第三章 戻ってこられない肝試し

 クラスの女子が白いものを落とした。

 一瞬なんなのかわからなかった。すぐにぴんときた。この間保健の授業でやった、生理用品だ、ナプキンだ。あれを持ってるってことは落とした北島は生理なんだな。

 授業ではやったけど具体的にはどういうことなのかよくわからない。わからないけれど先生は言いにくそうにしてたし女子はみんな恥ずかしそうにしてた。ちょっとつつくと大騒ぎするから面白いのだ。おれは声をあげる。クラスの仲間たちも同じように騒ぎ立てた。

「なんだこれ?」

「わぁ、なにこれ? 授業に関係ないもの持ってきたらだめなんだぞ?」

「関係あるものかどうか、先生に見てもらおうよ!」

 男子たちが沸き立つ。あたりは一気に大騒ぎになった。女子はきゃあきゃあ声をあげて騒ぐし男子は大笑いするし、教室中がものすごいことになった。

「うわぁ、これなんだ? なんだか知ってる?」

「ええ、知らねぇ。教えて教えて!」

「知ってる知ってる! おれ知ってるぞ!」

「生理なんだよな、北島、生理なの?」

「なぁなぁ、生理なんだろう?」

「血が出るんだろう? パンツ真っ赤になんの?」

「ナプキン、開けて見せてくれよ。どんなのか見たい、なぁ、授業じゃちらっとしか見えなかったから」

「見せて見せて! なぁ、いいよね?」

「見せてくれよ!」

 おれたちが集まって声を亜あげると北島、ほかの女子たちはますます顔を赤くする。「やめてよ」と抵抗しているけれどいつも偉そうな北島が真っ赤になって目を泳がせているのが面白くてたまらない。あの北島がこんな顔をするなんて。そんなに恥ずかしがるようなことなのか、見てるだけですごく面白いんだけど。

「生理になるのはあたりまえなんだから、仕方ないじゃない」

「え?」

 その場の盛りあがりが、さあっと静かになった。いきなり波が鎮まるみたいだ。面白かったのに、なんだよ。おれは舌打ちをして声のした方を見た。

「湊……」

 転校生だ。尾下のばあちゃんのところに引っ越してきた。東京から来たんだっけ、先生がそんなこと話したら、なんだかべらべらしゃべりだした変なやつ。なにが言いたいのか全然わからないことばっかり言って、とにかく変なやつだ。美人ってほどじゃないけどまあまあかわいいし、黙ってたら別にって感じだけどとにかくよくわからないことしゃべりまくるのが鬱陶しい。

「生きてるんだから生理になるのあたりまえだし。ねぇ、北島さん?」

 北島はこのうえなく変な顔をしている。ほかの女子も一緒だ。今までの盛りあがりが消えてしまい、教室はしんとした。湊は気づいてないみたいだけだ。こんなに教室の空気をめちゃくちゃにしておいて湊自身は気がついてないあたり、すごいというかなんというか。したくない感心をさせられる。本当に変なやつだ。

「北島さん、はい。落とさないように気をつけてね」

「あ、うん……」

 生意気な北島が殊勝な態度で生理ナプキンを受け取っている。北島を黙らせることができるのは空気の読めなさすぎる湊だけで、それはそれでざまぁみろという感じだけれど、湊は湊でうっとうしいのでどっちもどっちだ。

「はー、もういいや」

 騒ぐ気持ちはすっかりなくなってしまった。おれもほかの男子たちも盛り下がって黙ってしまった。北島はナプキンの入ったポーチをひったくって、教室から出て行ってしまう。北島は怒った顔をしていたけれど湊はその理由もわかっていないみたいだ。

