プラモデル

プラモデル

作者 恋朽ち醤油

https://kakuyomu.jp/works/16816700426389103119


 高校卒業を控えた雨の日、中学に上がる前にいなくなって連絡が途絶えた彼女と再会。私を家に招いた彼女は英国に住んでいた過去を振り返る。趣味の模型作りをやめると告げ、父は空軍のパイロットだったと語り悲嘆し、「帰って」と懇願される。

 私が卒業した日、彼女は再度現れ、先日の謝罪と地方大学へ本日発つこと、いつか操縦士になると告げて新幹線で旅立っていく。彼女の母親から父親より贈られていた未開封のプラモデルを譲り受けた私は、彼女との再会の約束を覚えておこうと思いながら帰路につく物語。



 動力付きの木製模型飛行機を販売していたイギリスのIMA社が一九三六年に発売したフロッグ・ペンギンシリーズが世界で最初に発売されたもので、適度に分割して成形されたプラスチック製の部品群と組み立て説明書などをセットにしたキットの形で販売される模型の一種が、タイトルにつかわれている。

 どうせプラモデルがでてくる話なんでしょ、と決めつけるのは簡単だが、作る話なのか見せる話なのか遊ぶ話なのかなんなのかは想像がつきかねる。

 まさに「読んでみてのお楽しみに」である。



 荒削りでもこういうのを高校生が書くとは。

 本作は、表の主人公が「私」であり、中学に上がる前にいなくなって連絡が途絶えた「彼女」が裏の主人公。メインは彼女かもしれない。

 表の主人公の「私」は、出会いと別れの大切さを軽んじていたが、「彼女」との再会をきっかけにその大切さを知る物語。

 そして、裏主人公の「彼女」は、二つの生き方に葛藤する女性神話の物語である。

 行動や考えの手本として機能をもった男性神話がもてはやされるけれども、未来に希望が持てず閉塞感に苦しむ人にとって、女性神話の流れを実践することで救われる人は多いと聞く。

 本作は、まさに閉塞感に苛む人が救われる姿を描いた作品である。


 一人称「私」で書かれた、私小説のような文体。「~た」で終わることが多く、やけに文末に目がいく。もやっとする。こういうときは、何らかの作者の意図があるものだ。

 表の主人公「私」は、裏の主人公「彼女」を撮影するカメラ役だと思えばいい。だから、映画を撮っているように情景描写が多く、カットごとに切り替わる。


 前半の話は、卒業式が近い雨の日、家の鍵を忘れて玄関先で途方に暮れていた私は、訪ねてきた旧友の彼女の家に招かれることになる。

 後半は彼女の趣味のプラモデルを見せられながらイギリスに行っていたこと、彼女の父親がパイロットをしていてなくなったことなどを聞かされては帰される。

 卒業式を迎えた日に再び訪ねてきた彼女は、先日の謝罪と地方大学へ行くと話す。私は見送りに行くことにし、彼女の父親が亡くなったことを聞いてなにも言えなかったことを詫び、再会の約束を交わして別れる。彼女の母親から父親からもらったプラモデルを譲り受け、彼女との再会をおぼえておこうと思いつつ家路につく。

 

 冒頭、雨が降っていたので、私は校舎の昇降口から傘を開いて外に出て、「カシミヤのストールのように毛羽立つアスファルトを踏みしめるたび、足の裏が冷たくなった」とある。

 毛羽立ったアスファルトがわからない。柔らかい、といいたのかもしれない。きっとウレタンカラーゴムチップ舗装材の地面だったのだろう。ジャンプして着地しても衝撃が緩和され、浸透性がいいので水捌けが良い素材である。

 ただ、「踏みしめるたび、足の裏が冷たくなった」とあるので、裸足だったのかしらん。履いていた靴の中敷きが冷たかったことをいっているのかもしれない。


 モクレンはハナモクレンのことだそう。開花時期は三月から四月。まだ卒業式を迎えていないので、おそらく冒頭の時期は二月。早く咲いたのかもしれない。

 なぜここで散るのか。

 朝から大雨が降っていたからだけれども、花言葉は「高潔な心」である。

「私」の高潔な心が散ったのだ。

 おそらく、下校する前に学校でなにかあったのだ。「私」の内面が吐露されているのをみると、また今度、という言葉を軽々しくつかうクラスメイトに白々しさを感じつつ、自分も同じだと気づいたのかもしれない。

