あかいろ

ほほほ

あかいろ

 決してあったことを話してはならない。 

たったそれだけを条件に、このバイトに参加することになった。

三八〇円という決して安くない運賃を払い、一か月ぶりの太陽を浴びて駅から歩いていく。広場に置かれたガラス細工は眩く輝き、植え込みのツツジは景色を赤色に彩っている。背中を通り抜けていくのはサラリーマンばかり。彼らと同じ太陽を浴びていることが嬉しく、また情けなくもあった。

 高架下。

電車の車輪とレールが金属音を奏でる。その音は次第に机を引きずるような行儀の悪い音に変わっていき、耳に吸い込まれていく。その音に驚きつつ、地図を片手にあたりを見回す。

「帰りてえ」

ただでさえ外が久しぶりだというのに、こんな騒々しくては参ってしまう。第一なんだ、ここが集合場所のはずなのに誰もいないじゃないか。そう思った時だった。

「赤野君」

何度も練習したような声が響いた。スーツを着、トランクを片手にした男性のシルエットが浮かぶ。そうか、彼が。

ようやく、俺の新しい人生が始まる。


 「こっち」

言われるがまま、細々とした通路を抜けると、そこはオンボロの建物だった。緑川と名乗ったその男は女のように声が高く、まるまると太っていた。ガタピシ戸を開けて中に入る。ここに引っ越したばかりなのだろうか、無機質な部屋にはダンボール箱が散乱し、ソファやテーブルといった必要最低限のものだけが置かれてある。その合間を縫うように進み、緑川が話し始める。

「書いてあったと思うが、この仕事の詳細は誰にも…」

「分かっていますよ、だれにもこの話はしていませんし、言うような相手もいません」

「ああ、そう」

自虐に構う素振りもなく、緑川は歩き続けてテーブル奥の部屋に入っていった。この男、見た目も声も絶妙に噛み合っていなく、自然と肩の力が抜けてしまう。この調子なら俺でも大丈夫そうだ。

 しばらくして緑川は何かを手にして部屋に戻ってきた。

「ゴーグル?」

いや、確かにそれは海で着ける『あの』ゴーグルなのだが、バイトと言う名目で、こんな普通の部屋にゴーグルが登場していることに戸惑いを隠せなかった。

「座って」

緑川は澄ました表情で誘導する。冷たいテーブルに向かい合うようにして座ると、いよいよバイトが始まるのだという緊張感が湧いてくる。緑川のビー玉をはめこんだような目玉がこちらを覗く。さっきまでの落ち着きが嘘のように消えて行くのを感じた。

「それで、バイトというのは」

「偽札だよ」

「に……」

想定外の回答に思わず声が裏返る。ろくな学を積んでいない自分でもとんでもないことを言っているのはよくわかった。

「すみません、やっぱりこのバイト」

おそるおそる尋ねる。自分はこの世界に向いてないんだ。うん、そうに決まってる。

「うん、何か勘違いをしているようだけど」

緑川が何かを察したように話し出す。

「君に依頼するのは偽札の判別だよ」

……ますます、訳がわからない。

「このゴーグルをつけると偽札が一目でわかるんだ」

緑川が続ける。

「えっと、とりあえず着けてみてもいいですか」

「ああ」

ゴーグルを受け取って着けてみる。後ろのゴムがきつく、今にも眼球が飛び出しそうなくらい圧迫される。なんとかならないかと試行錯誤していると、緑川は隣に箱を置いてきた。中に何か入っている。一万円札だ。だが本物ではないことは明らかだった。

「それがゴーグルの効果だよ」

「赤っぽく見える、ということですか」

「そう、このゴーグルの精巧さを確認するために君を雇ったんだ」

これでわかっただろうと言わんばかりに緑川が笑いかける。ずれた眼鏡に不揃いの歯。その顔は救いの手を差し伸べる天使にも、バイトという名の実験に心を躍らせる悪魔にも見えた。


 そして「判別」のバイトは始まった。運だけで手に入れたバイトだったが、ここまで単純作業に時間をかけてしまうのは情け無い。赤色のお札。そう分かっていても集中力が切れて本物側の箱に入れてしまい、その度に緑川は

「不正解だ」

と呆れた表情で言う。こんな調子で緑川は作業中、俺をずっと監視していた。ゴーグルを通すとお札が赤く見えるのは、新貨幣を発行するときに導入される新しい技術なのだという。これは機械化に向けての最終実験だそうだ。なるほど、あったことを話してはならないのはこのためか。ある意味、偽札を作ることなんかよりもずっと恐ろしい。大体の経緯を知った後は、自然と作業に力が入った。

