第二章:蘇る面影
「もう沢山だ」
パンと水以外には殆ど手付かずの昼食。
取り敢えず、この老体の腹は満たしたからそれで良い。
「畏まりました」
給仕ももう痩せ衰えた六十近い老王の半ば絶食に近い少食には慣れたというか、諦めた顔つきで頷くのみだ。
「今日は庭に出よう」
窓の外には高い盛夏の青空が広がっていた。これは暑いだろう、この痩せ細った身にはきついだろうとは出る前から察せられる。
しかし、今日は何故か外に出て空の青さと自分の住まうこの城の姿を直に目にしなければならない気がした。
「すぐに戻るゆえ一人で大丈夫だ」
*****
外に出ると、予想以上に熱を帯びた陽の光が照り付けた。これは早い内に散歩を切り上げて戻らなければならないと思いつつ、足は外に向かっていく。
照り付けてくる陽射しがあまりにも強いので、自分の影がまるで切り抜いた闇のように黒々と浮かび上がって見えた。
そうだ、あの時もまたこんな風に一人で歩いていたのだ。この庭ではなくトゥールーズの城の中を、精一杯胸を張って。
ジャンヌが死んで十年経ち、三十八歳になっていた。迷いながらも走ってきて、王冠は何とか頭の上にあった。
南の春の柔らかな陽射しが入り込んでくる廊下を歩きながら、まだ老年には至らぬものの既に若いとも言えなくなった胸に去来するのは、やはりあのオルレアンの乙女の面影であった。
生きていれば、彼女も二十九歳。今頃は誰かの妻になり母になったかもしれない。
一角獣に乗った処女の透けるように白い面がまた浮かぶ。あの面影が永遠に失われてしまったことに胸を刺されつつ、他の男のものにはならなかったことに一抹の安堵を覚える自分が確かにいた。
自分はあのオルレアンの乙女に深く心を動かされながら、しかし、これを女性として扱う、女性として触れるのは許されないように感じて傍に置くことはなかった。軍政の上でも彼女が前線に立つ方が有利であったし、何より彼女がそれを望むだろう、適材適所だという気がした。
ジャンヌは確かに美しくはあったが、それは言うなればアフロディーテではなくアルテミスの美であり、誘惑や媚態といったものとは無縁の美しさであった。
だが、今となってはあの面影を自分の手で守るべきだったという気がどうしてもしてくる。そのように動いていれば、今、このような後悔に苛まれることもなかったたろう。
乙女の面差しのまま赤子を抱いたジャンヌの姿が浮かんできた。彼女の子なら強く高潔であったに違いない。男の子なら王冠を戴く身に相応しいような。
想像の中でオルレアンの娘がいとけない赤ん坊の息子に柔らかに微笑みかける。自分はそんな彼女をついぞ目にすることはなかった。
王宮の廊下を精一杯背筋を伸ばして歩く胸に寒々しい風がまた吹き抜ける。
――充分でございます。
不意に耳に飛び込んできた声は聞き覚えのある澄んだ響きを持っていた。
――ありがとうございました。
あれは、衣装からしてロレーヌ女公の侍女だ。捕虜になった夫の助命交渉のために赴いた主君一家がしばらくこちらに滞在するから、必要な物資の受け渡しをしているのだろう。
だが、その侍女の衣装を纏った腰高な、腕の長い、均整の取れた体型にはどこか見覚えがあった。
結い上げた艶やかな髪は栗色。小さな白い顔。真っ直ぐで臆せぬ眼差し。年の頃は二十歳になるやならずか。
視野の中で面影が大きく鮮やかに浮かび上がっていく。
ワーッと恐怖とも歓喜ともつかない胸のざわめきを覚えた。
いや、まだ瞳の色は確かめていない。
きっと、目を覗けば自分の求める色彩ではないだろうという諦念が頭の片隅を過ぎった。
次の瞬間、さっと外から陽の光が差し込んでこちらに向けられた二つの瞳が輝いた。茶とも緑ともつかない、榛色の二つの光。
――そなた……。
言いかけた自分の前で侍女の衣装を纏った相手は一礼した。
――名前は?