 また同時に、裏の主人公の「彼女」も高潔な心を失っていることを表しているのではなかしらん。


「春は別れの季節だと昔のアイドルが歌っていた」というのは、誰だろう。比較的近いのは、「春はお別れの季節です」の歌いだしで始まる『じゃあね』を歌った、おニャン子クラブか。

 一九八六年二月二十一日に発売された、おニャン子クラブの楽曲で三枚目のシングル。同グループ初のオリコンシングルチャート一位獲得し、おニャン子クラブとしては最も売上の多いシングル。「おニャン子クラブ」の楽曲を手掛けていたのは秋元康で、本楽曲も彼が作詞している。


「別れ際のまた今度という言葉が嘘だと分かってしまうようになるまでそう長くはかからないということを、もう誰もが知っている」

 映画、長編ドラえもんのラストでよく見た、「いつか、また、どこかで」と笑顔で手を振って別れていく姿を思い出す。

 次や今度はないからあれは嘘だと決めつけてしまうのはあまりに悲しい。他にかける言葉がないけど、別れがたい寂しい思いから絞り出した自分の本音であり、別れ際に見せる顔が悲嘆に暮れる泣き顔では、いつまでも相手にその印象が残ってしまう、そんな思い出を相手にあげたくないからせめて、悲しくても次はないかもしれないけれど、別れ際は笑顔で「また会おうね」と手を振るのである。

 LINEやメール、電話もあれば飛行機や新幹線など昔に比べたら連絡手段も移動手段も増え、時間もずっと短縮され、会おうと思えばすぐに会える可能性が高い。

 また今度といって、顔を合わせない事をいいことに連絡をとらなくなって疎遠になっていくんだからそんなの嘘だろ、と思ってしまうのも無理もない話である。

 また今度なんて嘘、と思っていた「私」はのちに旧友の彼女と再会するのだから、嘘から出たまことになって、さぞや驚いたであろう。


 家でゆっくり過ごそうと「次第に足は速くなり、クーラントのテンポをとって、踊るように歩きだす」とある。

 クーラントには、フランス風とイタリア風がある。

 フランス風はテンポは遅めで荘重。3/2拍子と6/4拍子が頻繁に交錯する。しかも1・2・3だったのか、1・に~・3となったり、いち~・2・3と、一小節ごとのリズム変化が振り付けに反映された知的な踊りだという。

 イタリア風はテンポは速く、軽快。クーラントは三拍子で早いと書いてあった場合は、イタリア風のクーラントのことである。

 バッハのフランス組曲第一番ニ短調、BWV812のクーラントの曲かもしれないし、バッハのパルティータ第六番コレンテ の曲に合わせるように踊りながら歩いていたのかもしれない。

 

 彼女が着ていたアーガイル柄のカーディガンは、連続するダイヤ模様と斜めに交差するラインから構成される編み物のパターンのカーディガンのことであり、発祥は十八世紀イギリス・スコットランドのアーガイル地方。なので、登場したときから彼女はイギリスに関連していることを表している。

 彼女の容姿は「少年のようなりりしさのある顔だちに、忘れようもないバターブロンドの髪、とび色の瞳。体は大きくなっていたが、立ち姿にはかつての面影があった」とある。

 目を引くような姿なので、遊んだことがあるなら思い出すのも容易だっただろう。

 彼女は「うん。私のこと、覚えててくれたんだ? 四年生以来なのに」といっているのに、私は「彼女とは仲良しだったけれど、それは十数年前の話」と、二人に認識にズレが有る。私が彼女と仲良しだとおもっていたのは小学一年生まで、かもしれない。


 後半は、プラモデルと彼女の夢、英国で過ごしていたこと、パイロットだった父親が亡くなったことなど内面が語られていく。


 彼女が住んでいる華奢な家の様子は、「木造で、壁や装飾の感じは年季が入っているけれど、どうやら、一度リフォームが施されたみたいだ。ペンキはきれいだし、スイセンがまばらに咲く花壇は新しそう」だと、私の目には見えている。そのあとは、「上品なオリーブ色の傘を丁寧にたたんで、猫の飾りの傘立てに挿」す様子がつづく。

