めるイルカ先輩。

「知ってのとおり、鵠王国は国力において周辺国から抜きんでている。だからこの国の貴族……生徒達は留学生の僕らを少なからず見下している部分がある。ひどい奴には見えない所でイジメみたいなことをするのもいるんだ。ウジャクは俺以上に本の虫で交際下手なところがあるから気を付けた方がいい」

「なんとなく予想はしていましたが、やっぱりそういうのあるんですね……」

「うん。上履き隠しから校舎裏での私闘まで一通り体験したよー」

 ま、そんなあれこれを乗り越えたから今があるんだけどね、とあっけらかんと話すイルカ先輩は、今年から天河学園の生徒会役員に就任した。これは留学生としては初、そして陸東人(りくとうじん)の生徒としても初の快挙であるらしい。ひょろっとしておとなしい印象を与える外見をしているのだが、意外と根性のある人なのだ。

「すごいですね、イルカ先輩は。僕だったらそんな目に遭ったら、いくら学問がやりたくてもヒシュウ国に逃げ帰っちゃうかも。イルカ先輩がそんな苦労してまでこの学園にいる理由って、何ですか?やっぱり少しでも多くの知識を故国に持ち帰るためですか?」

「まあ、留学の目的として対外的にはそう言っているけど。でも俺はウジャクほど国のために尽くそうっていう意識は強くないんだよね」

 その答えは正直意外だった。国の官僚であるお互いの両親の影響もあり、子供の頃から少なからず自国の将来について語り合うことは多かった。だからイルカ先輩も僕と同じように、何らかのかたちで国の役に立つためという意識で留学したのだと思っていたのだ。

「じゃあ、どうして」

「そうだねぇ」

 どう答えたものかとしばらく悩む様子を見せた後、イルカ先輩は、

「強いて言うなら、愛のためかな」

と、不思議なことを言った。

「は……?」

 それ以上は聞き出せなかった。彼は少年が秘密の作戦を話すような無邪気さと、大人が夜九時になって居間から子供を寝室へ追いやる時に見せるような秘密めいた態度がないまぜになった笑みを浮かべるばかりだったからだ。


*  *  *


 学園を取り囲む城壁の外、深い森の中でわずかにできた開けた空間の真ん中に黒檀の箱がぽつんと置かれていた。それはウジャクがヒシュウ国から持参した宝物の中の一つだ。少し離れた所に蛟は立ち、見定めるような視線をその箱に送っている。

「無理なオネガイをして悪かったな」

 振り返りもせず、背後にいる二人の兵士に労いの言葉をかける。側に控えていた流火――赤い髪の少女が「これはお礼です」と言って金貨の入った布袋を差し出した。手間賃兼口止め料だ。彼らはそれを受け取るやいなや、ばつの悪そうな顔でそそくさと去っていった。

 彼らは蛟の依頼を受け、ヒシュウ国からの船に積まれていた貢物の中から黒檀の箱だけをくすねてここに持ってきた。金に釣られて、皆が愛し尊敬する「未来の王」に対して悪逆を働いたのだ。さぞかし罪悪感に駆られていることだろう。

「寄って来たな、狼達が。忌むべき者の匂いを嗅ぎつけたか」

 蛟が笑う。木陰が作り出す周囲の闇に何対もの爛々とした目が輝いている。押し殺したうなり声と焦れたように地面を踏み鳴らす音。今この空地は島中にいる狼達に囲まれつつあった。

