第四章 約束破りの末路

 虎雄くんは、あのミイラみたいな霊に殺されたんだと思う。

 あんなに恐ろしいのに平気で蹴ったりできるとか、さすがというかなんというか。でも呪い殺されたら無意味だと思う。死んじゃったら意味ない。こうなるのが虎雄くんの運命だったんだとは思うけど。死んだなんて表沙汰になることはないだろうけれど。室星の家とかが握りつぶすんだろう、きっと。

「なぁなぁ、霊ってどんなだった?」

「見たんだろう、霊」

「霊を見たのに平気なのか? キクジュンすげぇ」

「そんなの、別に」

 教室でぼくは男子に囲まれていた。いつもは虎雄くんを囲んでいる男子たちが、今日はぼくに注目している。虎雄くんはいないからあたりまえといえばあたりまえだけれど、これは思わぬ状況だった。ぼくが話題の中心だなんて思いもしない状況だった。まったく予期していなかったモテ期の到来に胸が高鳴るのを抑えられない。モテ期ってのは違うかもだけど、とにかくぼくは有頂天だった。

「別に、全然平気だし?」

「へぇ、キクジュンって意外とすごいんだなぁ」

「意外とってなんだよ」

 笑いながら、ぼくは心の中を必死に隠そうとした。鼻高々で今にも走り出しそうになるのを一生懸命堪こらえていた。浮かれるのは格好悪い。ここはクールに決めておきたい。室星さんみたいに。ぼくは教室の向こうにいる室星さんを見た。室星さんは机に向かって本を読んでいる。その隣では湊さんが同じように本を読んでいる。賑やかな教室の中、ふたりで話もしないで本を読んでいる姿は異様だけれど羨ましいとも思ってしまった。虎雄くんなしでも話題の中心になれてみんなに感心してもらうのは気持ちがいい。でも少し、疲れたかも。

 先生に理科室の片づけを頼まれた。本当なら虎雄くんと組んでやるところだけれど虎雄くんはいない。先生はほかの誰かと組めと言ってくれたけれど、虎雄くん以外の誰かと調子を合わせられる自信がなかった。だから断った。でも時間の問題だと思う。そのうち虎雄くんを通さなくてもぼくはみんなにちやほやされて、そんな中でもクールな態度を保っていられるようになるだろう。人気にんきがあるのがあたりまえみたいな顔をしていられるようになるんだろう。

 頼まれた用事を終えて、ぼくは校舎を出た。もうみんな下校した時間だ、あたりはしんとしている。職員室のほうは人気ひとけがあるけれど、子供はもう残っていないみたいだ。ぼくは早足で校舎の間の道を歩いた。三階の教室の窓になにか動くものがあると気づいて、ぼくは反射的に顔をあげた。

「あ、れっ?」

「やっほー、キクジューン!」

「あ、うん」

 黒いまっすぐな長い髪の、色白の顔の女子だ。窓の桟に乗りかかって上半身を寄せている。桟に載せた両腕を胸の前で組んでいる。すごくかわいいしすごくいい笑顔だけれど、誰だっけ? ぼくは首を傾げたけれど、女子がにこにこしているので不安な気持ちがすぐに消えた。でも本当に誰だったっけ? ぼくをキクジュンって呼ぶってことはぼくを知ってるってことだけど同じクラスの女子だったかな? あんなかわいい子、いたっけ?

