第45話 ほんの少し
「ねえ、山下さん…」
チャンスをね、ずっとうかがっていた…。小道具を持って、待ち構えて。やっと、やっと声をかけられたよ。
今まで、小さいチャンスは何度かあったけれど、勇気のほうがなくて…。
勇気を持ったときにはなぜかチャンスがなくて…、いや、それってたぶん言い訳だね、チャンスを作る勇気がなかったんだよ、僕に…。
給茶機のあるラウンジで、山下さんが一人で、僕も一人でというか、二人きりになるチャンスをずっと狙って、うかがっていたんだけれど、やっと声をかけられた。
どうだろう、僕の声は不自然に震えたりしてないかな…。
「これ、山下さんお気に入りの飴だよね…」
僕は、いつかもらった飴と同じものを、そりゃあ当然、最近買ったものだけど、それを彼女に見せた。
「ええ、好きなんですよ…。おいしいですよね」
ニコって笑ってくれている。これはいい感じなのかな?
「はい、あげるね」
手渡す。ちょっと手が触れる…。
「いいんですか?うれしいな、へへ。在庫がきれそうだったんです…」
「ストックしているんだ…? 今度こっちが品切れしたら、借りにいこうかな…」
白い、かわいいマグに、ちいさい唇をつけて紅茶を飲む仕草をする山下さん。
やっぱりかわいいな。
「いいですよ、そうだ、帳簿につけちゃいますからね、2個借りって…」
「それは経費で落ちないのでしょうか?経理の山下さん」
「ダメです、そうゆう科目はありませんよ~」
ないよね、それは。
「でも、なんで私の好きな飴知っているんですか…」
想定内質問、よし!少し脚色してもいいだろう。
「以前何かでもらったよ、それにどこかで山下さんがそれを持っているの見たから、あ…、僕の好きな飴と同じだ…って」
包み紙を開けて、飴を口にいれる僕。
「ひょっとしたら、気が合うかな~、なんて…、なんてね!」
笑っている山下さん。よかった、ドン引きされたらもう立ち直れないよ。
「合いますかね~」
ちょっと小首をかしげて僕を上目使いで見ている。
「合うよ、きっと…、だからもうひとつあげます。もらって下さい…」
「うれしいな…、ラッキーです。へへ」
僕もラッキーだよ。
少しずつ会話するようになった、勿論山下さんとね。
財務に行くときは、分かっていることも、知らないふりをして事前に山下さんに電話やメールで訊いてね。わざとらしいって昔は思っただろうな、だけどね、舵をきったんだ、僕は。
明るくしていると、周りも変わってくる。
「小杉さん、最近、面白くなったね…」
褒められているのか、なんなのか…、係長にみんなの前で言われた。
「仕事、速いじゃんかよ…」
吉沢がつぶやいた。
ああ、なんかね、蝶の舞子さんやシマウマの島さん、じゃなくて島田さんみたいに生き切ったって言うには、これくらいの仕事、今週、この三日、今日、今、片付けないでどうするよ、そんな気持ちでとりくんでいるから。
と、声に出しては言えないけれど、みんな僕が変わったって思っているようだ。
ほんの少し、舵をきっただけなんだけれども…。
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