第89話 後天的本能の限界! 安定志向!

「クルート、全然、怒ってるわけじゃない。様子がおかしいから気になっただけだ。何か俺に問題があったのなら教えてくれ。帝都の常識はさっぱりなんだ。知らないうちに無礼なことをしてたんなら、謝る」


 俺が口を開くと、クルートは大慌てで手を振り回し、


「コタロー様は、そのようなことは何一つしておりません……! た、ただ……」


 言いかけて、はっと続きを呑み込んだのを、俺もカカリナもちゃんと見ていた。


「ただ何だ?」

「わたしはクーデリア様とコタロー殿の繋ぎ役ではあるが、君たちからも話を聞く立場にある。さ、言うんだ」


 わずかに後ずさりしたクルートに合わせ、俺とカカリナは、自然と彼女を壁際に追い込むような布陣になる。

 狩りをするキツネが追いつめられる、珍しい場面だった。

 逃げ場を失ったクルートは、うつむいたまま、消え入りそうな声で言った。


「…………。コタロー様の……おそばに、いたくて……」


 ぶッフィオ!?

 言ってしまってすぐに後悔したのか、クルートはばっと頭を下げた。


「申し訳ございません。帝国のメイドたるもの、私情は一切挟まず、お客様の快適な生活をお手伝いすることに専念すべしと心得ています。私心を優先し、何度も部屋におうかがいするなど、不快な思いをさせて申し訳ございません……!」

「た、確かに部屋には何度も来たけど、謝るようなことじゃないだろ……?」


 うちのメイドさんなんか用がなくても来る上に、そのうち二人はベッドでさんざん転げ回って遊んでいくぞ。たまにもう一人も我慢しきれなくなって加わるぞ。


「ひょっとして、俺が大宮殿に行っているとき、陰からこっそり見てたりした?」

「う……も、も、申し訳ありません!」


 何度も頭を下げるクルート。やっぱりあれは気のせいじゃなかったのか。

 しかし、移動距離とかはどうなるんだ。俺たちが戻ったとき、クルートは普通に仕事をしていた。

 ……いや、民間メイドのミグだって、変なオーラを纏って移動するのだ。プロフェッショナルの彼女が、非常識なワープをしたって驚くべきではない。


「どうしてそんなことをしたんだ?」


 カカリナが硬い声で追及する。クルートはすぐには答えられず、うつむいたまま沈黙を守っていたが、やがて消えてしまいそうな声を、ぽつりとつま先に落とした。


「ミグ様が……コタロー様といつも一緒にいるのが……羨ましくて……」


 はァんブゥ! 

 こ、これは……これは何だ? ミグへの対抗意識なのだろうが、メイド勝負とはまた違うもののような気がする。ていうか絶対違う!


「君は、自分が何をしたのかわかっているのか?」


 冷たさを含んだ厳しい声に、混乱していた俺は思わず首をすくめた。カカリナだ。彼女は、いつになく生真面目な顔でクルートを見つめていた。


「はい……」


 悄然とうなずくクルート。空気がピリピリしたきたのを感じ、俺は思わず声を上げていた。


「ま、待ってくれ。どうしてそんな深刻な話になってるんだ?」


 そのとき。


「クルートはお母様の宮殿に仕えるような、メイドの中のメイドです。その立ち振る舞いは、もう一つの本能といってもいいほど身に染みついているはずです」


 思わぬところから、思わぬ声が聞こえ、俺たち三人はぎょっとして、廊下の一角に顔を向けた。


「クッ、クーデリア様!」


 叫んだカカリナが慌てて敬礼の姿勢を取り、俺は気をつけのポーズ、クルートもお腹の当たりで手を合わせ頭を垂れる。

 どうしてクーデリア皇女がここにいるんだ!? 俺はしゃちほこばった姿勢のせいで、腰の当たりがつりそうになった。


「どうなされたのですか、わざわざ離宮までおいでになるとは……」


 カカリナがたずねると、


「コタローたちが、みんなで一緒に食事を取っていると言ったのを思い出して、わたしも加えてもらおうと思って来ました」

「ええっ……」


 思わず鼻水を吹き出しそうになった。クーデリア皇女と一緒にごはんんんん?