 そのあと玄関をあけ、「昭和ふうの廊下」がつづく。彼女の部屋。彼女の母親の様子が「私」の目を通して語られる。

 家は彼女の外面、容姿を表し、玄関と廊下、彼女の「全体に木目を活かしてデザインされた、瀟洒でかわいらしい部屋」へと入っていくことで、彼女の内面、心へと近づいていることも表しているのだろう。


 彼女から夢を聞かれた私は慈善活動家の夢を語ると、「すごいわ! それって立派なことよ」「世界中のいろんな人と出会える仕事だし。あなたって、やっぱりいい子なのね」彼女は「目を輝かせて、私の手を取って」褒めたのだ。

 彼女自身、そう言って褒めて欲しい言葉なのだろう。あとで彼女の父親が亡くなっていることがでてくるが、きっと自分の父親に褒めてほしいと思っているのだろう。あるいは、父親にそういわれたことがかつてあって、無理なのはわかっているけれどもその言葉をまた聞きたいと心のどこかで思っているのかもしれない。

 また、「私」も自分の夢を、だれかに褒めてほしいと願っていたのだろう。「ためらいがちに」「夢を語るということには、いつも少しの照れくささが伴う」のは、他人に笑われたりバカにされたり、否定されことがあるから。「けして安定した仕事ではない」「現実感も希薄」「夢みたい」なことをいってるのではなく、どう稼いでどうやって食べて暮らしていくのか、現実的なことを考えろ、みたいなことを親からいわれたことがあるのかもしれない。

 将来の夢は、就きたい職業のことではない。職業についた上で、何がしたいか、誰に貢献したいかだ。

 

 さらに奥、襖の先にある「紙箱に埋うずもれた四畳半の部屋」には、彼女の大切にしているものがある。

 第二次大戦を舞台に、プラモデルの戦闘機や戦車などがならべられたジオラマが飾られていた。


「これはね、シュトゥーカ。第二次世界大戦のドイツ機。三十七ミリの迫力が好きなの」

 ドイツのユンカース社が開発し、第二次大戦中にドイツ空軍などで運用された急降下爆撃機。

 愛称「シュトゥーカ」とは、急降下爆撃機を意味するドイツ語の「Sturzkampfflugzeug」の略である。

 女子高生がドイツの戦闘爆撃機を好きだというのは、TM NETWORKの木根尚登が書いた『ユンカース・カム・ヒア』以来、久々に聞いておもわず懐かしく感じてしまった。

 雷電は、太平洋戦争末期に日本海軍が運用した局地戦闘機。

 アハトアハトは、ドイツ軍が使用したの野戦高射砲Flak18・Flak36・Flack37のあだ名。口径が88㎜であることに由来し、ドイツ人は8のドイツ語アハト(Acht)を用いて「アハト・アハト」と呼び、絶大な信頼を置いた。逆に連合国軍は「エイティ・エイト」と呼び、恐れた。

 スターリンとは、旧ソビエト連邦で開発され、一九四三年十二月から生産が開始された、旧ソ連国家最高指導者ヨシフ・スターリン(Josif Stalin)の名を冠したJS重戦車。スターリン重戦車、あるいはロシア語表記のヨシフ=Iosifを採りIS重戦車とも表記される。

 ジオラマを前に「白熱灯の薄明かりの中で、彼女の声がギャロップする」のだが、「私」はあまりジオラマには興味はなさそう。模型を説明する彼女の方に視線がむけられているからだ。

 ギャロップとはギャロップダンスのことか。作品冒頭でもクーラントというダンス表現がつかわれている。軽やかにはずむように彼女は話したのだろう。

 ダンス表現を「私」がつかうのは、学校でダンスをしていて、本人が好きなのかもしれない。

 あるいは、運動会の定番曲のドミトリー・カバレフスキーが作曲した最も有名な「道化師のギャロップ」みたいにテンポの早い口調になっていったのかもしれない。


 イギリスに移った彼女が、「あんまり馴染めなくて」「一人で遊べるプラモデルを趣味にした」のはわかる気がする。自分ひとりで黙々と、自分の世界を作っていける。戦闘機などの模型だったのは、亡くなった父親が空軍パイロットだった影響だろう。

