第159話 帰ってきた男!? 安定志向!?

 ワックスのてかりのある自宅の狭い階段に、妙な懐かしさを覚える。

 何だこれ。昨日も見たはずの階段に懐古の念を抱くはずがない。

 今朝方見た夢のせいなのか? もう覚えてないけど。


 戸惑いつつも階下に降りた俺がまっさきに気づいたのは、これまたひどく郷愁を感じる朝食のにおいだった。

 ガラスのはまった扉を開け、


「おはよう。お母さん」

「あら、あんた……!?」


 キッチンでぎょっとする母親に、ジャージのズボンをつまんで示しながら告げる。


「今着てるジャージ洗濯しといてくれ。学校から帰ってくるまでには乾くよな?」

「ええ……そりゃ乾くでしょ。って、学校!?」


 何をさっきから驚いてるんだ、うちのカーチャンは。


 カーチャンの狼狽を気にせずテーブルにつくと、用意されていた食パンにベーコンエッグという朝食を食べる。噛んだ瞬間、胸の奥にじわりと何かが広がった気がするが、さては目玉焼きに過剰なコショウが振られていたな?


「ごちそうさま」


 歯を磨いて洗顔を済ませ自室へ戻ると、なぜかクローゼットの奥に押し込んであった制服をどうにか発掘。毎日着るものを何でこんなところに追いやってるんだ、俺は。アホか。


 ワイシャツに袖を通した瞬間、肌触りの粗雑さに、


「安物だな……」


 と自然に出てきた言葉を不思議に思いながらも、自転車に乗って高校へと向かった。


 コンクリートの道路、道の両端にあるブロック塀、電線が渡され一定間隔で区切られる空に、動く鉄の塊――自動車。何一つ珍しいものなどないのに、それらすべてが逐一違和感を運んでくる。

 何でだろうな……と考えて、俺ははっとなった。


「やべえ、俺、引きこもってたんじゃねえか!!」


 なに平然と支度して登校してんだ! 復帰するにもそれなりの手順があるでしょう?


「ま、いいか……」


 自分でも驚くような言葉が口から出た。

 引きこもりが学校に行くなんて、太平洋の水量と同じくらいの勇気が必要になるはずだ。

 なのに、どうして俺は、こう、不安の一つも覚えないのだろう。

 俺の心はもっとダンサブルだったはずなのに。


 不思議なくらい図太い神経を後押しするように、通学を阻むものは何もなかった。

 周囲に同じ制服を着た同世代の少年少女が増えてきても、久方の学校が見えてきても敷居の高さは感じず、これから起こるであろうできごとにも大した拒否感はない。

 朝からずっと続く感覚の一部。――懐かしい、に沈んでいく。


 ※


 ホームルーム前の教室は異様な空気に包まれていた。

 だよな。そりゃ、そうなるよな。


 長く引きこもっていた同級生が、平気なツラして登校してきたのだ。

 歓迎するほど親しい相手でもなく、かといって無視しているのも何となく居心地が悪い。その葛藤の結果、遠巻きに何となく様子をうかがうという、野良猫同士が遭遇したような謎の緊張感が教室を席巻している。


 すまない、みんな……。

 俺もどうフォローすりゃいいのかわからん……。


 やがてチャイムが鳴り、ホームルームが始まった。さすがに担任は慌てふためくようなことはしなかったが、ごく普通の連絡を終えて教室から出た直後、廊下から俺を呼んだ。


「小山」


 小山。これまでずっと使ってきた名字のはずだが、ひどく聞き慣れず、まるで他人のような気さえする。引きこもり期間、だいぶ長かったらしい。


「あ、はい」


 返事をして、席を立った。自宅警備員をしていたわりに意外とよく出る俺の声に驚いたか、クラスメイトが何人かこちらを向くのを視界の端に捉える。


「今朝、親御さんから連絡があった。もう大丈夫なのか?」


 廊下に出ると、担任は色々なものを端折って確認してきた。

 四十代のひょろりとした男で、教師としての頼りがいはほとんど感じられない。今も、生徒の不登校というデリケートな問題に、嫌々手を突っ込んだ顔をしていた。


「はい。ご迷惑をおかけしました。すんませんでした」


 俺は素直に頭を下げた。引きこもり中に何らかのケアを受けた記憶もないから、謝る理由はないような気がしたが、そうしておくのが大人だとすっきり割り切れている。

 やっぱり変だ。一介の高校生である俺が、何を気取ってるんだ?