「湊って変なやつ」

 おれは思わず言ってしまって、すると湊がおれを見た。空気読めないくせに変なところで勘が鋭い。

「なんで? なにが変?」

 首を傾げた湊は心底不思議そうだ。なおも「なにが変なの?」と繰り返す。

「そういうとこだよ」

「そういうところってなに?」

「だから、そういうところだよ!」

 いらいらしておれは声をあげた。湊はびくっとしていたけれど、ざまぁみろだ。転校生のくせに生意気だしなによりも変だ、おかしい。訳のわからないことばっかりしゃべってて、まわりも変だって言ってるのに湊は全然気がついていない。話が通じないのだ。

 ただ湊は尾下のばあちゃんの孫らしい。湊の父さん母さんはどこだったか外国に転勤になって、帰国まで尾下のばあちゃんのところにいるんだって母さんが言ってた。湊なんか変なやつなんだから完全に無視してやってもいいんだけど、面倒なことになったらおれが父さんや母さんに怒られる。あんな変なやつなのに室星まりえがなにかと構うのもなんだか仲がいい感じなのも尾下に気を遣ってるからなんだろうと思っている。そうでないと室星がなんで湊なんかを構うのかはわからない。それでいて尾下に気を遣ってるはずはないとも思うのだ。室星の家よりも尾下の方が格下なんだから。どっちにしろおれの家、隈本なんて相手にもならないけど。隈本の家なんて下っ端下っ端。

 女子たちは少しからかったらすぐに大騒ぎして面白いのに、湊のせいで気が削がれた。絡みづらいというかめんどうだというか、近づきたくないタイプだ。無視したらいじめだなんだって先生がうるさいから、あからさまには無視しないけど。

 湊は首を傾げながら席に戻る。おれはちらっとその先を見た。

 湊の隣の席は、室星まりえだ。こういう騒ぎに絶対に加わらない、どころか気にもしていないみたいな室星の方がおれは気になる。湊のことであろうとなかろうと室星はいつでもこうだけど。だから気になって、でも室星と会話したり笑い合ったりするのはどうしたらいいのかわからないのだ。室星はすっごく頭がよくて月に一回東京に行って、なんだったか――め、ん……ナントカって会? みたいなのに参加してるんだって。なんのことかおれにはまったくわからないけど、とにかくおれたちとは違う世界の人間だということはわかってる。おれなんか室星との会話どころか室星がなにを言ってるのかもわからないだろうけど、室星と話をしたいんだ。そのための話題にしたくていろいろやるけれど、室星はまったく興味を示さない。おれのほうをちらっと見て、そのまま読んでいる本に視線を戻してしまう。ばかにされてんのかな。むかつくし、なんかちょっと、悲しい。

「なぁ、なんの本読んでるんだ?」

 室星は顔をあげておれを見た。目を細めてじっと見つめられてどきどきした。けれど室星はすぐに本に目を戻してしまう。相手にもされないのはいつものことだ。ほかの女子にこんなことされたらブチギレだけれど、室星相手にはなんとなくしゅんとしてしまうのはなぜなんだろうか。そんな不思議なところも含めて室星まりえなんだけど、だからこそ室星に認められることはおれ自身に価値があるということになる感じがする。

「室星ってさ……」

 おれが呟くと「えっ、虎雄くんなに?」と横に立っていたキクジュンが言った。小さくてがりがりでおれの半分くらいの体で風が吹いただけで飛んでいきそうだ。しゃべり方もおどおどしてて、子分じゃなかったらはっきり言ってウザい。

「なんの本読んでるんだと思う?」

「えっ、わかわないけど。訊いてみたら?」

「聞いても教えてくれないから言ってんだよ」

「あっ、ごめん」

 キクジュンはへこへこと何度も頭を下げた。キクジュンは『きくじゅん』って名前だけれど、短すぎてあだ名のつけようもなくてそのまま「キクジュン」って呼んでいる。体は薄くて小さいし態度は卑屈だしなに言ってもへらへらしてるし、ウザいといえばウザいけどなにを言っても聞いてくれるししてくれるので便利といえば便利だ。