 彼女は消え入るように「本当は、私も空を飛びたかったの」といったのは、父親の死があまりに悲しくて、死にたかった気持ちを吐露したのだろう。だから、こんなことを口にしてしまって、「ごめんなさい」とつぶやいたのだ。

 だけど私は、模型作りが「彼女の夢」だとおもっているから、「大丈夫よ、大丈夫だから、……夢なんでしょ? 諦めちゃだめだよ」と励まそうとする。

 彼女にとって模型作りは夢とはちがって、亡くなった父親と語らえることができるような、そういった時間だったのではないかしらん。生前の父親の姿を思い出せるのは、模型作りをしている時だけなのだ。

 だけど、父親はもういない、亡くなっていることも彼女本人はわかっているし、いつまでもこんなことをしていても仕方ないのもわかっている。だから「模型作りはやめよう」と決心したのだ。なので「諦めるとか、そういうんじゃないの」という言葉がでてくる。

「もう無理なの。できないのよ……」というのは、模型作りをしていると、いまでは楽しいことより苦しいことのほうが多くなってきてしまったのかもしれない。人は思い出だけでは生きられないのだ。

 彼女としてはもう限界だった。だから昔、「いちばん仲良しだった」旧友に誓うことで、自分の殻を破ろうと、彼女はしているのだ。

 彼女にとって、父親との決別の儀式。

 だけど、「私」にはそのことはわからない。励まそうとする。

 だから彼女は、「帰って! ……おねがい……」といって、帰らせたのだ。

 

 兄のおかげで家に入れた「私」は着替えてベッドに倒れ、「あのコップをまだ空にしていなかったことを、眠る前に思い出」したのは、昼前に帰宅したはずなので、昼ごはんも晩御飯も食べていないことになる。口にしたのは飲みかけのりんごジュースだけだったからだろう。


 卒業式を終えた「私」に、彼女がまた訪ねてくる。

 先日のお詫びに、と瓶詰めのりんごジュースをいただく。彼女と母親もいっしょにいるのが会話からわかる。このまま彼女は地方の大学へ発つという。かなり急だ。

 高校の卒業式は、埼玉の三月十一日、兵庫の三月二十六日以外は、ほとんどが三月上旬、三月一日位に行われている。大学が始まるのは四月から。彼女は一日でもはやく一人暮らし、独り立ちをしたかったのかもしれない。

 このあと彼女を見送りに、「電車をいくつか乗り継ぎ、都会の方に出」ていくのだけれども、あとで彼女の母親からプラモデルを渡される。ということは、「私」の家に母娘で訪ねてりんごジュースを渡し、お見送りをするからと長い時間電車に乗って、新幹線に乗って去っていく彼女を見送って、行きと同じ電車に乗って帰ってきて渡すまで、母親はずっとプラモデルの入った「大きな紙袋」を持ち歩いていたことになる。りんごジュースを渡したときにいっしょに渡せばよかったのに。

 彼女は自分で渡すのが恥ずかしかったのか、それとも彼女は父親からもらったものを自分の手で手放すのが辛くて、母親の手を借り、自分がいないところで渡すようお願いしていたのかもしれない。

 それよりも、プラモデルを受け取ったとき、「お礼を言って、ジュースと模型の箱を一緒にしまった」とある。私は自分の家の前で、りんごジュースを受け取って、それを持ったまま電車を乗り継いで見送りし、また電車に乗って最寄り駅まで戻って、そこで今度はプラモデルを受け取り、りんごジュースをもらったときに入れていたカバンかマイバックかわからないけれど、それに入れて家に持ち帰ったのだろうか。

