痛覚はぼくに微笑む

痛覚はぼくに微笑む

作者 亜木都長

https://kakuyomu.jp/works/16816700426223552409



 お盆明けの夏から、六歳の中山健は幽霊と名のる女子高生・渾越葵と出会った日々を日記に綴るも、幽霊だったのは彼自身であり、彼女もまた幽霊となって、彼の両親を探す旅に出る物語。



 タイトルが意味深である。「どんな話なのだろう」とおもわせてくれる。

 出来事と日記で構成されている。

 基本、主人公である中山健の視点で書かれた三人称の文体。

 だけど、視点がコロコロ変わるので目眩を覚える。

 特定の人物、(健とアオイ)の頭の真後ろにあるカメラから覗いた視点で進む箇所と、舞台を観客席からみている視点。これらの三つの視点がコロコロ変わるので混乱してしまう。

 地の文が小難しい表現をあえてつかっていることで、読みにくさを感じる。ホラー要素もある現代の話なのだけれど、時代小説ものみたいな古風さも一部感じられる。

 きっと、書きたい衝動が溢れた結果なのかもしれない。本作は内容が若干重いので、文章を軽くしてもいい気がする。書き終わった後、音読しておかしな表現はないか、推敲と添削をしたのかしらん。


 しっかりした六歳児は実際にいる。けれど日記から伝わってくる健の印象と、物語にかかれている文章が合っていなさそうで、もやもやする。六歳児というよりは、中学生か高校生くらいに感じてしまう。

 たとえば、「言の葉一つ与えられる度に健は蕩けそうになる」こういう表現をしなければいけない理由はなんだろう。

 相手から「よくお返事できました」と言われた六歳児の健に使うには大仰しい。

 彼が幽霊という怖い存在だから、雑に扱って祟られないためにそんな表現をつかっているのだろうか。

 一年前の夏、彼は亡くなっている。もっと昔、論語を諳んじる子供が多かったくらいに亡くなっている子ならば、凝った表現が散りばめられた書き方をしていても、納得できた気もするのだけれども。

 とはいえ、彼はしっかりした子供で、一年ほど幽霊として彷徨ってきた。これだけしっかりした彼ならば、もっと前に自身が幽霊であることに気づけたのではないだろうか。そのへんはやはり子供だから、無理だったのかもしれない。

 

 一行目、「あまりにも急なにわか雨だった」のところからスッキリしなかった。

 にわか雨とは、急に降り出してすぐに止む、一過性の雨のこと。「にわか」には、「突然」という意味と「一時的な」という意味がある。

 なのに、「あまりにも」「急に」とついている。

 ほかにも過度で重複表現とおもえるような箇所がみられるので、とにかくこの物語はなにかが普通と違うことを、一行目から示唆している。


 彼が持っていた日記帳が「雨による被害を一滴も受けていない」とつづく。ここでもやっとした。「にわか雨だった」のに、「一滴も濡れてない」なんておかしい。

 ここは作品としては大切なところ。このあと幽霊と名のる女子高生が出てくる。

 たぶん逆なんだろうな、とおもった。

 彼女の容姿を描写しているところで「喪服すら連想させる真っ黒なセーラー服」とある。

 すらとは、一つの事柄を例として取り立てて述べ、それによって他をきわ立たせるのに使う副助詞。真っ黒なセーラ服を強調したいのだろうけど、素直に「喪服を連想させるほど真っ黒なセーラー服」でいい気がする。

 これは健からみた様子なので、彼が幼い子供だということを現すためにこのような表現を使っているのかもしれない。


 にわか雨から屋根付きのバス停へ逃げ込んだとき、「道路は既に濃い鼠色と化していた」というところでも、もやっとした。なぜ色で表現しているのだろうか。しかもここだけ鼠色としておいて、その後にでてくるのは「地平線は涼やかなブルーと接し」「ただ健の真上だけが折り紙を貼り付けたかのようなグレー」「ライトグリーンの田舎」と英語読みで表現している。