「じゃあ表紙を覚えておいて、図書室で同じ表紙の本を捜したら?」

「めんどうだな……」

「あっ、そうだよね。ごめん」

 キクジュンはすぐに謝る。そこがウザいけれどパシリとして便利なので無視したりはしない。ほかにも何人かおれに着いてくるやつらはいるけれど、キクジュンは絶対おれを裏切らないので側にいさせてやっている。それにキクジュンの家は結構前だけれど大阪から移住してきた、この地になんの縁もない家だからなにかあってもおれが父さんや母さんに怒られることはないから、キクジュンが着いてくるぶんには気が楽でいい。

「それに、図書室とか。ウザ」

「うん、そうだよね」

 にこにことキクジュンは言った。おれはちらちらと室星の方を見たけれど、室星は変わらず本を読んでいる。黒い表紙の分厚い本だ。その隣の湊が話しかけている。室星は顔をあげた。にこやかとはいかないけれど普通に湊と話している。おれには冷ややかな目しか向けないくせに湊には普通に接するんだな。

「なぁ……キクジュンよ」

「えっ、なに」

「なんかさ、こう……かっこいいこと、ないかな」

「どういうこと?」

「かっこよさをアピールできるようなことだよ」

「アピール……? うーん」

 キクジュンは首を傾げている。俺が睨むとびくりと震えて、ますます考える様子を見せた。

「すぐはわからないけど、調べてくるよ」

「そうだな、頼む」

「うんうん、よさそうなの調べてくるから!」

 キクジュンは次の日、先生が来る前におれの席にやってきた。秘密を打ち明けるような神妙な顔をしている。

「あのさ、あっちの校舎あるでしょ。理科室とか図書室とかある方」

「うん、それがなんだよ」

「あそこさ、霊が出るっていうじゃない? 今まで何人も肝試しに行ってるけど、帰ってきたやついないって」

「そうだな、聞いたことある。なんかヤバい霊が出るとか……?」

「うん、肝試しから帰ってきたやついないって」

「そう、だから虎雄くんが帰ってきたらさ、虎雄くんが強いって証明されるなって」

「肝試しはやめといたほうがいいよ」

宮一みやいち

 口を挟んできたのは斜め前の席の宮一みやいち界人かいとだ。勉強はできるし走るのも早いし、先生からも一目置かれている。話し方もなんだか気取っていて胸糞の悪いやつだ。そういえば宮一も東京からの転校生だったっけ。宮一は振り返って言う。

