第一章 『真ん中』の呪い
授業の内容は今までの学校のものよりも進みが遅くて、ついていくのには問題はなかった。
しんどいのは休み時間だ。クラスの子たちは話しかければ答えてくれるけれどすでにできているグループの中に入ることはできない。避けられているわけではないし無視されているわけでもない。ただわたしは『空気』なのだ。いなくても誰も気にしないような存在なのだ。それに気がつくのに時間はかからなかった。
その日の授業のあともわたしは図書室に行った。司書の先生は前の学校の先生みたいに熱心ではなくて、わたしが入室してもこちらを見ることもない。そのせいか子供の姿も少なくてわたしはいつもひとりだった。
「あれっ」
またあの本を読もうと思ったのに『むかしのできごと』の棚にない。薄いけれどあんなに印象的な本だ、見失うなんてあり得ない。誰かに借りられてしまったのだろうか。わたしはとてもがっかりした。
次の日も次の日も、わたしはあの本を捜した。見つからない。なぜこんなに気になるのかわからないけれど、三日の間あの本が見つからないとなんだかとても焦燥して、そして悲しくなってしまうのだ。
(あのおんなのこに、会いたい)
自分がそう考えていることに気がついた。わたしはあの表紙の、わたしをじっと見ていた女の子に会いたいのだ。
でも本棚にあの本が戻ってくることはなかった。あの女の子に会えないまま三日過ぎた。相変わらずわたしはクラスの空気だ。頑張ってみんなに話しかけてはいるのだ。そのときは答えてもらえる。それ以上会話が続かない、正確には相手からわたしに話しかけてくることがないので会話そのものが成り立たないのだ。
それでもわたしは話しかける機会を逃さないようにしていた。少しずつ距離を縮めていったらそのうち仲間に入れてくれるだろう。その日をわたしは期待していた。
その日は授業で図書室に行った。ひとり一冊本を借りるようにということで、みんなあちこち興味のある本を探し始める。わたしは「出番だ」と張り切った。きっとわたしはみんなよりこの図書室に詳しいから、助言とかできるんじゃないだろうか。
わたしは歴史や伝記の分類がされている棚のまわりをうろうろした。ここがわたしの主なテリトリーだからだ。あの本はここにあったはずなのに見当たらないけれど。
「あ、あんなところ……」
思わず声が出た。あの本が高いところにあったのだ。脚立がないと届かないところだ。わたしの身長では目に入らないのでわからなかったのだ。
「どうしてあんなところに」
あの本に手が伸びる。はっと見ると脚立に立っている女子がいた。背伸びをしてあの本を手に取ったのは
「あ、その本!」
「な、なに?」
「ううん、なんでもない。金澤さん、その本好きなの?」
「まだ読んでないからわからないけど……」
「あっそうだよね、ごめん」
名前は知ってるけど話すのは初めてだ。話しかけようと思ったけれど金澤さんは本を開いて読み始めた。読書の邪魔をされるのがいやなのはよくわかるからわたしは黙った。
「あっ」
金澤さんはすぐに本を閉じた。表紙の女の子がわたしを見ている。大きな黒い目でじっと見つめられた。わたしはなんだか元気が出た。
わたしが表紙の女の子と見つめ合っていることなど知らない金澤さんは、また脚立に乗った。本を逆さに収納しようとする。
「
「えっ」
「ほら、逆さま。逆さまじゃだめだから。ね」
「えええ、別にいいじゃない」
不服そうに金澤さんは言った。その表情はものすごく迷惑そうでわたしははっとした。
「あ、ごめん……」
ちゃんとしていないと気持ち悪いのだ。ただそれだけだ。金澤さんはいやそうな顔でわたしを見ている。
「それともなに、逆さまに入れたら呪われるとか?」
「えっ?」
「うわぁ怖い。湊さんそういうの詳しいんだ?」
「そんなことない、けど」
「なんかやだ、怖いし。湊さん近寄らないで」
そう言って金澤さんは向こうに走って行ってしまった。ほかの女子たちに話しかけてはくすくす笑っている。なにを笑っているのか、どうして笑うのかわたしにはわからない。とても不安になったしとても焦った。
(なにかやっちゃったのかな、わたし)
