枕の山 桜花三百首(宣長)

花を待つ

いとはやも 高根の霞 さき立ちて 桜咲くべき 春は来にけり

あらたまの 春にしなれば ふる雪の 白きを見ても 花ぞ待たるる

春霞 立つより花も いつかはと 山の端のみぞ ながめられける

いつしかと もえ出づる野辺の 若草も 桜待たるる つまとなりつつ

とく咲けや 桜花見て おふなおふな 心やるべき 春は来にけり

春ながら また風寒み さくら花 枝にこもりて 時や待つらむ

△ 待つとては 咲かぬさくらの 梢をも 見つつぞ暮らす あからめもせで

△ 遅しとて よしや恨みし 桜花 咲かでやみぬる 春しなければ

日にそへて 霞立ちそふ 山見れば 花も咲くべき 時にはなりぬ

春くれば およびもたゆし 百千たび 桜咲くべき 日数よむとて

待ち侘ぶる 花は咲きぬや いかならむ おぼつかなくも かすむ山の端

△ けふもまた 見えぬ高根の さくら花 それかとまがふ 雲はゐれども

花はまだ 咲けりともなし さほ姫の 衣はるさめ けふもふれれど尤

△ 山桜 このめはるさめ ふりさけて 見れども見えず 咲くや咲かずや

△ 咲きなばと 語らひおきし 山里の 花のたよりを 待ちぞわびぬる

△ 待ち侘びて 尋ね入るかな やま桜 まだ咲かじとは 思ふものから

△ 花はなど つれなかるらむ 咲きぬやと 人も見にくる 宿の桜の

△ 桜花 まだしきほどに 見てしがな 語りて人に うらやまるべく

○ 待ち侘びぬ 桜の花よ とく咲かば とく散りぬとも よしや恨みじ

待ち侘ぶる こころは時も 過ぎぬるを いつとて花の つれなかるらむ

桜花 咲かむ咲かじは 知らねども 山へゆかしき 春がすみかな


初花

△ さくら花 咲くと聞くより 出で立ちて 心は山に 入りにけるかな

△ 待ちつけて 初花見たる うれしさは もの言はまほし もの言はずとも

咲くも皆 神のめぐみの 初桜 一枝はまづ 折りてたむけむ

佐保姫も 花待ちつけし うれしさや けふは霞の 袖にあまらむ

さくら花 今は咲きぬる うれしさか 見る見るも鳴く 鴬のこゑ

岩が根を 踏むもおぼえず 花見むと 急ぐ心は 空よりぞゆく

遠しとも 思はざらまし さくら咲く 春の山路は 八百日ゆくとも

岩根踏む 山もみやこの 大路より けふは行きよし 花見に行けば

咲くと聞く ところあまたの 桜花 いづれの山を まづ行きて見む

山深く しげきが奥も 尋ねみむ 人に知られぬ 花や匂ふと

ただそれと まがひしかども 桜花 咲けば色なき 峯のしら雲

△ 梓弓 とらねどはるの さくら狩り 山のかすみを 分けつつぞ入る

遅れゐて 心空なり さくら花 見にとて人の 行くを見る日は

△ 山とほく 見にこしわれを さくら花 待ちつけがほに 匂ふうれしさ

山がつは 桜咲くころ めづらしく 見るさへ花の みやこ人かな

△ 来て見れば 花の中なる 山里の すまひぞ春は うらやまれける

憂きことも 聞かで見ればや 山里は 花の匂ひも 世にまさりける

△ 花見には またぞ来にける をとつひも きのふもけふも 同じ山辺に

あしびきの 山辺のさくら 明日は来じ いくか見るとも 飽く世あらめや

思ひきや 深山の奥の 木隠れに かかる桜の 花を見むとは

新しき 深山隠れの さくら花 人も来て見よ 道とほくとも

高しとて たかねのさくら よそながら 見てやはやまむ 行きてこそ見め

いとどしく 外山に咲ける 花見れば 峯の霞の 奥ぞゆかしき


花の盛り