「うかつに肝試しなんか行かない方がいいよ。帰って来れないってことは、そういうことがあるかもって脅しなんだから」

「ふ、ふん。宮一、怖いのかよ」

 おれが言うとキクジュンも「怖いのかよ!」と宮一を煽った。

「怖いというか……そうだね、怖いかな」

「ふーん、怖いなんてヘタレだな」

「いつも偉そうなくせに、霊とか怖いんだ?」

「まぁ、それでもいいけど」

 肩をすくめて宮一は言って、また読みかけだった本に目を落とした。スカした態度で本当に鬱陶しいな。

「オバケが怖いんだって、子供みたい」

「宮一くん、意外と子供っぽいんだね。かーわいい」

 おれとキクジュンは宮一をからかった。宮一が無視するので近くに行って声をあげた。

「うるさいなぁ、もう」

「だって宮一クンかわいいからぁ」

「子供じゃないって言うんなら、一緒に行こうや。なぁ宮一クン?」

「いやだよ」

 吐き捨てるように宮一は言って、がたんと立ちあがって行ってしまった。

「なーんだ、弱虫ぃ」

「ははっ、頭いい宮一くんも、霊は怖いのかな」

 おれたちは笑った。視線を巡らせると吉次という男子と目が合った。

「よう、吉次」

「肝試し、行く?」

「虎雄たちも行く?」

「お、おお?」

「虎雄もいくよな、キクジュンも。だったらおれも行く!」

「え、あ……う、うん」

 おれはキクジュンと顔を見合わせた。吉次は立ちあがって近づいてくる。

「なぁ、いつ行く? 夜だよね、やっぱり」

「肝試しは夜だろう?」

 おれが胸を張ると吉次は目をきらきらさせている。おれはさらに胸を張って「今夜行こうぜ」と言った。

「行こう行こう!」

「キクジュンも行くって、なぁ吉次も行くよな?」

「母さんがいいって言ったら……」

 吉次は少し意気消沈して言った。目が泳いでいる。おれは顔を近づけた。

「お母さんにはうまく言えよ、肝試しに行くとか言うなよ」

「そんなこと言ったら絶対出してもらえない……」

 吉次がしゅんとそう言った。おれは吉次の肩に手を置いて顔を近づけた。

「来いよ、絶対」

「うん……」

 こくこくと吉次は頷いた。おれはキクジュンを振り返り、目が合ったキクジュンは力強く頷いた。



 あれだけ吉次に言った以上、おれが肝試しに行かないわけにはいかない。

 おれはこっそり家を出た。父さん母さんにバレたらものすごく怒られるけれど目を盗んで家を出ることには成功したから、終わり次第またこっそり帰ればいい。夜の校舎を巡るってことだけど、そんな大きい学校でもない。肝試しもすぐに終わるだろう。懐中電灯も持ち出したけれど、これも終わったらこっそり戻しておけばいい。

「虎雄くん!」

「おお、キクジュン。遅いぞ」

「こめんね、吉次くんは?」

「まだ来てないけど。見てないのか?」

「ううん……」

 ふたりできょろきょろしたけれど吉次の姿はない。待ちながら振り返った。夜の校舎は闇の中に佇んでいて、黙って見ていると中途半端に閉められたカーテンの向こうから闇以上に真っ黒なものがにゅっと出てきそうな――迫ってくるような恐ろしい圧力があって、それがおれを掴んで取り込んで、いったんつかまったらその奥から出て来られないような、そんな想像が頭の中をぐるぐるまわる。ぞくぞくっと背中に悪寒が走った。

「虎雄くん、どうしたの?」

「なんでも。なぁ吉次来ないのか?」

「わからない」

 キクジュンはあちこち見ていたけれど、やがてきょとんとした顔でおれを見た。

「来ないね。お母さんにだめだって言われたのかも」

「いいって言う親はいないだろう……仕方ないなぁ」

 実は少し、怖くなっていた。しかしキクジュンの手前引っ込みもつかない。

「じゃあ仕方ないね。もう吉次くんは待たないで、行こうか」

「えっ?」

「肝試しだろう、行こうよ。デジカメ持ってきた、写真撮っといたら証拠になるよ」

「う、ん……」

「ほら、懐中電灯も持ってきたよ。虎雄くんも持ってるよね、さすが。クラスのみんなも、虎雄くんすごいって言ってるからな。肝試し行くって言ったら本当に勇気あるねって。そりゃそうだよね、虎雄くんはクラスのリーダーだから!」

「う、ん……」

 キクジュンが目をきらきらさせておれを見ている。そんなふうに見られると後戻りはできない。おれはできる限り、気丈な表情を見せた。

「じゃあ行こうか。吉次は置いていこう、仕方ない」

「うん、行こう」

 キクジュンはなんだか楽しみにしているみたいに見える。キクジュンは怖くないらしい。真っ暗などけでも怖い雰囲気が伝わってくるのに、それ以上になにかが、ある。それでもそうキクジュンに言うわけにはいかないから、口もとを引き締めてから「行くぞ」と言った。

 校門は閉まってるけれど、六年間この学校に通っているのだ、穴場はある。裏門の方にまわって生垣のへこんだところをがさがさする。子供がひとり通るくらいはできる隙間があるのは遊んでて発見した秘密の場所だ。こんなふうに役に立つとは思わなかったけれど。そして今はもう役立てたくないのだ。真っ暗で街灯もない、懐中電灯でようやく足もとが確かめられるくらいだ。ひとりだったらとっくに帰ってる。

