第160話 彼女のためにできること!? 安定志向!?

 葉山さんの背中に引かれてたどり着いたのは、屋上へと繋がる階段の踊り場だった。

 屋上は施錠されており、ここに用がある生徒はいないため、ひとけはない。


 二次元野郎の大山に学年一まであると言わしめる整った顔立ちは、俺の感性からいっても掛け値なしに美少女のそれだった。

 目元は柔らかく、鼻筋はすっきりしていて、きゃあきゃあはしゃぐ同級生に比べて、少し大人びた印象がある。


「いきなりごめんね。あ、わたし葉山里美。よろしくね」

「俺は小山小太郎」

「うん。知ってる」


 葉山さんは柔和に微笑んだ。

 なるほど。これは学年一位あるで。


「それで、話なんだけど……」

「うん」


 俺の相づちを最後に、会話が途切れた。

 葉山さんは視線を落とし、また時折、上目遣いに俺を見た。柔らかそうな唇が開きかけて、閉じる。出しかけた声が、吐息の中に消える。


 心が左右に揺れているのが見えた。

 呼び出されたひとけのない廊下。うら若き男女。男が何かを期待するのは、愚かであっても罪ではない。


 なのに、俺の心は少しもときめかない。

 どうせ俺なんか、という諦念とも違う。答えは彼女の顔に書いてあるから。


「なんか、大変そうだね」


 俺はぽつりと言った。


「え?」

「手伝えること、ある?」


 どうしてそうなるのか、そんなことを口走っていた。

 葉山さんはぽかんとして、それから慌てて手を振って、


「あっ……。ご、ごめん……! いきなり呼び出しておいて、何だよって感じだよね。ごめんね。今、言うね……」


 なかなか豊かな胸に手を当てて深呼吸し、彼女は今度こそ口を開いた。


「弟がね、引きこもってるんだ」


 暗い声に、俺は少しも驚かなかった。だって彼女の顔に、最初から暗い薄膜が張ってあるのが見えたから。


「弟さんはいくつ?」

「中一。もう一ヶ月くらい部屋にこもってて、毎日呼びかけてはいるんだけど、全然返事してくれない」


 声が沈んでくと同時に、彼女の顔もうつむいていく。


「理由を聞いても答えてくれないし、両親は仕事で毎日遅くて、放っておけばそのうち勝手に出てくるって言うし……でも、一月たっても何も変わらないの。弟も、両親も」

「わかった。引きこもり同士、俺が話をしてみる」

「えっ……?」


 葉山さんが驚いた顔を上げた。


「……? 違った? そうしてほしいんだと思ったんだけど」

「ち、違くはないけど……。いいの? そんなことまでしてもらって。わたしは、何かアドバイスがもらえたらと思ってたんだけど……」

「アドバイスはできないと思う。どうしたらいいかなんて俺にもわからない。引きこもる理由なんて人それぞれだろうし。解決できる自信もない。ただ、話をしてみようってだけ。どうする?」


 俺は最後に決定のボタンを渡した。

 葉山さんは話のテンポについていけなかったみたいに逡巡し、そして、


「お願いします」


 ※


 教室に戻った後の好奇の視線は、朝の比ではなかった。 

 今日復帰したばかりの引きこもりが、学年一の美少女に呼び出された。

 台本がそうなってるアニメだからこそ許される展開であり、現実で起こりえない椿事。


「な、何があったんだ?」


 リア充には死んでほしいんだろう。大山の問いかけには、慎重な回答を求める響きがある。俺はため息をついて答える。


「少なくとも楽しい話じゃなかった。でも、それは彼女の顔を見たときからわかってただろ?」

「え、全然……。わかるもんなのか?」


 大山はきょとんとして聞いてきた。


「……いや、わかんないかも。でも、何となくわかった」


 そんな顔をたくさん見てきた気がするのだ。


 ……どこで?


 午後の授業はまったく身が入らなかった。

 どうして俺は葉山さんにあんなことを言ったのだろう。


 困っている人を助けたかった? 俺が? 


