日本三景デート旅(全三話)

天野橋立

デート1 君と見よう、星空の天橋立

 京都府、宮津市。

 かつては、北海道の産物を大坂へと運ぶ、北前船の寄港地として栄えた町。

 当時は「縞の財布が空になる」、つまり盛り場であまりに散在してしまって、一文無しになってしまうと謳われたほどで、その繁栄ぶりが分かるよね。

 明治から後は宮津線などの鉄道は開通したものの、交通体系の軸からは外れてしまい、今の人口はわずか一万七千人程度。

 こんな歴史だから、お寺とか渋い旧跡なんかもいくつもあるけれど、宮津市にとってラッキーだったのは、やはり「天橋立あまのはしだて」があったこと。

 宮城の松島、広島の宮島と並ぶ「日本三景」というのはやはりインパクトがあるから。京都市内以外では、京都府で一番観光客が集まる場所らしいよ。

 宮津に観光に行ったことがある、という人は、まあみんなここに来たはず。キャンプとか海水浴もできるし、花火大会なんかもあるけどね。


「説明長いのよ、おじさんは」

 助手席の稲子いねこが話を遮った。

「いや、折角行くんだから、ちゃんと街の歴史をさ。というか、おじさんて言うな。ちゃんとアユさんか鵜飼さんと呼ぶように」

「だって、鵜飼さん百パーセントおじさんなんだもん。アラフォーだし、SNS知らないし、ひげもちゃんと剃れてない」

 彼女は丸い顔をしかめて、ちょっと細めの目で僕をにらんで、僕のあごに手を伸ばした。

「ジョリジョリだよ。十歳も若い、かわいい彼女とデートできるんだから、そういうところ、ちゃんとしなさいよ」

「うーん、シェーバーの調子が良くなかったのかな。一応、ラムダッシュっていうのリニア駆動タイプで、」

 彼女は冷たく言った。


 しかし、稲子が僕をおじさん呼ばわりしてけなす時というのは、要するに上機嫌なのである。機嫌が悪いと完璧に黙る。

 付き合い始めたのも、僕の名前は「鵜飼鮎彦うかいあゆひこ」というのだが、その名前があまりにひどい、おじさんは長良川ながらがわ三次みよしで生まれたのか、ぐえーとか言ってアユを吐くのかと、彼女がボロカスに言って大喜びしたのがきっかけだった。

 大キライ、だけどちょっとそばにいるくらいは我慢してあげる、という典型的なハイ・ツンデレーションなのだ。

「何がツンデレよ絶対違う。ジョリさん馬鹿?」

「だから、アユさんだって」

 長良川はともかく、広島は三次の鵜飼いが出てくる時点で、彼女もなかなかの物知りなのが分かる。宮津の歴史くらい、実は先刻ご承知なのだろう。


 さて、交通体系から外れたはずの宮津だが、近年になって京都縦貫道という高速道路がついに全通し、京都市内からも町のそばまでダイレクトに、ひとっ飛びで行けるようになった。舞鶴道を組み合わせれば、大阪からもすぐだ。これで町が大発展するかというと、そうは行くまいが、追い風には違いない。

 僕の運転するペパーミントグリーンのアルト・ラパン――マイカーが無いので妹に借りた――も、あっというまに「与謝天橋立」インターへ到着した。宮津のインターで降りないのは、阿蘇海あそのうみの北側、傘松公園展望台か、その隣にある天橋立ビューランドからの眺めがベストとされているからだ。

 傘松公園の駐車場で車を停めて、お土産屋さんをのぞき(稲子は天橋立名物、竹中罐詰のオイル・サーディンを買った)、リフトで公園へと上がった。


「うん、いいじゃない。合格」

 松原を載せた橋のような細長い砂洲が、陽の光にきらめく湾を断ち切って延びる眺めに、彼女は合格判定を出した。

「でも、『天』は言い過ぎよね。『海の橋立』くらいが適当なところね」

 そんな名前じゃ、面白くも何ともない。

「こうするんだよ」

 僕はそう言って、海に背を向けて立つと、上半身を思い切り前屈させて、大きく股の間から湾を眺める。すると、景色が上下逆転して、橋立がまるで天に伸びているように見える、というわけだ。