「そうか。よかった。学校、頑張れよ。授業で遅れた分は、どうにかフォローするから」

「はい。ありがとうございます」


 サボってた分、しばらくは特別課題に苦しみそうだ。これはやむを得ない。

 むしろ、厄介な生徒一人のために、特別な教材を用意しなければいけないこの担任を労る気持ちになった。


 わけがわからない。


 俺は他人の心配なんかしてる余裕があるのか? クラスにはほとんど知らない人間ばっかりだというのに。

 俺が引きこもっている間に、教室内での人間関係はできあがってしまっただろう。そこに俺が入り込める余地はあるのか? これは難しい問題だ。特別課題よりも、はるかに重大な試練だ。


 ……まあ、何とかなる。何とかならなくても、どうにかするさ。


 まただ。どうしてこんな深刻な事態を、俺は軽く受け止めているんだろう。まるで慣れっこのように気楽でいるんだろう。

 ひどく落ち着いた自分に、若干気持ち悪くなりながら、俺は教室の席へと戻った。


「おい、ヒッキー」


 一限目の用意をしていると、クラスメイトの男子が声をかけてきた。

 制服をやや着崩した、運動部系の空気を纏った二人組だ。


「もう来ないかと思ってたぜ。どうして学校休んでたんだよ?」


 にやにやと笑いながら聞いてくる。その態度や言葉にトゲがあった。

 非難めいた視線が俺の席を取り巻く。


 引きこもりからせっかく立ち直った人間に何てことを聞くんだ。

 その人をからかうなんてやめなよ。

 また学校来なくなったらどうするんだよ。


 視線はそんな言葉を発していた。


 確かにこの二人の態度はデリカシーに欠ける。顔立ちは悪くないが、軽薄そうで好きじゃない。

 フランクそうでいて高圧的。何かあればすぐ不機嫌に変貌しそうな、薄っぺらい笑顔。


 俺は貝のように押し黙ることしかできない――そう思ったのに。


 俺は別のことを考えていた。

 何て無防備な悪意なんだろう、と。


 自分の言動が相手をどう動かすか、少しも考慮していない。

 安易に害意を向けるということは危険なことだ。自ら敵だと宣言するも同然。いつ寝首を掻かれてもおかしくない間柄になる。


 だからあいつは、蛇のように陰湿であると同時に、狡猾でクレバーだった。態度の悪さだって格が違う。ありゃあ、ひどかった。

 そんなあいつと、俺は普通に付き合ってきた。それに比べれば、この二人は、お話ししたそうに肩に飛び乗ってきた小鳥のように微笑ましい。可愛らしい。


 そこまで考えて、俺ははっとする。

 ――待て。あいつ? あいつって誰だっけ? そんなヤツ、俺の知り合いにいたか?