桜花 里にも野にも 山辺にも 今をさかりと 咲きにけるかな

はるばると 来つるもしるく 山ざくら 花はけふこそ さかりなりけれ

いづれをか 分きて見るべき さくら花 梢あまたに 匂ふ山辺は

△ 咲きにほふ こずゑをおほみ をちこちに 心うつろふ 山ざくらかな

見る花の 木のもとごとに とまるかな めづるこころは ひとつと思ふに

飽かずとて 折らば散るべし 桜花 なほかくながら 見てをやみなむ

飽かずとも 折らでこそ見め 一枝も やつさば花の つらしと思はむ

我もまた えこそ過ぐさね さくら花 人の折るをば 憂しと見ながら

吹く風も 枝ながらやは 誘ひける あたら桜を 折る人ぞ憂き

△ ひさかたの 天路に通ふ 橋もがな 及ばぬ花の 枝も折るべく

○ 桜花 折りてかざして 思ふどち 思ふことなく 遊びつるかな

暮れぬとも 今しばし見む 山ざくら 入相の鐘は 聞かずがほにて

遠くとも いまひとたびは 来ても見む 深山の桜 散らで待ちてよ

花見つつ 行けば春日も 暮れにけり 越ゆる山路は 遠からねども

見てのみや ただに帰らむ 一枝は 家づと許せ 花の山守り

ここかしこ 野山の花に あくがれて 宿のさくらは 見ずやなりなむ

わがものと はつかに咲ける ひともとも 宿のさくらは ことにこそ思へ

来ぬ人も 見にも来るかに 我が宿の 桜咲きぬと いざ告げやらむ

△ 門さして 我ひとり見む 見に来とも 人に見せむは 惜しき桜を

寂しさも 見ればなぐさむ さくら花 もの言ひかはす 友ならねども

散るまでは 世のいとなみも 捨てて見む 花の日数は いくばくもあらず

飽くまでと 見ればいよいよ 見まほしき 花は桜の 花にぞありる

桜花 見る人ごとに あはれてふ 言や木陰に 山と積もらむ

めづらしき 花とはなしに さくら咲く 梢は先ぞ 目にかかりける

玉鉾の 道のゆくての さくら花 知るも知らぬも よりつつぞ見る

過ぎて行く 人さへぞ憂き 立ち寄りて 見てだに飽かぬ 花のこのもと

△ 山人も 負ひこし柴に しばらくは 尻うちかけて 花をこそ見れ

道の辺の 田面の水に かげ見えて 片山岸に 花咲きにけり

いたづらに 桜は見めや 歌詠めと 言はぬばかりの 花の匂ひを

行く道に さくらかざして あふ人は 知るも知らぬも なつかしきかな

山里の 人とし言へば 思ひやる 桜の花の ゆかりとぞ見る

このごろは さくらの花の ゆかしさに 山里びとの なつかしきかな

隠すとて あやなくたちそ 春霞 人に知られぬ 花のかほかは

隠さるる さくらのために 春もまた 霞を払ふ みそぎをやせむ

吹くとても 桜散らさぬ 風ならば 霞のためは 待ちもしてまし

うちわたす 磯辺に咲ける 桜花 浪かと見れば よせてかへらぬ

漕ぐ舟も 磯山桜 咲くころは 心よせてや 見つつ行くらむ

△ 春の野に 霞へだてて 鳴くきぎす 妻や恋しき 花やゆかしき

さかりにも 鳴く鴬は さくら花 散りなむことや かねてかなしき

しろたへに 松の緑を こきまぜて 尾上の桜 咲きにけるかな

春の日の つねよりことに のどけきは 桜の花の ためにやあるらむ

うぐひすも 霞もいとど のどけさを 加ふる春の 花ざかりかな

咲きにほふ 四方の梢に 風も無く 花のみやこは のどかなりけり

雲のうへの 花のさかりか ひさかたの 空吹く風の 香ににほふなる


花への思い

へだておほみ 身はしもなれば 九重の 雲ゐの桜 よそにこそ見れ

何し負はば 高根の花も まがふ色 なくてや見らむ 雲の上人