「手早く済ませるぞ、流火」

 呼ばれた彼女がうなずく。切れ長の目には何の表情も浮かんでいない。流火は淡々と懐から短剣を四本取り出すと、その棺じみた黒い箱に一気に全て投擲した。

 全ての剣が箱に吸い込まれるように深々と突き刺さると辺りに血の匂いが立ち込め、一拍置いて、


「――――――――――――!!」


 黒い箱が絶叫した。

 木がみしみしと割れる音がして、何者かが飛び出す。

 それは人型をした闇だった。全身を黒で覆い、その中で両目だけが凶星のごとく赤々と燃えている。まるで幽鬼のようなそれは身を翻し、一目散に森へと逃げ込んだ。

 その後を狼達が追う。それは箱ごと肩を短剣で貫かれたまま、追いすがる狼に足にかぶりつかれたまま立ち去っていく。

 流火もまた新しく短剣を取り出し後を追おうとするが、

「待て」

蛟の短い制止にぴたりと動きを止めた。

「……よろしいのですか」

「ああ、ここで殺すのが目的じゃない。あいつにはこれからやってもらわなきゃいけないことがあるんだ」

 蛟が口元を歪める。

 空地には壊れた箱だけが残っている。黒い残骸。悪鬼が生まれた卵の殻。ぽつんぽつんと森の奥へと続く赤い血の跡だけが、かろうじてあれが同じ地上に生きる生き物だという証明だった。


*  *  *


 寮は男子の棟と女子の棟に分かれていて、双子のように並んで建っている。僕の部屋は玄関から入って一階の一番奥の部屋だった。一人用のこぢんまりとしたスペースに、ベッドと机と椅子が備え付けられている。船着き場で船の上に残してきた僕の荷物は既に部屋の隅に運び入れられており、ベッドの上には綺麗に畳まれた新品の制服が用意されていた。

 荷物をほどきあらかた片付けを終えた後で、制服に着替えてみた。天河学園の制服は紫色の縁取りがされた紺地の上着と灰色のズボンを合せたブレザータイプである。中に着たカッターシャツに赤いネクタイを結び、それを鵠王国の国章である翼を広げた白鳥が彫り込まれた真鍮製のピンで留める。

 鏡の前でどこもおかしなところはないか確認した後で、寮を出た。外は既に夕方で、オレンジ色の光が大気に満ちている。夕食の時に食堂の使い方を教えてくれるというイルカ先輩との約束が七時なので、それまで学園内を探検することにした。

 迷わず向かったのが最初から目を付けていた場所、旧図書館だ。それは裏門のすぐ側――学園の敷地の中ではどちらかといえば外れた所にあった。二階建ての立派な建物だが、他の建物に比べあまり手入れをされていない印象を受ける。白い外壁は薄汚れ、色あせていた。草木もその周辺については生えるがままにされているようだ。途中、放課後を謳歌する生徒達と何人もすれ違ったが、ここに着いた途端人っ子一人見えなくなった。

「もしかして誰も利用してないのかな……」

 重たい両開きの扉を押し開けると、ぎしぎしと音が鳴った。夕陽の日差しが眩しい外に比べ、館内は薄暗い。目が慣れてくるとその光景に感動のため息が漏れた。

 天井まで届く本棚が幾重にも並び、迷宮のよう。その一段一段に上から下まで本がぎっしりと詰め込まれている。独特の静けさと払いきれない埃、そして古い本の匂い。間違いない。一目見てわかった。これは僕の好きな場所だ。

 誘われるようにふらふらと足を踏み入れたところに、


「誰?」


声がして、我に返った。

 おそらく先客であろう声の主を探し、本の迷宮を彷徨う。すると薄暗い館内の中で唯一明るい場所を見つけた。壁の一部が台形に張り出したそこはサンルームとなっており、モザイクタイルの床の上に大きな円卓とそれを囲むように革張りのソファが置かれている。テーブルの上にはポットとティーカップ。そしてその辺の本棚から持ち出したのであろう何冊もの本。脇には観葉植物も置かれ、過ごしやすい空間ができあがっていた。まるで闇の中にぽっかり浮かんだ楽園。

 そこにいたのが彼女だった。

 突然の来訪者に驚きソファからわずかに腰を浮かし、こちらを向いたまま動きを止めている。背後の壁は全てガラス張りで、たっぶりと差し込む残光が彼女の濃い茶色の髪に柔らかく透けた。紺地の上着と白いフレアスカートという天河学園の女生徒の制服をまとった彼女は、僕を見て眼鏡の奥の大きな目を瞬かせた。

