第19話・翻弄
ヘッドセットのマイクのところを、左手の人差し指でトントンと叩く。
『聴こえている。どうした?』
応答あり。当たり前だ。テメエで渡しておいて放置だったら、このまま引き上げて銃口をそちらに突き付けるところだ。
ただし問題は、こっちは口を開くわけにいかない状況だ、という点だ。
仕方ないのでマイクを叩く動作で信号を送る。
『なんだ?モールス信号か?ええと…ハ・ナ・シ・ガ・チ・ガ・ウ……?何がだよ』
天井の石膏ボードに穴を空けて通したファイバースコープから送られてくる画像は、右目の前に装着したグラスディスプレイに表示されている。有線だからそれは明瞭そのものと言えるが、こっちの気分はそんなことを喜んでいられるような呑気なものじゃない。
右手の中にあるMP5SD6のグリップを一際固く握る。今はコイツと右足のホルスターに収めたCz75だけが頼りだと実感した。
『…話が出来ない状況か?モールスで送れるか?』
神崎の声に緊張感が増す。良い感じだ。少しは私の気分を理解出来たかこの嘘つき野郎め。
『……ア・イ・テ・ハ・ケ・イ・サ・ツ。……どういうことだ?』
知るか。こっちが聞きたい。
極細のファイバースコープの真下を、少しモデルが異なるMP5を携えた黒ずくめが通り過ぎていく。
おかしな様子は無かったから、スコープには気がついていないはずだ。ただし、こちらに気取られぬよう通り過ぎただけ、という可能性も排除できない。それだけの配慮をしなければいけない相手だ、ということだ。
足下の点検口の開く向きを再度確認。開いた時にそいつが天井からぶら下がっても、こちらの行動の邪魔にはなるまい。
スコープの向きを変え、今通り過ぎた男の背中を確認。得物のセレクターをバーストにセット。
『コ・ウ・ド・ウ・ス・ル……分かった。音声で送れるようになったら送れ』
最後まで聞く前に、動いた。
点検口を開き、ボードを固定する天吊り金具に足を引っ掛けて上半身を逆さに点検口から出す。
と同時にMP5SD6の銃口を男の後頭部に向け、引き金を引いた。サプレッサーから間の抜けた音が三つ。バババス、という感じだ。
命中を確信しただけで、腹筋の力で体を天井裏に戻し、点検口を素早く閉じる。
ファイバースコープのケーブルを引っこ抜き、天吊り金具を伝って移動。極力静かに。ドサリ、という音が聞こえた気がした。男が倒れた音だろう。それに続く気配は無いから、あの場に他の者はいなかったのだろう。助かった。賭けみたいな真似だった。もうしたくない。
今回の仕事は神崎経由でもたらされた警察からの依頼だ。
麻薬…近年猛威を振るっている新型の合成麻薬、通称「アシッドレイン」の取り引き現場を襲え、という無茶なものだ。
そんなもの警察が頭数揃えて乗り込めばいいだろう、という私の文句は当然というべきなのだろうが、神崎が渋い顔で言ったのは、証拠が不十分で且つ確実とも言えず、強制捜査も不可能と判断された、というものだった。
サツが焦る気持ちも分からないでもない。
「アシッドレイン」といえば、出所不明でどこの誰が作って市場に流しているのかが一切不明なものだ。しかもその毒性と常習性ときたら中華系マフィアですら手を出すのに尻込みするほどで、一回で天国を見るともう逃れられなくなり、そして二回目で廃人確実という専らの噂なのだ。
…いや、噂じゃない。出回り始めた時に中毒者に出くわしたことがある。そいつはたった一回で中毒になり、二回目の吸引でもう人間でなくなっていたのだ。
注射器など必要ではなく、炙って発生した気体を吸引するだけで済む、という手軽さも「アシッドレイン」の恐ろしいところだ。私の出会ったその中毒者は、高校生だった。
警察としても被害の拡大を手をこまねいて見守っていたわけではなく、必死になって捜査を続けており、だが被害者から話を聞き取ることも出来ないという事情がそれを困難にしていた。
ようやく手に入れた手がかりを逃したくないというのも、当然と言えるだろう。
だが、それなら自衛隊の非合法活動専門部隊でも投入すればいいものを、今度は役所の縄張り争いとやらが邪魔をする。全く、本当に重要なことを後回しにして内輪もめか。二十一世紀の終わりも見えてきているというのに、くだらないことで被害者を増やす。お前達も共犯者同然だな、と吐き捨ててやったら神崎と口論になった。
…話が逸れた。神崎相手に憂さを晴らして問題が解決するわけでもない。
そう、問題は、だ。
『専門的な訓練を受けた、MP5を持った連中がうろついている?だからといって警察関係者だってえのは早計じゃないのか?』
…このビルにうろついているのが、私に仕事の依頼をした警察と同じ組織の者、らしい点だ。
私は
一介の職業人をお国の厄介ごとに巻き込むんじゃない。クソったれめ。
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