さくら花 月の無き夜は 梢にも 衛士の焚く火を たかせてしがな

みそらゆく 月影のみか 夜見れば 庭の桜も おぼろなりけり

思ふどち 夜をさへ花に あかすかな 昼の野山の ものがたりして

寝る間無き 春の夜ながら 庭ざくら 咲けば朝いも せられざりけり

起き出でて 庭の桜の 花見ると 朝餉忘れて 日もたけにけり

池水に しづく桜の かげ見れば 玉かとぞ思ふ 海ならねども

△ さくら花 水の鏡も 我ながら はづかしからぬ かげと見るらむ

雨降れば 池の鏡も くもりけり しをれし花の かげは見せじと

春雨の 降る日は人も 見に来ねば 思ひしをるる 花の色かな

△ 春雨に 落つるしづくも なつかしき さくらの花は 濡れてこそ見め

露かかる 桜が下の 草葉さへ 花咲くころは なつかしきかな

△ 契りおきて 人待つ人も 花を見て 飽かぬゆふべは 急がれもせじ

しののめの 飽かぬ別れも なかなかに 急がれぬべき 花の色かな

桜花 ほのぼの見ゆる あかつきは 別れを惜しむ 人やなからむ

○ 死ぬばかり 思はむ恋も さくらばな 見てはしばしは 忘れもやせむ

あぢきなく 春は桜の 花ゆゑに 心いとなし 恋はせねども

心から 花に心を うつすかな 思ひ初めずは 思はましやは

○ さくら花 はかなき色を かくばかり 思ふ心ぞ ましてはかなき

○ 我が心 休む間もなく 疲れ果て 春は桜の 奴なりけり

この花に なぞや心の まどふらむ 我は桜の 親ならなくに

△ 鳥虫に 身をばなしても さくら花 咲かむあたりに なづさはましを

さくら花 なずらひに見む 色だにも あらばいとかく 思はましやは

○ 桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染むる 我が心かな

日暮らしに 見ても折りても かざしても 飽かぬ桜を なほいかにせむ

露だにも 憂き色見せよ さくら花 さらばしひても 思ひさまさむ

ありぬやと 咲きて散るまで さくら花 ひと春見ずて いざこころみむ

△ 年を経て あひも思はぬ 友なれど なほうとまれぬ 花の色かな

かき絶えて 桜の咲かぬ 世なりせば 春の心も 寂しからまし

つねよりも 花咲くころは あやにくに 早く日数の 過ぎも行くかな

花見れば 秋の日よりも みじかきを 長き春日と たのみけるかな

おなじくは とく咲き出でて とく散らぬ ものにもがなや 飽かぬさくらは

をちこちに 多き桜の いかなれば 花を見る日の すくなかるらむ

さくら花 入りては出づる 月のごと 散りてまた明日 咲くものにもが

松に言ふ 十かへりの花 さくらをば 年にとかへり 咲かせてしがな

桜花 色はそれかと まがふとも 消え行く雲に ならはざらなむ

△ 朝ごとの さくらの露を 受けためて 世の憂さはるく 薬にをせむ

△ 尋ね見む 死なぬ薬の ありと聞く 島には散らぬ 花もありやと

△ 花咲きて 散らぬさくらの 種しあらば 常世の国も 行きてもとめむ

△ 春ごとに にほふ桜の 花見ても 神のあやしき めぐみをぞ思ふ

△ たぐひなき 桜の花を 見ても知れ わが大君の 国の心を

△ 世の人は 見ても知らずや さくら花 あだし国には 咲かぬ心を

から国も 花は千種に 咲くと言へど 桜ばかりは 無しとこそ聞け

汝が国に この花ありやと から人に さくらを見せて 答へ聞かばや

から人に 桜見せなば その国に 帰りてめづる 花や無からむ

うべなれや かほもすがたも ただ人の 種とは見えぬ 花の大君