前の学校でもこういうことはあった。わたしがみんなに笑われるようなことをしたのかもしれないと感じることもあった。それでも前の学校の友達はこれほど不可解な行動は取らなかった。だからわたしのなにが悪いのかわからないのだ。
本が逆さまだと指摘した日からだ。わたしはあからさまに無視されている。今まではわたしから声をかければ相手にしてもらえた。けれど今では話しかける隙も与えてもらえない。わたしのなにが悪かったのか。気になって仕方がない。でも誰にも訊けない。そんな雰囲気じゃない。ここしばらくわたしはずっとおろおろしている。クラスの雰囲気に入り込むどころかますます遠ざかっているような気がする。
その日の給食の時間が終わったあと。北島さんたちのグループが賑やかにしゃべりながら教室を出ていこうとした。北島さんのスカートのポケットからなにかが落ちた。手のひらに載るくらいの白っぽい四角いものだ。北島さんは気づかなかったみたいで先に行ってしまう。
「あ、北島さん!」
わたしは声をあげた。グループのほかの子も教室中のみんなもわたしを見た。
「それ、それ!」
みんながわたしを見たことに嬉しくなった。喜んでいる場合ではないというのはわかっているけれど、みんながわたしを見てくれることなんて今までなかったのでつい喜んでしまったのは確かなのだ。
「北島さん、これ落としたよ」
「えっ」
わたしが拾いあげたのは淡いピンクの小さなポーチだ。なにが入っているのかはわからないけれど汚れもなくきれいなので大切なものなのだろうと思った。
「はい、気をつけてね」
「北島、なにそれ?」
ひょいと覗き込んできたのは
「なにそれ? なにか入ってるんだ?」
「う、るさい……隈本」
「なんだよ、見せろよ!」
北島さんにいつもの勢いはない。いつもの北島さんならにやにやしている隈本くんを怒鳴っているところなのに。
「いいだろ、貸せよ」
「あ、っ!」
隈本くんがポーチを引ったくった。まわりの女子か揃って悲鳴をあげる。わたしは困惑した。
(なに? いったいなにが入ってるの?)
「わぁぁっ、なんだこれ!」
「知ってる! おれ知ってる! 生理のナプキンだ!」
「北島おまえ、こんなの持ってんのか!」
「生理だって! 生理、生理!」
男子はみんな揃ってなにかに憑かれたかのようにけたたましく笑った。わたしは驚いた。わたしはまだ生理が始まっていないからぴんと来なかったけれど、男子たちの騒ぎ方、北島さんたちの赤くなったり蒼くなったりの顔色や焦った表情を見ていると「なにかまずいことをしてしまった」ということだけは理解できた。
「そんな、生理になったらナプキン使うのあたりまえでしょ?」
わたしが言うと、男子も女子も揃ってわたしを見た。みんながわたしの話を聞いてくれる。こんなことは今までになかったのでわたしはどきどきした。
「なんでそんなに大騒ぎするの。生理になるのは仕方ないじゃない。ねぇ?」
生きてるんだからトイレにも行くし生理にもなる。男子も女子もわたしをものすごく変な顔で見た。
「湊って変なやつ」
吐き捨てるように隈本くんが言った。まわりの男子も同じように変な顔をしている。
「変なやつ」
「変なの」
口々に言いながら男子は行ってしまう。よくわからないながらもあたりまえのことで大騒ぎする男子から解放されてほっとした。わたしは床に落ちたナプキンとポーチを拾う。
「よかったね、男子は生理がないからわからないんだね」
少なくとも同じ女子として北島さんやそのグループの女子たちの気持ちはわかるつもりだ。「わかってない男子は困るね」という気持ちでわたしは笑顔で北島さんにそう言った。ナプキンを渡す。
北島さんは真っ赤な顔のままわたしが渡したものを乱暴に引ったくった。北島さんのグループの女子が怒った顔をしている。
「サイテー。湊さん、北島さんのこと嫌いなの?」
「こんな嫌がらせ、本当に最悪」
「嫌いだとしてもやりかたってあるよね。こんないじめかたするとか」
「え、ええっ?」
思いもしないことを言われた。わたしはびっくりしてまわりを見まわす。どの女子も怒っている。
「湊さんがこんな人だとは思わなかった」
「変だけど、いじめをやるような人だとは思ってなかったのに」
「なに……どういうこと?」
驚くばかりのわたしの耳に違う女子の声が聞こえた。