「すでに厨房には話を通してありますので、ご安心を。コタローたちの分を横からもらおうなどとは思ってませんから」


 ふっと、悪戯っぽく笑う。その小悪魔的破壊力はすでにこの大陸の半分くらいを消し飛ばしたかもしれないが、ぼくはかろうじて元気です。


「それよりも、クルート。あなたは、メイドとしてあってはならない行いをしたようですね」


 霞がかったような瞳を向けられ、顔を伏せたままのクルートが、小さく震えだした。


「も、申し訳……ござい……ません……」


 声はかすれ、嗚咽が混じり始めている。

 ちょ、ちょちょ待てよ! 俺は慌てて口を挟んだ。


「待ってくださいクーデリア様! 俺はこれっぽっちも不快な思いなんてしないし、むしろクルートには感謝しっぱなしです。あってはならないことなんて、何一つありませんでしたよ」


 するとクーデリア皇女は、今度は俺へと視線を合わせ、


「これは我が帝国の使用人教育に関わることです。コタローには関係ありません。彼女は他のメイドたちの規範となるべき存在。もし彼女が間違えれば、彼女に倣うすべての者が間違えるのです」


 強い言葉で言ったわけではない。だが、その内容は、俺の咄嗟の反論を弾き飛ばすに十分なものだった。


 帝国メイド。まるで黒子のように客をもてなし、自らの印象を消しつつ、極上の快適さのみを相手の記憶に残す。そんな怪物のような人々。

 そこに至るまで、どんなに厳しい訓練があり、いかなる心構えが必要なのか、俺にはもう想像もできない。だがッ――。


「だとしても、クルートについてもらっている俺は、たとえ皇女様に逆らってでも証言する義務がある。彼女は俺に、何も悪いことはしてない。不快になったことは一瞬たりともない。もし、何らかの罰だとか、そういうのがあるのなら、俺も一緒に受けさせてもらおうか!」

「……なぜですか?」


 えっ!? 理由!? え、ええと、ど、どうしてだろ……。


「わ、わからないけど、クルートは悪くないから、その……俺もやるます……」

「大事なお客人に、罰を与えるなどと、あなたは帝国の沽券を傷つけるつもりですか?」

「それは……お互い様です」


 俺の答えに、クーデリア皇女は目を細めた。


「どういう意味でしょうか」

「俺のお世話をちゃんとしてくれたメイドさんが、こっちの気持ちを一切無視して罰なんか受けたら……傷つきますよ。俺が……」


 クッソ。何言ってるのか自分でもわからねえ。

 わからねえが……なぜか胸の内を出し切った気がする。

 俺は敵意のこもらない目で、皇女の動きを見つめる。

 皇女はクスリと笑った。


「そうですね。あなたの言うとおりです」

「えっ……」


 そのまま静かな足の運びでクルートに近づくと、お腹のあたりで震えている彼女の両手を、そっと手で包み込む。

 はっとなったクルートが濡れた目を持ち上げた。


「帝国メイドの作法は、客人をもてなし、満足させるためのもの。それは相手のためのものであり、あなたの心を殺すための枷ではありません。あなたたちは、剣や金槌のような道具ではない。心は常に自由なのです。もし客人があなたたちに危害を加えようとすれば、わたしたちは全力でそれを阻止しします。そしてもし……」


 つ、と流された視線が、俺を捉える。


「影ながらではなく、日向からも付き添いたいと想う方が現れたのなら、その気持ちは、わたしたちが諫められることではないのです」

「クーデリア様……」


 クルートが今にも泣き崩れそうになる。が、それを押しとどめたのも、やはりクーデリア皇女の言葉だった。


「けれど、その想いは尊重するにしても仕事の精度が落ちることは許しませんよ。非常時でもないのに客人を急かすなどもってのほかです。慕う気持ちがあるのなら、なおのこと一つ一つの仕事に心を込め、集中しなさい」

「はっ、はい」


 たちまち新品の釘みたいにシャキンとなるクルート。


 クーデリア皇女が訓辞を始めたところで、俺はカカリナを肘でつついた。心温まる皇女のお裁きに胸キュン状態にあったカカリナは、そこでようやく天国から戻ってきた顔で振り向く。


「なあカカリナ。こう言ってはなんだが、その、クルートが俺にこだわる理由が見あたらないんだが……」

「そうなのか? しかし、彼女は簡単に殿方に心を奪われるような少女ではないぞ」


 心を奪われる……。まあ、その、好きってことだよな……。

 俺のことを。

 うむ……その……。そうだよな、話の流れ的に。

 でも信じられんなあ! おいそれとはさあ!

