第五章 連れて行かないで

 学校の裏手には小高い山がそびえている。

 私の通う学校は、大嶽小学校という。その名はこの山から来ている。高くて大きく、険しい山。

 山と、沼。この小さな町はそれらからできている、できていた。私はこの山と沼を守る室星家の、最後の娘だ。

 室星の最後のひとりになるつもりなのは両親も承知のことだ。私には弟がいた、しかしもういない。弟がいなくなったとき、私は室星の最後のひとりになることを決めた。私は大人になっても家庭は持たないし子供も持たない。恋愛をするつもりもない。

 私はちらりと、隣を歩いている女の子を見た。湊海莉ちゃん。東の方から引っ越してきた女の子は、自分がなにを連れてきたのかわかっていないようだ。もちろん本人に自覚があるはずがない。異邦人というものは得てしてそういうものだ。

 海莉ちゃんは、はぁはぁ肩を揺らしながら歩いている。都会から来た子にこの斜面は辛いかもしれない。私は手をつないで引っ張ってあげるしかできることはないけれど。できるかぎり頑張って引っ張ってあげたいけれど。

「な、んで、こんな、こと」

 海莉ちゃんは肩で息をしている。私はついつい笑ってしまうけれど海莉ちゃんは真剣な顔つきで山登りをしている。靴が新しいのが微笑ましい。

「すっごい、しんどいん、だけど?」

 東の方向から海莉ちゃんがなにを連れてきたのか。それはこの地を浄化するものかより汚染するものか。それはまだ、わからない。わからないけれどそれが確かにあると私は知っている。この地になにかの変化が起きるということも。だから私はなおもしっかりと海莉ちゃんの手を握った。

「まりえちゃん、意外と、体力あるね」

「そりゃ、この山は小さいころからよく来るところだから」

「それに、しても」

 なおも肩を上下させながら海莉ちゃんはあたりを見まわす。はぁぁ、と大きく深呼吸をする。

「わ、ぁ……すごい」

「ふふ、見晴らしいいでしょう」

「うん、ここまで来ると達成感があるね」

「頂上はまだ先だからここが最後じゃないけど。でも人間が登れるのはここまで」

「人間、が?」

 海莉ちゃんは不思議そうな顔をする。まったくわかっていないようだけれどそれでいて素直に私についてくるあたり、とても好ましい子だ。こんな海莉ちゃんがなんて、本当にかわいそう、だとしか言えない。申し訳ない、そうは思うけれど、もう遅い。せめてこうやって少しでも障りを忌避できるなら、その方法を採らないわけにはいかないと思ったのだ。

「初めて来たよ、この山に入っていいとは思わなかった。気持ちいいね、来られて嬉しい」

「喜んでもらって嬉しい」

 海莉ちゃんは嬉しそうに笑った。クラスで孤立していたころは元気なくてかわいそうだったけれど今は本来の海莉ちゃんなんだと思う。友達らしい友達は私しかいないけれど、それで少しでも居心地がいいのならよかった。

