第59話 マユ 安定志向!

 轟音と恐怖の残滓が、屋敷の正面を分厚く覆っていた。

 エントランスの隅には屋敷の全員が集まり、ついさっきまで玄関口があったあたりにしゃがみ込む少女を、遠巻きに見つめている。

 その顔には一様に、戸惑いと、不安。

 彼女らの視線の先にある少女の名前は、マユラ。

 少女の正面には抉れた地面が直線状に続き、その終着点に、〈暗い火〉グンニネルスと思しきひしゃげた鎧が転がっていた。


 何があった?

 俺の頭は、現状から導き出される回答を求めて、激しく空回りする。

 ひとまず、屋敷のみんなは無事なようだが……。


「ウウウウウ……アアアアア……」


 自分の顔を握りつぶそうとするみたいに指を立てたマユラが、彼女の声とは思えないうなりを上げた。


「マユラ!」


 俺は駆け寄りながら、まとまらない推理の中から、マユラがグンニネルスを撃退したことをどうにか拾い上げた。

 だが、どうやってだ?


「マユラ、大丈夫か!?」


 俺がマユラの肩に手を載せると、彼女は崩れるようにこちらに倒れ込んでくる。


「どうした!? ケガしたのか!?」

「コ、コタロー……!」


 強ばった指の隙間から、マユラの目が俺を見た。


 ―――なんだ、これ……。


 彼女のまっさらな白目は黒く染まり、宝石のようなブルーの瞳は、今や濁った血の色に変わっていた。


 魔眼。


 頭のどこからか引き出したその単語が、俺の背中を冷やすと同時に、マユラを支える手に一層の力を込めさせる。

 だから何だ。この手を離すか。


 しかし……一体、何があった。いや、何が起こっている?


「マユラ様は、わたしたちを守って……」


 全身をぶるぶる震わせながら歩み寄ってきたミグが、目に涙を溜めてそう言った。

 やはりそうか。

 だが、マユラは普通の女の子だ。以前見たステータス値もそれを証明している。

 彼女がグンニネルスを倒したのではないのか?


 いや、今はそれどころじゃない。


「マユラ……。どこか痛むのか? 傷があるのか? すぐに医者のところにつれていってやるからな」


 すると、マユラは首を横に振る。


「ケガはない……。我らの誰一人にとて、手を出させてはいない。みなを……守った」

「おまえが……? いや、よくやってくれた。約束を守ってくれた。ありがとう。おまえは命の恩人だ。俺たち全員の」


 俺の心からの感謝に、マユラが浮かべた微笑の返礼は、しかし、彼女のうめきと共にすぐに霧散した。


「コタロー……。熱い……。目が熱い……!」


 必死に訴えてくる彼女に、俺自身がパニックになりかけながら、


「だ、誰か、水で濡らしたタオルを持ってきてくれ! マユラの目を冷やすんだ!」


 マグが矢のような速さでその場を離れ、タオルを持ってきてくれた。

 彼女の魔眼をみなに見せないよう、素早くタオルを載せる。


「どうだ? 少しは楽になったか……?」

「…………。ああ……」


 呼吸は浅く、苦しげなまま。楽になったのは、本当に少しだけのようだった。

 俺はこのとき、意図せずマユラのステータス表を開いていた。あるいは、そこに彼女を助ける何らかのヒントがあるかもしれないと、心のどこかが思ったのかもしれない。


 そして、その異様に気づくハメになった。


 ディゼス・アトラぞョ7くsいしfじこ

 レベル9け5

 性別: 女

 クラス: ぉ女

 HP: ら5mkふgさ/24000

 MP: しし6ょ6れ/77000

 力:250 体力:らh1 技量:30る 敏捷:3q0 魔力:3ぃ1 精神:250


 マユラのステータスはバグったままだ。

 だが。

 妙だ。

 以前見たときと、少し違っているような気がする。


 …………?

 あれ……?

 見間違いか? 今、この数字……。

動かなかったか?