 行動が不自然である。

 ひょっとすると、「私」は家の鍵をまた忘れたのだろうか。

 卒業式に帰宅して、また家に入れなくなっているところに二人が来たというのだろうか。それだったら、しょうがない。


 彼女は自分の夢、「いつかきっとちゃんと勉強して、操縦士になるわ。飛ばすのは、戦闘機じゃなくって旅客機がいいけど」と笑って語る。

 模型作りをして悲しみに暮れていた、かつての彼女の姿はここにはない。彼女は新たな未来を求めて旅立とうとしていた。


 抱き合って別れの挨拶をしたとき、「梔子の髪が私の鼻を擽くすぐって、甘い香りがした」とある。梔子の髪とはなんだろう。彼女は梔子の髪留めをしていたのかもしれない。

 ちなみに梔子は、三大香木の一つで、甘い香りの白い花を咲かす夏の代表的な花だ。その花言葉は「優雅」「とても幸せです」なので、彼女の気持ちを表しているのだろう。


 帰りの電車で「私」は夢を見る。そのなかに「ラ・トゥールの蝋燭」というものがある。十七世紀フランスで「夜の画家」と呼ばれた、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」と思われる。

 ラ・トゥールの名を知らしめたのは、後年の宗教画に描かれた、蝋燭の光に照らし出された夜の情景。西洋では灯った蝋燭は信仰の象徴。彼の場合は、モチーフを浮かび上がらせる手法として使われている。

「大工の聖ヨセフ」の絵は、画面の大部分を占める漆黒の中で角材に細工するヨセフに、少女のような子供がろうそくを灯している父子の姿が描かれている。無邪気そうな顔で炎にかざして赤く透けた無垢な手にくらべて、わが子の将来を暗示してなのか、ヨセフの深刻そうな表情や力のこもった腕が対照的だ。ヨセフとはキリストの父ヨセフのことなので、右側の少女のような子供は少年キリストであろう。

 とはいえ、絵画は自由に見るもの。「私」はこの絵に、彼女と、その父親の姿をみたのかもしれない。


「ジンチョウゲの香りが、駅の空気にふわりと漂った」とある。

 三大香木の一つで、香り高い花として春の代表的な花であり、花言葉は「栄光」「勝利」「不死」「不滅」「永遠」

 私と彼女の夢は「世界中の人と出会える仕事」であり、出会いと別れをくり返す永遠の一瞬を暗示しているのかもしれない。


 電車を降りたとき、「誰かの忘れ物」の「大きな白いハンカチ」をみて、涙がながれてきたという。おそらく、卒業式でも彼女は泣かったのだろう。新幹線で彼女を見送ったときも泣いていない。彼女の父親が亡くなった話を聞いたときも。

 おもえば本作のはじめから、主人公の「私」は別れに関して、重く受け止めていなかった。また今度なんて嘘、と胸の中に隠して生きてきたのだ。

 彼女との再会を通して別れをしった「私」は、「また今度の合言葉は、永遠に会えなくなるかもしれないということを、分かってしまわないため」だと悟り、「彼女は、彼女の別れを乗り越えて前に進んだ。私も彼女を見習わな」ければと成長したのだ。

 

 受け取ったプラモデルは「SPITFIRE Royal Air Force」スピットファイア。

 イギリスのスーパーマリン社で開発された単発レシプロ単座戦闘機。第二次大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用され、一九四〇年のイギリス防空戦の際に活躍したため、ドイツ空軍から救った「救国戦闘機」とも呼ばれている。

 受け取って、「あの部屋で彼女が見つめていたのは、シュトゥーカ」を「迎撃する」「スピットファイアだったんだ」「彼女は、父親がくれたこのプラモデルに、彼の姿を見ていたんだ」と気づいた私。

 救国戦闘機とよばれたスピットファイアのように、彼女にとって父親は、困っていた時に助けてくれる存在だったのだ。彼女の中で父親の存在がいかに大切だったのかがわかる。


「消えかかった飛行機雲」を見ながら家に帰っていく私に流れるBGMがあるとすれば、おニャン子クラブの『じゃあね』がふさわしいかもしれない。


 春はお別れの季節です

 みんな 旅立っていくんです

 淡いピンクの桜 花びらもお祝いしてくれます


 ずっと仲よしでいてくれた

 時は思い出の宝箱

 そんな悲しまないで 大人への階段を昇るだけ


 じゃあね そっと手を振って じゃあね じゃあね

 だめよ 泣いたりしちゃ

 ああ いつまでも 私達は 振り向けば ほら友達


 ところで、「私」も「彼女」も、どこの大学へといったのかしらん。

 

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