八千種と にほふが中の親なれば うべも桜を 花と言ひけり

いにしへも 花は桜と 思ひてぞ さくらを花と 名付けおきけむ

世の中に たとへむものも なかりけり 春のさくらの 花のにほひは

にほふ色を 何にたとへむ さくら花 綾かにしきか 玉かこがねか

宝とて こがねも玉も 世にはあれど 桜の花を 何にかへまし

△ 咲きにほふ 色はこの世の ものとしも 見えぬさくらの 花ざかりかな

のどかなる 春のやよひに けさはかも いとど桜の めでたかるらむ

見てもなほ 見てもめづらし 桜花 野にも山にも ここら咲けれと

? いかにとも 心は知らぬ 心にも 見れば桜は さくらなりけり

蓬生の 狭き宿にも うゑなべて 見まくほしきは 桜なりけり

人の家の 広き桜の 花園を 見れば憂き身の 歎かれぞする


釈教・神祇

世は清く 捨てたる人も 捨てかねて 見るは桜の 花にぞありける

△ 咲きにほふ 春のさくらの 花見ては あらぶる神も あらじとぞ思ふ

おに神も あはれと思はむ 桜花 めづとは人の 目には見えねど

ちからなき 枝にはあれど あめつちも 動かしつべき 花の色かな

桜花 咲けるやしろに なかなかの ぬさはたむけし 神はめでめや

あだなりと たれか言ふらむ 神代より 変はらず春は にほふ桜を


老死

花の色は さらに経りせぬ 桜かな 朽ち残りたる 老い木なれども

さくらばな ここらの春を 経ぬれども 老いたりとしも 見えぬいろかな

老いぬれど なほこそ春は 待たれけれ 桜の花の 見まくほしさに

老いぬれど 咲けるさくらの 色見れば 春のこころは 若返りつつ

△ 友はみな 変はり果てぬる 老いの世に あはれ昔の 花の色かな

我が老いの すがたやさしき さくら花 むかしの春の 友と見るにも

咲く花に 老いのすがたは 恥づれども 見ではえあらぬ ものにぞありける

ともすれば 涙落として 老いの身の 痴れじれしさを 花に見えなむ

△ 老いぬれば もろく涙の 散る我を はかなしとこそ 花は見るらめ

△ 恥ぢもせで あはれうたての 翁やと 花は見るらむ 老いのやつれを

老いのくせ 人や笑はむ 桜花 あはれあはれと 同じ言して

年ごとに まさる若木の 花見ても 歎きもえそふ 老いの春かな

△ 老いの世に 若木のさくら なほうゑて いつまでとてか 花を待たまし

あはれとも かけても見めや 桜花 汝れより先に 我れは散れども

死なば我れ またいつの世に 巡り来て 飽かぬ桜の 花は見るべき

△ さくら花 飽かぬこの世は へだつとも 咲かば見にこむ あまかけりても

△ さくら花 ちとせまでこそ かたからめ なほももとせの 春は経て見む

かくながら ちよもやちよも 見てしがな 桜も散らず 我れも死なずて

長らへて 咲かむ限りの 春を経て 桜の花を 見るよしもがな

! かくばかり 飽かぬ桜の にほふ世に 命惜しまぬ 人もありけり

桜には 心もとめで 後の世の 花のうてなを 思ふおろかさ

こともなく もなく桜の 花見むと 春は我が身の 祈らるるかな

人はいさ 我れは死なずて 桜花 ちよもやちよも 見むとこそ思へ

とことはに 絶えせず咲けよ 桜花 我れもよろづよ 死なで見るべし


散る花

風吹けど 散らでとまるに 行くものは 花見る人の 心なりけり

花さそふ 風に知られぬ かげもがな 桜をうゑて のどかにを見む

山さくら 霞のおくに 隠れゐて 吹きこむ風に ありと知らるな