「どうしてここに? 登っていい山だなんて思わなかった」

「うん、普通は登っちゃだめなんだ」

「えっ、なら今日はどうして?」

 女は山に入ってはいけない。それは単なる古くさい迷信ではない(もちろんそれを笠に着て時代遅れの男尊女卑を振りかざすようなのもいるけれど)。私は海莉ちゃんを見た。

「海莉ちゃんさ、わかってるよね」

「……菊くんのとき、まりえちゃんが言ってたこと?」

「うん、そう」

「ここ、なにかあった場所なんだよね」

「そうだね、ここ……主には学校がそうだけど。ここは呪いのこもった土地だから」

「え……」

 海莉ちゃんは大きく肩を震わせた。

「呪いとか、今さらでしょ。驚くこと?」

「そうだけど、ええと」

 海莉ちゃんは戸惑っている。私は肩をすくめて笑う。海莉ちゃんも笑った。

「ねぇ、なんでこんなところに連れてきたの? 呪いが関係あるの?」

 私は黙って視線をある方向に向ける。海莉ちゃんもそちらを見た。

「あっ……」

 そちらにあるのは鳥居だ、とても小さくて、よくある鳥居みたいに赤くないから神社っぽくないかもしれない。ただ草や苔はない、落ち葉の一枚もなくきれいに掃除されている。

「きれいだね」

「町内会の持ちまわりで毎週掃除してるし、ときどき、時期は決まってないけどお祭りもある」

「へえっ、お祭り!」

 ぱっと、海莉ちゃんが期待に目を輝かせた。私は笑った。

「海里ちゃんが期待しているようなものじゃないよ、踊ったりうたったりとかないし。祝詞をあげるだけで、地味」

「そうなんだ……」

「そんなにがっかりしないで。それに祭に出席できるのは決まった人たちだけだし」

「そうなんだ。わたしは無理だよね、余所者だし」

「海莉ちゃんが参加できないのはそれが理由じゃない、女だからだよ」

「えっ、今どき? 時代錯誤……ってか、神社の祭に時代錯誤とかないか……」

「確かに時代錯誤だけど、神社の祭りが女人禁制なのは男尊女卑とかが理由じゃない」

「じゃ、なんで?」

 説明したいところだけれど、あたりの気配を探っていた私は感じた予感に口を噤んだ。

「あとで説明するね。それより、お詣りしよう」

「うん、それはいいけど。女人禁制なのにわたしたちが入っていいの?」

「うん、神さまが女嫌いとかそういうのじゃないから。むしろ女の子のお詣りは歓迎されると思うよ」

「えっ、なんで?」

「神さまも、おんなのこだから」

 海莉ちゃんはなおも聞きたがっている顔をした。でも私はまた耳を澄ませる。ぼんやりしていられる時間はなさそうだ。私は鳥居の前で頭を下げた。海莉ちゃんも深々と会釈する。丁寧な仕草にはとても好感が持てる、海莉ちゃんはそういう子だ。よくわかってるから、だからこそ私はなんだか不安になって海莉ちゃんの手首を掴んだ。鳥居をくぐって参道を歩く。とはいえほんの数歩、賽銭箱も社務所もない。ここにいるのは私たちだけの、大嶽にとっての神さま(たち)だけだから。

「神社のお詣りの方法、わかる?」

「うん、二礼二拍手一礼、だったっけ?」

「そう。二回お辞儀、二回拍手、そして一回お辞儀、だね」

「わかった」

 海莉ちゃんは真摯なまなざしを拝殿に向けた。最後のお辞儀をした海莉ちゃんは少し長く頭を下げていた。海莉ちゃんは神さまになにを語りかけているのか少し不安になった。

「行こう、海莉ちゃん」

「うん、お待たせ」

「海莉ちゃん、なにを神さまに……」

 尋ねようとしたけれど、はっと私は顔をあげた。いけない、もういけない。

「行こう」

「えっ、うん」

 にわかに私は焦り始めた。海莉ちゃんの手首を掴んで神社をあとにする。急ぎ足の私に海莉ちゃんは悲鳴をあげた。

「ごめんね、そろそろまずい」

「まずいって、なに?」

「猿たちが、気がついた」

「え? 猿?」

 海莉ちゃんは目を見開いてまわりをきょろきょろとあたりを見まわした。

「この山が女人禁制の理由だよ。猿が出るの」

「時代錯誤が理由じゃなくて? 猿が理由?」

「うん、女のほうが腕力が弱いことを、猿たちは知ってるんだよ」

「えっ、猿が男女を見わけられるの?」

「見わけられるんだよね、どうしてかはよくわからないけれど」

「でも、お猿さんだよね? 熊とかじゃないしそんなに怖い?」

「怖いよ」

 神社の向こうを見やる。がさがさっと音がした。ちらりと茶色いものが木陰の向こうに見えた、ような気がして私は焦った。

「降りるよ、早く」

 いつもなら慣れた、足もとが安心な下山の道を歩くのに。海莉ちゃんを被害に晒さないために私はよけいに焦ってしまい、整備されていないところに足を踏み入れてしまった。

「う、わっ!」

「きゃあっ!」

 ふたりして斜面をすべり落ちてしまう。それほど険しい場所ではない、それでも複数の猿の気配が感じられる。いきなり襲いかかられる危険は今のところ感じられないけれど時間の問題だろう。

