現代「拗」学基礎理論
1103教室最後尾左端
見るべきか。見ざるべきか
「ええい、なぜだ! なぜこの世界には乳を露出する服が存在するのだ!」
コジロウが勢いよくビールジョッキをテーブルに振り下ろす。それなりに大きな音がして、テーブルの上の小皿が一瞬宙を舞った。その場違いな騒音と突拍子もない発言の内容に、周りのお客の視線が僕らのテーブルに集まるのを感じる。
「ちょっと、コジロウ……急に何を……」
無意味に周りに愛想笑いと会釈を振りまきながら、僕はコジロウをなだめた。が、コジロウは振り下ろしたジョッキを震えながら握りしめ、般若のような怒りの形相で僕をにらみつけている。かけている眼鏡の奥の眼光は鋭く、もしも視線に熱量があれば、僕の顔は焼けただれていたに違いない。
「急にもへったくれもない! 俺は常々疑問に思っていた! なぜあんな服が! 谷間が丸出しの服があるのだ!? そして奴らは平然とそれを着ていられるのだ!」
「いや、そんなこと僕に言われても……」
コジロウがもう一度ビールジョッキをテーブルに叩きつけた。ジョッキに力を伝えるコツをつかんだのか、さっきよりも大きな音が出て、小皿が宙を舞う滞空時間も気持ち先ほどよりも長くなった。
大暴れするコジロウと同じテーブルに座る僕に、さらに視線が集まるのを感じる。自分の顔がみるみる赤くなっているのを感じるが、どう考えてもこれはアルコールのせいではない。
コジロウが一度悪酔いに入ってしまうと、小一時間はこのまま腐った持論を垂れ流し続けることになる。彼は酔うまでの容量はそれなりにあるのだが、一度タガが外れると見境が無くなってしまうタイプだ。現につい十分ほど前までは、人のよさそうな顔をしながらチビチビとビールを飲んでいた。が、三杯目の途中でボーダーを越えたのか、急に眼が据わり、動きが粗暴になったかと思えば、冒頭のような体たらくとなった。
素面の時に、「自分が何杯飲んだらおかしくなるか分からないのか」と尋ねたところ、「気が付くといつの間にか限界を超えている」そうだ。何か怖い病気みたいだ。
「とりあえず、声のトーン落としてよ。話なら聞くからさ……」
「……いたしかたあるまい」
コジロウは渋々といった様子だ。幸い、大衆居酒屋のごみごみした雰囲気の中では、突発的に大声を上げる人間も珍しくないらしい。一瞬集まった視線もすぐに散らばっていった。僕はほっと胸をなでおろした。
コジロウは僕の大学時代の友人だ。本名は小島小次郎というのだが、みんな彼のことを「コジロウ」呼ぶ。これは単に仲のいい相手をファーストネームで呼び合う、みたいな話ではない。
僕らが呼ぶ「コジロウ」に漢字をあてると、「拗郎」となる。漢字が苦手な諸君のために説明をくわえると、「拗」は音読みで「ヨウ」、訓読みで「こじらせる」と読む。
聡明な読者諸君ならば既にお察しの通り、コジロウは学生時代から、すでに色々なものを「
コジロウは全人類が一度は通る「思春期」なるものを、単なる季節として素通りすることを良しとせず、永遠の思春、常春の国に永住することを若くして決意した稀有な人間であった。彼が長い時間をかけて編み出した全く役に立たない理論体系を、僕らは侮蔑の意味を込めて「
その拗らせっぷりは常人の域をはるかに超え、才能すら感じさせるものだった。彼に類まれなる文才があれば、きっと彼は第二の太宰治としてもてはやされたであろう。また、彼の探求心が学問に向けばきっと後世に名を遺す偉大な学者になったに違いない。
しかし、コジロウには文学的才能も、学問的野心もこれっぽっちもなかった。彼の妥協なき思想は徹底的に世俗的、俗物的なしょーもないものばかりに向けられ、一切建設的な結論を導かなかった。
大学を卒業し、就職した後は、生きていくためにある程度その「拗らせ」の症状は治まった(というより、擬態する技術を身に着けた)らしいが、それでもこうして悪酔いすると様々な「
コジロウは少し落ち着いたらしく、またチビチビとビールを飲み始めた。が、その眼光は依然として鋭く、目からビームを出す練習でもしているかのようだった。
「で、なんだっけ? 乳を出す服? 授乳用のやつのこと?」
「阿呆が。そんなわけがないだろう」
軽蔑すら感じさせるコジロウの口調にいら立ちを感じる。お前にだけは阿呆とか言われたくない。
「というか、授乳用の服は乳を出す合理性があるだろ。赤ん坊に母乳をやらねばいかんのだから。俺はそう言う話がしたいんじゃない」
「合理性ないのに乳を出す服ってこと?」
「そうだ。ちょうどああいうやつだ」
コジロウが箸で僕の後ろを指す。とてもお行儀が悪い。仕方なく後ろを振り返ってみると、若い男女が楽しそうに談笑しながら酒を飲んでいた。合コンだろうか。
「あの手前の女。わかるか?」
「ああ……胸元、結構開いてるね」
コジロウが指し示したのは若い女の子だった。学生だろうか、まだ慣れていないのか妙に濃い化粧をしており、甲高い声で笑う子だった。そしてその服は胸元が開いており、谷間が丸見えだった。どうにも目のやり場に困る。
「で、あの服がなんなの?」
「……どうしてあんな服が存在するんだ?」
「はい?」
「どうしてあんな不埒な恰好が許されるんだ?」
「いや……普通にファッションは自由でしょ」