 何か、俺たちの間で行き違いでもあったんじゃないだろうか。何か必殺の、獣人娘をイチコロでオトすような反則行為が。


 あ……もしかして。


「ひょっとして、俺がクルートの髪だの耳だのさわるのは、あんまりよくなかったか?」

「さわったのか、コタロー殿」

「う、うん。初対面で、だいぶ撫で回した……」


 念を押され、俺は声を小さくしながら認める。やっぱりそれが原因か?

 カカリナはあごを軽く撫でながら少し思案し、


「獣人にとって、耳は人間以上にデリケートな部分だ。だが、そこをさわられただけで惚れた腫れたというほど、彼女たちも難儀な体質はしていないぞ」

「えっ。……そうか。いや、そりゃそうだよな」


 撫でられただけで相手を好きになってたらきりがない。というか、チョロすぎて生きにくいったらありゃしない。


「ただ、獣人たちは勇者や英雄というものを人間以上に好む。たとえば、獣人の女性に〝この人わたしがいないとダメなの〟みたいな発想はまずない。ダメなヤツは容赦なく見限り、優れた者の優れた点を賞賛する」


 ひっ。

 今なんか、俺の心を刺し貫く何かがあった。


「獣人が身だしなみにこだわるのもそういう理由だ。外見も中身も、本物であることが重要なんだ。その点において、コタロー殿は彼女の興味を引くのに十分な資質を持っているのは間違いないだろう」

「英雄かあ……」


 クルートもその肩書きに惹かれたってことなんだろうか。

 じゃあ、中身が知られたら、そのときは幻滅されてしまうんだろうか。

 しかし、俺の不安は、カカリナによって直後に解消された。


「だが、クルートは特に思慮深い娘だ。獣人として自分にそういった傾向があることは自覚しているし、帝国メイドとしての仕事の精度を落とすまでいったとなると、単なる憧れではすまないはずだ。本当に心当たりはないのか?」

「いや……」


 思い出そうとしても、それらしいことはない。


 盗賊に襲われてピンチでもなかったし、奴隷商人に売られてピンチでもなかったし、学校に遅刻しそうになってパンをくわえたままぶつかってピンチでもなかった。

 ピンチを救う以外に、女の子にモテる方法ってあんのか?


「ひょっとしたら、逆なのではないのか?」

「逆?」

「クルートが貴公を想っているのではなく、貴公がクルートを想っているのでは。獣人たちは求愛の感情にも敏感だ。獣人は男性から告白するのが常識だしな。自分でも自覚していない感情があるとしたらどうだ。クルートはそれを感じ取って、呼応する形で貴公を想っているのではないか? かく言うわたしも、ひょっとしたらクーデリア皇女にそういった気持ちを抱いている可能性が、余人にはまったく気づかれないだろうが、あるのかもしれないような、ないかもしれないような……」


 ツッコミ待ちみたいなカカリナの後半の台詞は耳から遠ざかり、俺は、自然と記憶を遡った先で、ある一場面に遭遇し、顔が引きつるのを自覚した。

 カカリナはニヤリと笑った。


「心当たりがあったか? うむ。クルートは可愛いからな。一目惚れしてもおかしくはないぞ」


 反論もできず、頭を抱えかけて、その手を止める。

 いつの間にかクーデリアとの会話を終えたクルートが、俺をじっと見つめていたからだ。そしてクーデリアにそっと肩を押し出され、一歩、とても勇気のこもった一歩を、俺の方へと踏み出してくる。


 何てこった……。

 そうだ。間違いなく発端は俺だ。

 俺から先に好意を示した。紛れもなく。しかし……。


 …………。

 ……言わなきゃな。


 俺の心は弱いから、秘密をしまっておくのは苦手なんだ。

 特に、こんな純粋な相手に対しては。ウソは死刑だよ。


 クルートに向けてこっちも一歩近づく。お節介なカカリナが一歩下がるのが視界の端に見えた。

クルートと向き合う。顔を赤くした彼女の耳はピンと立って、俺の言葉を一言一句聞き逃さないようにしているふうに見えた。


「クルート。一つ。謝っておかないといけないことがある」

「…………」


 予想外の第一声にビクリと震えた耳が、一旦すべてを拒むように垂れ下がり、すぐに戻った。


「何をでしょうか……?」


 気丈に聞いてくる。俺はそれを、今度こそ誤解なく伝えなければいけない。


「初めてクルートと会ったとき、俺は髪や耳をさわりまくったよな」

「はい」


 はにかむような笑みを浮かべた唇を、そっと手で隠すクルート。

 そんな彼女にはっきりと告げる。


「俺はあのとき、クルートじゃない、別の獣人の女の子のことを考えていたんだ」

「…………!」


 ささやかな笑顔が凍りつく。俺は逃げようとする自分の目をボンドで固定する覚悟で、彼女を見つめ続けた。


「俺たちは……いや、俺は、ある獣人のメイドさんに憧れていた。恋い焦がれていたと言ってもいい。でもそれは、誰、とかじゃないんだ。絵本の中で見たような、そんな存在だから」