「まりえちゃん、あっち……」

「う、ん」

 私は海莉ちゃんの手をぎゅっと掴んだ。海莉ちゃんも握り返してくる。そうすると力が伝わってくるような気がする。私は海莉ちゃんにささやきかける。

「猿のほうを見ちゃだめ。目が合ったら狙われるから」

「う、ん」

「山の道だけ見て、振り向かないで」

「わかった」

 ふたりして足もとの悪い中を走る。猿たちが追いかけてくるような気配はない、まだ。でも油断はできない。

「まりえちゃん、大丈夫だよ」

 しっかりした口調で

「わたしが一緒にいるから。まりえちゃんと一緒にいるから」

「う、うん」

 驚いた私は海莉ちゃんを見る。海莉ちゃんは頼もしい笑顔を浮かべている。

「舗装した道を捜そうよ、来たときの道でしょ? 足もとも悪いしますます迷っちゃう。落ち着いて歩きやすい道を捜すのが結局早道だと思うよ」

「そうだね……そう、かも」

「だから落ち着いて、道に戻ろう? 舗装された道ならもっと早く走れるし逃げられるよ」

「うん……」

 私は驚いていた。そんな私を見て、海莉ちゃんは小さく笑った。ちょっとだけ恥ずかしそうな笑顔はとてもかわいい。

「まりえちゃんもそんな顔するんだね」

「え?」

 海莉ちゃんはなんだか嬉しそうで、どうしてなのか聞こうとした。でもその理由を訊く前に、近くでがさがさっと音がした。

「きゃっ!」

「早く!」

 猿たちの立てた音かどうかはわからないけれど、私たちは焦燥を煽られて手をつないだまま走った。

「あっ、あっち?」

「そうかも、行こう!」

 慎重に走ったつもりだったけれど木の枝を踏みつけてしまった。太くて足を引っかけた。私は大きな悲鳴をあげてしまった。

「あ、ああっ!」

 同時に、猿たちの鳴き声が響き渡る。しまったと思ったけれどもう遅かった。私はその場に転んだ、海莉ちゃんが抱き止めてくれたけれどふたりしてその場に転倒し、ごろごろ地面を転がってしまった。

「いったあ……」

「まりえちゃん大丈夫?」

「うん、擦り傷くらい、みたい」

 痛いところを擦りながら顔をあげる。一瞬にして怪我どころではなくなってしまった。

「さ、る……あそこ!」

「まずい」

 私は立ちあがろうとして、でも思わぬ部分を痛めたらしくて動けない。

「まりえちゃん、まりえちゃん!」

 海莉ちゃんに抱きしめられた。焦燥と不安が消えていく。海莉ちゃんの腕の中で落ち着いたけれど危機が去ったわけではない。気味の悪い鳴き声があたりに響き渡っている。海莉ちゃんに抱きつく腕に力がこもった。

