第二章 鏡の中にはなにがいる?
ウザい。鬱陶しい。わたしは大きく息をついた。
トイレの鏡にわたしのため息の息がかかって曇る。自分の顔が見えなくなってそれにもいらいらした。
「
「なんでもない」
「やっぱり、湊さんのこと?」
「金澤さんもかわいそう。それに呪いとか、怖いよね」
「呪いなんかあるわけないじゃん。あんなの、湊さんの作り話だよ」
「変な子だもんね」
「どうでもいいことめっちゃしゃべるよね。誰もあんたのつまんない話なんか聞いてないっての」
「なんかすごく変な子だし、教室にいるだけでウザいんだよね」
「かわいくないし」
「言えるー! そう思うよね!」
水を得た魚のように穂乃果が声を弾ませた。
「かわいくないのになんか偉そうでムカつく。服もダサいしさ」
「二日続けて同じ服着てたことあったよ」
「汚いよねー、やだやだ」
鏡に向かってリップクリームを塗りながら虹花が言う。
「かわいくないし汚いし、って最悪じゃない?」
「最悪! おまけに呪いに詳しいとか怖いし」
「どこだっけ、東京とかから来たんだよね」
「尾下のおばあちゃんの孫だって。おばあちゃんはいい人なのに、もう近づきたくなくなっちゃったよ」
「近づいたら呪われたりして?」
「やめてよ!」
穂乃果が声をあげた。わたしたちはみんな揃ってびっくりした。
「穂乃果、呪いとか怖いんだ?」
「べ、つに……そういうわけじゃ、ないけど」
拗ねたように穂乃果は言うけれど、唇の端がぴくぴくしている。わたしはなんだか楽しくなった。
「怖いんだー、へぇ! 穂乃果、子供みたい」
「あはは、穂乃果は低学年のクラスに変わった方がいいんじゃない?」
「違うから、怖くないから!」
真っ赤な顔をして穂乃果が言い張るので、わたしたちはますます楽しくなって穂乃果をからかった。
「穂乃果、後ろ!」
「え、ええっ!?」
穂乃果は今までに見たことのない顔をして飛びあがった。わたしたちはまた笑う。
「そんなにびびらなくても」
「霊の話をしてたら霊が引き寄せられて来るって言うじゃん。ここ、学校のトイレだし。花子さんが出るかも」
「やめてよ、うちの学校にそんな話ないでしょ?」
「でもどこの学校でも聞くよね、花子さんってどこにでもいるんじゃない?」
「花子さん、全国チェーン? やだぁ」
「だめだよそんな言い方。花子さんに聞かれたらどうするの」
穂乃果はやっぱり本当に怖がってるみたいで焦った顔をしている。虹花はなおも穂乃果をからかっているけれど、穂乃果が本気で怯えているのを見てわたしは冷めてしまった。
「ばかみたい」
「なにが?」
「霊とかいるわけないじゃん」
「えっ……」
わたしが吐き捨てるようにそう言うと、ふたりは驚いたように口を噤んだ。霊がいない方がいいはずなのに穂乃果も目を見開いて凍りついている。
「花子さんもいないよ。穂乃果だけじゃなくて、虹花も。低学年のクラス行きなんだ?」
「そんなの、やだ」
「うん……」
今まであれほど怖がっていたくせに、穂乃果も神妙にそう言った。ふたりがしゅんとしているのがなんだか楽しくて、わたしは今まで以上にクールな態度を取ろうとした。
「じゃあ、ばかなこと言わないで。花子さんだの霊だのなんだの、それじゃ湊さんと一緒だよ」
「それもやだ」
ふん、とわたしは鼻を鳴らした。改めて鏡を覗き込む。リップクリームを塗り小さなブラシで髪を整え、右と左に顔を向けておかしくないか確認した。
「変じゃない?」
「全然! すっごくかわいいよ!」
虹花が手を叩きながらはしゃいだ声をあげた。穂乃果も「うんうん、かわいい!」と言ってくれる。わたしは「ふふん」と小さく笑った。