「とぼけるの?」
「湊さん、こういう人だったんだね」
「みんな、やめたほうがいいよ」
わたしを責める女子たちの中、庇ってくれる女子がいてほっとした。わたしは縋るようにその女子を見た。
「湊さんをいじめたら呪われるよ」
「えっ……」
そう言ったのは金澤さんだ。
「そういうの、湊さん詳しいから」
「そういうのって、呪いとか?」
「えーっそうなの? こわーい」
「そんなこと、ない!」
わたしは必死に言いつのったけれどみんな「こわーい」「やだぁ」とひそひそ言い交わすばかりだ。本当に怖がっているような人からふざけてるみたいな人までいろいろ。それでもこの学校に転校してきてからクラスのみんながこんなにわたしに注目してくれることはなかった。わたしは戸惑いながらも少し嬉しかったのだ。
なにを言っても北島さんたちは聞く耳を持たなかった。わたしは焦り始めた。注目されて嬉しいなんて言ってられる状態じゃない。
「つまらないことしてるんじゃないよ」
そこに別の声が飛び込んできた。わたしは驚いた。呆れたような顔をしているのは室星さんだ。わたしの隣の席の室星まりえさん。
「室星さん……」
北島さんは怯える顔つきになった。室星さんはやはり呆れたような目つきで北島さんを見ている。室星さんはクールというかドライというか、クラスの男子にも女子にも混ざらない孤高の存在だ。わたしとは違う意味でひとりだけれど室星さんが気にしている様子はまったくない。それどころか好んでひとりでいるようだしクラスの子たちも怖がっているかのように遠巻きにしている。そういえば休み時間に室星さんの姿を見ることはない。どこか特別な、室星さんだけの場所にいるのだろうか。そんな場所があるのかどうかはわからないけれど、室星さんにはそんな不思議なイメージがよく似合う。
「いじめとかめんどくさいんだけど?」
「い、いじめは、湊さんのほうだもん!」
室星さんは眉をしかめて言った。いつになく焦った様子で北島さんが声をあげた。わたしはびっくりしたけれど室星さんは眉ひとつ動かさない。
「こうやって取り囲んで責め立てるのもいじめだよ」
「室星さん……先生に言う?」
ますます怯えた調子で北島さんが言った。室星さんは答えない。じっと北島さんを見る。北島さんが怯んでいても気にしない。
「……ふぅん」
そのまま室星さんはきびすを返して行ってしまった。わたしは唖然とした。北島さんたちもそれは一緒で、わたしたちは目を見合わせてしまったくらいだ。北島さんはすぐにぷいと視線を逸らせた。
「湊さん、怖い人だから」
その日からわたしはそういう扱いになってしまった。完全に無視されるとか具体的ないじめをされるということなら先生やおばあちゃんに相談できる。でも今まで以上に空気になってしまったなんてどういうふうに相談すればいいんだろう。しかも今までは話しかければ答えてもらえたのに、今は話しかける前に逃げられてしまう。授業なんかで必要なことを尋ねる隙も与えてもらえないのでわたしはますます孤立してしまった。
だからわたしは今まで以上に図書室に通った。ほかに居場所がないからというのは大きな理由だ。本を読んでいればいやなことを忘れられるというのもある。それ以上にたくさんの本のある場所は魅力的だった。
わたしはひとりで図書室に向かう。図書室は教室のある棟とは離れている。渡り廊下を通らなくてはいけない。図書室がいつも静かなのはそのせいもあると思う。
渡り廊下から図書室のある棟に続く階段に女子が三人いた。三年生か四年生くらいだろう。きゃっきゃと賑やかにしゃべっている。三人は手をつないで階段の上に立っている。ショートカットの女子、後ろでひとつに結んでいる女子、ボブカットの女子の順番だ。
「行くよ」
「うん、
「わかってる!」
真ん中の後ろでひとつ結びの女子は「紗規」と呼ばれている。そのまま三人は階段の段を抜かして、踊り場にぴょんと飛び降りた。
「あ、っ!」
思わず声が出た。それでも叫びそうになるのを懸命に抑えた。また変だと言われたくない。だからわたしは黙っていた。三人の女子はわたしを訝しがるように見ていたけれど手をつないで行ってしまった。
(真ん中の子、なんだか薄くなってる?)