さくら花 夜の間の風も 知られぬを 明日とて人の 見にこざるらむ

桜花 けふまでも見に こぬ人を 明日とは待たず 散らば散らなむ

枝も木も よに朽ちやすき 桜かな 春咲く花の もろきのみかは

かたをだに うつしおかばや 桜花 にほひなくとも 後も見むため

いかでかは 風に桜の さわぐらむ 柳に吹くは のどけきものを

さほ姫の かざしの花の 山ざくら 霞の袖に 散りかかりつつ

きのふまで 積もれる雪と 見し花の 降るにまがひて けふは散るかな

めでられむ 藤山吹の ためにとや 桜の花は はやく散るらむ

さくら花 かくばかりとく 散るものと いつの神代に 定め初めけむ

飽かぬ色と みなせの神の みことのり いともかしこし 散るなさくらよ

とく散ると 何思ふらむ さくら花 さかりを待たぬ 人もある世に

ことしのみ 散る花のごと 思ふかな いつもとまらぬ ならひ忘れて

飽かなくに 桜の花の 散るを見て 春の歎きぞ もえ初めにける

咲くを待ち 散るを惜しむも 苦しきに なぞや桜を 思ひ初めけむ

いのちあらば また来む春も 見るべきに 身にかへてなど 花を惜しまむ

はじめあれば おはりある世の ことわりも 惜しき花には 思はれぬかな

飽かなくに いととく散るは 世の人を 歎かせむとて 咲けるさくらか

待つほどは 久しかりしを 咲きぬれば ことぞともなく 散る桜かな

桜花 散るがつらきに くらぶれば 待ちし思ひは 数ならぬかな

さてもまた つひの別れを いかにせむ 惜しき桜は 散らでありても

頼まれぬ 憂き世のさがを 見せがほに はかなくも散る さくら花かな

さくら花 咲けばほどなく 散るものを とはに見むごと 待たれつるかな

散ればまた いとど憂き世の 桜花 しばしは見つつ 忘れしものを

はかなくて 散るはさくらの 心にも 人こそ知らね かなしかるらむ

桜花 散るこのもとに 立ち寄りて さらばとだにも 言ひて別れむ

さくらばな よしや今年は 散りぬとも また咲く春を 忘るなよゆめ

さくらしも 花の命の みじかきは ほかの木草に ねたまれてかも

桜花 さても飽かぬか こころみに ひと春残れ 時は過ぐとも

散りぬとも 一重づつ散れ 八重桜 七日八日の ほどは見るべく

別れする 人も桜の 散るを見ば 思ひうつりて 花や惜しまむ

鳥ならば もち引きかけて とどめまし 散り行く花は せむかたもなし

散りて行く 花の別れの 雁ならば また秋とだに 待たましものを

吹く風に そひ行く花を 呼子鳥 やよ呼び返せ 惜しくやはあらぬ

花の枝に 散るを許さぬ 関すゑて 鳴くうぐひすに もらせてしがな

うぐひすも 声の限りは 鳴けや鳴け 我れも泣くぞよ 桜散るなり

鴬の はねにも尾にも かかれとも 涙こほらぬ 花のしらゆき

ほかの木に ふりかかりても 花の雪 花としも見ず 散りぬと思へば

散る花の 雪しまことの 雪ならば 咲かむ春辺の 近づかましを

雪とだに 積もりて残れ いとせめて 惜しき桜の 花のかたみは

雪とだに 見てまし庭の さくら花 うつりも行くか 風のまにまに

はかなくも 我がものがほに 見つるかな よそに散りゆく 庭のさくらを

桜花 散るを惜しめる よるよるの 夢路にだにも 残るとは見ず

今朝見れば みな散りにけり 山ざくら ふさに手折りて こしかひもなく

咲くことは 見に来る人に おくれしに 散るは先立つ 花のあやなさ

残りなく うつりも行くか 山桜 散るを見にとは 我れは来なくに

散りぬとも 我がうへに散れ 桜花 こよひは寝なむ 飽かぬ木陰に