「じゃ、行こうか。そろそろ休み時間終わるね」
三人で連れ立ってトイレから出ると、女子が何人か廊下に立っていた。わたしが女子たちを見るとびっくりした顔をした。
「なんで入らないんだろうね」
「入ればいいのに」
穂乃果と虹花がひそひそそう言って、くすくす笑う。廊下の女子たちが顔を赤くした。わたしと目が合うとびくっと震える。
「変なの」
「なにあれ、変なの」
わたしも穂乃果と虹花に合わせて笑い、笑いながら教室に向かった。壁時計を見ると次の授業が始まるまであと一分だった。
慌てて中に入ると、ほとんどの子たちは席に着いていた。床をぎしぎしいわせて自分の席の椅子を引いて座る。同時に先生が入ってきた。わたしはほっと息をつく。
ちらりと窓側を見ると、湊さんが目に入る。変な転校生。虹花たちとは「かわいくない」と笑ったけれど、そんなにかわいくないわけではないのだ。髪とか服とかに無頓着っぽいのは確かだけど不潔とかじゃないし。不潔とかだったら完全アウトだけどそこまでじゃない。おばあちゃんと暮らしてるっていうからおしゃれっぽいことは馴染みがないのかもしれない。
でも、逆に言えば。特に気にしなくてもそれなりにかわいいのは、本気でおしゃれをしたら本当にかわいくなるということだ。もとからしてかわいいということだ。
そんなのは、いやだ。あんな変な子が本当はかわいいとか、認められるようなことがあってはいけない。かわいいとか言われて勘違いとかしちゃったら、かわいそうなのは湊さんのほうじゃない?
「北島、ぶつぶつうるさい」
「うるさいのはあんた」
隣の男子、
わたしはちらりと廊下側の席を見た。真っ直ぐな姿勢でやっぱり真っ直ぐに黒板を見ている。クラスで一番かっこいい、
(もうサイテー。みんな、あり得ないから)
わたしはぷるぷると頭を振った。吉地がびっくりした顔をしている。わたしは吉地を睨みつけた。
湊さんは変だし、おかしなことばかりしゃべるのでクラスではなんとなく無視されている。
先生にバレたらいじめだなんだって怒られたりしてうるさいから、あからさまに無視はしない。けれどみんな同じことを思ってるからこっちから話しかけたりはしないのだ。無視してることがバレて、湊さんが一緒に暮らしてるっていう尾下のおばあちゃんに告げ口されても面倒だし。尾下の人に怒られるとかいうことがあったら、わたしたちはお父さんやお母さんにどれだけ怒られるか。そんなの面倒すぎて絶対嫌だから、なんとなく無視してる。
もっとも湊さん自身は鈍感というかばかっていうか自分が無視されてることに気がついてないみたいだけど。気づかないんなら本人は幸せでいいけれど、自分の立場を理解していないのは見ていて痛々しいし、そして鬱陶しい。
それよりも湊さんの隣は、室星さんなんだ。ふたりの席の方を見るたびにわたしのいらいらは増す。室星さんは湊さんになんか興味ないみたいだけど。湊さんがしきりに室星さんに話しかけるのにいらいらする。どうせつまんないことしかしゃべってないし、室星さんも聞いてないのに。室星さんも無視すればいいのに、適当でも返事するから湊さんが調子に乗るんだ。湊さんがあれ以上勘違いしないように、お灸を据える必要があると思う。
その日もわたしは虹花と穂乃果と一緒に、いつものトイレにいた。
「えっ……具体的に、なにするの?」
そのことを話すと、虹花と穂乃果は驚いた顔をした。具体的と言われるとわたしもそこまで考えてなかったから、にわかに困ってしまった。
「そうだなぁ……霊体験をさせる、とか」
「……どうやって?」
穂乃果が渋い顔をする。その表情は気に入らなかったけれど、もっともな疑問だ。
「うん、それは……」