 HP: ら5mkふgさ/24000

 MP: しし6ょ6れ/77000


 HP: 24ふgさ/24000

 MP: し7000/77000


メチャクチャだった表示が……。


 力:250 体力:らh1 技量:30る 敏捷:3q0 魔力:3ぃ1 精神:250


力:250 体力:3h0 技量:300 敏捷:300 魔力:3ぃ0 精神:250


 整った数値に直っていく……?


 待て……。この数値……見覚えがあるぞ。

 300は『ジャイアント・サーガ』におけるステータスの最大値。

 力と精神以外、その上限いっぱい。

 そしてHP24000と、実質無限のMP77000は……。


 魔王ディゼス・アトラのステータス……!!


「コタロー……コタロー……まだそこにいるのか?」


 マユラが手をさまよわせる。俺はそれを掴んだ。


「ああ、いる。さっきからずっといる。どうした? 何か必要か?」

「何かが……我の中から出てこようとしている。この体を破って……何か恐ろしいものが」

「……! それは……」


 魔王か? と言おうとして呑み込んだ声は、マユラだけには届いていた。


「きっとそうだ。この体には収まりきらない……。みんなを……逃がせ。破裂しそうだ。お願いだ。誰も傷つけたくない……」


 ぞっとする。マユラの体を突き破って何かが出てくる?

 まるで……。

 それはまるで……。


 思いつきかけた言葉の冷たさに、俺は目の前が真っ白になった。


 マユラ。こいつの名前。

 由来は、マユ。

 さなぎ。肉のさなぎからの連想。


 マユラの正体は、魔王の第一段階、肉のサナギだ。

 俺がグラフィックバグを起こして、今の女の子の姿になった。

 だから、俺は彼女が魔王だと今日まで疑わなかった。


 しかし、本当にそうだったのか?


 ひょっとして彼女は魔王じゃなく……サナギの外側の部分だったんじゃないのか?

 マユラは……魔王が出てくるときに破られる、殻にすぎないのか……?


 ふざけるなッ……!


「違う。おまえの中に何も潜んでいない。おまえはマユラだ。人間の女の子だ。大丈夫、大丈夫……。心を落ち着かせろ。不安を追い出すんだ」


 マユラにそう言い聞かせる。根拠なんてあるわけない、なんて軽い俺の言葉。

 だが、それしかできない。


「コタロー。我のことはいい。みんなのことを頼む。もう無理だ。内側が壊れ始めているのがわかる。逃げてくれ。我に、みんなを最後まで守らせてくれ」


 マユラが俺の手を掴み返して、そう訴えてくる。


 どうしてこうなるんだ。

〈暗い火〉との戦いで、彼女の中の魔王が目覚めたのか。

 全部あいつのせいか。


「ダメだ。まだ約束は守られていない。おまえも無事じゃなきゃダメだ。そういう約束だったはずだ」


 できない。見捨てられるわけがない。

 何かないのか。何か切り抜ける方法は。どんな最悪のバグでもいい。この状況を打破できるのなら、世界が滅んだって構わない――。


 そのときだった。


 世界が本当に滅んだ――そう思わせるような。

 闇が、俺たちを覆った。


「何が起きたでありますか!?」

「何も見えない!」

「どういうことですか!?」

「みんな、落ち着いて!」


 まわりで仲間たちの声が右往左往する。

 太陽を失った世界に放り込まれたみたいだった。

 他人はおろか、自分の手すら見えない。


「グリフォンリース、〈オーバーヒート〉を使え! 火が明かりになるはずだ」


 俺は咄嗟にそう言ったものの……。


「だ、ダメであります!〈オーバーヒート〉発動しているでありますが、光らないであります!」


 どういうことだ……。

 まさか、魔王が肉のサナギから出てきたってことなのか?