「大丈夫、大丈夫。まりえちゃん、心配しないで」

「うん、うん」

 きぃーっ! と猿の鳴き声が響き渡る。私は大きく震えた。ぎゅっと目を瞑った。海莉ちゃんにしがみつく。

「あ、あっ!」

 私は強く目を瞑ったからわからない。あたりに猿の鳴き声が響き、同時に強い強い風が吹いた。髪がばさばさ広がって舞って私の顔を叩いた。

「え……あ、っ……?」

 猿たちの声が遠のいていく。猿の鳴き声は脅えているように聞こえる。ゆるゆると私は目を開けた。

「まりえちゃん、もう大丈夫みたい」

「な、んで?」

 猿たちがいなくなった理由がわからない。まわりはまた静かになった。きょろきょろまわりを見まわして、海莉ちゃんを見た。私を励ますような頼り甲斐のある表情をしている。

「るぅ、が」

「えっ?」

 おんなのこを、海莉ちゃんはそう呼んでいた。おんなのこがそう名乗ったらしい。るぅ、なんて。まるで最近の子供みたいな名前。わたしは。とはいえ海莉ちゃんの知っている「あのこ」は厳密には私の知っている人物ではないのだろう。海莉ちゃんの話によると長い黒髪でレースがたくさんついているドレスを着ているらしいから、ますます私の知っている人物ではないのだろう。なぜ「あのこ」がそんな姿をしているのか心当たりはある。

「るぅが、助けてくれた。るぅの声が聞こえたんだ。こっちでこうやって、身をかがめていれば猿は諦めるって。なんで猿たちがあんなに脅えて逃げたのかはわからないけれど」

「そうなんだ……やっぱり」

「やっぱり? どういうこと?」

「海莉ちゃんは、るぅに好かれている」

「あ、うん……そう、かも。なんで海莉ちゃん、そんな顔するの?」

「まりえちゃん、なんでそんな悲しそうな顔してるの? わたしがるぅに好かれてると、なにか……悲しいことでもあるの?」

「え、っ」

 私は思わず頬に手を置いた。そんな私に海莉ちゃんは肩をすくめて少し笑った。

「今日のまりえちゃん、なんだかかわいい……って言ったら怒る?」

「怒らない、けど」

 ふふっと海莉ちゃんは笑った。海莉ちゃんは私の手を握っている。海莉ちゃんの手はとても温かかった。私たちはそのまま山を下りた。

「まりえちゃん、怪我は大丈夫?」

「うん、今はもう大丈夫。ちょっと捻っただけみたい」

「よかった」

 海莉ちゃんは笑う。その笑顔はいつも私を癒してくれる。私にとってたいせつなものだ。つられて私も微笑んだ。

 手をつないだまま町に戻る。私は尾下にまで海莉ちゃんを送っていった。

「おばあちゃん、ただいま」

「おう、おかえり」

 おばあちゃんは短く返事をした。愛想のいい人ではない、けれど海莉ちゃんはおばあちゃんにとても懐いている。その理由は私にもわかっている、尾下のおばあちゃんはとても誠実だ。子供でもばかにしない、中身のないわかりにくいだけの言葉で本質を隠したりしない。尾下のおばあちゃんが正しい人間だからだというばかりではない、おばあちゃんはわかっているのだ、知っているのだ。この土地にあるもの、これからなにが起こるのか。そして海莉ちゃんがなにを連れてきたのか。海莉ちゃんが