「おい、無視すんなよ」


 声にせっつかれて俺は我に返った。


「ああ、悪い」


 手を挙げて軽く謝ると、二人は虚をつかれたように顔を見合わせた。


「引きこもってた理由だっけか。それが、よくわかんないんだよ」


 俺は笑って答えた。


「いきなり力が抜けちゃってさ。学校行く気がなくなっちまったんだよな。おまえらも気をつけろよ。いきなり〝来る〟かもしれないからさ」

「お、おう」

「そうかよ……。気をつけるわ」


 それ以上何を言っていいのかわからなくなったのか、二人は肩すかしを食ったような顔をしながら席を離れていった。

 教室内の緊張がふっとほぐれ、かわりに温かい空気が流れた。

 俺への接し方がわかった。そんな感じだった。


 ※


 何と、昼休みまでの間に、俺に話しかけてくるヤツが何人かいた。

 これまでの授業のノートを見せてくれたり、今後の学校行事について教えてくれたりと、みんな親切だった。 

 中でも、大山という人懐っこそうなヤツとは、もう友達にでもなったみたいに親しくなった。苗字が似てるせいかな。


「おまえすごいなー。普通、引きこもってたヤツって、あんなにあっけらかんと返せないと思うぜ。ほら、あいつらちょっと怖いしさ」

「そう、かな。いや、よくわからない。自宅警備が長すぎて対人感覚が鈍りまくったのかも」

「それはそれですげえな。で、おまえが引きこもってた理由って、本当にあれなの?」


 大山は興味深そうにたずねてきた。俺は、彼には正直に話していいと思った。


「いや、実は人間関係に不安になって休んでた。あいつら面倒くさそうだから、適当なこと言って追っ払っただけ」


 大山はぎょっとして、


「マジ? 度胸あるなオイ。それが人間関係に悩んでた男のすることかよ」

「確かに」


 俺は笑った。


 ほら、大丈夫だった。

 そんなに敏感になることない。相手にそれを必要以上に求めることもない。

 世界は粗雑にできていて、デリカシーなんて一部の特権階級が持っている宝石みたいなものだ。どいつもこいつも無神経で、がさつで、そんな中でも人はゲラゲラ笑って生きられる。

 そういう場所で生きてきた。


 ――誰が?


 授業の内容が意味不明なことをのぞいて、俺の二度目の学校生活は順調に進んだ。

 昼食は、大山のおかげでさらににぎやかになった。

 大山は、クラスの日陰者――いわゆるオタクたちの中心的人物だったらしく、彼を通じて二人の男子生徒が俺の席を囲った。


「小山が同類なのは空気でわかった。おまえゲームとか好きだろ」


 コンビニパンを囓りながら大山は言った。いいセンスだ。


 ここにいる四人の中で、もっとも素性が知れないのは俺だった。他三人はすでに互いを知っている。だから俺は自分から話していった。

 時間があってもゲームが極まらないことや、案外規則正しい生活をしてしまうこと、ネットのみで一日費やすとさすがに損した気分になること、などなど。


「時間あってもダメかー」

「俺も、休みの日も起きる時間一緒だわ」

「やべー。前の日曜日、ネットで潰したのに満足感あった。引きこもりの才能あるかも……」


 会話は自然と続いた。

 楽しかった。


 でも、なぜだろうか。

 話をしていると、誰かの影がちらつく。

 かすかに輪郭が現れてはすぐに消え、形のなくなる誰かの像。

 そのとき、胸のあたりに何かが載っているような、つっかえているような、奇妙な感覚に陥るのだ。

 何なのだろう。俺は何かを忘れているのだろうか。

 そんな感覚も、大山たちと話題のゲームについて話し合ううちに薄れていく。


 ふと。


「ねえ、小山君。ちょっといい?」


 ためらいがちにかけられた声は、女子のものだった。

 大山たちがぽかんとするのに一瞬遅れ、振り向いてみると、セミロングの黒髪が瑞々しい、綺麗な顔立ちの女子が一人立っていた。


 さっき、大山から簡単なクラスメイトのレッスンを受けた。

 それによると、彼女は葉山さんというらしい。

 明るくて勉強もでき、会えば誰もが胸をときめかせる、学年でも知られた美人さんだそうだ。


「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど。ここじゃなんだから、ゴメン、あっちの方で……いいかな?」


 両手を合わせて小さくゴメンすると、廊下の方を指さす。

 クラス中が息を呑んだ。


「いいよ」


 俺は二つ返事で席を立った。

 胸はときめかなかった。

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