 息を飲む。

 今日という日の名残りの光の中、ぼんやりと浮かび上がる彼女はひどく神聖なもののように思われた。

 これがはじまり。今後の鵠王国の運命を握る少女にして、旧図書館の女王、そして我が部の部長。琴里(ことり)さんと僕の出会いだった。


* * *


 強引に琴里さんという名前を聞き出した僕は、勝手にソファの彼女が座っている反対側に腰を下ろして彼女を大いに呆れさせた。

「まあまあ、同じ陸東人のよしみじゃないですか。琴里さんも国外の人間でしょう?」

「陸東人であるのは確かだけど、私は鵠王国の人間よ」

 こちらを見ようとせずつんとすまして否定する琴里さん。肩まで伸ばし白いレースのリボンで結んだ艶やかな髪をかき上げる姿は、実に気位の高いお姫様然として見える。

 だが僕があきらめずに「ええと、商家の方だったり?」などと問い続けると、

「いいえ、貴族の養子。……まあ、確かにもとは国外の出身ではあるんだけど」

 途端にそれまでのとげとげしい態度はなりをひそめた。彼女はあっさりと僕の正解を認めてみせる。どうやらわざときつい物言いをして話を終わらせ僕をここから追い出そうとしていだが、中途半端な嘘をつくのも気が引けてしまったようだ。

 ちなみに陸東人とは言葉の通り大陸において山脈を挟んで東側に先住していた民族のことを示す。僕の出身のヒシュウ国やその他の鵠王国の周辺国も陸東人が建国した国だ。

 鵠王国については、もともと山脈の西側から移民してきた陸西人(りくせいじん)が中心となって建国された。そのためこの国における貴族とは建国の祖の末裔、つまり陸西人であり、侵略された原住民である陸東人は平民――それも大部分が貧民層だ。陸東人で貴族ばかりのこの学園に通っているというのは、陸東人の中でも商売で成功した裕福な家の人間か、もしくは貴族の養子ということになるだろう。

「合ってるじゃないですか。だから、ね。仲良くしてくださいよ。僕、今日この学園に留学してきたばっかりで心細いんです」

「心細いとかいうわりには、好奇心旺盛なようだけど。普通こんな奥地に入学初日から入ろうなんて思わないわ。そもそも旧図書館なんて生徒は滅多に来ないけど」

 琴里さんは嫌々ながらという様子だが、僕に付き合ってくれることにしたらしい。体をちゃんと僕の方に向けて、話に応じてくれる。人見知り、あるいは付き合い下手なところがあるようだが、悪い人物ではないと思う。

「そうなんでしょうね。館内に入った時は誰もいないものだと思っていたんです。こんな豪華な蔵書なのに利用者が少ないなんてもったいないなあ」

「……校舎の中に新図書館があるんだけど、ほとんどの生徒はそっちへ行くわ。そっちの方が最近の人気の作家が書いた物語が多いのよ。ここにあるのは古い文学作品や研究書ばかりだから」

「そうなんですか。でも僕にとってはこっちの方が魅力を感じます。古い本って文体も内容も現代とは違って、読んでいると異世界にいるみたいで好きなんです。奥深くて考えさせられるし。それに比べると、現代の娯楽作品はそれはそれで良いものではあるんだけれど、どうも物足りなく感じてしまって」