「なぁ、キクジュン……」

「ぼく、怖いけど……虎雄くんは平気だよね?」

「う、うん」

「さすがだなぁ、虎雄くんはすごいね!」

 しきりに言いながら、キクジュンはおれを先導した。

「ねぇ、あっちかな?」

「うん……おまえ、なんか慣れてない?」

「そんなわけないよ。肝試しなんか初めて。こっちかな?」

 言葉のわりにはキクジュンの足取りは迷いがない。毎日歩き回っている校内なのだからあたりまえだけれど、まるで初めてではないかのようだ、と思った。

「なぁ……」

「ここ、この廊下」

 どこか嬉しそうにキクジュンは言った、ように感じた。気のせいかもしれない――気のせいだろう。おれは何度も頭を振った。よし、と懐中電灯を持った手に力を入れて暗い廊下を歩き始めた。

 床がぎしぎしと嫌な音を立てる。それだけでぞくぞくと悪寒が背中を走るけれど、キクジュンの手前心の中をさらけ出すわけにはいかない。おれは全身に力を入れて廊下を歩いた。ますます足もとがぎしぎし、ぎしぎし、と音を立て、その音がますます恐怖を煽った。

「う、わっ!」

 いきなり目の前が明るくなって声をあげてしまった。キクジュンも「わっ!」と叫んだ。

「びっくりした……」

 汚れたカーテンがふわりと動いたのだ。窓が少し開いていたらしい。

「もう、驚かすなよ」

 おれは口を尖らせてそう言った。少し唇が震えているのがキクジュンにバレないように背中を向けた。

「行くぞ、こっちだな?」

「うん、この先は図書室だね。夜の図書室の前で写真撮って帰ろうよ」

「そうだな」

 真っ暗で懐中電灯しか頼れるものはないとはいえ、図書室までの道なら何度も歩いた。ゴールが設定されたことでなんだかほっとした。おれは張り切ってどかどか先を歩いた。

「ん?」

「なんか、変な音しない?」

 ふたりで顔を見合わせた。廊下の向こう、真っ暗な中だけれど確かになにかの気配がする。同時になにか、音がする。なにか濡れたものの音だ。雨漏りでもしている? 今日はいい天気だった、さっきまで雨の気配なんてまったくなかった。当りの空気も乾いている、のに。

 ちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ——? なんの音だ?

「あ、あれ……?」

「なんだ、あれ?」

 キクジュンが悲鳴をあげた。そのあまりにもびっくりした様子からキクジュンを疑う気持ちは薄れた。キクジュンが企んだことならこんなに驚いた様子を見せることはないだろう。

「なに……?」

 暗い中に、なにかが——誰かが、いる。ぞくぞくっと全身が痛いほどに震えた。それがなにかわからないのに戦慄だけはものすごい。おれ自身よりもおれの体は敏感に異常を感じ取っているのかもしれない。

 なんて——おれの頭の隅っこではそんな呑気な思考が走っていた。同時に目は大きく見開かれる。目尻が切れそうなくらいに開いたけれど自分ではコントロールできない。体が勝手に反応する。

 廊下の奥には小さな体がしゃがみ込んでいた。ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ……音はだんだん大きくなる。

「だれ……?」

「なん、で……人なんか、いるわけないじゃないか」

 おれの声は震えていたけれど、それでもキクジュンの手前ビビっているところを見せるわけにはいかない。おれは全身を震わせて、ことさらに強気の口調で言った。

「なんだよ、あんなの。別に怖くないし?」

 おれは鼻を鳴らした。ふふんと笑い飛ばして何度も廊下を踏んだ。わざとどんどんと音を立てる。

「なんだよ、ぜんぜん怖くないし?」

 おれは声をあげて笑った。その間もちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷと濡れた音が続いている。

「なんの音だよ、いったい」

 おれは鼻を鳴らして、キクジュンにバレないようにそっと身震いして、そして廊下の奥の人影に向かってどすどす足音を立てながら近づいた。

「ひ、っ!」

 思わず声が洩れた。うずくまっているのはミイラみたいな、なんだかぼろぼろの服? みたいなものをまとった人、みたいなものだ。ちゃぷちゃぷ、音は続いている。おれは懐中電灯を頼りにじっと見て、そして悲鳴をあげて後ずさった。