 俺は腕の中のマユラの感触に意識を集中する。

 熱がある。鼓動がある。吐息があり、俺の手を握り返す意思がある。

 いる。マユラはまだここにいる。


「!?」


 すぐ近くで気配が動いた。

 体温も生気もない。ただ濃厚な何かの気配が、マユラを抱いた俺のすぐそばに立っている。


「魔王様――」


 声がした。

 大人びた女の声。

 その人は、きっと笑っていた。


「お久しぶりでございます」


 マユラを魔王と呼ぶ、こいつは……。

 そして、この完全な闇は。

〈閉ざされぬ闇〉か――!


「ダインスレーニャ。こいつはマユラだ。魔王じゃない」


 俺は彼女を否定する言葉をぶつけた。


「あら……わたしの名前を知っている……? あなたは誰?」


〈閉ざされぬ闇〉ダインスレーニャが、小さな驚きを声に乗せた。


 こいつは〈源天の騎士〉の中でも特別な存在。

 唯一どんなシナリオルートでも倒せないボスだ。

 魔王の傍らに立ち、そのすべてを見届ける。魔王とどんな関係性にあったのか、ゲームでは最後まで明かされない。考察もされていない。


 燃えるような寒気がする。こいつは、マユラ――いや、ディゼス・アトラを迎えに来たのだと、心が直感する。


 ダメだ。ダメだダメだダメだ。こいつはやれない。つれていかせない。

 あの雨の日、ずぶ濡れのこいつを俺が助けた。人の道なんか盾にしやがって。違う。俺も助けられてる。金の問題じゃない。支え合っている。お互いを必要としてる。

 いなくなってほしくない。違う。いないとダメなんだ。

 いないと心が穏やかになれないんだ。

 友達じゃない。仲間じゃない。もっと大きくて、そして、いるのが当たり前なもの。

 マユラはそれなんだ。


 それは何て名前だった?


 俺はありったけの思いをのどから迸らせた。


「帰れ。迎えに来るな。こいつの家はここだ。こいつの家族は俺だ!」


 静寂。

 マユラが俺の手を強く握り返す感触だけがあった。


「この方を家族とは……。ふふ。面白い人間」


 闇が、マユラに近づけていた顔をそっと離した。そんな気配。


「いいでしょう。〈暗い火〉の愚かな振る舞いへのお詫びと、ここまでこの方を守ってくれたお礼に、その言葉を一度だけ聞き入れましょう」


 衣擦れに続き、マユラのひたいにゆっくりと手が伸ばされる。

 何一つ見えないのに、感じることはできる。

 それは悪意ではなく、慈愛。そして俺に対しても安らぎを示すものだった。


 これが〈閉ざされぬ闇〉の世界か。

 目ではなく、音やニオイ、そして心で見る世界。


「親愛なる魔王様。あなたの目覚めは遠い。そのか弱き乙女の殻の中で、今しばらくまどろみください。女神はまぶしく、うつつよはまだ黄昏れておりません……」


 それが〈閉ざされぬ闇〉の最後の言葉になった。

 次第に、闇の澱がほどけて薄まっていくのがわかった。


 世界の輪郭が、ようやく黒一色の風景から浮かび上がってきたとき、俺はすぐ隣に、優しげな微笑を浮かべた黒髪の綺麗な女の人を見た気がした。

 邪気なく、ただ、娘を見る母親のように、穏やかで、安らかな。


 気のせいだったかもしれない。

 一度の瞬きも許さなかった視界から、彼女はいつの間にか消えていた。


「コタロー……」


 顔の下から声がして、俺はそちらを見た。

 そこには、いつもと同じ、青空のようなブルーの目をしたマユラがいた。


「我を家族と呼んでくれたな」


 一筋の涙がこめかみを伝った。


「そうだな。自覚するのが、遅くなったけど」


 俺は笑った。


 生まれたときからいる親とか、いなかった時期が思い出せない兄弟とか、そういう、最初から決められていたものじゃなく。


 マユラは魔王で、俺はまがいものだけど〈導きの人〉で。

 一緒に暮らして、一緒に生きて。

 そして俺たちは家族に〝なった〟。

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