後ろでひとつに結んでる女子、紗規さんだ。紗規さんの体が透けている。半分透明になって渡り廊下の壁が見えている。背筋がぞっとした。暖かい季節のはずなのに体の芯から冷えた。
(やっちゃいけないことをしたのかもしれない)
本棚に差す本を逆さまにしてはいけないというのは心霊的ななにかではない。単にわたしが、きちんとしていないと居心地がよくないからだ。それがわたしは呪いに詳しいとかおかしな誤解を呼んでしまったみたいだ。でも本の上下に関しては本当に単に、わたしが落ち着かないから以外に理由はない。
でも、今は。わたしの目には三人の女子の真ん中の子、紗規さんの姿が薄く見えている。向こう側が透けているのに女子の楽しそうな様子は階段から飛び降りる前の様子と変わらない。
(だめ、そのままじゃ)
いてもたってもいられない、それでも知らない女子を呼び止めるわけにはいかないし、「あなた、透けてるよ」と言うわけにもいかない。言ったところでどうすることもできないし。せめてなにか、解決策があれば。
(そんなものあるわけないし)
どうしようもない、もどかしい思いを
人間の体が透き通るなんて、そんなことがあるのだろうか。わたしは震えたけれど三人はもう行ってしまった。わたしにはどうすることもない。己の無力さに肩を落としながらわたしは図書室に入った。
相変わらず人はいない。司書の先生もいないのだ。普通に本を借りに来た人が困るのではないだろうか。わたしは慣れた大きな部屋を横切った。『しらべる』『こころのほん』などの項目を見ながら、いちばんのお気に入りの『むかしのできごと』の棚の前に立った。
「え、っ……」
とっさにわたしは振り返った。誰の姿もない。それでいて聞いたことのある声だと感じるのはどうしてだろうか。不安と同時になんだか優しい気持ちになった。誰もいないはずの場所で感じる気配にどうしてそんなふうに思うのかはわからない。わたしはそろそろと口を開いた。
「だ、れ?」
返事はない、あるはずがない。それでもわたしは「だれ?」と尋ね続けた。誰もいないがらんとした図書室にわたしの声が響く。反応するものはなにもない、それでもわたしは「なにか」がいることに気がついた。
「なに……?」
幽霊とか、怨霊とか。恐ろしいけれど、同時にそれがなんなのか、会ってみたい。顔を見たいという気持ちが胸の奥に奥に湧きあがっている。
「なに? だれ? どこにいるの?」
わたしは図書室をうろうろした。呼ばれているような気がして立ち止まったのは、あの本棚の前だ。あの黒い表紙の本、黒いレースのドレスを着たおんなのこが表紙にいる本は、逆さまだった。わたしはぞっとした。
手を伸ばして本の上下を正そうとした。手がすべってしまって本が落ちた。あの黒いドレスのおんなのこがわたしを見ている。じっと見つめてくる目は真っ黒で光がなくて、それでもわたしを安心させてくれるのだ。本の表紙のおんなのこがわたしを見ているなんて。怖いはずなのに、どうしてこんなふうに思うのかわたしにもわからない。
「あなた、なの?」
ふわり、と空気が動いたように感じた。わたしの手にある黒い本の表紙、わたしを見ているおんなのこはひとつ、ぱちりとまばたきをした。わたしは驚いた。本を落とさないように手に力を込める。
「え、ええっ?」
目の前に煙のような白い靄が湧きあがった。顔に触れる。ひやりと冷たい。不愉快ではない。
「あ、っ……」
「こんにちは」
「うん、こんにちは」