「な、な、な、なっ!」

 ちゃぷちゃぷという音、それはその人、がなにかをしゃぶっているからだ。白い、細長い——それがなにかわかったおれは、また悲鳴をあげてしまう。

 それは骨だ。うずくまった人は骨をちゃぷちゃぷしゃぶっている。夜の学校で、ぼろぼろの服にも見えないような服をまとってしゃがみ込んで骨をしゃぶっている、かさかさの茶色い肌をしたミイラ。人間であるはずがない、これは——なん、だ?

「うう、うう、うう」

 骨をしゃぶりながらミイラは唸った。ミイラなのにどうして声が出せるのだろうか。いやそう見えるというだけで本物のミイラなんかなわけがない。そのミイラは、ものすごく大きな目でおれたちを見ている。口はしきりに骨をしゃぶりながら目は俺たちを見ている。ちゃぷちゃぷしゃぶりながら、目はぎょろぎょろとおれたちを見ている。

「みたな」

「う、う……っ」

「みたな、み、たな……」

 ミイラは骨をしゃぶりながら何度も呻いた。おれの横でキクジュンがあからさまにがくがくと全身を震わせている。ミイラはそんなキクジュンをじっと見つめた。ぎょろぎょろと大きい目、いや違う。ろくに肉がないから眼球がやたらに目立つだけだ。目が動いてしゃべって、そして骨をしゃぶっているということは本物のミイラではないのだろう、もちろん本物であるはずがない。そんなおれの胸中を知ってか知らずか、ミイラは骨を口から離して言った。

「だれにも、いう、な」

「い、わない!」

 キクジュンが掠れた声で言った。本人は大きな声をあげているつもりなのだろうけれどほとんど聞き取れないものすごくか細い声だ。そんなキクジュンのビビってる姿を、おれにはにわかに笑いたくなった。

「なんだよキクジュン、なにビビってんの?」

「虎雄、くん」

「言うとか言わないとか以前に、アンタ誰?」

「虎雄くん!」

 キクジュンが明らかに脅えた叫び声をあげる。それが面白くておれはますます気丈に言った。

「そんなところでなにしてんの? なんで骨なんかしゃぶってんの。服、ちょーぼろぼろだし?」

「虎雄くんっ」

 キクジュンは泣き出す寸前だ。それも面白くておれは笑った。そしてミイラにすたすたと近づく。

「なんだよ……」

 ミイラは骨をしゃぶりながらおれをじっと見た。瞼など肉がほとんどなく眼球だけがぎょろぎょろしている。それに睨まれると体中から血の気が引いて、つま先までががたがたと震える。立っているのも辛いくらいに体が自由にならないけれど、おれは気合いだけで立っていた。

「そこでなにしてんの? 先生いいって言った? 勝手にしてるんだったら言いつけるぞ?」

「虎雄くん、やめてよぉ……」

 キクジュンが泣きそうな声で言った。もう泣いているのかもしれない。おれはキクジュンを見やって、ふんと嗤った。そんなおれたちをミイラは骨をしゃぶりながらじっと見ている。

「いうな、いうな」

「言わない、言わないっ!」

「いうな、だれにもいうな」

 キクジュンは大声で叫んで頭を振りまくった。パニックになっているのだろうけれど見ていて面白すぎる。おれはくくっと笑った。実際面白かったし、あと目の前のミイラが怖すぎたから。怖すぎて笑った。おれの笑い声は暗闇の中に広がった。