 健が持っているのが絵日記なのかなとおもったほど色が出てきてたけれども、彼が持っているのは日記帳なのだ。


 いままでずっと健は相手の女子高生を幽霊とおもっていた。けど、二十七日に会ったとき彼女に額を弾かれ、抱きしめられ、ぬくもりを感じて気づく。

 少なくとも、二十五日までは彼女は生きていた。

 さびしさや辛いを抱えていた彼女は、幽霊の少年、健と会い、彼といっしょにお父さんとお母さんを探す死出の旅に出るのを「逃げ道や心の拠り所」に選んだのだろう。

 どうせ旅に出るなら、満点の星空を眺めて歩こうと快晴の予報がでていた明後日に約束をした。夏休みが終わろうとしているのと関係があるかもしれない。

 夏休みにもなって進路も決まらず、それで揉めたため、死を選んだ可能性がある。自死か事故死か病死か、はたまた余命幾ばくもなかったのか。彼女の死因がはっきりわからない。


「さんすうはどんなことしてるの?」という彼の問いかけに、「私らは数学って呼んでるんだけどね。あれは勉強じゃないよ。人間の叡智が創り出した、合法的な脳への暴力だよ」と彼女は答えている。

 数学が嫌いなのだ。

 たしかに数学の問題を問いただけでは、なんの役にも立たない。

 だけれども、数学を学ぶことで「この問題ならこうすれば解決できるだろう」といった数学的な思考力を身につけ、問題解決方法を身につけることができる。

 数学的思考力をもう少し身につけていたならば、死という選択肢以外を選べたかもしれない。

 

 二十五日の日記に「二人でてをつないでかえっていたら、トラックのおとがしました。こわかったです」とある。可能性の一つとしては、ここでトラックに彼女ははねられたのかもしれない。でもここの、「こわかった」のは、彼がトラック事故でなくなっていることを表しているのだろう。

 二十七日に「サイレンの音が、どこか遠くで聞こえた」とある。可能性の二つ目として、ここで彼女になにかあったのかもしれない。


 当初、彼女の本体はどこかの病院に入院でもしているのではないかとおもっていた。なぜなら、二十三日に山道を走る姿は、「左足を引き摺るようにして身体をふらふらと揺らす彼女の走り方は、お世辞にも綺麗なスタイルとは言い難いものであった。幽霊というより死にかけと形容した方が適切である」とあるので、彼女は死にかけの生霊なんだろうなぁとおもった次第だ。

 結局、よくわからない。

 

 本作を読んで、野坂昭如による半自伝的短編小説を基に高畑勲が脚本・監督を務めてアニメ化された『火垂るの墓』が浮かんだ。ホタルを見るシーンがあるから、という安易な点ではなくて、健はなくなっても成仏せず現世を彷徨っているから。


 一年前、家族を乗せた車とトラックとの衝突事故により、彼の一家は死亡した。日記に「カモを二ひきみつけました」「ひこうきを二つもみつけました」とあったり、ホタルをみて「しんだ人はホタルになるって」という話をしたり、見上げる天の川に思いを馳せたりしているので、両親は天国にいったのだろう。

 彼が彷徨っていた理由がよくわからない。

 現世で迷子になったのかもしれない。

 彼があの場所からようやく離れられたのは、「──ああ、やっと一人じゃなくなったんだ」のとこからもわかるように、一緒にいてくれるアオイという存在ができたからだろう。

 健にしたら、アオイと一緒に親を探しに行けるから良かったにちがいない。

 アオイとしては、死と健に逃げ道と心の拠り所を見出したのだから良かったかもしれない。

 でも、ラストに出てくる教職員たち現世に生きている側からみたら、地縛霊に取り憑かれて女子高生が死んでしまうオカルトじみたホラーだとおもった。

 

 

 


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