「キクジュン、すごいんだってね」

「なにが?」

 見覚えのない女子とはいえ感心されるのは気持ちいい。ぼくは胸を張った。教室でそうしたように。

「霊を見ても平気なんだね。肝試しから帰ってきたって」

「そんなの当然だよ。驚くようなことじゃない」

 女子はまた「へぇぇ!」と感心する。その表情が嬉しくてぼくはますます得意になった。女子は何度も「すごーい!」と褒めてくれた。そして言った。

「キクジュン、虎雄くんはどうしたの?」

「えっ……知らない、けど」

「知らないんだぁ、虎雄くんも一緒に行ったんでしょう? 虎雄くんは? どこに行ったの?」

「し、らない」

「ええーっどうして? どうして知らないの? 虎雄くんはどこ? どこ?」

「う、るさいっ!」

「へーえ、そうやって、あのこのことも殺したんだ?」

「は、っ?」

「あのこも殺したんだ? あのこが助けてって言ってたのに聞こえないふりをして見捨てて、見殺しにしたんだ?」

「こ、ろしてなんか、ない!」

「ふぅん? でもあのこ、自分であがれないのに、ひとりで出られるような深さじゃないのに、助けてくれなかって泣いてたよ?」

「なんのことだよ!? 見殺しとかやめてくれる?」

 ぼくは大声をあげた。ぼくの声は人気ひとけのない校舎の間の狭い空間に響き渡った。自分の声にますます動揺させられた。こんな物騒なことを叫んでいるなんて誰かに聞かれたら。痛くない腹を探られてしまう。現在、三階の教室の窓の女子に聞かれているわけだけれど。

「ばかなこと言うな! なんの話だよ! わけわかんないこと言うな!」

「わかんないの? へぇぇ?」

 心臓がどくどく、どくどく鳴り始めた。

「なんだ? なんのことだよ」

「教えてあげようか?」

「い、らないっ!」

「まぁまぁ、そう言わないで」

 女子はけらけらと笑った。口調はすごく軽くて明るいのに内容が不審すぎる。陽気な声が不気味に聞こえるようになった。ぼくは後ずさりをした。それでいて三階の教室の窓からこちらを見ている女子から目が離せない。

「教えてあげるって、ねぇ」

 女子は言って「よ、っと」と身を乗り出した。危ない。

「そこに行くね、ちょっと待ってて」

「や、めて! 落ちる!」

「へーきへーき」

 やはり喜々とした声で女子は言って、その体が三階の教室の窓から落ちるのを見た。

「ぎゃ……あ、あ……っ」

 ぼくは掠れた声をあげた。女子の体は三階から落ちる——その体は、下半身がなかった。

 どさっと大きな音がした。女子はぼくの目の前に落ちてきた。ものすごい音がした。すぐに静かになった。あたりには痛いほどの静けさが広がる。

「うわあ、あっ!」

「ねぇ、キクジュン。どこ行くの? どこ行くの? わたしも見捨てるの? わたしも見殺しにするのぉ?」

「わあああ、ああっ!」

 落ちた女子は怪我をした様子もない。でも下半身はない。もとからなかった。地面からむくっと起きあがる。上半身だけだ。顔をあげた女子はやっぱり明るい笑顔だ。長い黒い髪が顔を半分隠していてとても不気味だけれど、やっぱり笑顔なのだ。距離が近いから顔もその表情もよく見える。

「ねぇ、キクジュン?」

「あ、あ……あ、ああ……!」

 上半身だけの女子は両腕を前に突き出した。がっと肘を地面に突き立てる。

「待って、待って」

 女子は肘だけで上半身を支える。両腕を足みたいに前後に動かしてものすごい速さで追いかけてくる。

「待って、待って、待ってキクジュン! ねぇ待って!」

 名前を呼ぶな、追いかけてくるな! ぼくは全力で走った。走って走って家の近くまで来た。呼吸がうまくできなくて心臓が痛くて、それでも怖くて振り向けない。ぼくは急いで鍵を出して震える手で玄関ドアを開けて家に飛び込んだ。しっかり鍵を閉めた。父さんと母さんはいつも通りに帰宅したからもうあの女子はいないのだろう。次の日家を出ても変わったことはなかった。あの女子はなんだったんだろうか。

「虎雄くんはどうしたの?」

「ひ、っ!」

 あの女子の奇妙に明るい声が聞こえたように感じた。ぼくは振り返らずに登校班の集合場所にまで走った。

 昨日の今日だ、教室に入ったぼくは男子に囲まれた。ぼくは今日も肝試しから生還した、霊を見た勇者らしい。昨日の下半身だけの女子のことを思い出すと心臓が止まりそうだ。でも朝から見ていないからもう大丈夫なんだろう。