「ねぇおばあちゃん、さっきね、るぅに会った」

「ほぉ、そうか。どこで?」

「山で。まりえちゃんが神社に連れて行ってくれて。お詣りしてきたよ」

「そうか……」

 尾下のおばあちゃんは私を見た。頷かれてほっとした。あそこに祀られているおんなのこ、海莉ちゃん(と私)を助けてくれたおんなのこ。

 海莉ちゃんは心配そうな顔をしておばあちゃんを、そして私を見た。

「あの、さ。北島さんとか隈本くんとか、菊くん……まだ見つからないのかな」

 おばあちゃんは少しだけ眉をあげた。私を見る。

「そのためにも、まりえちゃんはおまえを神社に連れて行ったんだよ」

「どういうこと?」

 海莉ちゃんが振り返って私を見る。

「猿たちが出てきたのもだからだと思う。海莉ちゃんがここに来て、半年。そろそろ動くころだと思って」

 私はそう言って、言葉を切った。海莉ちゃんは不思議そうな顔をした。

「弟がいなくなったのと同じ時期だから」

「弟? まりえちゃん、弟さんがいたの?」

「うん。もういないけど」

「あ……そうなんだ」

 おかしなことをしゃべりまくると評されることの多い海莉ちゃんだ。それは誰のせいでもない、単なる海莉ちゃんの個性に過ぎないんだけれどそれを理解しない子も多い。それでいて海莉ちゃんはなんでもむやみにしゃべりまくるわけじゃない。ちゃんと訊いてはいけないこと訊くべきではないことをわかっている。だから私の弟のことも訊いてこない。

 それでも気になるのは仕方がない。ちらっと私を見てくるのがかわいいと思う。同じ歳の女の子にそんなこと思うなんておかしいけれど。海莉ちゃんが「変」なら私も変なんだろう。それでいい。

 弟の話をしたからだろう、それがきっかけになった。おばあちゃんがゆっくりと言った。それでいてなにかを覚悟しているような口調だった。わたしはにわかに緊張した。

「おいで、見せてあげよう」

 おばあちゃんはそう言って私たちを招いた。海莉ちゃんは驚いた顔で私を、そしておばあちゃんを見た。私は見なくてもいいけれど(今さら見る必要はない)海莉ちゃんの反応は確かめたい。あの神社でも動揺していなかった海莉ちゃんだから心配はないと思うけど取り乱したりしたらおばあちゃんだけでは対処できないかもしれないから。

 家の奥に入っていく。おばあちゃんはすたすた歩いていくのに海莉ちゃんはおどおど歩いていてなんだか少し面白かった。今はもう自分の家なのに。

「わ、っ……」

「海莉ちゃん、ここ入るの初めて?」

「うん……こんなところあるって、知らなかった」

「こっそり探検したりしないの?」

「だって、おばあちゃんが入るなって言うから」

 海莉ちゃんは少し居心地悪そうだ。おばあちゃんが少しだけにやりとしている。よほどきつく言い含めているのだろう、海莉ちゃんはだめだと言われたことにはきちんと従う。訊いてはいけないことは訊かないし、約束は守る。そんな愚直なまでの素直さは海莉ちゃんの美徳だ。そんな一面が「融通が効かない」と言われるのもわかっている。本棚に入れる本が逆さまであるのに違和感を抱くような生真面目さ。それが海莉ちゃん自身にもどうにもできなくて辛い思いをしているのだということもわかっている。それは海莉ちゃんの美徳だ。私にはそうとしか思えない。気にしないでなんていうのはおためごかしでしかないから言わないけれど。

 私がなにを考えているのかなんて知るよしもない海莉ちゃんは、奥の座敷できょろきょろしている。畳が焼けないように常に雨戸を閉めているせいもあってなんとなく湿っぽくなんとなく部屋の隅まで光が渡りきっていない薄暗さが気味の悪い雰囲気を作り出している。海莉ちゃんが脅えるのも無理はない。

「なに、ここ……こんなの部屋あるって知らなかった」

「おまえの目を誤魔化すことなど簡単だよ」

「もう」

 海莉ちゃんは膨れている。私は笑ってしまい、海莉ちゃんに少しだけ睨まれた。海莉ちゃんは座敷をきょろきょろあたりを見まわして驚いた声をあげた。

「るぅ!」

 床の間に置かれているガラスケースだ。海莉ちゃんは駆け寄ってケースの前にしゃがみ込んだ。

「るぅ……じゃないよね、だって人形だし」

「海莉ちゃんの知ってる、るぅってこんな感じ?」

「うん、見かけはこのまま。もっと大きいし普通に人間のおんなのこだけど」

 そう言って海莉ちゃんは手を伸ばした。ガラスケースの

「このドレスとか、全部一緒だね。レースとかも一緒に見えるけど、小さい。これ……なんで? なんで人形のるぅが、うちにいるの? なんで人形なの?」

「これが、るぅだよ。おまえの知ってる、るぅはこのこだろう?」

「うん、でも……人形じゃない。わたしはわたしくらいの大きさのるぅと会ったし、いっぱいしゃべった。ちゃんと人間だったし会話もできたし。それにこんなに小さくない……」

