夏の陽《ひ》燃えて

吾妻栄子

第一章:乙女は去りぬ

「そうか」

 耳の中に掠れた声が響く。

 ずっと予想していた結果を知らされた。それだけなのに、いざ現実になると、想定した以上の打撃を受けていると自分の声からも分かる。

――殿下、お初にお目にかかります。

 二年前に謁見した、波打つ栗色の髪を切り揃え、輝くはしばみ色の、透き通った茶と緑の混ざり合った瞳を持つその顔は、美女というより美少年じみて見えた。“神のお告げを聞いたと申しているドンレミの百姓の娘”と聞いて予想していたどの姿よりも秀麗だったことも、廷臣たちに紛れて立っている自分の所に迷いなく歩み寄ってきたことも、全てが衝撃であった。

「助からなかったか」

――私はジャンヌと申します。ドンレミから参りました。

 静かに澄んだ声で語ったあの乙女が、あの清らかな面影が火炙りにされてしまったというのか。

 ザワザワと開いた窓の向こうで木々の枝葉のざわめく音がして、青臭い緑の匂いが流れ込んでくる。そろそろこの城の外にも夏が訪れようとしているのだとどこか冷静な頭で思った。

「ご苦労であった」

 使者に告げると席を立つ。一瞬、ふらついた足元を辛うじて踏み締めて部屋を出る。

 これ以上、絶望的な報せを受けた空間に身を置きたくなかった。

*****

 外に出ると、待ち構えたように眩しい初夏の陽射しが照り付ける。

 空は高く澄み、この城の庭ののどかな眺めも昨日までと何ら変わるところがなかった。

 それなのに、あの男装の乙女はもう自分と同じ空の下にはいないのだ。

 水色の空を船じみた形の雲がゆっくりとこちらに近付いてくる。

――あなた様はフランスの国王になる方です。

 二年前、シノンの仮住まいの王宮で隠れるように暮らしていた自分にあの娘が告げたのだ。

――わたくしは神のお告げでそのように聞きました。

 曇りなき榛色の瞳で迷うことなく告げる美少年じみた面輪を眺めながら、この娘は神の声を聞いた人間よりもむしろ預言に降り立った天使ではないかと思った。

 実際、あの時、あの場に合わせた廷臣たちの全てが見目麗しい娘に見とれるというより、むしろ、髪の毛が全て毒蛇になった女とか奇怪な化け物にでも出会でくわしたような、ある種の恐怖に囚われた面持ちで彼女の姿に釘付けになっていた。あまりにも美しく清らかである存在は、あまりにも醜くおぞましい存在と大差ない反応を目にした側に引き起こすものだ。