「虎雄、どこ行ったんかなぁ」

 立田たつたくんがそう言ったのでぼくはどきりとした。昨日の女子が「虎雄くんはどうしたの?」と繰り返し訊いてきたのを思い出したのだ。

「あれから家に帰ってないみたいだしな。親とか警察とかが捜してるみたいだけど」

「行方不明っていえば、北島もそうだよな。なんか変だな。なにがあったのかな」

 呑気な口調で立田くんは言った。じっとぼくを見る。

「なぁキクジュン。虎雄は一緒だったんだろう?」

 立田くんは好奇心いっぱいだ。そう尋ねられてぼくは胸を張った。少しどきどきしたけれどやがて大胆になった。

「まぁね。でも置いてきちゃった。虎雄くん、むちゃくちゃするから。付き合いきれないよ」

「ふうん? 置いてきたって、そうしたら虎雄、まだどっかにいるってこと?」

「明るくなってから、先生たちが捜したって言ってたけど。でも見つからないみたい」

「まだ捜してるんかなぁ? どこに行ったんか、キクジュン知らんの?」

「ぼくは、夢中で逃げたから」

「へぇ……逃げたんだ」

 小堤こつつみくんがそう言って、ぼくは頬が引き攣るのを感じた。張った胸が少ししぼむ。

「逃げて、ない」

 ぼくはできるだけクールなふりを装って言った。

「助けられないかと思って」

「虎雄を? だったらどうしておまえ、虎雄はいないんだ?」

「置いてきたんだろう?」

「見捨てたんだ」


『あのこのことも殺したんだ? 見殺しにしたんだ?』

 あの、女子の声が、耳の奥に響き渡った。


「ち、がう!」

 ぼくか叫ぶとクラスのみんなが振り返った。みんながぼくを見た。ぼくはこんなふうに注目されたくない。ぼくは慌てて席を立った。

「どこに行くんだよ、キクジュン」

「どこでもいいだろう」

「逃げるんだ? 虎雄を置いてきたときもこうやって逃げたんだ?」

「ちがう、ちがうっ!」

 ぼくはそう怒鳴って教室を出た。ぼくはひとりで——今までほとんどなかったことだけど、ひとりで廊下を歩いた。五年生のクラスで虎雄くんに会って友達になって、それからぼくはいじめられなくなった。虎雄くんには無茶を言われるけれど、虎雄くん以外にはからかわれたりいじられたりしないからとても幸せだ。幸せだ。虎雄くんは乱暴だし怒鳴るし後先考えなくてめちゃくちゃだけどなんと言ってもばかだから、適当に相手をして持ちあげれば機嫌は直るし扱いやすい。父さんも母さんも姉ちゃんもすぐにキレる時限爆弾みたいだけど虎雄くんはそうじゃないからまったくもって楽な相手なのだ。

 だからといってまったく業を煮やしていなかったわけはない。ぼくの中には思わぬ鬱憤が溜まっていたらしい。だからってわざと虎雄くんを肝試しに煽ったわけじゃない。ぼくはそこまでひどい人間じゃない。置いてきたとか見捨てたとか——『見殺しにしたんだ?』上半身だけの女子の声が耳の中で響く。これは本当にぼくの頭の中だけに響いているものなんだろうか?