「あなた、変わってるのね」

 琴里さんは一見失礼なことを言ったようだが、先程に比べれば断然に僕に興味を抱いてくれているということがわかる。

「それじゃあ琴里さんも「変わってる」んじゃないですか?たった一人で旧図書館にこもってる琴里さんも僕と同類だと思いますけど」

 指摘してみれば、案の定琴里さんはばつの悪そうな顔をした。彼女はきっと少なからず僕を話の分かる人間と認識し始めている。

「失礼ね。ここにいるのはそれが部活動だからよ」

「部活?」

「ええ。民間伝承研究部」

「他の部員は……?」

「いないわ。私一人だけの部だから」

「…………」

 彼女は僕の不審の目を受けて、取り繕うように説明を付け加える。

「本当よ。この学園では全生徒がどこかしらの部に所属することを義務付けられている。実際にどれだけ参加するかは別としてね。他にやりたいことがある生徒だっているから、適当な部に名前だけ登録してほとんど参加しないって子も多いでしょう。私は部活はやりたくないし、かといって興味のない部の幽霊部員でいるのも気が引けるから、自分で好きなことを好きなようにやれる部を立ち上げたの」

 なるほど。部に所属することで生まれる煩わしさを避けるため、あえて自分で部をつくったということか。

「じゃあ琴里さんは民間伝承が好きなんですね」

「え?」

「だって今、好きなことを好きなようにって言ってたじゃないですか」

「そうだけど……」

 言葉を濁す琴里さんに構わず、僕はテーブルの上を物色する。そこには何冊も積み上げられた民話集や辞書、そして研究メモらしき紙片が広げられている。そこに書きつけられたいくつかの単語を見て僕は、あることに気が付く。

「ひょっとして琴里さん、吸血鬼に関心があります?」

「……勝手に人のノートを見るのは感心しないわ」

 むすっとして文句を言う琴里さん。だがその言葉はつまり肯定だ。

「「赤い目」、「黒い翼」――これらは確か、鵠王国の吸血鬼伝承の特徴じゃなかったですか?」

「驚いた。よくよその国の伝承までおさえているわね」

「僕も吸血鬼伝説に関心があって、昔から手に入る資料の限りで各地の伝承を調べていたんです。確か鵠王国の代表的な吸血鬼伝承は「攫われた娘」の話では?」

 琴里さんは本気で感心したらしい。脇に置いてあった飛び抜けて古い本のページをめくり、目次を見ることなく目的のページを探し当てる。ページにしっかり折り目がついているところを見ると、彼女は何度もこの部分を読んでいるようだ。

「これが鵠王国における吸血鬼伝承でおそらく最古のものよ。首都・北辰の付近の小さな村に住む老人から採録した話」

「わっ、これ原本じゃないですか。ヒシュウ国では中途半端な写本しか読めなかったんですよ」

 僕は差し出された書物をありがたく受け取る。インクがかすれた部分があるのに加え、旧字や方言、現代では使われていない言い回しなどが含まれ読みづらいことこの上ないが、好奇心に背中を押され一生懸命に読み解いていく。もう自然光だけでは手元が暗い時間帯なので、気を回した琴里さんが机の上のランプに火を灯し、そばに置いてくれた。

「吸血鬼伝説は大陸各地にありますけど、鵠王国は並外れて多いですよね」

「そのようね。過去の学者達が鵠王国のあらゆる土地の民話を採集しているけど、どんな小さな集落でも絶対に一つは吸血鬼伝説を持ってる」

「それだけたくさんの伝説があるのに、必ず共通しているのが「赤い目」を持ち、「黒い翼」を生やしているっていう特徴なんですよね。これは他の国では見られない」

 ひとくちに吸血鬼伝承といっても「血を吸う」という点を除けば、国や民族によってさまざまなバリエーションがある。日光が苦手な吸血鬼もいれば、そうでない吸血鬼もいる。ある地方の吸血鬼は舌に生やした棘によって血を吸うらしいし、またある地方の吸血鬼は人間の姿とは似ても似つかぬ恐ろしい化け物の姿をしているのだそうだ。

 そういった違いがどうして生じてくるのかを考えるのも面白いんだよなあ、と手に取った本の挿絵を眺めながら考える。そこには夜闇に鴉のような漆黒の翼を広げた吸血鬼が赤い目を爛々と輝かせ村娘に襲い掛かる様子がおどろおどろしく描かれている。

 琴里さんは自分の関心のある分野について話しているのはやはり楽しいようで、時折微笑みさえ浮かべていた。それが嬉しくて、僕はふと思い浮かんだことをよせばいいのに言ってしまった。