散るさくら 色はしぼみて 変はるとも 袖につつみて もてやいなまし

さくら花 散りかひくもる このもとは 惜しむ涙ぞ 雨と降りける

△ 桜花 散る間をだにと 思へども 涙にくれて 見えずもあるかな

△ 散る花を 見れば涙に かきくれて 夜か昼間か 夢かうつつか

花散れば しづ心なき 春の日を のどけきものと 思ひけるかな

散るころは 見る目のみかは 桜花 耳にもつらき 風の音かな

散るらむと 夜はすがらに さくら花 こころもさわぐ 風の音かな

朝まだき さそはれそむる 桜花 風や夜の間に 契りおきけむ

草も木も なびける御代に 君をおきて 風に従ふ さくら何なり

花はしも 散らむものとは 思はじを こころつよくも さそふ風かな

いかにして しばしとどめむ 心なき 風にまかすは 惜しきさくらを

ひさかたの 空に駆けりて 花散らす 山風防ぐ まぼろしもがな

山風に 桜の花の 散るころは 秋よりかなし 春の夕暮れ

咲けば散る 花のならひと 思へども なほ恨めしき 春の山風

咲く花を 何の仇とて 山風は 世に残さじと 吹き払ふらむ

ひと木だに 形見に残せ さくら花 さそふは風の ならひなりとも

吹かぬ日も 散らでやはある 桜花 などひたすらに 風を恨みむ

吹く風よ 心にまかす 花ならば 散るをもとめよ まひはしてむを

ほどもなし 春の暮れなむ 日までだに 桜の花よ 待ちて散らなむ

さくら花 散らなむ後の 寂しさは 何に忘れて 春日暮らさむ

何を見て 来む春までは 過ぐさまし 形見もとめで 花の散りなば

夏も秋も 咲きなましかば 桜花 散るともかくは 惜しまざらまし

春し来ば またも桜は咲きなめと 散りし今年の 花はかへらじ

このもとに なほ残りても 桜花 散りぬる色は 言ふかひもなし

このもとに 朽ちなば朽ちよ 散るさくら よその土には なさじとぞ思ふ

散りはてし 花の梢を けさ見れば 心長くぞ 月は残れる

散り過ぎし さくら恋しき このもとに わすれ草をや 植ゑて見てまし

いとどしく 忘られがたき 桜かな 思ひくまなく 散れるものから

急ぎしは 散りてくやしき さくらかな おそくはけふも 見るべきものを

桜花 惜しむかひなく 散りはてて 残るは人の 恨みなりけり

きのふ来て 見てましものを くやしくも 山の桜は 散りにけるかな

もみぢ葉は 散りてもそれと 見るものを などて桜の 雪となりけむ

飽かざりし 桜の花の かたみとて 見るもはかなき 峯の白雲

山里の いつともわかぬ 寂しさも 桜散りぬる ころの夕暮れ

残りても 春を春とも 思ほえず 桜散りての 後の日数は

先立ちし 桜の花を したひてや 春もほどなく 暮れて行くらむ

桜花 散りしなごりの 梢さへ あらぬ青葉に 変はり行くかな

散り過ぎし 春のさくらに おくれゐて 歎きの枝も しげるころかな

散りぬれば あやにめでたく 見し色も 夢まぼろしの 桜なりけり

なかなかに 夢ならませば はかなくて 散るともさくら またも見ましを

咲くと見し 花も月日も 夢なれや 散りて流るる 春の山川

広き瀬に 袖の狭きを いかにせむ 流るる花を せきとどめても

△ したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

世の中に さくらの花を 惜しまぬは 風と河瀬の 水にぞありける

絶えず咲く 浪の花こそ 水の沫と 消えし桜の 形見なりけれ

惜しかりし 心はなほぞ うつろはぬ 散りてほど経る さくらなれども