言いながら鏡を覗き込む。いつものトイレだ。特にこの、みっつ並んだ真ん中の鏡はほかの鏡と違って端が錆びていたりしないので一番きれいに写るように感じる。
「なんだっけ、呪い? 湊さんが詳しいやつ」
「うん、どんな呪いかは知らないけど」
虹花は普通にそう言うけれど、穂乃果はやっぱり脅えるような顔をしている。そんな態度を見ているといらいらした。
「別に本当に呪うわけじゃないよ。そんなことできないし、そもそも本当に呪いとかあるわけないんだから」
「そうだね……」
虹花はなんだか真面目な顔をして考えている。穂乃果はやっぱり怖がるような顔をしていた。そんな顔する必要ないのに、私がじっと穂乃果を見るとびくっと反応した。ばかみたい。湊さんを懲らしめる手段を相談してるだけなのに、本気で怖がっちゃって。
「なにか、湊さんが知らない系の呪いをでっちあげればいいんだよ」
「だって湊さん、呪いに詳しいんでしょう? だったら知らない呪いなんて……わたしたちにわかる?」
「調べたらいいじゃない」
「どうやって?」
「ネットで調べたらいいじゃない」
「えっ……」
穂乃果だけじゃなく虹花まで躊躇った。わたしは驚いた、同時にものすごくいらっとした。
「なんでよ、すぐできるでしょ。虹花のとこ、ネット禁止だった?」
「そんなこと、ないけど……」
「だったらいいじゃない」
「じゃあ、咲奈ちゃんが調べればいいでしょ」
「なんでわたしが、そんなことしなくちゃいけないの」
わたしの苛立ちは最高潮に達した。
「なんで、って」
虹花と穂乃果が顔を見合わせて困っている。ふたりの態度にますますいらいらする。
「だって……呪い、とか。言い出したの咲奈ちゃんだし」
「虹花と穂乃果だって、湊さんウザいでしょ」
「そうだけど、でも」
「ふぅん、やっぱり怖いんだ?」
「こわく、ない」
穂乃果が虚勢を張った声をあげる。わたしは「ふぅん?」と口を歪めた。穂乃果はますますいきり立った。
「怖くないから、本当に。呪いなんか平気だし」
「だったら穂乃果が調べてきてね」
「う、ん……」
穂乃果は言葉を濁した。わたしは「お願いだからね」と言って、ふたりを残してトイレを出た。ドアを開けるとやっぱり何人も女子たちがたむろしている。わたしがじっと見ると脅えた様子を見せた。
「入ればいいのに」
いつもは声なんかかけないけれど、今度ばかりはそう言った。びくっと大きく震えたその反応の意味はよくわからない。わたしはそのまますたすたと廊下を歩いた。いつもは虹花と穂乃果がいるのにひとりだから、なんだか違和感があった。
穂乃果が「ねぇ、咲奈ちゃん」と声をかけてきたのは次の日だった。昨日のあれからのわたしはふたりを無視して帰った。穂乃果がどこかおどおどしているのはわたしの希望を叶えたいと思っているからだろう。穂乃果の態度はわたしにそれだけの価値があると思わせてくれる。わたしは満足した。
「なに?」
「昨日の、あの、呪いのことだけど」
「ああ、うん」
正直なところ、穂乃果がわたしの言うことを聞いてくれると期待していた。でもそれを顔に出すのはかっこよくないと思って懸命にクールな表情を作った。
「なにかあった?」
「うん、これ」
穂乃果がプリントみたいな紙を出してきた。教室でスマホを出すのは禁止だから、そしてわたしはスマホを持たせてもらっていないので、こうやって見せてもらうのがいちばん手っ取り早い。
「へぇ」
湊さんを驚かす呪いの手順に目を通した。やることは簡単だ。こんな方法で本当に呪いとか成立するんだろうか。もちろん本当に呪われたら困るから、あくまでもそれっぽい感じってだけでいいんだけど。呪いなんてあるわけないけど。