 不安げに声を震わせる海莉ちゃんの後ろから私は手を伸ばした。人形に触れる。少し動いたような気がしたのは――気のせいかもしれないけれど。

「私の弟も、この一部なんだよ」

「一部……? 弟さん、が?」

「そう。私の弟も、るぅの一部」

「どういうこと、一部って」

 私は尾下のおばあちゃんを見た。おばあちゃんは頷いた。私も一緒に頷いて、改めて海莉ちゃんの前に座った。きちんと正座すると海莉ちゃんも慌てて姿勢を正した。

「時期があるの。るぅが本当の姿になる、時期。るぅが『るぅ』になった、季節」

「ど、ういう……?」

「北島さんとか、隈本くんとか、菊くん。どこに行ったと思う?」

「ど、こ?」

「ここ」

 私が人形を指すと、海莉ちゃんは首を傾げた。

「るぅ? の人形? どういうこと? まりえちゃんの弟さんも? どうして?」

「私たちの学校、いろんな噂があるでしょう」

「うん……」

「あそこはね、昔は沼だったの。ものすごく大きい、ね。学校がすっぽり入るくらいの」

「それって沼っていうの? その規模だったら湖とかってなるんじゃないの?」

「あはは、そうかも。なぜだかそう言うんだよね」

「なんでだろうね」

 私は笑った。海莉ちゃんは自分のいだいた疑問を隠さない。そういうところが私にはとても好ましい。

「学校……は、その沼の上に建ってるってこと?」

「うん、すっかり埋め立ててね。沼は大雨が降ったら山からの濁流が流れ込んで沼は溢れた。溢れて村は水害に見舞われた。そのたびに田畑がだめになって、食べものがなくなって、みんな飢えて、争って。大変なことが繰り返し起こって。そんな状況でみんなが考えたことがあるの」

「なにを、考えたの?」

 海莉ちゃんは脅えた顔をしている。脅したくない、話してはいけないという気持ちになる。でも神社であれだけの、凶暴な猿を易々と追い払うだけの力を引き寄せられた海莉ちゃんになにも教えないままというわけにはいかない。なにも知らないまま巻き込まれるかもしれない、それは避けたい。尾下のおばあちゃんを見た。はっきりと頷いてもらったので私は勇気を得た。

「なんだと思う? そのとき村で、嫌われている子がいたとしたら?」

「嫌われて……?」

 海莉ちゃんは不安そうな顔をした。

「そう。これはものすごく昔の話。今では誰もが笑っちゃうような迷信にみんながどっぷり浸かってた時代」

「もしかして……」

「人柱って、知ってる?」

「読んだこと、ある」

「だよね。そうだね、昔の話。トンネルとか掘る工事を強制的にさせられた人たちが、工事が進まなかったり事故があったりしたら、神さまにトンネルがちゃんとできますようにって祈って、生け贄に人を埋める。そんなトンネルでは犠牲になった人の骨が見つかったりしてる。立ったまま埋められてたりして。そういうところは心霊スポットって言われてるね。なんで霊が出るかって理由を考えたら当然、軽い気持ちで遊びに行ったり、面白半分に肝試しとかしちゃいけない。それはここも同じ」