 見上げた空の一角で、船に似た雲が次第に裂かれて形を変えていく。

 自分がこうして王冠を戴く身になったのも他ならぬジャンヌのおかげだ。

 だが、いつの間にか自分たちを取り巻く状況は変わっていった。彼女が敵に捕らえられた報を受けた時、臣下たちはこぞってその助命に反対した。

――あの娘は陛下の停戦命令に背いて進軍した反逆者です。本来ならこちらでも死罪を科すべき者を莫大な身代金を払って救い出すには及びませぬ。

 これは、頭の上では自分も同意できなくはなかった。

――実際、あの娘は魔女かもしれませぬ。そうでなければ百姓の娘ごときが軍の指揮など。

 悪意の目を通すと、傑出した資質までが奸悪さのあらわれにされてしまうのだ。

――塔の上から飛び降りても生きていたそうですから、あれは人ではございませぬ。

 勝ち進んでいる間は武勇伝だった逸話も、こんな風に排除の根拠に利用される。

――悪魔は美しい女の姿を借りて現れるというではありませぬか。

 一度猜疑に囚われた者の目には、輝くばかりに麗しい姿は敵意や憎悪を和らげるよりもむしろ油を注ぐようだ。

 今、信頼を置いて重用している臣下たちはいずれも彼女に火炙りの最期を遂げさせることを主張した。

 千切れた雲の欠片の影がさっと頭の上を通り過ぎた。

 結局、ジャンヌを見殺しにしたのは他ならぬ自分なのだから、こんな風に沈み込むのはおかしいだろう。

 だが、自分はどこかで彼女がまた危機を脱して生き延びてくれるだろうと、再びあの面影に相見あいまみえるだろうと信じて願っていたのだ。

 サーッと緑の揺れる音が思い出したように遠く響いてきて、青臭い枝葉と土の匂いが通り過ぎた。

 千切れた白い雲は形を失い、空の青に溶けるようにして紛れていく。

 小さな雲の船が跡形もなく消えた碧空の一角をさっと鳥の黒い影が一羽だけ流れた。

 あれは何の鳥だろう。遠過ぎて、逆光になった影しか判らない。

 と、視野全体がじわりと熱く空の水色に滲んだ。

 そうだ、自分はジャンヌを失って苦しいのだ。彼女の死が耐え難いのだ。悲しむ資格など本来持たなくても、この胸を引き裂くような痛みを感じていないと己を偽ることはできない。

 初夏の陽射しの眩しさに耐えかねた振りをして片手で両目を抑えた。掌がたちまち濡れて指の隙間からも涙が流れ落ちる。

何故なぜ

 自分にだけ聞こえる声で呟く。

 答えの代わりにザワザワと木の葉と枝の一斉に揺り動く音が四方から響いてきた。

 青葉と土の本来は爽やかな匂いを吸い込む度に胸の中では軋むような痛みが走る。

「あちらですわ」

 背後から届いた声にふと我に返る。これは王妃付きの侍女の誰かだと思いつつ両目を素早く拭って振り向くと、王妃が侍女数人を伴って歩いてくるところだった。

「陛下」

 一つ下の王妃は、しかし、年より十は上に聞こえる低く重い声で飽くまで穏やかに呼び掛ける。

「このような強い陽射しの下、お一人で歩かれますと、お加減が悪くなります」

 陽に晒されたその象牙色の顔はまだ十分若く、朱色のふくよかな唇は優しい微笑を形作っている。だが、こちらを見詰める大きな鳶色の瞳は何かを諦めたように深くかげっていた。

「分かった」

 結婚して十年近く、子供も数人儲けたこの妻は、一度も激する顔や怒れる声を自分の前で示したことがない。その代わりに、こちらにものままの感情を顕すことをどこか許さないように見えるのだ。

 この妃と相対する時にはいつもぬるま湯に触れるような安心感と飽き足らなさを覚えるのだが、今はどこか嘘寒い感じが走った。

 *****

「ジャンヌ」

 これは夢だ。夢と自覚した夢を見るのは初めてだが、それは少しも夢想の気楽さ、自由さを伴っていない。

 頭にはずしりと重い感触があった。頭の上に頭をもう一つ載せられたような重さと金属の輪が食い込むような微かな痛みから王冠だと知れる。

「来てくれたのか」

 乳色の霧立ち込める深緑の夏草の野。

 甲冑を纏い、頭に角の生えた馬に跨がった、オルレアンの乙女。

 波打つ豊かな栗色の髪は甲冑の腰にまで垂れ、冴え冴えとした白い小さな面には一点の傷も爛れも見出だせなかった。

 ジャンヌは処女おとめのまま死んだから一角獣ユニコーンに乗っているのだ。馬上の女騎士を見上げながら、そこに一抹の安堵を覚える。

 彼女が捕らえられている間、イギリス人の男に襲われたと聞いた時には吐き気を催し、その下劣なやからこそ直ちに焚刑ふんけいに処すべきだと思った。

 だが、こうして一角獣に乗っているのだから、貞操は無事だったのだ。安心しつつ、それが既に非業の死を遂げた相手の為ではなく己の為の満足に過ぎないと感じて後ろめたくなる。

 ジャンヌはそんなこちらの腹を見透かすように彫り深い眼窩の奥から氷さながら冷たく澄んだ榛色の瞳で見下ろしている。

 十九歳の乙女の顔は鮮やかに弧を描く眉の辺りにかつての美少年じみた気配が残っているものの、くせのない優しい輪郭も、花びらじみた薄桃色の小さな唇も、柔らかな絹糸じみた長い髪も、全てが端麗な女性のそれであった。