「これが……世に知られる……『天橋立の股のぞき』……ぐえー、腰が痛い頭に血が昇る」

「だめよ、おじさん無理しちゃ。口からアユが出るよ」

 稲子は大笑いしている。

「さあ、君もやってご覧なさい」

「わたしは駄目よ。こんな格好だもん」

 彼女は、足元を見た。夏らしいごく薄手の生地ではあるが、淡いブルーのロングスカートだ。

「ああ、大丈夫。僕がちゃんと裾をまくって生足を……」

 そこまで言いかけたところで、頬を平手で一撃された。

「痛い、痛い」

「この、エロ親父!」

 おじさんからさらに、僕は格下げになった。

「ちなみに、わたしも痛かったからね。髭で指が削れた。血が出てるかも」

「それは、ない」


 宮津最大のショッピングモール、「シーサイドマート・ミップル」の五階レストラン街で海鮮丼を食べ、ビーチで波と軽く戯れ――サンダルを脱いだ彼女は、さすがにスカートの裾を持ち上げていた――夏の一日は、あっという間に走り去った。

 ほぼずっと笑顔だった稲子だが、時折なぜか、何か心残りを感じているような、そんな表情を見せるのが僕には少し気になった。

 天橋立の南端近くにあるホテルに、その夜は泊まった。部屋からは「廻旋橋かいせんきょう」という、その名の通りぐるりと90度回転して、船を通す隙間を空ける橋が見える。しかしここからは、天橋立自体はこんもりとした森のように見えるだけだ。


「ちょっと、失敗」

 浴衣姿の稲子がぽつりと言った。両足を前にぺたんと伸ばし、座椅子にもたれた彼女は、いよいよ寂しげな顔をしている。

「どうした? 何かあったの?」

 僕は焦った。さっきまであんなに楽しそうにしていたのに、こんなにしょんぼりとされては心配になる。

「股のぞき、やれば良かった。みんなやるんだって、あれ」

 スマホに目を遣る。SNSで何か見たのだろう。

「おじさんが、あんな変なエロいこと言うから……。ううん、アユさんのせいじゃないよね。後悔、失敗」

「大丈夫。明日、また朝から展望台行こうよ。今度はビューランドのほうにしようか?」

 慌ててなだめる。落ち込んでいるのを見るのは辛い。

「いい? ほんと?」

 稲子は笑顔に戻った。本当は、明日は丹後半島を巡る綿密な予定を組んであるのだが、頭の中で修正に入る。当たり前だが、彼女の笑顔のほうがずっと大事なのだ。


 夕食後、僕と彼女は例の廻旋橋を渡って、夜の天橋立へと散歩に出かけた。海沿いの遊歩道はちゃんと街灯に照らされて、湾を取り囲む街の灯りも美しい。日中は嫌がる彼女も、ちゃんと僕と手をつないでくれた。

「あ」

 突然、彼女が立ち止まった。星空を見上げている。

「あれ、天の橋立、本物の」

「本物って君ね、今僕ら、そこ歩いてるがな」

「ちゃうがな! ほら、星が」

 可愛くツッコミを入れて、まっすぐ伸ばした稲子の腕。その先の人差し指が、まるで夜空をなぞるように、対岸の山の上から頭上へとすっと動いた。

 そうか、天の川か。目を凝らすと、彼女に比べて十歳分視力の落ちた僕の目にも、濃紺の夜空に白く延びる銀河ミルキー・ウェイが見えた。町なかでは見たことが無いが、やはりここの空は暗いのだろう。

「ね。本物でしょ? この天の橋立」

「そうだね。綺麗だね」

 ロマンティックな状況。抱き寄せようかとも思ったが、今そういうことをすると彼女はきっと怒る。それに、そんなことをするまでもなく、僕と彼女は大切な夏の想い出を、今まさに共有しているはずなのだった。


「いいね、本物は。股のぞきしなくていいもんね」

 星空の頂を思い切り見上げて、稲子は笑った。2等星と、意外に暗い北極星=ポラリスだが、彼女の目には明るく見えていることだろう。

「じゃあ、明日はもういい? 股のぞき」

「だめ。それは見るよ。別の話」

 だろうね。はい、ちゃんと行きますとも。いささかくたびれたおじさんの僕も、少しは君の役に立つのだ。

(デート1 終わり)

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