黒いドレスのおんなのこは言った。本の表紙から現れた、その奇妙さに比して声は普通で、優しくて柔らかかった。普通に答えてしまったけれど、もちろん普通の女子であるはずがない。それでもわたしには違和感がない。よく見るとおんなのこの体は少し透けている。向こうが見えるほどではないけれど、どう見ても人間ではない。そもそもこんなドレスを着て学校にいるということからして普通ではない。
「海莉、この間の子のことだけれどね」
「えっ、ええと……あなたの名前は?」
「るぅ」
名を呼ばれたからびっくりした。とっさに尋ねるとおんなのこはあっさり答えてくれた。
「るぅ、ってかわいい名前だね」
「ありがとう」
るぅは特に感慨もなくそう言った。淡々と言われたことでわたしもなんだか落ち着いた。いきなり目の前に見知らぬおんなのこが現れてもっと動揺すべきなんだろうけれど、わたしは自分でもびっくりするくらいに落ち着いている。
るぅはそんなわたしをじっと見ている。赤い小さな唇からため息が洩れた。
「残念だけど、あれはもうだめね」
「だめ、って? あれってなに?」
「取り憑かれた」
どきり、とわたしの胸が大きく鳴った。
「そう。海莉も見たんでしょ? 階段からジャンプした三人の女の子。あの子たち……真ん中の子よ」
「だめ、って……どういう、こと?」
「あれは、異界に飛び込む儀式だから。あの子はもう異界に行っちゃったわ」
「異界……」
わたしはごくりと固唾を呑む。るぅの気の毒そうな、それでいて諦めたような目つきにまたどきりとした。
「この間、わたしを……この本を逆さまにしちゃいけないって言ったんだけど。なんかそれが呪いだとかいろいろ言われて、あの」
「そのとおりよ」
「えっ」
「本を逆さまに収納するのは、儀式だから」
「儀式……?」
「降霊のね。あなたが止めなかったらあの子は今ごろどうなっていたか。異界に行っていたかも」
るぅはため息をついた。その病的な顔色、お葬式みたいな色の服(レースがいっぱいで本当にかわいい)という見かけに似合わず、人間的な仕草が自然だった。自然すぎてかえって違和感を覚えた。
「異界って、なに? どこにあるの?」
「ここではない、どこか」
うたうように、るぅは言った。なんだか心が浮き立つような響きだ。それでも恐ろしい場所には違いない。わたしは単に居心地悪くて本の上下を指摘しただけだけれど、それが儀式だったなんて。ぞっとした。そんなわたしをるぅは大きな瞳で見つめている。
そんなふうにわたしは、るぅに出会った。るぅは言葉数は多くなかったけれど、静かにわたしの話を聞いてくれる。るぅの前ではわたしは「話を聞いてもらわなきゃ」「相手の興味を惹き続けなくちゃ」「退屈させたら無視される」というプレッシャーから逃れてゆっくりと話すことができた。るぅはわたしの話を遮らないしわたしが言葉に詰まっても静かに待っていてくれるので焦らずに話せる。だからいつもみたいにまくしたてる羽目にならなくて、いつになくわたしはとても穏やかな気持ちになれた。
るぅに出会って、放課後なんかに話すようになって。学校中を駆け巡ったニュースがわたしの耳にも入った。低学年の女子がひとり、階段から落ちて入院したというのだ。三年生の女子だと聞いた。
わたしは図書室で、るぅとその話をした。
「あれって……あの子、なのかな?」
「言ったでしょ、異界に行っちゃったんだから」
淡々とるぅは言った。
「真ん中の子は、もう異界に行ってしまったから」
「でも今は病院にいるって。まだ異界に行っちゃってはいないんじゃないの?」
まだ間に合うんじゃないの? 不安な気持ちでわたしは訊いた。
「残骸があるだけよ。確かめてごらんなさい。あの子はもう、この世にはいない」
「う、うん……」
確かめると言ってもどうすればいいのか。わたしは悩んだ。こうしているうちにもあの女子、紗規さんはどうなってしまうのか。わたしが悩んでも仕方のないことだけれど。