 「お疲れ様」

緑川の声で、全ての仕分けが終わったことに気が付いた。小学生の自分には理解できなかった、『喉元過ぎれば熱さ忘れる』の意味を実感する。

「これ」

そう言うと緑川は慣れた手付きで茶封筒を取り出した。

「こっちは偽札じゃないから安心してくれたまえ。今日わかったことをもとにしてゴーグルを改良しておく」

改良、という言葉の割に嬉しそうな声で緑川が言う。

「明日が本当の最終実験だ」

「あ、ありがとうございます」

適当に声をかけて茶封筒の中身を取り出す。なんといっても、初めて自分で稼いだ金だ。一万円札が一枚。お札は赤く染まっていない。

確かに本物だ。こんな簡単にお金を稼げるとは。茶封筒を握りしめ、拳を天高く突き上げる。

「最高!」

そう叫んだ余韻の中に、扉の音が混じる。

「早くゴーグルを返してくれたまえ」

部屋に戻っていた緑川が、呆れた様子で眺めていた。


 次の日の朝が来た。

三八〇円というはした金を払って駅を出る。ガラス細工がいっそう輝いている。

昨日は迷路のように複雑だったボロ屋までの道のりも声援に、押されながら未来へ進んでいるように思えてくる。ドアを開けると緑川が腕を組んで立っていた。

「おはよう」

「おはようございます」

それだけの会話でも、自分が仕事をしているという満足感を得られる。早速ゴーグルを手に取り、装着。相変わらずきついが、対した代償ではない。緑川が段ボール箱を運んで来る。

「じゃ、始めて」

よろこんで!


 赤い。赤くない。どれだけ重いと思っても、どれだけ小さいと思っても、見た目で判断できる。それだけ。問題は、それが永遠と続くことだ。さっきまで楽勝だと思っていたことが余計に精神を蝕む。まだ気の遠くなるような枚数が残っている。早く金が欲しい。 

そう思った途端、緑川がおもむろに立ち上がった。

「コーヒーを買ってくる」

そう言い放って緑川は口をつぐんで外に出ていった。途端に静まり返る部屋。耳の中でキーンと言う音がこだまする。

この建物にいるのは、俺ひとり。それに気づいた瞬間、目の前にあるものに神経の矛先が向いた。自分が思いついた恐ろしく卑怯な行動。普段使っていない頭のパーツが熱くなるのを感じる。ソファから飛び出し、奥の部屋に向かう。恐る恐るドアを開けるが、中には誰もいない。その事実が自分の行動を完全に後押ししてしまう。

急いでもとの部屋に戻る。箱から赤くない一万円札を抜きとって、素早く下着の中に忍ばせた。喉元過ぎれば熱さ忘れる。もう一枚、もう二枚。次々に忍ばせていく。肌とお札の擦れ合う感覚が快い。十枚ほど溜まったところで手を止めた。あまり本物のお札が減っていると気づかれるに決まっている。ソファに座り直し、顔を叩いて何事もなかったように仕分けを再開した。


 それからまもなくして緑川は部屋に戻ってきた。

「おかえりなさい」

「うん」

緑川はこちらに顔を向けることなく応答した。気づかれている様子は全くない。世界の一端を理解したような気持ちだった。窓から差し込む光も、その光によって浮かび上がるホコリも、錆びついた時計の針も、全てがたまらなくおかしかった。

そうしてバイトは終わった。

「ゴーグルを取りたまえ」

緑川がやはりこちらを見ずに言う。

「どうぞ」

素直に渡す。早く逃げ出したいという気持ちを堪えて。

「ひとつ言っておくが」

今までとは違う、緑川の低い声。

「ここであったことは決して口外せぬよう」

「わかっていますよ」

その剣幕は意外なものだったが、給料の前では大した問題ではない。

「じゃあ、さようなら!」

すべてを振り払うようにして建物から飛び出した。緑川の顔は、もう見えない。


 必死に走り続け、気づけば公園のトイレまで来ていた。人気のない裏側に移動し、深呼吸して地面に座り込む。足元に目をやると福沢諭吉の仏頂面がこちらを覗いていた。そういえばと下着の中から札束を取り出す。その瞬間、あることに気が付いた。

「偽……札?」

一万円札には『こども銀行券』の文字が書かれ、片手で収まるほどに小さかった。なぜ気づかなかったんだ。次に脳裏をよぎったのは茶封筒のことだった。まさかという緊迫が封筒の震えに投影される。恐る恐る視線を向ける。見た目は完全に一万円札だ。見た目は。今持っているお札は全て緑川のもとから手に入れたもの。本当に本物かはわからない。

「どうすりゃいいんだよ」

あてもなくつぶやいたその時だった。地面に並べた紙切れたちが赤く染まり出したのだ。

「どうなってんだ」

血の気が吸い取られていくのを感じる。すべてを知っていたように、赤い目の諭吉が不敵な笑みを浮かべる。

「やめろ、やめてくれ」

そんな叫びも虚しく、札束は赤くなる一方だった。解決する手段を必死に思い巡らせる。

「そうだ、緑川だ」

あいつのせいでこんなことになったんだ。あいつが。さっき来た細道を急ぐ。並べられた木材たちが音をたてて崩れていく。もはや走ることでしか、この恐怖を紛らわせることができなかった。あそこだ。あのボロ屋に。ドアをこじ開ける。

「緑川」

反響した声は部屋の様子をわかりやすく象徴していた。

「そんな」

信じたくもない事実がせり上がってくる。

気づけば赤くなっているのは札束だけではなくなっていた。視界が、世界全体が地獄と化していた。

「夕日が…綺麗だな」


 赤色と黄土色の紙切れがはみ出すトランクを引きずり、夕日に向かって歩いていく。世界を甘く見ていた彼。目を合わせられない位に嘲笑ってしまったが、彼も私の容姿に同じことをしたのだからおあいこだろう。ふと視線を落とすと、植え込みのツツジが溶けたように萎れ、赤い花びらが黒を含み始めていた。

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あかいろ ほほほ @dondonbotyu

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