第108話 殺し屋vs皇女! 安定志向!

 帝都の夜は暗く、長い。

 暗闇を受け入れるかのように町の明かりはほとんどが落とされ、月と星は平地より近くなるものの、それが一層、自然の闇を深めることになっている。


 人の火の入らない、原初の夜だ。


 風に揺らされた窓の音に、クーデリア皇女はわずかに顔を振り向ける。

 今夜も外は寒そうだ。


 山は百メートルで一度気温が下がるので、たとえ夏場であっても凍死者が出る。

 涼しく過ごしやすい日中は気にならないが、やはり夜間の小宮殿は冷えていた。


「本当に殺し屋は来るのでしょうか」


 ベッドに入ってから、数十分といったところだろうか。何度か上品な寝返りを打った後、とうとう眠るのを諦めたように、クーデリア皇女が問いかけた。


 ベッド脇にはカカリナ。俺とキーニは窓際、グリフォンリースは扉側の警護についている。皇女の問いかけにはカカリナが応じた。


「心配なさらないでください。何が来ても、我々が必ずあなたをお守りします」


 それに対し、クーデリア皇女は少し笑みを含んだ声音で、


「心配はしていません。わたしの牙は誰にも負けることはありませんから」

「はい……」


 俺に負けたじゃんとかいう無粋なツッコミをしたヤツは生年月日の数字分腹筋な。


 信頼していても、稀代の殺し屋に命を狙われて不安がないはずがない。心配なのだ、彼女だって。だから、自分を守ってくれている人たちは誰より強いんだと自分に言い聞かせている。それは単なる強がりだろうか?


 いいや、いい方法ですよ、クーデリア様。そいつは。


 皇女の信頼にまわりは奮い立つし、それを感じて自分も安心できる。

 不安なんて心の偏りにすぎないんだから、逆側から押してやれば、また真っ直ぐに戻る。強さの根拠なんて気持ちだけ十分だ。


「ただ、わからないんです。なぜわたしを狙うのでしょうか。今は人と人が争っている時期ではないはずなのに」

「愚かな話です。そのような愚か者たちが何を考えているかなど、クーデリア様がご思案なさる必要などありませんよ」

「カカリナはわかりますか?」

「わかりませんね。こんな天使を傷つけようとする世界最強クラスのバカたちの考えなど」

「……天使は言い過ぎですよ。カカリナは本当に、わたしに優しいですね」

「へにょお……」


 薄暗い室内でもわかるクーデリア皇女のはにかんだ笑みに、カカリナの相好が煮溶けるのが見えた。ええい、頼りになる空気を作るなら最後まで頑張れよ。


《でも実際》《何の真似かわからない》《戦争中でもないのに暗殺なんて、誰が得するの?》


 壁に背をつけて丸くなっているキーニと同様に、部屋の反対側に待機しているグリフォンリースもその謎について考えていることだろう。


 その答えを俺は知っている。

 そいつらは、カカリナの言ったとおりの世界最強クラスのバカだ。現状さえ正視できていない愚か者の集団。ただただ自分たちの意見を――絶望を広めたくて、その根拠を自ら作り出そうとしている。順序が逆なことも顧みずに。


 そんなヤツらのせいでクーデリア皇女が眠れない夜をすごしているかと思うと、停止した心電図のような凪の精神を愛する俺も、ついつい怒りゲージが高まってしまう。

 だが、そんなクソカスが背後にいようと、襲ってくるのは混じりっけなしの純正暗殺者だ。怒りで集中力を曇らせている場合じゃない。


 俺は借り受けた【インペリアルタスク】の鎧を手で撫でた。


 今回、強敵と戦うにあたっての対策の一つが、この強固な鎧だ。

 この〈黒鎧〉は【インペリアルタスク】の固定装備であり、他で手に入れることも、また、装備しているキャラからはずすこともできない。


 性能は折り紙付き。他キャラの最終装備にも引けを取らない。これらを最初から装備しているカカリナたちは、防具の買い換えが必要ない点でも優秀なキャラと言える。


 ゲーム内で〈黒鎧〉を換えられないのは【インペリアルタスク】としての信念からなので、もちろん現実では脱ぎ着は自由。俺に合うサイズもちゃんとあった。

 だが、対策の中核はこれではない。

 必要なものはすでに懐に隠してある。


 それがこの〈戦神の秘薬〉。


 一周につき三つしか手に入らないレアアイテム。

 その効果は、使用した戦闘中に限り、攻撃力を二倍に高めるというもの。

 イベントバトルに詰まったプレイヤーにとっては、最後の切り札とも呼べる代物だ。

 この間、カジノの景品としてもらってきた。


 こいつを使うのには、今をもってしてもまだためらいがある。

 理屈の上では、諸刃の剣どころか、こっちの方に鋭く尖っている。

 ……果たして本当にこれを使って大丈夫だろうか?