異界に行ってしまったという紗規さんのことが気になって仕方がない。いつもの教室でいつも通り隣に座っている室星さんに、わたしは話しかけた。
「あの、室星さん。たぶん三年生だと思うんだけど、紗規って名前の女子、知ってる?」
わたしは迷った挙げ句にそう声をかけた。聞いた室星さんはいつもみたいなクールっぷりよりも少し、感情が見えた。不思議に思いながらも取りつく島がありそうだと感じる。わたしは尋ねた。
「あの、その……紗規って女子が。ええと、室星さんは……幽霊とかそういうの信じる?」
ついそんなことを言ってしまって「しまった」と思った。信じないだろうと思った。クラスの子たちに対する態度を見ていると幽霊なんて信じるタイプにはとても見えないから。
やっぱり室星さんはいつものクールな表情のままに見えた。わたしは脅える。「なにを言っているの」って言われるだろう。わたしはばかにされる覚悟をした。
(変なこと訊くんじゃなかった)
室星さんはじっとわたしを見た。
「信じる信じないじゃないよ」
呆れたような表情のまま、室星さんは言った。
「いるんだよ」
「い、る……?」
「そう。湊さんは目の前に猫が歩いてるのに、その猫の存在を疑ったりする? 目の前にいるのにいないって思ったりする?」
「しない」
「でしょ? 幽霊もいるんだから、信じるとか信じないとかない」
「そ、うなんだ……?」
わたしが戸惑っていると室星さんは言った。
「わたし、入院した近所の子のお見舞いに行くけど、湊さんも来る?」
「お見舞い?」
「そう。階段から落ちて怪我した子がいて」
「う、ん! 行く!」
知り合いでもないのに好奇心だけでお見舞いに行くなんていけないかと思ったけれど、室星さんはあたりまえだという顔をしている。その日の放課後、室星さんが向かったのは少し離れたところにある病院だ。室星さんは迷うこともなくバス代を払いバスに乗る。わたしは一生懸命真似をした。子供だけで乗っていいのかわたしはどきどきしたけれど、運転手さんは「まりえちゃん、どこ行くの?」と気軽に話しかけてくる。
「お見舞い。おじいちゃんも行けって」
「おお、室星の旦那が。なら行かねばね」
「旦那?」
聞き慣れない言葉にわたしは首を傾げた。運転手さんが笑う。
「引っ越してきたばっかりかな」
「そう。案内してあげようと思って」
「そうか、まりえちゃんの案内なら確かだな」
笑って、運転手さんは前を向いた。邪魔してはいけない。室星さんはすたすたと歩いて座席に座る。わたしも慌てて座った。
「ねぇ、室星さん……」
「まりえでいいよ」
「あっ、うん、まりえちゃん。まりえちゃんはよく病院行くの?」
「よくは行かないけど。おばあちゃんが入院してたから、慣れてる」
「そうなんだ」
室星さん、じゃなくてまりえちゃんは冷たいわけじゃないんだけど、あんまり会話を長続きさせようという気持ちがないみたい。バスに揺られながらわたしは戸惑ったけれど、まりえちゃんがなにも言わないのでわたしも黙っている。それでいいみたい。「会話を引き出さないと相手が退屈してるかもって心配」「退屈させて嫌われたらどうしよう」「黙ってたら暗いって思われる」「ばかにされる」と焦る必要がないのは意外と快適だった。
(あれっ、わたしそんなふうに感じてたの?)
嫌われたくないとか暗いと思われたくないとかばかにされるとか。自分がそんなことを考えていたとは思わなかった、気づかなかった。今までずっと。そんな自分にわたし自身が驚いた。
(わたし……自分自身のことを全然知らないんじゃ? 自分のことなのに?)