「本当にある呪いって、ヤバくない?」
話題が話題だけに大きな声で言うわけにはいかない。わたしがひそひそとそう言うと穂乃果は少しだけばかにする表情を見せた。穂乃果がこんな顔をすることは今までになかった。わたしはびっくりして穂乃果を見た。虹花はそんな穂乃果とわたしを交互に見て、やっぱり驚いた顔をしている。
「本当にあるやつじゃないと。嘘だってばれたら意味ないじゃん」
「でも……本当に呪われたらどうするの?」
「ふぅん、咲奈ちゃんは怖いんだ」
「そんなことあるわけないじゃん」
わたしは鼻を鳴らした。怖いなんてわけがない。どうせ本当の呪いじゃないし。それっぽいことするだけだし。
「じゃあ、やってみようよ」
がたんを音を立てて立ちあがった。隣の席の吉地がびっくりした顔をしてわたしを見た。
「なに?」
「別に……」
かっこよくもないのに生意気な男子だ。わたしはさっさとその場を去った。手には呪いの方法の書かれた紙を持っている。なんとなくくしゃっとするのが怖くて、そっと持ってしまう。その手を穂乃果に見られているような気がしてさりげなく隠す。
いつものトイレに行った。誰もいなかった。授業が始まる前の時間だからかもしれない。いつも以上に静かなトイレは少し怖い、かも。遠くから微かに話し声が聞こえてくるから、よけいに。
鏡の前に立ってちらりと自分の顔を見た。いつものことなのになぜかとてもどきどきする。嫌な汗が背中を流れた。穂乃果に気づかれないように唾を飲み込む。機械的に手の中の紙を広げた。
「鏡に向かって三回拍手、そのまま右を見たら霊がいる」
「その霊に呪われちゃうんだって。目が合ったら取り憑かれちゃうって」
「本物じゃん」
わたしは嘲笑うようにそう言った。穂乃果は無表情で、目だけを動かしてわたしを見て鏡を見て、わたしの手の中の紙を見た。
「咲奈ちゃん」
いきなりドアが開いて驚いた。穂乃果と同時にそっちを見る。虹花が立っている。後ろには湊さんがいた。虹花に手首を掴まれて驚いた顔をしている。
「北島さんたち、いつもここにいるんだね」
「いつもって、そんなことないけど」
なにもわかってないみたいな湊さんにいらっとした。鈍感な湊さんは、そわなわたしの顔を見て不思議そうな顔をしている。
「三階のトイレ入れないって言ってる女子いたけど、北島さんたちが占領してるからかぁ。みんなの場所なんだから入れてあげなくちゃ」
「……うるさいなぁ」
「えっ?」
言われなくてもわかってる。そんなことをいかにも偉そうに言うの、本当にうっとうしい。しかもいかにも「正しいことを言った」って顔してるのがますます腹立たしい。
「湊さん、こっち来て」
「え、えっ。なに?」
「いいから!」
わたしは湊さんの手首を掴んで鏡の前に引きずった。湊さんの後頭部を掴んで鏡の前に突き出す。
「なに、するの……」
「うるさいな」
わたしの低い声に、湊さんはびくっと震えた。鏡ぎりぎりに顔を近づけさせて、驚きに固まっている湊さんを怒鳴りつけた。
「拍手して!」
「え、ええっ?」
「いいから、手を叩いて! 三回!」
「えっ、あっ」
湊さんは頼りない調子でぱんぱんぱんと拍手した。こんなのでいいのかわからない。湊さんの手は強張っていて音も小さい。これでちゃんと呪いが成就してるかわからない。
「もう……!」
私はいらだった。反射的に右を見た。そこには虹花か穂乃果がいるはず。わたしは目を見開いたまま固まった。
「い、あ……っ……?」
「咲奈ちゃん……」
誰かの声が聞こえる。虹花? 穂乃果? わたしの耳は誰の声なのかを判別できない。
(聞いたことのない、声?)
