下 (1)

 ――隣国が、世界中から大量のマスクを集めている。

 そんな知らせが首相の耳に入ってきてから三ヶ月、当時は無視していたニュースの意味が分かったのは、この頃であった。


 未知の伝染病が、海を越えて国内に広がり始めたのである。


「――このウイルスが、現在我が国で急速に広がりつつある病の原因ではないかと考えられます」

 最近、毎日のように開かれる、閣僚と科学者を交えた緊急会議の場で、科学者代表はそう報告した。

「もうそこまで分かっているのですね。ではその研究成果を基に、引き続き治療薬の研究を進めて下さい。創薬研究への予算を更に追加します、財務大臣、いいですね?」

「しかし、そこまでの財源は……」

「どうせこの伝染病が収まらない限り、他の事業も大してできないんですよ?それとも、国民の命よりも大切な投資先があると?」

「はぁ……、何とかやってみますが…追加予算が必要かもしれないですね」

「かまいません、至急お願いします」

「……ところでスイ首相」

「はい?」

「治療薬開発も大事なのですが、やはり伝染病はワクチン開発による予防も」

「そのワクチンとやらは、100%安全なものが作れるのですか?」

「は?いや、100%というのは無理です、どうしても。そもそも治療薬だって……」

 はあ、と小さく溜息をつく。

「治療薬も、100%安全でないなら認可しません」

 この手の議論は、もう何度も繰り返しているはずだ。

「そんなことしてる場合じゃないでしょう!」

「緊急事態を盾に、危険な薬品を国民に使うおつもりですか!?」

「……っ馬鹿げている」

 馬鹿げているのはどっちだよ、と思う。

 国民を実験台モルモットにでもするつもりなのだろうか。

 ――そんなこと、絶対にさせない。

 私の名にかけて。母との約束にかけて。



 治療薬の開発は遅々として進まない。

 しかし、研究者でもない私にできることは予算をつけるだけ。後は祈ることしかできない。

 ――でも本当にそれで、何もしなくていいのだろうか。

 考えた結果、感染者の治療にあたっている病院等を訪問することにした。

 これで感染者の方々を勇気づけられる、と思うほど自惚れてはいないけど……。

 それでも現地に行くことは「見捨ててない」というメッセージになるし、何より現場で必要とされているものを直で感じ取ることができる。

 官邸に籠もっていて、指揮はできないんだ。


「わざわざ来て頂かなくても」

 病院を訪れると、看護師が出迎えてくれた。

「いえ、私がそうしたいと思っていますので。それでは、患者様方にお会いできますでしょうか?」

「そ、そうですか……。分かりました。こちらへどうぞ」

 言われるがまま消毒・着替えを済ませ、病室へと案内される。

「今回は、比較的軽症の方々の病室となりますが…それでよろしいですか?」

「はい、勿論です」

「それでは、こちらとなります」

 付き添いの看護師によって開かれた病室には、管が繋がれた患者が横たわっていた。

 これで軽症なのか、と驚かざるを得ない。

「声を掛けても?」

「ええ、どうぞ」

 許可を得て、患者の側に跪くと、ハッキリと、小さく、声を掛けた。

「初めまして、内閣総理大臣を務めさせて頂いております、水素みなもとと申します――」


「軽症、といっても、かなり重いんですね」

 面会を終え、病室の扉を閉めると、看護師にそう話しかけてみた。

「そうですね、あくまで入院患者の中で分類しているだけですから……」

「……早急に、この問題を解決できるよう、政府一丸となって対応を進めて参ります」



「――治療薬開発の方は、どうなっていますか」

 もはや定例となった緊急会議。増える感染者数を抑える有効な手立てはなく、治療薬の完成が、頼みの綱であった。

「いえ、まだ時間が必要そうです。なのでワクチンの並行開発を…」

「感染すらしてない人に、危険なものを注入する。そんな非人道的な行為は許しません」

 この人たちは、人間を実験動物かなんかと勘違いしてないか。

 ワクチンのせいで、何もしなければ感染もせず健康に過ごせた人が倒れる、そんなことは万に一つでもあっちゃいけないことなんじゃないのか。

 得も言われぬ不快感を抑えながら、そう応える。

「総理、もうそんな悠長なことを言っていられる状況ではありませぬぞ!」

「いいえ、どんな状況でも、人の安全を、命を、軽んじてはいけません!」



 毎日のように渡される資料。そこに載っている新規感染者数の推移は、減少する気配を見せない。

 そして、最後のページにある死亡者一覧も、占める面積が大きくなってきた。

 ――早くなんとかしなければ。

 人の往来を抑える。集会を延期させる。

 確かに感染者数の増加を抑える効果はあったが、完全に抑制できる訳ではなかった。

 一刻も早く治療薬創製を。それとも……。

 今後の方針を考えながら、資料に目を走らせる。そして死亡者一覧を、一人一人読みながら、亡くなった方へ思いを馳せる。


 表の中の次の行へ、焦点をずらす。

 その瞬間、そこに書いてある一行が、私の視界を、思考を、奪った。



「ヌクリ ヨーコ(カゴリ県)」

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