 決断の切れが鈍いまま、時間がすぎる。


 フィクションから得た知識によると、奇襲の成功率が一番高まるのは夜明け前だという。

 敵の気配を孕んだ闇が薄れ、恐怖が薄れ、そして緊張が薄れた瞬間が、もっとも防御がおろそかになる瞬間なのだそうだ。


 しかしこの殺し屋には、そんな小細工は必要ないようだった。


 鍵のかかった窓が開いた音はしなかった。ただカーテンが大きく揺らぎ、冷たい風と、長く伸びた一人分の人影を、絨毯の上に招き入れただけだった。

 窓枠にしゃがみ込んだその人影は、月明かりを背に、闇夜をフードの中に引き受けていた。


 心臓の音すら抑えているように無音で、無言で、ひょっとして、ずっと前からそこで俺たちの様子を見ていたんじゃないかと錯覚するほど気配がなかった。


「現れたな〝鋼通し〟!」


 俺たちは一斉に動いた。カカリナがクーデリア皇女を抱き起こし、部屋の奥へと後退。俺たち三人はその間に入って防壁を築く。


「…………」


 襲撃を見抜かれていたことに〝鋼通し〟は若干疑問を抱いているように見えた。この沈黙と不動を、楽観的に困惑と解釈するならば。


 フード付き外套に、多様なポケットを備えた機能美だけのアンダースーツ。所々に差し込まれた黒くて長い釘のようなものは、おそらく武器なのだろう。

 鋭く、そして硬そうだ。

 あれなら、防具の継ぎ目を通して、人体を傷つけることもできるかもしれない。


 だらりと垂らした腕が不自然に長く、直立しても膝下に届きそうに見えた。

 その腕を蛇のようにゆっくりと持ち上げる。指先はどうやら、部屋の扉の前にいるクーデリア皇女をさしていた。


「逃げてもいい」


 若い男の声だった。聞きようによっては、清々しい青年の声にも受け取れた。


「その分、人が死ぬだけだ」

「……!」


 クーデリア皇女がこの部屋にとどまる理由はない。すぐに安全な場所へと避難し、刺客の対処は兵士たちに任せるのが、彼女が選ぶべき順当な判断だった。


「おまえがこの者たちを殺せるようなら、確かにそうでしょう」


 クーデリア皇女は、まるで月とお話しているかのように、落ち着いた声で返した。

 カチャリと優雅な金属の音がする。

 扉を開けた音ではない。

 クーデリア皇女が部屋の鍵を閉めた音だった。


「しかし、決して勝てない」


 揺れない声ではっきりと断言する。


 ……ハハ。

 今さらだが、すげーなこの女の子は……。


 ひょっとして、ツヴァイニッヒからの警告がなく、一人でこの殺し屋と対峙することになっても、彼女は怯え一つ見せず相手をにらみ返したかもしれない。

 さすがはザンデリア皇帝の娘。

 ……いや。さすがはクーデリア様、だ。


「クーデリア様……」


 それでも、万が一を考えカカリナが皇女を背中で押しやった。彼女からすれば、それが至上命題だ。だが、クーデリア皇女は言い返す。


「カカリナ、ここにいさせなさい。そうすれば、あの者も逃げない」


 ヒエッ……。

 自ら退路を断つと同時に、相手の退路も奪うつもりだったのか。そこまで考えていたのか。


 小宮殿の主は天使だったが、ワルキューレの血筋でもあったらしい。

 勝っても負けてもこの一夜で終わらせるつもりだ。

 いや、負ける気なんてまったくないんじゃないか?

 ……こりゃ、この期待に応えられなかったら死刑でいいわ。


「なるほど……」


 暗いというより、黒そのものであるフードの奥が、感じ入ったように息をもらした。

 予想もつかない数の人間を殺してきた男に、その言葉を言わせた皇女の価値というものを、俺はどれだけ理解できているのだろうか、とふと思う。


 あんなに小さいのに、その体の内側に宿すものは、あまりにも大きい。

 皇女様、今のはいい方法でした。

 俺も、怖くなくなったよ。


 絶対にあなたを守ります。

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