 図書室に向かおうと思ったのは実際、本当にそう思ったのだ。本を読むのは好きだ。教室で読んでたり図書室に行ったり、学校の近所にひとつだけある本屋に寄ったりすると虎雄くんが怒るから最近ではあまり読まないだけだ。虎雄くんにくっついていないと「余所者よそもの」って言われていじめられるから虎雄くんに逆らうようなことはしなかった。でも虎雄くんは、もうここにはいない。虎雄くんがいなくてもクラスの子たちはぼくを褒めてくれるし珍重してくれる。今までになかった境遇にぼくは浮かれていた。今まで我慢していたのが嘘みたいだ。

 ずっと、このままだったらいいのに。

 図書室に行く目的は特にないけれど、歩いているうちに落ち着いてきた。あのミイラみたいな霊? あれの正体の手がかりを得ることができるかもしれない。この学校には霊の目撃例がいくつもあって、でもミイラみたいな霊は聞いたことがない。しかも骨をしゃぶっているとかなんだか妙に存在感があったとか。霊って半透明とかでふわふわしてて触ったりできないものだと思ってたけど、蹴ることができたくらいなんだから実体はあるみたいだし。霊? それともバケモノとでもいうべきなのかな。そこらへんの厳密な分類とかあるのかな。調べたらわかる本とか図書室にならあるかな。

「あ、っ」

 図書室の奥に人影がある。珍しい。あまり人の近づかない場所だからたまに覗いても人の姿があるときはほとんどない。だからとても驚いた。

「菊くん」

「ああ……」

 しかも、ふたり。

 東京からの転校生、湊さんはちょっと変な人だ。ちょっとというか、かなり。なにが言いたいのかわからないことをしゃべりまくるしだからクラスでは何気なく無視されているのに本人は気がついてないみたい。行方不明のままの北島さんたちがいちばん湊さんを嫌っていたけれど湊さん本人はわかっていないみたいだ。幸せで羨ましいけれど、湊さんはひどいこと言ったりしないから、まぁ無害だ。

 一緒にいる室星さんは、この地域のリーダー的な立場である室星の家のひとり娘だ。歳の離れた弟がいてその子が跡取りだとか聞いていたけれど(跡取りとか時代錯誤すぎだろう)あのこは、いなくなった。いなくなった。

(ぼくは関係ないし)

 室星さんの弟はどうなったんだろう、あのとき五歳くらいだったかな。あのこがどうなったのかなんて訊ける相手はぼくにはいない。ぼくが生まれたころだとはいえうちは遠くから引っ越してきた余所者だ。この土地ではうちはいつまで経っても外様でしかない。

 それよりも、なによりも。

 虎雄くんは室星さんが好きなのだ。手の届かない高嶺の花に憧れるのと同じだしさすがの虎雄くんもそれはわかっていたようで憧れる以上の行動を取ったりはしなかった。ただ肝試しに行こうなどと言い出したのは室星さんにいいところを見せたいからだ、それが動機だということはぼくもよくわかっている。

 そんなこと、どうでもいいけど。気にならないとは言わないけれど、今はもう関係ない話だ。ぼくは図書室の中に入った。きょろきょろと本棚を見まわす。『むかしのできごと』とのプレートがついている棚の前に立った。

「なにか探してるの?」

 声をかけてきたのは湊さんだ。

「ここ、司書の先生あんまり来てないよね。わたしもすごく詳しいってわけじゃないけど。菊くん、探してるのどんな本?」

「え……いや」

 聞いてもいないのにまくし立てるのは湊さん独特のペースだ。ぼくは唖然としてしまう。僕たちのもとにやってきた室星さんは「どうしたの?」というような顔をしているけれど湊さんのトークっぷりに動じている様子はない。仲がいいから慣れているだけなのかもしれないけれどクールな室星さんの様子はかっこいい。

 虎雄くんがしきりに気にするからぼくも意識しているけれど、室星さんはものすごく頭がいい。単に勉強ができるだけじゃない(もちろん成績は常にトップだ)精神的にものすごく大人で、クラスの子たちがばかをやっていてもまったく目に入らないみたいだ。スルーとかいうレベルじゃない、たとえばぼくたちが道端の虫が自分を刺さない限り意識なんかしない、そんな感じだ。だから室星さんは虎雄くんなんか相手にしなかった。そりゃそうだろう、虎雄くんなんか室星さんの話し相手になんかならない。室星さんを前にすると誰だって緊張する。そんな室星さんと平気な顔で一緒にいられるなんてやっぱり湊さんは変わっているというか。