「わたしでは……なかったのですね……」


 息を吸うのさえ苦しいこの場所で、クルートが俺に聞いてくる。


「すまない……。そうだ。俺はクルートがちゃんと見えてなかった」


 俺は目線をつま先に落として言った。

 あのとき、俺は完全に舞い上がっていた。ケモ耳メイドさんは本当にいたんだと。それはもう、心の底から喜んでいた。それを、クルートは好意と受け取ってしまった。それは事実だ。俺は数年ぶりに、ようやく会えた恋人のように、彼女を見ていたから。


 クルートは微笑んだ。少しぎこちなく、寂しそうに。


「いえ、いいんです。わたしが……勝手に勘違いしたんです。だから、いいんです」

「よくない!」


 思わず大きな声が出てしまい、身じろぎしたクルートの綺麗な目から、涙が一筋落ちる。

 俺はクルートの手を取っていた。さっきクーデリア皇女がしたみたいに。


「俺が……全面的に悪いことだ。目の前にいる女の子のことをよく見えてなかったなんて、あんまりだ。だからこんな身勝手なこと言えた立場じゃないんだが……」


 ちゃんと目を見て、言う。


「俺ともう一度、最初から出会ってくれないか」

「…………!」


 クルートが濡れた目を見開く。


「今度はちゃんとクルートを見るから。もう一度、知り合うチャンスをくれないか」


 そこでふと思いつき、背後を振り返る。


「カ、カカリナ、何か書くものと紙を持ってないか」


 完全にギャラリーと化していたカカリナは、慌てて首を横に振る。


「コ、コタロー様、これをどうぞ」

「あ、す、すまん」


 結局ペンと紙束を貸してくれたのはクルートだった。非常に格好がつかない。

 俺はそこにある文字を書き込んで、彼女に見せた。


「……コタロー様、読めません」

「『小太郎』と書いてあるんだ。俺の名前だ」

「あっ……!」


 クルートが思わず口に手を当てる。


「俺の故郷の字だ。こっちでは誰も使ってないし、多分、誰も読めない。だから誰にも見せたことはない。でも、そう書いてあるんだ。俺は小太郎。初めまして、クルート」

「じゃ、じゃあ……」


 クルートは紙を一枚めくり、そこに何かを書くと、俺にそっと渡した。

 画数が多く、文字というより何かの模様のようだった。


「それはわたしです。コタロー様。名前よりも先に、わたしを表すものです。初めましてコタロー様、わたしはクルートといいます」


 お腹の当たりで手を重ね、クルートはゆったりとお辞儀をした。

 その顔は、とても優しく笑っていた。


 クルートは許してくれたようだった。

 俺がただ、ドット絵のケモ耳メイドさんを見ていただけだったことを。


 もう一度、ちゃんと出会い直すことを。


「よ、よろしく……クルート」

「……はい……! コタロー様」

 

 こうして――

 たった一日でミリ単位にまで近づいていた、俺とクルートの関係は、適切な位置にまでリセットされた。

 もうミグとぶつかることもないし、クルートが仕事を失敗することもない。

 ここからの距離感がどうなるかは、これから決まることだ。


 無事に、一件落着。


 何だか、一瞬だけ、ラブコメの主人公になった気がするよ。

 あいつら、タフだったんだなあ……。こんなこと、ぼくにはとてもできない。


「ところでコタロー」

「何ですかクーデリア様」

「〝あざな交わし〟という風習を知っていますか」

「いえ、知りません」

「獣人たちは、名前よりも、より正確に自分を表す記号を持っていて、それを他人に見せることは決してありません」

「…………」

「ただし、男性がそれを見せ、その気持ちに応えるつもりがあるのなら、女性もそれを見せるといいます。一種の、結婚の誓いでしょうか」

「くぁwせdrftgyふじこlp」

「ふふ……。大丈夫ですよ。彼女はとても賢いから、あなたがそれを知らないことを知っています。けれど、さっき受け取った彼女の〝あざな〟。決して粗末にはしないでくださいね」

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