「なんだよ、ばかみたい」

 おれが言うとミイラは目を見開いた、ように見えた。瞼がないのでその表現が正しいのかはわからない。ただじっと見つめられた。ミイラの眼球は表面がぱりぱりに乾いていて、たぶんミイラなんだからあたりまえだといえばあたりまえだけれど、それでいてじっと見つめられているというのはありありとわかる。まるで射貫かれるように見つめられて、そうではない睨みつけられて、本当は怖かった。けれど怖いなんて言うわけにはいかない。おれのプライドがそれを許さないし、なによりキクジュンの手前、怖くてもこう言うしかなかった。おれがビビって尻をまくったりしたらキクジュンがクラス中に言いふらすだろう。隈本虎雄は霊にビビって逃げる弱虫だって言われるとか、耐えられない。おれは自分自身を鼓舞した。ミイラだろうが霊だろうが、怖くなんてない。

「うるせぇよ」

 おれはどすどすと足音を立てて、ミイラとの距離を詰めた。ぼろぼろの布をかぶった肩を、蹴った。

「うわあああああ!」

 耳が痛くなるくらいの声で叫んだのはキクジュンだ。くるりとおれに背を向けた。そのままばたばたばと逃げてしまう。暗闇の中、消えたキクジュンの後ろ姿を見送った。視線を戻すとミイラは消えていた。

「あれ?」

 てっきりミイラが転がっていると思ったのに、目の前にはなにもなかった。ただただ暗闇が広がるだけだ。

「あ、れ? どこ行った?」

 きょろきょろとあたりを見まわした。懐中電灯の照らす範囲にはなにもない、誰もいない。ただただ暗闇が広がるだけだ。

「どこ? どこ行った?」

 体を駆け抜けるのは今まで以上の悪寒だ。体中の関節ががくがくしてぎしぎしと音を立てる。立っていられない。おれは全身に力を込めた、そのつもりだった。血液がどくどくと駆け巡って、自分の血の音がうるさい、なにも聞こえない。その、血の音よりもはっきりと聞こえる声があった。

「けった、なぁ?」

「ぎゃ……あ……っ……」

 おれの悲鳴は、暗闇の中に消えていった。声も出せない、がちがちと震える体を自力で支えることもできない。後ろからがしっとしがみつかれた。ものすごく、痛い。太い金属のロープで締めつけられるみたいだ。ぎゅうぎゅうと締められて圧迫されて、痛いと呻くこともできないくらいに拘束される。

「けったなぁ?」

「あ、あ、あ……」

 ミイラの声が耳もとに聞こえる。けったなぁ、いたい、いたい、と言っている。ごめん、悪かった。そんなつもりはなかった、キクジュンに強いところを見せたかっただけなんだ。

 謝ろうと思った。でも声が出ないのだ。



 夜の学校に侵入した男子がいるということで、わたしたちは先生に怒られた。

 悪いのはその男子たちでわたしたちではないと思うのだけれど、なぜかわたしたちが怒られた。その男子が誰なのかは聞かせてもらえなかった。ますます本末転倒だと思うけど。

「そうなんだよ、あれ、ぼくたちのこと」

 キクジュンと呼ばれている、菊くんだ。ぼくたちというのはいつも一緒の隈本くんと菊くんとのことらしい。先生は名前を言わなかったのに、本人が言ういるぶんにはいいのかな。

「えっ、じゃあ肝試しに行ったのか?」

「そうだよ。全然平気」

 菊くんはいつになく自信満々で胸を張っている。いつもクラスのボスっぽい隈本くんにくっついていて子分みたいな菊くんだけれど、隈本くんがいないから今日はひとりだ。さみしがるかと思えばなんだか楽しそう、というかいつもおどおどしている感じなのに妙に自信にあふれている感じの話し方をしている。あんなふうに威張っている姿を見るのは初めてだ。

「なにか見たのか?」

「霊とか、見た?」

「あ……あ、ああ。まぁね」

 菊くんは言葉を濁した。霊を見たんだろうか。菊くんは大丈夫だったのかな。隈本くんは今日は休みみたいだけど、隈本くんはどうだったのかな。

 わたしは北島さんのことを思い出した。北島さんはトイレを出てからいなくなって、今も行方不明のままだ。

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