 青臭い野草の匂いに混じって仄かに百合じみた甘い匂いが流れてくるのは彼女からだろうか。それとも、霧に隠れて咲く花からだろうか。

「許してくれ」

 自分の声がいかにも不甲斐なく響くのに舌打ちしたくなる。

「余が王位に就けたのはそなたのおかげなのに」

 つるぎさながら鋭く光る角を持つ馬に乗った乙女は生のままに伸びた栗色の髪を風に揺らすだけで何も答えない。

 今は夢だから近付いて一角獣の角に刺されようがひずめで蹴られようが、自分が本当に死ぬことはないのだ。

 だが、そうと知っているからこそ、手を伸ばせない。

 これはすぐ傍に立っているのにまるで水面みなもに映る影のように決して触れて掴み取ることの出来ない幻なのだ。

「余にとって真の勇者はそなただ」

 生前は戦いに明け暮れ、与えられる以上の地位や富には一切興味を示さなかったオルレアンの乙女。

 彼女は今、むしろ生き残ったこちらこそが仮初かりそめの存在であるかのように透徹した眼差しで見下ろしている。

 何故この面影を失ってしまったのだろう。守ろうと強く動けなかったのだろう。

 思わず我が衣の胸を握り締める。傷一つ負っていない、服の綻び一つも損なわれていない自分の姿がいかにも怯懦の証のように思われた。

「そなたなくして余は行くべき道を知らぬ」

 王冠を嵌められた頭頂部が思い出したように重く締め付けられる。せめて今はずり落ちないようにしなくてはならないと背筋を伸ばすと肩から首に鈍い痛みが走った。

 どうしてこんな物を被っているのか。重くて、窮屈で、体が痛くなるだけなのに。

 これが輝いて見えるのは身に付けずに遠くに置かれている時だけだ。

「所詮、そなたの助けがなければ非力無才の身に過ぎぬ」

 耳の中にぞっとするほど苦い声が響いた。

 霧はますます濃く深く立ち込めて自分とジャンヌを飲み込まんばかりに迫ってきている。

「これからいかにすべきか」

 それを自分が彼女に問う資格はない。知っていても問わずにいられなかった。

 もし勝利の女神がいるとしたら、この一角獣に跨った甲冑の乙女以外の誰だというのだ。

――ヒヒーン。

 答えの代わりに馬のいななく声が響き渡る。すぐ近くにいるはずなのに遠くに感じる鳴き声だ。そう思う内にも角の生えた馬と女騎士はこちらに背を向けて駆けていく。

「ジャンヌ」

 甲冑の背で波打つ栗色の髪がすべらかな輝きを放ちながら白い霧に紛れていく。

 思わず青草を蹴って駆け出す。

「待ってくれ」

 なぜ自分を置いていくのだ。悲しみより恐怖や理不尽が胸に湧き上がるのを感じながら、乳白色の霧の中に自ら飛び込むようにして走る。

「答えてくれ」

 裏切った自分への恨みや憎しみ、蔑みでもいいから言葉を返してくれ。視野を覆う霧は柔らかに白く、鼻先を過ぎる草の匂いは青さに満ちているのに、肌に感じる空気はどんどん冷えていく。

 これは夢だから、自分がこの霧の中で凍えて死ぬことはない。どこか冷静な頭では思う。だが、再び目を覚ましてジャンヌのいない現実に戻るのは耐え難かった。

「ジャンヌ」

 不意に視野の霧がさっと払われて夏草に囲まれた泉が現れた。

 何と澄んだ泉だろう。

 広がる青空とそこに漂う千切れた雲まで鏡のように映し出していた。

 そう思うと急に喉に渇きを覚えて水面に歩み寄る。

 手と手を合わせて小さな籠を作って泉を覗き込んだところで動けなくなった。

 泉は完全に凍り付いており、鏡のような水面には輝く王冠を頭に載せて酷く虚ろな目をした男が映っていた。

 誰だ、この惨めったらしい道化じみた者は。そう思うと、頭の上にずしりとした重みが締め付けるように痛みと共に蘇って、水面に映る顔はいっそう陰惨になった。

 自分はこれから命を終えるまでこの冠を外すことは許されないのだ。というより、これを脱ぐことはそのままそこで死ぬことを意味するのだ。

 目が覚めて柔らかな床の中で我と我が身を抱き締めても、夢の中で覚えた寒々とした感じがいつまでも消えなかった。

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