桜花 また咲くを見む 春までは 面影残れ 飽かぬ心に

散り過ぎし 花の盛りを また見せて 夢はうれしき ものにぞありける

散りにしを または見ましや 桜花 夢てふものの なき世なりせば

さくら花 散りし木陰に 庵しめて 残る我が世は 経なむとぞ思ふ

跡もなく 散りてう月と 思ひしに うれしく残る 花もありけり

同じ色の 卯の花山の おそ桜 友待ちつけし 雪とこそ見れ

夏の来て 卯の花咲けば 今更に 消えし桜の 雪をしぞ思ふ


めづらしと もしやとまらむ 散る花に 山ほとどきす 鳴かせてしがな

春をおきて 五月待ためや ほととぎす 桜てふ花 咲くと知りせば

春ならば 花見せましを ほととぎす さくらが枝に 来つつ鳴くなり

をちかへり いかになかまし ほととぎす さくら咲くころ 来たらましかば

散りそめし 花おもほえて 絶え絶えに 今もさくらに 蛍飛び交ふ

かけり来て さくらが枝に 飛ぶ蛍 散りにし花の 魂かあらぬか

山の端を とどろかしゆく 鳴神も 桜は踏まじ 夏さけりとも

暑くとも さくらの花の 水無月に 咲く世なりせば 風は待ためや

桜花 来て見る春の 山ならば いかに憂からむ ひぐらしの声


さくら花 散らしし風を 秋立てば 恨めつらしと 人は言ふなり

さくら花 散らしし風の やどりかと 思へばいとど 憂き萩の音

見るほどの なきにはあらず 桜花 一夜に限る たなばた思へば

同じくは 春のさくらの このもとに 咲かせてしがな 萩も尾花も

春日咲く 桜はみかと もも草は もものつかさと にほふ秋の野

松はあれど さくらは虫の 名にだにも 聞こえぬ秋の 野辺のさびしさ

桜花 かなしき秋の 夕暮れに 散らば命も 露とけぬべし

さくら散る このもとならば なほいかに あはれならまし さを鹿の声

くもりなき 秋のもなかの 月影に 桜の花を 見るよしもがな

桜には なほやけたれむ ひさかたの 月のかつらの 花は咲くとも

汝が宿の かつらの花と さくらとは いづれまされり 月人をとこ

咲くを見て 別れし春の 面影に 桜恋しき はつ雁のこゑ

立田姫 さくらいろにも 染め分けよ もみぢにまじる 花と見るべく

さくらあれば もみぢ見に行く 山路にも 春おもほえて 立ち止まりつつ

来て見れば 秋の紅葉も 散りにけり 桜を憂しと など恨みけむ


ならふかに さくらの本に 菊を植ゑて 盛り久しき 花を見せばや

などとくは 散りし桜ぞ 散らざれば ふたたびにほふ 菊もありけり

長月に 咲かば桜も 菊のごと 散らで久しく にほひもやせむ

△ はつしぐれ 降ればおもほゆ くれなゐの うす花桜 時ならねども

散りしける 春の花かと 見るまでに 桜の下に おけるあさしも

冬を浅み 待てど雪だに まだ見えず まして桜は 遠き山の端

桜花 散りて流れし 川風も また身にしみて 千鳥鳴くなり

ほのかにも すがたを見せよ 春の花 峯の炭がま けぶり立つなり

夏も秋も 冬も桜の 散らであれな めづる心の 限りなければ

吹く風の さそはぬ年も 暮れ行くか 花の別れも きのふと思ふに

春立ちて 時近づけば さくら花 いよいよ遠き こぞの面影

春の来て 霞を見れば 桜ばな また立ちかへる こぞの面影

子の日には 桜も引きて 植ゑて見む 松にならひて 千世を経るかに


跋文