「今、学園に出没している吸血鬼っていうのも伝説と同じように赤い目と黒い翼を持っているんですかね?」

「……知らないわよ、そんなこと」

 それを聞いた途端、すぐさま琴里さんは先程のかたくなな態度に戻ってしまう。学園を取り仕切る生徒会の役員達にとっては厄介な問題だろうが一般の生徒は喜んで話してくれるかと思っていた。だが琴里さんは違ったらしい。

「入学初日でどこからそんな話を聞いたか知らないけど、吸血鬼なんていない。学園という閉鎖的な社会の中で生徒達が言い出した、つまらない噂話よ。世の中の吸血鬼伝説だってそう。つまらない日常に飽き飽きした人々が憂さ晴らしに話し始めたことをみんなが面白がって広めてしまって、たまたま現代まで残ったに過ぎないわ。つまらないことよ。信じる価値なんてないし、興味もない。関心を持つなんてばかみたい」

 一気にまくしたてると彼女は僕の手から本を奪い取り、パタンと閉じてしまった。その言葉と行動のちぐはぐさが何を示すものかあまりにわかりやすいものだから、僕は呆れて思わず笑みがこぼれてくる。こんな自然に笑えてくるのはひさしぶりかもしれない。

「はいはい、そうですか……ふふっ」

「……何?なんか文句あるの?」

「まさか」

 それにしてもやっぱり楽しい。こうやってたくさんの資料や研究書に囲まれて、議論に花を咲かせるのはとても楽しい。

「そうだ、琴里さん。琴里さんは今、部活をやっているんですよね?」

「そうだけど……?」

 怪訝そうな顔をする琴里さんに、僕は立ち上がって挙手し宣言する。

「じゃあ、僕を部員にしてください!僕、民間伝承研究部に入部します!!」

「はぁ!?」

「ちょうど部活は何にしようか決めかねていたところなんです。二人いればきっとお互いに刺激になって、研究も進みますよ」

「ちょっと待って、別に私は研究に熱を入れているわけじゃ……」

「部の活動の幅も二人ならきっと広がります。楽しみだなあ。明日の放課後からこの場所に来ればいいですよね?」

「良いも何も、私は許可を出してなんか」

「あ、そろそろ先輩との約束の時間だ。じゃあ琴里さん、僕はこの辺で。明日入部届持って来るんで」

「こら、聞きなさいってば!!」

 言いたいことだけ言い切るとにっこり笑って手を振り、後ろで琴里さんが立ち上がって何か言っているのにも構わずさっさと旧図書館から出て扉を閉めた。外は日が沈みきり、すっかり暗くなっている。空にはきらきらと小さな星たちが姿を現し始めていた。

 ちょっとした達成感に両手を握りしめた。これで良い。なんだかすべてがうまくいきそうな気分だ。

 先輩との約束のため、食堂へと向かう。ここは学園の外れだ。誰もいない、静かな夜。聞こえるのは風の音と、風に揺らされ草葉がこすれる音だけ。

 だから背後でカタリ、とした異質な音がやけに大きく響いた。

 僕はこの時、琴里さんが文句を言おうと追いかけてきたのかと思って振り返った。

 だが扉は閉まったまま。

 怪訝に思い、暗闇にそびえる二階建ての古めかしい旧図書館の全体に視線を巡らせる。続いてその上に浮かぶ月へと視線を動かした。そこで気が付いてしまった。


 寒々しい月の光を背後に、旧図書館の屋根に立つ影。さらさらと流れる頭髪も、翻るマントも、あの挿絵のように広げた両翼も闇のように黒いのに、こちらを見下ろす二つの光だけは煌々と赤い。

 それはこの国に語り継がれてきた人の姿をした化け物。国境の上、滔々と流れる大河の上にひっそりと息づく恐怖の具現。


「吸血鬼――……」


 鵠王国の吸血鬼が、そこにいた。

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