 ふとぼくは思った。この、室星さんが。室星さんがぼくに注目すれば、ぼくは虎雄くんなんかよりずっと価値がある人間だってことにならない? みんなに認めてもらえる存在にならないかな? ぼくは道端の虫なんかじゃないんだ。

「ねぇ、ぼく。霊を見たんだよ」

「……ふぅん」

 室星さんは興味なさげに言った。一顧だにしないとはこんな様子のことをいうんじゃないだろうか。室星さんの冷ややかな表情を目にぼくは焦燥に駆られた。

「本当だって。場所は、そうだこの先の廊下だったよ。夜に、真っ暗な中で霊を見たんだ!」

 自分でもおかしなくらいにぼくは焦って声をあげた。これじゃ湊さんもびっくりだ。実際びっくりした顔の湊さんがこちらを見ている。にわかにぼくは得意になった。

「どんな霊か聞きたくない?」

 思わせぶりにぼくは言った。虎雄くんが好きだった室星さんだ。その室星さんに興味を持ってもらうようなことが言えればぼくだって虎雄くん以上の、いや虎雄くんなんか問題にならないくらいに価値のある人間だってことになる、なるに違いない。なるに決まっている!

「普通の霊じゃないよ、絶対びっくりする」

「普通の霊ってなに」

 湊さんが突っ込んできた。ぼくは肩をすくめて湊さんを見た。

「普通の霊の定義がわからない」

「うるさいなぁ、どうでもいいだろう」

「あ、ごめん」

 申し訳なさそうに湊さんは肩をすくめた。湊さんはいいんだ、室星さんの関心を惹かなくちゃ。ぼくは話し続けた。

「ミイラみたいだったんだ」

「へぇ……」

 室星さんが興味を示したようだ。ぼくはますます勢いづく。

「ミイラみたいで、廊下の隅にしゃがんでた。ぼろぼろの服みたいなの着てて、それで」

『いうな』

 ぞくっ、と全身に悪寒が走った。それはあのミイラを見たとき感じたものをとてもよく似ている——そのもの、だ。指先、つま先までが痛いほどに震え始める。それでいて口は止められなかった。自分で求められないままに動いた。

『いうな、いうな』

「そ、の……ミイラみたいな、霊。しゃぶってて」

「なにを?」

 不思議そうな顔をして湊さんが訊いてくる。今はもう鬱陶しくない、それどころじゃない。うん、と唸ってぼくは再び口を開いた。

「ほ、ね」

「菊くん」

 いつもよりも少し感情の伝わってくる口調で室星さんが言った。ぼくを嗜めるような、責めるような。ぼくは返事をしたけれどうまく声が出せていたか自信がない。体の奥からどくどくと響く音がある。なんだ、と無性に腹が立った。そんなぼくをじっと見る室星さんが静かに言った。

「その霊に、話すなって言われなかった?」

「えっ?」

「言うなって言われたんじゃないの?」

「どうして……どうして室星さん、そんなこと……?」

「言うなって言われたよね。でも言っちゃった」

 室星さんは少し肩をすくめた。動画で見るアメリカ人とかみたいだ。そんなことを考えたのは現実逃避かもしれない。室星さんは困ったような、それでいて軽蔑するような顔でぼくを見た。ぼくは焦った。室星さんに感心してもらわなくちゃいけないのに、こんな顔をされてちゃだめだ。

「べ、つに……なにも、ないし」

「ふぅん」

 ひとつため息をついて室星さんは言った。まるでなにかを諦めたかのような口調だ。ぼくの心臓はどくどくと打って、とても痛い。爪の先まで響く痛みだ。

「約束守れない人は、相応の扱いを受けるんだよ」

「そ、んな、の……」

 ごくりと生唾を呑む。喉がからからに渇いている。それだけじゃない、なんだかものすごくお腹が空いてきた。朝ごはんはちゃんと食べたし、満腹したはずなのに。それ以上に今までこんなにお腹が空いたことはない。お腹が空いたという以上にお腹がきりきりとする。痛い、ような気もするけれど腹痛というのともちょっと違う、体の奥に大きな穴が空いたみたいな、そこにしきりに空気が出入りするみたいな、そのたびに体の中が抉られるような。不愉快というか気持ち悪いというか、迫りあがるような食欲にぼくは翻弄され始めていた。