「あ、っ……?」
わたしは右を見た。そこにはおんなのこが立っている。長い黒い髪がだらりと垂れている。真っ直ぐでさらさらのそれが顔を半分隠していてよく見えない。ちらっとなにか赤いものが見えた。
(な、に……? 誰?)
おんなのこは黒い服――ドレスみたいな服を着ている。学校に来る格好じゃない。ものすごく変。顔はわたしのほうに向いているのにちゃんと見えないし、なんだか違和感がある。ぞわぞわっと全身に悪寒が走った。風邪を引いて熱が出たときの感覚に似ているけれど、それだけじゃない。そのおんなのこから目が離せない。かわいい子かそうでないか、それ以前に。
「え、っ……」
かお、じゃない……?
「な、に……誰?」
「ねぇ、咲奈ちゃん」
がらがらとした声だ。同じ歳くらいのおんなのこの声だとは思えない。まるでおばあさんみたい。それでいてなにを言っているのかはっきりと聞こえる。わたしを、呼んだ。わたしの心臓はどきどきと跳ねて痛くなってきた。頭ががんがんする。体の芯がぞくぞくして、息もうまくできなくて。でも目の前のおんなのこから目が離せない。怖いのに視線を逸らすこともできない。
「え、っ……あ、ああっ?」
わたしの掠れた声が洩れる。おんなのこは少し顔をあげた。わたしの目に映ったのは黒と、赤。黒いのは髪、服――あか、は? いったいなにが赤いの?
「わたし、かわいい?」
「え、っ……?」
おんなのこが言った。低い声で言うものだから聞き取れなくて、するとおんなのこはまた同じことを言った。
「わたし、かわいい? かわいいかな?」
「え、えっ……」
かわいいもなにも、顔がよく見えない。目の前にいるのに見えないってどういうことだろう? わたしは目を見開いた。おんなのこが少し顔をあげる。黒い長い髪がさらりと揺れて、赤いものが目に入った。
「ひ、っ!」
おんなのこの顔つきは、はっきりとはわからない。それも当然だ、長い髪に隠れていた顔は真っ赤だった。単なる赤一色ではない、濃い赤薄い赤がどろどろと混ざっていて、まるで――皮を剥いだかのよう。
「ねぇ、咲奈ちゃん。咲奈ちゃんはかわいいね」
おんなのこは言った。声の洩れる唇は、唇の形をしていない。ずたずたに切り裂いたかのような――唇だけではない、頬も鼻も、顎もなにもかもざくざくに切られている。だから血まみれなのだ。赤の色が濃かったり薄かったりしてまだらなのはそのせいだ。
「咲奈ちゃんはかわいくていいね。ねぇ、わたしはどう?」
「ど、うって……」
わたしは後退りをした。しようとした、けれど足が動かない。おんなのこの恐ろしい姿から目が離せない。怖いと思うのに足どころか体すべてが動かない、動かせない。瞼も自分の思う通りに動かせなくて、ただただおんなのこを見つめてしまう。
「かわいい? わたし、かわいいかな?」
「え、っ……」
かわいいわけがない。かわいいとかブスとかいうレベルじゃない、怖い、そして醜い。バケモノみたい。っていうかバケモノそのもの。
「なんて、言った?」
「醜いって言ったの」
怖いのはもちろん怖い。それ以上にわたしを驚かせよう脅えさせようとする態度が気に入らない。恐ろしさを押し殺してわたしは顎を引いた。
「醜い。かわいくない、てっか気持ち悪いよ?」
まわりの空気がぴりっと凍りついたように感じられた。わたしの全身の悪寒はひどくなる。それでも体は動かない。瞼も動かせなくて目の前のおんなのこをじっと見ていることしかできないのだ。