「肝試し……隈本くん、たち?」

「そうだね、隈本くんはそうかも。なにかあったのか具体的なことはわからないけれど、ただ……安らかでありたい魂を、面白半分に穢したから、かな」

「魂……」

 海莉ちゃんはごくりと唾を呑んだ。脅すつもりはないけれど、海莉ちゃんには知っておいてほしい――知らなくてはいけない。海莉ちゃんはもう無関係じゃないから。

「海莉ちゃんは、連れてきたから」

「な、にを?」

「うーん……涼しい風、かな? 清めの気。東は太陽が昇る方角だからね」

「なに……それ?」

 ますます海莉ちゃんは混乱しているようだ。たくさんのことを一気に詰め込むつもりはないけれど、海莉ちゃんの腕の中のるぅがかたかた動いている。海莉ちゃんも気がついたみたいでびっくりしている。

「わ、わわっ!」

「手を離さないで。るぅの言葉を、聞いてあげて」

「えっ、でも……」

「大丈夫、海莉ちゃんならできる。神社で起こったこと、猿の群れが襲ってきたときのこと。思い出して? 自分の中にその気を取り込むみたいなイメージで」

「えっ、え……でも、っ……わぁぁ!」

 るぅはまだかたかたと音を立てている。ふわりと立ちあがった。それでも海莉ちゃんの腕の中にいる。お母さんから離れたくない子供みたいだ。

「あのとき海莉ちゃんに……なにがあったの? るぅが私たちを、海莉ちゃんを助けてくれたんだよね?」

「う、ん。るぅの声がした。わたしに任せておいてって、るぅが言って。だからわたしは言うとおりにしただけ。るぅが助けてくれるって言うから、任せたの」

「そうか……信じたん、だね」

 私は海莉ちゃんの腕の中の人形を見た。

「この人形にはたくさんの魂が宿っている。そのもとになった魂が、この尾下の……」

 そこまで言って私は口を噤んだ。海莉ちゃんが「まりえちゃん?」と不思議そうな声をあげた。

「おねえちゃん」

「しゅう、ま……?」

 私は目を見開いた。弟の、秀馬しゅうま。私の小さな弟。聞こえてくるか細い声は最後に聞いた秀馬の声そのものだ。記憶のままの姿で秀馬がいる。目の前に立っている。最後に来ていた白地に緑のあおむしが描いてあるシャツもそのままだ。白いシャツなのにうっかりお醤油をこぼしちゃった、お腹の部分の小さなしみもそのままだ。

「おねえちゃん」

 るぅの中の秀馬の魂が現れたのだろうか。小さな秀馬はあれから何年経っても忘れない大きなうるうるした目で私を見ている。秀馬が目の前にいる。私の胸がきりきりと痛くなってくる。

「おねえちゃん、ぼくのこと、しんぱいしてる?」

「うん、し、てる」

 私の口は勝手に動いていた。秀馬にこんなことを言うべきではないかもしれない、けれど記憶のままの秀馬の姿に私はものすごく動揺した。動揺を抑えたくて私はしゃべった。

「秀馬は、いなくなったから。ある日消えちゃって……捜しても捜しても、見つからなくて」

「ぼくは、ここにいる」

「……う、ん」

 目の前の秀馬の姿が潤んで滲んでいく。私の唇は震え始める。秀馬を呼ぶ声が形にならなくなってきた。

「わ、あああっ!」

「海莉ちゃん!」

 畳に座っているはずの海莉ちゃんが驚いた声をあげた。ものすごく焦っている声音に私も焦燥した。おばあちゃんが隠していたこの部屋に私たちを連れてきたのは、海莉ちゃんが、るぅとコンタクトできる子だったから。そこに私が姿を現したから秀馬は惹かれて現れた。でも海莉ちゃんは連れて行かせない。海莉ちゃんはここにいてほしい、だって海莉ちゃんは私が見つけたたったひとりの友達なんだから——。

「たつ、さま」

 厳かな声でそう言ったのは尾下のおばあちゃんだ。きちんと正座をして土下座をして畳に額を擦りつけている。海莉ちゃんが大きく目を見開いている。おばあちゃんのそんな姿を見るのは初めてなのだろう。私もそうだ。