「誰だって、ひみつにしておきたいことがあるのに」

 呆れているのかと思った室星さんの顔は、とても悲しそうだった。まるで室星さん自身の話をしているかのようだ。ぼくが室星さんを泣かせたみたいな、ぼくが悪いことをしたみたいな。ぼくは室星さんの話なんかしていない。ぼくは、あのミイラみたいな霊の話をしているのだ。それなのになぜ室星さんは自分のことみたいな顔をしているのだろう。

「言っちゃだめって言われたのに。なんで言うの?」

「そ、れは……」

 室星さんがこんなふうにぼくを困らせることがあるとは思わなくて戸惑った。そもそも室星さんと会話らしい会話をするのも初めてだ。ぼくはただ驚いたけれど、なによりもそれよりも。

「おなか、すいた」

「えっ?」

 驚いた声をあげたのは湊さんだ。室星さんはぼくを哀れむような顔をしてる。でもそんなことはもうどうでもいい。

「おなか、すいた……すい、た」

「菊くん?」

 湊さんが脅えたようにぼくを呼ぶ。一歩後ずさりをした。逃げられると追いかけたくなる衝動に駆られる。ぼくは一歩踏み出した。

「うわぁぁっ!」

「おなか、すいた、すいた」

「菊くんっ!」

 お腹の底から迫りあがる衝動に耐えられない、我慢できない。ぼくは目の前のに飛びかかった。掴んだものに指をかけてぎゅっと力を込めると悲鳴はますます大きくなった。

「おなかすいた、おなかすいた」

 なんだろう、ものすごくお腹が、減る。ぼくは大きく口を開けた。がぶっと噛みつく。

「ぎゃ、ああっ!」

 口の中に甘いものが広がったので空腹は少しだけ癒された。なのにすぐお腹がすく、ますますすく。ぼくは口にしたものに歯を立てて、がつがつと咀嚼した。口はものを食べている感覚があるのに、お腹にたまらない。もっともっともっともっと。


 がりがり、がりがり。がりがり、がりがり。


 ぼくは懸命に食べ続ける。頑張って口を動かしているのに、どれだけ食べても食べてもますますお腹がすくのはなぜなんだろう。なおも咀嚼しているうちに、なんだかとても悲しくなってきた。悲しくて辛くて、なんだかとても苦しい。下半身のない女子に追いかけられて逃げたときみたいにうまく息ができない。それでも勢いよくもぐもぐ口を動かしてしまう。こんなことしたくないのに、それなのにひとりでに体が動く。

「こんなこと、したくないのに」

 なぜか涙がぽろぽろ溢れてくる。悲しくて辛くて、同時にとてもお腹が減る。お腹が減りすぎてぎりぎり痛くなる。どうして、こんな。食べてるのになんでこんなにお腹が減るのかわからない。

「悲しいよね、悲しいよ」

「だ、れ……?」

 おんなのこの声がした。慌ててまわりを見まわすけれど誰もいないなにもない、真っ暗闇だ。まるであの日の、肝試しに入り込んだ学校みたい——虎雄くんはどこに行ったんだろう、今ごろなにしてるんだろう。

「悲しいよ、苦しいよ……わたしたち、みんなそうだったの」

「ええ……っ?」

 誰、なに、と問おうとする口の中になにかを突っ込まれた。いきなりのことで息が詰まった。それはなにか硬いもので反射的に噛みついた。そのままもっと押し込められたら本当に息ができなくなるので、遮りたくてがぶりと噛みついた。