睨み合いたいわけではないのだ。むしろ目を逸らせたい。それでも体が動かないのだから無理だ。目を見開いたままのわたしにおんなのこが近づいてくる。顔を寄せられるとその不気味さが際立って、背筋の悪寒はますます大きくなった。頭ががんがんする。逃げたいのに逃げられない、
「わたし……醜いんだ?」
おんなのこが言った。低くて耳の奥にまで響く声は、でもさっきよりどこか、なんだかさみしそうに聞こえた。
「う、ん」
それでもわたしはそう言いつのった。霊だからとかなんだか知らないけれど、かわいくない子をかわいいって言うなんておかしい。そんなことが許されてはならないのだ。かわいくない子は、かわいくない。
「あっ……」
すぅ、とおんなのこの姿が消えた。とたんに体の自由が戻ってきた。わたしはつんのめって転びそうになる。
「咲奈ちゃん!」
「あ、っ……虹花?」
「どうしたの、急に!」
「どうしたのって、な、にが?」
「急に固まっちゃって……怖い顔、して」
「なによ、それ」
わたしは笑おうとした、けれど顔が引き攣ったように表情が動かない。口の端をぴくぴくさせながら懸命にしゃべった。
「それよりも。あの子、なに?」
「あの子って?」
「ええ?」
虹花も穂乃果も、湊さんもびっくりした顔をしている。
「さっきまでいたじゃない、ここに」
「ここに? わたしたち以外に?」
「いたじゃない、黒い髪の、顔が……」
「ええっ?」
虹花も穂乃果も、湊さんもやっぱり驚いたままで「どこに?」「女の子?」ときょろきょろしている。
「なに言ってんの? いたでしよ? 髪が長くて黒い服着てて、顔が……」
「顔が?」
「か、お……が……」
ふるふると口が震えた。ちゃんと声が出ない。三人が不思議そうな顔をしているのが苛立たしい。
「いたじゃない、あの、あの……!」
「咲奈ちゃん、しっかりして」
「わたしはしっかりしてるよ、わたしが変みたいに言わないで」
「ええ、うん……変じゃないよ、変じゃないから」
わたしを宥めるように虹花が言う。まるでわがままを言う子供をあやしているみたいだ。子供扱いに腹が立つ。わたしはいらいらと床を踏み、同時に体中の力が抜けてへなへなと座り込んでしまった。
「咲奈ちゃん、大丈夫!?」
「しっかりして!」
「大丈夫だよ……」
声がうまく出ない。懸命にまわりを見まわしてもあのおんなのこはいない。それでもわたしの体からは力が抜けてちゃんと立つこともできない。
「咲奈ちゃん、震えてる」
「かわいそう……」
哀れむような声でそう言ったのは湊さんだ。わたしのお腹の奥から、かっと怒りが湧きあがった。
「あんたに言われたくないけど!?」
「わっ、咲奈ちゃん!?」
「あんたにかわいそうとか言われたくないから。黙っててよ、ブスのくせに! 変なくせに!」
「えっ……?」
わたしの声はトイレ中に響き渡った。わたし自身がびっくりするくらいの大きな声だ。
「あ、の……北島さん?」
「いいから、離して。こんなとこ出ていくし」
わたしは言って、虹花の手を振り払った。すたすたとトイレから出て行く――と言いたいところだけれど足が思うように動かない。ちゃんと歩けない子みたいで恥ずかしいし腹が立つけれど、虹花たちの手を借りるのはもっと嫌だから、一生懸命体を起こしてよたよたとトイレを出た。
(なんでこんな、なんで……!)
胸の中で呻きながら、わたしは廊下を歩いた。どうしてこんな情けない姿を見せなくちゃいけないのか。しかも湊さんもいたのに。そんなふうに怒りを感じながら歩いているわたしの背中に、またぞくっとしたものが走る。
「な、に……?」
廊下の向こうに、なにかがいる。アレ、だ。あのおんなのこ。トイレにいたんじゃないの? なんでそこにいるの?