「たつさま、どうかお鎮まりなられて」

「え……あ、っ」

 目もとを擦りながら私は息を呑んだ。もとのるぅは小さな人形だけれど、海莉ちゃんの腕に収まらないくらいに大きくなっている。もう人形とは呼べない。そのくらいにありありとした気配が高まっている。私の幻ではないはずだ。海莉ちゃんもものすごく驚いている。

「この娘は、たつさまに差しあげられません」

「えっ」

 おばあちゃんの言葉に海莉ちゃんが戸惑っている。

「この娘は、わたくしの宝でございます」

「おばあちゃん……」

 驚いた声は海莉ちゃんのものだ。自分が誰かの大切だなんて知らなかったみたいな声だ。私は少しだけ笑った。海莉ちゃんは肝心のことに気がついていない。いろんなことに気がつくのにおかしなところで鈍感だから、私は海莉ちゃんが好きだ。涙の張っていた視界がクリアになる。

「まだ、たつさまのもとにはやれませぬ。なにとぞ」

「海莉ちゃんは、おばあちゃんの……私の、私たちの、大事な子だから」

「まりえちゃん……」

 私は手を伸ばした。海莉ちゃんに抱きついた。海莉ちゃんはバランスを崩して倒れそうになったけれど私は手を離さなかった。ぎゅっと抱きしめた。子供みたいに抱きついた。

「連れて行かないで」

「ま、りえ……ちゃ、ん……」

「海莉ちゃんを連れて行かないで。連れて行っちゃだめ。海莉ちゃんは、海莉ちゃんは……」

「まりえちゃん」

 抱きついた海莉ちゃんが静かな声をあげた。かっかと熱くなっていた私は海莉ちゃんの声で、ふっと冷静になった。

「まりえちゃんは、わたしの友達だよ」

「う、ん……」

「わたしはまりえちゃんと一緒にいるよ。だってまりえちゃんと話してると楽しいし、まりえちゃんは優しいから。わたしはまりえちゃんが好きだよ」

「う……ん、うん……」

 海莉ちゃんの腕の中で私は何度も頷いた。

「まりえちゃんのおかげで、わたしは毎日楽しいよ。転校してきたときは困ったこともあったけど、まりえちゃんのおかげで学校に行くのもすぐに楽しくなった。ありがとう、まりえちゃん」

「うん……う、ん……」

 海莉ちゃんの頬に涙が伝った。笑みとともに海莉ちゃんは泣いている。海莉ちゃんの辛さが伝わってきた。変だとかいろいろ言われてすっごく辛いけれど、海莉ちゃんは辛いからって殻に閉じこもったりはしない。いつもすごく頑張っている。そんな海莉ちゃんを見習いたいし助けられたらと思うのだ。

 泣きながら海莉ちゃんは言った。

「まりえちゃんに、ずっと一緒にいてほしい。ずっと一緒にいたい。だから、るぅ」

「え、っ」

 海莉ちゃんの呼びかけに驚いて私は振り返った。人形が私を見ている。光のない大きな黒い目にじっと見つめられて震えた。そんな私を、海莉ちゃんが抱きしめてくれる。

「るぅ、わたしずっと、ずっとまりえちゃんと一緒にいるよ」

 海莉ちゃんは優しい声で言った。

「一緒にいさせて。ね、まりえちゃん。いいでしょう?」

「う、ん……」

 私の声は震えていた。海莉ちゃんはとても優しい笑みを浮かべている。今まで見たことのない笑顔だ。

「おねえちゃん」

 秀馬の声がして、はっとした。姿は見えないけれど確かにいる秀馬は小さな優しい口調で言った。

「そのひとだったら、いい」

「秀馬、くん……?」

 私を抱きしめてくれている海莉ちゃんが不思議そうに言った。私は海莉ちゃんを見つめる。言葉が勝手に口から出ていった。

「ずっと、仲よくしようね」

「うん」

「ずっとずっと、仲よくしようね」

 こちらを見ている、るぅが、ゆるりと微笑んだように感じた。

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