混乱しているうちにまりえちゃんが降車ボタンを押した。病院の前のバス停で降りる。まりえちゃんはまっすぐ受付に歩いていって「室星ですが」と大人みたいに受付の人と話をした。
「五階だって、行こう」
慣れた足取りで病室まで行き、まりえちゃんはノックをした。大部屋の奥のベットにいるのは、あのとき階段からジャンプしていた女子たちだ。ベッドの上にいるのは真ん中の子(紗規さん)、両脇にいるのはあのとき左右で真ん中の子の手をつないでいた女子たちだ。カーテンの向こうに大人の女性がいて、まりえちゃんに気がつくと子供に対するものとは思えない丁寧な態度を取った。
「まりえちゃん、来てくれたんだ」
「うん、階段から落ちたって聞いたけど。大丈夫?」
「大丈夫」
ベッドの上の女子はそう言ったけれど、口調も顔色もまったく大丈夫そうではない。わたしは軽く挨拶しただけでベッドの足もとの方に立った。女子たちはひそひそと話をしている。
「写真撮ろう、写真」
ボブカットの女子がそう言った。まりえちゃんがスマホを構え、ショートカットの女子、ベッドの上の紗規さん、ボブカットの女子、三人が並んで写真に収まった。
「……!」
「どうしたの、まりえちゃん」
「ん……」
まりえちゃんはなにも言わず、わたしにだけスマホ画面を向けてきた。ぎょっとしてわたしは声をあげてしまった。
「なに? どうしたの?」
「見ない方がいい」
まりえちゃんはそう言ってスマホをしまおうとしたけれど、ショートカットの女子が驚くほどの早さで飛んできた。スマホをひったくる。
「な、に! これ……!」
その子は驚いている。驚いて目を大きく見開いているけれど、同時にどこか「やっぱり」という表情が見て取れた。スマホの画面には三人の女子が映っている——と言いたいところだけれど、ベッドの上のひとり、紗規さんは性別も年齢も判別しがたい、茶色い骸骨みたいな、ミイラのような姿でこちらに向かって弱々しいピースサインをしているのだ。
「あ、っ……」
「さ、き」
紗規、なんてかわいらしい名前なんて似合わない、恐ろしい姿——その姿は画面の中だけではない、ベッドの上の紗規さんも同じ姿になっている。その場の皆が悲鳴をあげた。
「わたし、こんな……こ、んな……」
紗規さんであるはずのミイラは、聞き取りづらいがさがさの声で唸った。骸骨みたいな顔の、抉れたみたいな眼窩の中にある眼球がこちらを見ている。眼球は血走って、やけに白目が透明っぽい白になっている。それがぎらぎら光ってわたしたちをじっと見ている。体の芯がぞくりと震えた。わたしは後退りをした。
「おまえも道連れにしてやる!」
女子のものとは思えないがさがさした声が病室に響く。同時にまりえちゃんが大声をあげた。
「あっち行け!」
まりえちゃんの叫びなんて。わたしの知っているまりえちゃんと同じ人だとは思えなくてびっくりした。紗規さん——だったモノ、も驚いたように大きく震えた。同時に目の前に白いものがぱらぱら飛び散って、わたしはとっさに目を閉じた。
「はっ、は……あ、っ……」
まりえちゃんは肩を上下させて大きく息をしている。まりえちゃんが投げたのは塩だった。いつの前に取り出したのか。準備のよさにびっくりしたけれど、まりえちゃんはこういうことだってわかってたのかもしれない。
病院は騒然となった。まりえちゃんはわたしに「行くよ」と言って背中を向けた。紗規さんはぐったりとベッドの上に伏せていて、ふたりの女子が唖然と見つめている。
病院を出だ。わたしは先を歩くまりえちゃんを追いかけながら話しかけた。
「なんだったの、あれ」
「ねぇ、海莉ちゃん」
まりえちゃんがわたしをそう呼んだので、まずはそれにびっくりした。じっと見つめられてどきどきしてしまう。
「あなたも、
「あ、れ?」
聞き返しても、もうまりえちゃんは反応してくれなかった。でもその歩く姿から、わたしはなんとなく察することができたのだ。
あれ、ってもしかして、るぅのこと?
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