「ぎゃ、あ、あっ!」
わたしは悲鳴をあげた。顔が、ものすごく痛い。まるで顔の皮を剥ぎ取られてるみたいに。鋭い刃物でがりがり削られてるみたいに。
「ぐあ、ああっ!」
「ねぇ、咲奈ちゃん」
あのおんなのこがわたしに話しかける。わたしが悲鳴をあげているから声なんて聞こえないはずなのに、なのにわたしの耳にははっきりと聞こえる。おんなのこが、問いかけてくる
「ねぇ、わたし、かわいい?」
おんなのこは繰り返す。同じことを何度も何度も言った。
「ねぇ、咲奈ちゃん。わたし、かわいい?」
うるさいうるさいうるさい! そうわめきたくてもちゃんと声が出ない。顔が、痛い。
「咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん咲奈ちゃん」
「ぎゃああああ、あっ!」
きっと「かわいいよ」って言わなくちゃいけないんだろう。それがわからないわけじゃない、このシチュエーションから推測できないわけがない。でも、でも。
「わたし、かわいい?」
「かわいく、ないっ!」
痛みの中でわたしは叫んだ。
「あんたなんか、醜いし! ブス! 気持ち悪い!」
ふぅん、とおんなのこが言ったような気がした。気がしただけ、わたしは顔が痛いし悲鳴をあげているから、おんなのこの低くて掠れた声なんて聞こえるはずがないんだけど。それでもはっきりと、耳に届いた。
「かお、痛いよね」
「だ、から……? あんたに関係ないけど」
わたしの強がりに、おんなのこはくすくすと笑った、ように感じた。
「痛いよね、わたしも痛かった。カミソリで切ったの、わたし、かおが、かおの皮膚がぼこぼこで、うまれたときから醜くて、すっごくブスで、みんなわたしのこときらいなの」
「う、あ……あ、ぐっ!」
「咲奈ちゃんは、わたしのこときらい?」
「き、らい、っ!」
「わたし、醜い? ブス?」
「ブ、スっ!」
「咲奈ちゃんより? 咲奈ちゃんはわたしよりかわいい? 咲奈ちゃんはかわいい?」
「あんたなんか、変! 気持ち悪い!」
「わたし、かわいい? わたし、かわいい?」
おんなのこは顔を近づけてきた。血のにおいがする。血だけじゃなくて、なにかが腐るみたいな匂い。すごく気持ち悪かったけれど顔を近づけられて「わたし、かわいい?」と繰り返す。体に力が入らないので逃げられなくて、でも嫌で怖くて、気持ち悪くて吐きそうで、もう狂いそう!
(あの、呪いの儀式……本物だったの、かな)
逃げられない逃げられない。わたしは必死に声をあげたけれど、果たして声になっていたのか自信はない。
◇
ねぇ、と話す声が聞こえた。ひそひそ話の内容を聞く趣味はないけれど、自然に耳に入ってきてしまう。
「北島さん、まだ帰ってこないんだって」
「おうちの人も心配してるけど……かわいそう」
わたしはちらりと話し声の方を見た。クラスの女子がささやき合っている。北島さんが行方不明になって一週間が経った。わたしがトイレに連れて行かれたあと、ひとりで出て行った北島さんはそのままどこに行ったのかわからなくなった。学校も近所も、警察も出てきて捜査がされているらしいけれど、未だになんの手がかりもないらしい。
「ねぇ……まりえちゃん」
隣の席のまりえちゃんは目だけを動かしてわたしを見た。
「北島さん、どうしたのかな……?」
「ねぇ、海莉ちゃん」
「えっ、なに?」
「あれから、あのこに会った?」
「あの子って?」
「図書室で会ったっていう、こ」
「うん? うん、図書室行ったらときどき会うよ」
「そうなんだ」
「どうしてそんなこと聞くの?」
わたしが尋ねてもまりえちゃんは、はっきりとは答えなかった。ただじっとわたしを見た。
「たぶん、そのこ……」
「え?」
同時にがらがらと教室のドアが開いて、先生が入ってきた。授業が始まって、だからまりえちゃんがなにを言おうとしたのかわからないままだった。
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