これが名を「まくらの山」としもつけたることは、今年秋の半ばも過ぎぬるころ、やうやう夜長くなり行くままに、 老いのならひの明かし侘びたる寝覚めねざめには、そこはかとなく思ひつづけらるることの多かる中に、 春の桜の花のことをしも思ひ出でて、時にはあらねどこの花の歌を詠まむと、ふと思ひつきて、一つ二つ詠み出でたりしに、 こよなくものまぎるるやうなりしかば、良きこと思ひえたりとおぼえて、それより同じ筋を二つ三つ、あるは五つ四つなど、 夜ごとにものせしに、おなじくは百首になして見ばやと思ふ心なむつきそめて、詠むほどにほどなく数は満ちぬれど、 この何かしを思ふとて、のどかならぬ春ごとの心のくまくまはしも、尽きすべくもあらで、なほとさまかくさまに思ひよらるる、はかなしことどもを、 うちもおかで詠み出でよみいでするほどに、またしもあまたになりぬるを、かくては二百首になしてむとさへ思ひなりて、 なほ詠みもてゆくままに、またその数もたらひぬれば、今はかくて閉ぢめてむとするに、思ひかけざりしこのすさみわざに、 秋深き夜長さも忘られつつ、明かし来ぬる夜ごろのならひは、この言草のにはかに霜枯れていとどしく長き夜は、 さうざうしさの今さらにたへがたきにもよほされつつ、夜を重ねて思ひなれたる筋とて、もとすればありし同じ筋のみ心に浮かびきつつ、 歌のやうなることどもの、多く思ひ続けらるるが、おのづからみそ一文字になりては、またしも数多くつもりて、すずろにかくまでにはなりぬるなり。 さるは、初めより皆そのあしたあしたに思ひ出でつつ、ものには書き付けつれば、もの忘れがちにて漏れぬるも、これかれと多かるをは、 しひても思ひ尋ねず、ただその時々、心に残れる限りにぞありける。 ほけほけしき老いの寝覚めの心やりのしわざは、いとどしく、くたくたしく、なほなほしきことのみにて、さらに人に見すべき色ふしも混じらねば、 枕ばかりに知られてもやみぬべきを、さりとてかいやり捨てむこと、はたさすがにて、かくは書き集めたるなり。 もとより、深く心入れてものしたるにはあらず、皆ただ思ひ続けられしままなる中には、いたくそぞろきたはぶれたるやうなること、 はたをりをり混じれるを、教え子ども、めづらし、おかし、興ありと思ひて、ゆめかかるさまをまねばむとな思ひかけそ、 あなものぐるほし、これはただ、

 いねがての心の塵の積もりつつなれる枕の山と言の葉

の霜の下に朽ち残りたるのみぞよ

寛政十二年十月十八日 本居宣長


跋文草稿に

花はしも 夢にも見えて いたづらに しげき枕の 山ざくらかな


草稿に

をりしもあれ 雲も嵐も をさまりて 花の盛りを のどかにぞ見る

みな人の 惜しむさくらは 花のみか 枝さへ葉さへ 朽ちやすきかな

さくら花 池のかがみの かげもよし 積もる頭の 雪は見ゆれど

花と言へば 桜と人の 知ることは ならふたぐひの なければぞかし

春ごとに 時もたがへず さくら花 あだなるものと たれか言ひけむ

雪とだに 見るほどもなく 消えにけり 雨の降る日に 散れるさくらは

さりがたき さはりある日も さくら見に いざとさそへば 出で立たれけり

秋よりも 長しとぞ思ふ 春の夜も 花見るころは 明くる待たれて

さくら花 明けなば見むと 待たるるに 春の夜はなほ みじかくもがな

今更に 春のさくらの 別れまで 秋の別れに 思ひ出でつつ

冬の来て 降れるを見ても 友待たで 消えし桜の 雪をしぞ思ふ

契りおきし 人は待つとも さくら花 今しばし見む 春の夕暮れ

さくら花 折りかざさせて 見てしがな 春の夜渡る 月人をとこ

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