 俺が現在進行形で困っている人だろう。見ろ、黒板に書いてある文字を。謎の記号ばかりで、アラビア数字しかわからんぞ。

 それに、引きこもりの中学生と会うだって? 何ができるってんだよ。どんな態度で接すればいいんだよ。


 何より俺を困惑させるのは、この状況に自分がさして悩んでいないことだった。

 うまくいくと確信しているわけじゃないのに。


 ――焦ることはない。時間はたっぷりある。あのときに比べたら、いくらでも考える猶予がある。


 あのときって、世!”#$%&’~=|*


 …………。

 いつだよ。


 しかし、集中できないのはクラス中がそうだったらしく、俺や葉山さんの名前が混じった密談や、意味ありげな視線があちこちに行き交っては、教師からの叱責が飛んでいた。

 そしてそれは、放課後、葉山さんが鞄を持って「じゃあ、一緒に帰ろう」と言いに来たことから一層強まる。

 質疑応答を打ち切って退散する疑惑の総合商社マンの気分で、俺は学校を後にした。


 ※


 葉山さんの家は、俺の通学路からほんの少しはずれた住宅地にあった。

 二階建ての小綺麗な家だ。

 弟の名前は智樹というらしい。姉の容姿を考えると、名前に負けないなかなかの美形なのだろう。


「ただいま」


 葉山さんが玄関から張った声は、家の奥に潜む何かに呑み込まれるようにして消えていった。


「どうぞ、あがって」

「お邪魔します」


 学年一の美少女の家にあがるのに、小さな躊躇すら生まれなかった。

 これは本格的に、俺の対人センサーが故障しているようだ。

 女の子がこんな間近にいるのに、何を平然としているのか。こんな状況に慣れているみたいなフリはただちにやめてもらいたい。


 二階へ向かうと、扉が三つ並んでおり、それとは別に突き当たりがトイレ。

 閉じている扉は一つだけ。智樹のものだった。


「智樹、お姉ちゃんの友達に来てもらったの。小山小太郎君。小山君も、今日まで学校を休んでて――」


 俺の紹介をしようとした葉山さんを、片手を見せて制止する。

 後は任せて。

 その意図が伝わったのか、彼女もうなずき、


「お姉ちゃん、下にいるからね。用があったら呼んでね」


 と、小さな足音を立てながら階段を下りていった。

 こういうときは、関係者がいるよりも何も知らない者同士の方がやりやすい。先入観なしで、ゼロから始められる。

 さて……何ができるかわからないが、まずは話をしないとな。


「お姉さんのクラスメイトの小山だ。よろしくな」


 扉の奥で気配が身じろぎしたのがわかった。


「別に警戒しなくていいよ。俺もだいぶ長く引きこもってたクチだから。いきなりこんなこと言うのはアレだけど、別に学校なんか行かなくていいぜ。あそこは、行っても行かなくてもどうにでもなるところだ」

「…………?」


 葉山さんが近くにいたら言えないような台詞だった。


「少し話をするな。俺が引きこもったのは人間関係が原因でさ。取り立てて悪いできごとがあったわけじゃないけど、何となく人付き合いに疲れて、何となく学校を休んだら、すごく楽になった。だからすっかり学校に行く気がなくなって、今日に至るって感じだ。復帰したのは、朝起きたらなぜか不登校の理由を忘れてて、うっかり学校に行っちまったから。でもまあ、行ってみたら何とかなったよ。勉強はクソわかんなかったけど。家ではゲームばっかしてたし」


 何となく笑い話みたいになっているが、返事はない。俺も笑わなかった。


「俺とそっち、引きこもっている理由が一緒だとは思わない。ただ、先に引きこもってた先輩として、気づいたことを伝えておく。――一人で、誰とも会わずにいるのはまずい」


 部屋の中で小さな身じろぎの気配。


「他人の感情に振り回されるのがイヤだったはずなんだけどな、俺。いつからか知らないが、誰かといるのが大事なことだって考えるようになってた。というわけで智樹、3DDS出せ」

「――――!?」


 部屋の中の感情が大きく揺らいだ。


「『モンハンD』だ。持ってるんだろ? 調べはついてるぞ。学校なんか行かなくていいが、誰かと遊ぶのは大事だ。それも、ネットの中の人間じゃなく、うっとうしいくらい近くにいる誰かと。だから俺と遊べ。実は引きこもり中にやってたんだが、ソロがつらすぎて折れた。今がチャンスだ、手伝ってくれ」

「…………」


 ものが動く気配はない。

 俺は構わず、鞄からゲーム機を取り出した。どうしてこれを学校に持っていったかは謎。もはや習性に近い。


「勝手にやってるから、準備が出来たら部屋に入ってきてくれ。ちょっとD級のデュオイノシンゴ狩ってるから……」


 …………。

 …………。


「だからよお! 二匹同時に移動すんなよ! CPUが超反応で人間ハメてくるのもおかしいよなあ!? 三連続ノーモーションタックルは意志あるだろ絶対!」


 ちなみに俺はゲーム中、独り言がうるさい。

 気がついたら、三回くらいクエスト失敗していた。

 このゲームは不良品だ。プレイヤーにまったく優しくなく、猛烈にイラつかせるくせに、遊ぶ手を止めさせてくれない。


 人の家の廊下でソロプレイ、しかもうるさいという、冷静に見れば異様な所業。しかし俺は少しも焦らなかったし、不安にもならなかった。

 もっと大それたことを山ほどしてきたから……って、もう何が? とか考えないよいちいち。面倒くさい。


 四度目に挑もうとしたとき――


 討伐に旅立とうとする俺の隣に、見知らぬキャラクターが立っていた。何の仕草もない棒立ちの3Dモデルが、やれやれと肩をすくめているみたいに見えた。


「――頼むぜ」


 扉に軽く呼びかけて、俺たちは出発した。


 そして。


「……………………うますぎじゃね?」


 智樹が扱う武器は、鈍重さで知られる大型槍だった。

 俺が使うとキャラは歩くサンドバッグになるのだが、智樹のそれは華麗なステップを駆使する回避ランサーだった。

 しかも、防具は何もつけていないときた。


 大昔、スキー場にはウェアではなく、ドテラを着たスキーヤーが多くいたという。

 俺らの感覚ではまったく意味不明の奇行だが、それは「俺は絶対転ばない」という圧倒的自負の表れだったらしい。


 智樹のこれも、それと同じ。

 防具についたスキルなんかには頼らないし、ダメージなんて受けないから防御力にも用はない。

 

 俺の死体がスタート地点に戻されているうちに、智樹はあっさりと二匹のバケモノイノシシを狩ってしまった。


「……おまえ、学校で一番『モンハン』上手いだろ……」

「……んなことないよ。普通」


 それが、俺たちが最初に交わした言葉だった。

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