胸は速打っているのに掠れた声になる。
――アニェスと申します。
高鳴っていた胸がそこで冷水を掛けられたように止まる。
ジャンヌではない。
そうだ、あの甲冑の乙女はもういないのだ。
一瞬でも胸を高鳴らせた自分を苦く笑う脳裏に、一角獣の上から見下ろしていた小さな顔と冷たく澄み切った眼差し、遠ざかっていく甲冑の後ろ姿がまたも蘇った。
あの勝利の女神が永遠に駆け去った時に若かった自分も、もう四十の声を聞こうとしているのだ。
胸の奥に氷の鏡がまた現れた。覗けばあの頃よりもっと疲れた悲惨な姿が映るに違いない。
――陛下。
澄んだ声にまた目をやると、オルレアンの娘に似てもう少しふくよかな面影が自分を見上げてどこか労るように柔らかに微笑んでいた。
栗色の鬢の辺りから微かに百合じみた甘い匂いが漂ってくる。
温かい風が吹き込んで氷が少し解けた気がした。
*****
もう六十近いこの体に七月も半ば以上過ぎた陽射しはいい加減きついと思いつつ、この数年でいっそう広く整えられた庭の奥に足を進める。
世間の少なくはない人間は若い侍女だったアニェスが悪賢い手練手管を用いて父親ほど年の離れた自分を誘惑、籠絡したように考えているが、それは違う。
自分が心の奥底で求めていた面影を、温もりを彼女が示してくれたのだ。
城を与えたのも、珍重なダイヤモンドを贈ったのも、自分がそうしてやりたかったからだ。
――ダイヤには鮮やかな色はありませんが、だからこそ純粋な輝きそのものの輝きを放つので好きです。
アニェスはむろんジャンヌのように甲冑を身に付けて戦場に出ることはしなかったが、それまで男しか身に着けなかったダイヤモンドで身を飾ることを好んだ。
――私は他の人が褒めるものより自分が美しいと思うものを選びます。
元から端麗な娘だったが、その美が磨かれて輝きを増していくのを目にするのが楽しくもあり、誇らしくもあった。
アニェスの父親は一兵士で「元の生まれは卑しい女」と冷笑する声もあったが、本人は毅然として語った。
――国のために戦う兵士だった父も、その娘である自分も今まで恥じたことはありません。
そんなところも、百姓の娘であるジャンヌと似通っていたのだ。
それでいて王妃に対しても敬意を払い、侮蔑や挑発といった振る舞いに出ることはなかった。
彼女は飽くまで聡明であった。
アニェスの産んだ三人の娘はいずれも愛らしく、朗らかな気質を備えていた。赤子を抱いて微笑む彼女の姿を眺めていると、自分の中で失われた何かを取り戻せた気がした。
むろん、ジャンヌとアニェスは別人であり、ジャンヌが悲惨な最期を遂げたことに変わりはない。ジャンヌに似ていると感じたことはアニェス本人にすら伝えていないし、他人の目には二人はむしろ似ていない面の方が多かったかもしれない。
だが、自分の傍に置いて女性として輝き、母親となったアニェスを目にすると、一角獣に乗って駆け去ったオルレアンの処女が天上から見下ろして許してくれる気がしたのだ。
*****
陽射しがあまりにも眩しく目が痛くなってきたので近くの木蔭に入る。
今度は急に暗くなった視野に残像がチカチカと尾を引きながら通り過ぎた。足元がふらつくので片手を木の幹につけて体を支える。
アニェスも殺された。
彼女は二月のまだ寒い日に亡くなった。遠征に同行する中での突然の死であった。四人目の子を宿した腹はまだ大きくなる途中であった。
アニェスの死は明らかに毒殺であった。息を引き取った小さな顔は苦悶に歪み、薄桃色の愛らしい唇は固く黒ずんでいた。
何故だ。
冷たく固まっていくアニェスの滑らかな手を握り締め、もう生まれることのない小さな命を宿した腹を撫でながら、自分の内に湧き出てくるのは悲しみより理不尽であった。
彼女のことは傍に置いて大事にしてきたはずなのに、自分だけの女性として愛情を注いできたはずなのに、今度はその無惨な死を目の当たりにさせられる。
背後からは暖炉の火のゴーッと燃え上がる音が思い出したように響いてきた。
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