「ぐ、うっ」

 噛みついたはずのものがものすごく硬くて驚いた。がりっと歯を立てても歯の先すらも食い込まない、苛立ってなおもがりがりと齧った。

「あ、っ」

 ぼくは気がついた。ぼくが今かじっているのは骨だ、白い骨だ。骨に歯を立ててもお腹は膨れない。にわかにぼくは焦ってしまう。

「おなかすいた、おなかすいたのに……」

 骨なんかじゃお腹は膨れない、このままじゃぺこぺこになって死んじゃう。ものすごく焦って、そしてぼくは気がついた。

 そうだ、鶏ガラで出汁を取ったりするじゃないか。口の中にあるのが骨ならこうだ、こうすべきだ。

 だからぼくは骨に吸いついた。しゃぶりつく。ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ、音を立てて吸い立てた。中の部分を吸い出そうと頑張った。だんだんしゃぶっていることそのものが楽しくなってきた。音を立ててしゃぶった、次第に夢中になってもう骨のことしか考えられなくなった。


 ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ。


 ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ。ちゃぷちゃぷ。



 図書室でわたしたちに襲いかかってきた菊くんは、バランスを崩したわたしと一緒に床に転がった。互いに怪我をするほどではなかったけれど、菊くんは錯乱してたみたいですごく怖かった。まりえちゃんが先生たちを呼んできてくれて、菊くんは連れて行かれた。わたしは少し頭を打ったけれどこぶにもなっていないレベルだったのでそのまま学校を出た。

 まりえちゃんと連れ立って帰るのはいつものことだ。でもまりえちゃんが立ち止まって振り返り、じっと校舎を見てるようなことは初めてだったので、わたしは驚いた。

「どうしたの……?」

 まりえちゃんは答えない。まりえちゃんが不思議な行動を取るのはいつものことなので意外でもないといえばないけれど、でも校舎を見ている視線がいつにないもので、そばいにいるだけのわたしがどきどきしてしまうようなまなざしだ。

「まりえちゃん?」

「ううん、なんでもない」

 そう言ってまりえちゃんは笑った。わたしたちは学校に背を向ける。まりえちゃんは苦虫を噛みつぶすみたいな顔をしていて、だから訊かずにはいられなかった。

「ひみつって、なんだったの?」

 そう尋ねると、いつになく悲しそうな顔をしてまりえちゃんは言った。

「……ああいうことってさ」

「ああいうこと? 菊くんのこと?」

「うん。ああいうふうに錯乱しちゃう人って、ときどきいて」

「へぇっ?」

 わたしはびっくりして、また振り返って校舎を見た。

「ときどきいてもいいようなものなの? あんまり普通じゃないと思うけど」

「海莉ちゃんが『普通』についてそんなふうに言うんだ?」

「……ごめん」

「そういう意味じゃないよ」

 まりえちゃんは笑ってそう言った。まりえちゃんの言いかたに悪意がないことはよくわかる。まりえちゃんと話しているうちにわたしは自分がなぜ変だと言われるのかわかるようになった。まだまだ少しだけだけれど、まりえちゃんがさりげなく教えてくれるので今までわからなかったことがわかるようになってきたのだ。

「え、っと。なんで錯乱とかするの?」

「この学校の下には、いっぱい骨が埋まってる」

 うたうようにまりえちゃんは言った。わたしはびっくりしたけれど、どう反応していいかわからない。

「ほ、ね……? 菊くんが言ってた、みたいなこと?」

「そうだね、そういうことかも。一緒に埋められたおんなのこの骨まで囓ってたんだよ」

「ええ……どういう意味?」

 まりえちゃんは不思議なことを言う。同時にあまりにも不気味だ。わたしはどのような顔をしたのか、まりえちゃんが困ったように笑った。

「あのさぁ、海莉ちゃんもわかってると思うけど」

 そのまま肩をすくめてまりえちゃんは言った。

「ここって、昔は——」

「え、っ?」

 まりえちゃんの声は、強く吹いた風に紛れてよく聞こえなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る