デート2 鹿と歩こう、秋の安芸の宮島

広島県、宮島市。

 その名の通り、日本三景・安芸宮島で知られる離島の町で、区域のほとんどを厳島神社の境内が占めるというマイクロ都市です。徒歩でも十五分もあれば、一周できると言われてます。

 でも、参道にぎっしり建ち並ぶお土産物屋さんを見ればわかる通り、人口密度はとても高くて、実は広島市に匹敵するくらいのたくさんの人が住むとか住まないとか。諸説ありますが……。


「おい、ちょっと嘘はいかん、やめなさい。やめて」

 僕は思わず叫んだ。

 宮島への出航を待つ、フェリーのデッキ。僕は、恋人の――はずである――稲子いねこと並んで、手すりの前に立っていた。秋の瀬戸内海は穏やかで、柔らかな陽射しが水面で揺れていた。

「えー。せっかく宮島の説明してたのに。どこに行ってもいつもやるじゃない、おじさんが長々と、しつこく面倒くさく」

「そんなにしつこくはない。あと、おじさんじゃなくて鵜飼さん。もしくはアユさん」

 彼女はいつも僕を「おじさん」と呼んで、なかなか名前で呼んでくれないのだ。いくら十歳も年上のアラフォー男性でも、ちゃんと僕にも「鵜飼鮎彦うかいあゆひこ」という立派な名前があるというのに、困ったものである。


「困ってるのはわたしよ。こんなおじさんと無理やりデートさせられて……」

 稲子はうつむいて、嘘泣きを始めた。

「おい待て、君が連れて行けって言ったんだろ、それも昨日の夜になって。おかげで新幹線、グリーン車しか取れなかったし……」

「だから昨日の『いい旅・夢気分』で太川陽介さんが来てたの。楽しそうだったし。何でアユさん、あんな風にダンディーじゃないの? 太川さんより若いでしょ?」

「そりゃ、あっちは『ルイルイ』で一世を風靡した元アイドルで……そんなことより、でたらめの説明はいかん。宮島市なんてない、宮島は廿日市市の一部だ。一周したら三十キロはある。人口は千八百人くらい」

「知ってるよ。意外に大きい島ですねって、太川さんが言ってた」

「……だろうね」


 船はいつの間にか、とっくに出航していた。宮島の港まで、わずか10分なのだ。早くも、進路の右前方にあの有名な大鳥居の姿が見えている。

「あ、もう神社見えてるじゃない」

 稲子はうろたえた。

「ほら、そこに。おじさんがつまんないこと言ってるうちに、もう」

「稲子、見えるぞ、私にも鳥居が見える!」

 彼女は眉をひそめて、冷たい目で僕を一瞥すると、再び海のほうを向いてデジカメのレンズを向けた。またどうせ、大昔のアニメか何かの物まねなんでしょ、とその背中が語っていた。


 僕は軽く咳払いして、彼女に言った。

「後で、あの鳥居の真下まで近付いて見に行こう」

「海の真ん中に立ってるのに? おじさんは水の中平気だし、アユを飲み込んで帰って来るのが仕事だからいいけど、わたしは人間なの」

「いや、だから、僕はじゃないから。潮が引いてる時は、砂浜を歩いてそばまで行けるんだよ」

 この距離からは良く分からないが、今は干潮のはずだった。そこはちゃんと、宮島観光協会のサイトで調べてある。

「へえ、そうなんだ。楽しそうね!」

 喜んでくれた。良かった。


 フェリーが桟橋に着くと、参拝客が一斉にぞろぞろと下船を始めた。僕らも、その後ろを着いて行く。

「出た!」

 また突然、稲子が叫んだ。

「あれ、ダメなのわたし。鵜飼さん、お願い」

 僕の後ろに隠れた彼女が、前方を指さした。そこにいるのは、宮島名物の鹿だった。

「ああ、大人しいよ。大丈夫、鹿さんは」

「わたし、大きい動物ダメなの……。怖いよ、あんな角あるし。だから、鵜飼さん連れてきたのよ。小さい時、鹿に育てられたんでしょ? 何とかして」

「いや、育てられてはいないけども」

 吹き出しそうになったが、笑ったら怒りそうなので我慢した。確かに僕は、子供の時に奈良に住んでいたことがあって、鹿など見慣れて何ともない。町なかのそこら中に、ほんとに普通に歩いているのだ、鹿。

 優しい目をして近付いて来る大人しい鹿さんたちから、僕は彼女をかばうようにして、海沿いの道を歩いた。これで多少は、頼もしいお兄さまだと、僕のことを見直してくれたに違いない。


 たくさんの参拝客が行き交う、参道の商店街に入ると、鹿さんたちの姿は見当たらなくなった。

 彼女はほっとしたように「あの、焼いてる牡蠣食べたい」とか「あのしゃもじ欲しい」とはしゃぎ始め、その度に僕は財布を取り出すことになった。

 高台にある豊国神社千畳閣や五重塔が、色づいた紅葉に囲まれているのを見上げつつ海沿いへと戻り、緩くカーブする道の先に、いよいよ大鳥居が見えてきた。

「ほら、ちゃんと砂浜を歩いて鳥居に……ややや?」

 僕は目を疑い、風景を二度三度と見直した。海の水はたっぷりと満ちて、鳥居の足元をざぶざぶと洗っている。そんな、ばかな。干潮のはずだ。

 慌ててスマホを取り出し、観光協会のサイトを開こうとして、僕は気付いた。検索した日付が、間違っている。最近、細かい字が段々見づらくなっているのだ。


 海沿いに並ぶ石燈籠の一つに手を突いて、僕はがっくりとうなだれた。せっかく、目の前で鳥居を見せてあげようと楽しみにしていたのに。

「えー、仕方ないよ。検索間違うくらい、みんなあるよ。それに、鳥居ここからでも十分近いよ? おじさんなら楽勝で飛び込んで、アユ咥えて来れるくらいの近さだから」

「誰が、やねん……」

 自分でも、突っ込みに力が無いのが分かる。

「それより、鹿、鹿が来てるって。ちょっと、何とかして!」

 稲子が珍しく、人前で僕に抱き着いてきた。本当に鹿が怖かったのか、慰めようとしてくれたのか。どちらかは分からないが、その温もりは嬉しかった。


 気を取り直して、僕らは今日の目的地、厳島神社へと拝観に向かった。

 昇殿受付口まではさらに海沿いを歩いてすぐ、入り口の辺りからはすでに神社の回廊や舞台、その向こうの拝殿が見える。

「アユさん、これや!」

 と稲子は嬉しそうな声を上げた。

「これを見たかったのよ。すごくない? こんなの他にないよね。人類の宝よ」

 学生時代以来の厳島神社、確かにそれは見事な景観だった。前回は干潮だったから良く分からなかったが、満潮、それも大潮らしい今日は、建ち並ぶ数々の国宝建造物が全て、海の上に浮かんで見えた。回廊を歩き出すと、まさに足元すれすれまで水が来ているのが分かる。床板の隙間から、水面が見えるのだ。


「……すごいな、これは確かに」

「満潮で良かったじゃない。ナイス老眼!」

「まだ老眼じゃないよ! 多分」

「厳島神社は、『日本のベネチア』としてみんなに親しまれています。人気映画の舞台になったことから、恋人たちの聖地としても知られ、世界遺産にも登録されているのです」

 またもやでたらめ解説を始めた稲子。でも、まあ、すごく楽しそうだからいいや。

 いや、世界遺産なのは本当です。

(デート2 終わり)

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