コジロウはひどく落胆した溜め息をはいた。その様子は見る者をイラつかせる非常に高い煽り性能が備わっていた。
「阿呆め。いくらファッションが自由でも、全裸にスカーフ一枚だったらつかまるだろうが」
「そりゃ、猥褻物陳列罪とかで」
「では、あれは猥褻物ではないのか?」
「いや、違うだろ。なんていうか、肉体美? 自分の身体を魅力的に見せるために着飾っているわけで……」
「魅力的に見せてどうする。周囲な男に性的な関係でも迫っているとでもいうのか」
「いや、別にそういうつもりはないだろうけど……」
「では、彼女はなぜあんな恰好を?」
「……」
そんなこと、考えたこともない。端的に言えば人の勝手である。が、そんな一般論でこのコジロウが納得するはずもない。僕は少し考えて屁理屈……もとい、緻密な論理を構築した。
「ほら、なんていうか……自分の見られたい姿でいたいって、人間の自然な欲求じゃないか? 服装だけじゃなくて、仕草とか、言動とか、もっと言えば学歴もスポーツも、突き詰めれば自分がどうありたいかって考えの表出だろ? それが公序良俗に反しない範囲なら、自己表現は自由だし、谷間を見せるのもその範疇ってことじゃないか?」
僕の言説に、コジロウは「ふむ」と少し思案顔になった。とりあえず、一考の余地はあると判断されたらしい。なんでコイツにそんな判断されなきゃいけないかは分からないけれど。
「公序良俗に反しない範囲であれば、自己表現のために、女体の魅力を垂れ流すのは問題ない、と」
「そんな公害みたいな言い方しなくても……」
すると、急にコジロウは居住まいを正し、僕の方をまっすぐ見てきた。「ここからが本題だ」とでもいうように、眼球に力がこもっているのが分かる。
「では、視点を変えて問おう」
「なんだよ。改まって……」
「……俺は、あれを見てもいいのか?」
「はい?」
コジロウの指さす先には、やはり先ほどの胸元の開いた服を着た女性が座っている。楽しそうに身体を揺らすので、それに合わせて胸も揺れていた。これまた、目のやり場に困る。
「魅力の放出なのだろう? 自分の見られたい姿の現れなのだろう? ならば、俺は堂々と、あの女の乳を凝視し、劣情を抱いたり、あらぬ妄想を膨らませたりすることに、何の問題もないのだろう?」
「すごいこと言ってる……」
「だが、貴様の論理では、問題ないことになるではないか」
「いや、えっと、うーん……まあ、そう、なの、かな?」
なんだか釈然としない。だが、見ているだけなら、それをどう思おうと人の勝手なはずだ。目の前にある対象を頭の中でどう思おうと自由、なはずだ。思想は形がないだけ表現以上に自由度が高い。頭の中で、思うだけなら犯罪にはならない……よな?
僕が曖昧な返事をするかしないかのうちに、コジロウがクワッと目を見開いた。そのまま瞼がひっくり返って目の大きさが倍になるような勢いだった。
「しかし、しかしだ……それならば、あの谷間を見たときに、俺の胸に去来するこの罪悪感と背徳感はどう説明すればいいんだ!」
「はい?」
「あの揺れる乳を見ていると、何故か、自分がひどく下劣で淫猥な人間になったような気持ちになるのだ! これはなぜだ!!」
あ、一応、気持ち悪い自覚はあるんだ。と、僕は少しだけホッとした。
が、コジロウの表情は苦悶に満ちている。
「わからん。わからんぞ。相手は見られたいから出している。俺はそれを見ている。ただそれだけのことだ。なのになぜ! 俺は妙にばつの悪い思いをしなければならないのだ!!」
コジロウは途方に暮れるように頭を抱えてしまった。なんというか、これほどまでに馬鹿馬鹿しいことを真剣に考えることができるのは、この男の稀有な才能なのだろう。全くなんの役にも立たない才能だが、まあ、こんな男がそれなりに生きていくことができている事実は、好意的に捉えれば、この国が大分平和であるという証拠に他ならない。
めんどうだが、僕はもう一度屁理屈……ではなく、高尚な理論構築を再度やり直した。
「わかった。わかったよ。多分それはな。コジロウが越権しているからだよ」
「なに?! どういうことだ!」
「彼女は確かに谷間を露出してる。それは『女性的な魅力』を表現したいのであって君のような性獣に視姦されたいわけじゃないのさ。君は彼女の『見られたい自分』を阻害する要因に他ならない」
「なんだと!! この俺が越権だと?!」
「そう、あの女の子には自分なりの『見られたい自分』像があるのさ。それを勝手に他人に踏みにじられれば、いい気分はしないはずだ」
表現は、見る者に自分が望んだとおりのイメージを想起させるためにするものだ。逆に言えば、自分が望まないイメージを想起されるのは嫌なのだ。SNSで積極的に自分のプライベートを公開する人間が、一方でプライバシーを主張するようなものだ。自分が見られたいように見られたい。自分が見られたくないようには見られたくない。身勝手だが、ある種自然な欲求だろう。
雷に打たれたように、驚愕の表情を浮かべるコジロウ。目は限界まで見開かれ、瞼から流血しそうな勢いである。
「た、たしかに。一理ある……だが待て! その『見られたい自分』像なるものはどのように判別すればいいのだ?」
「そんなの、人によって違うだろ」
「そんな馬鹿な! それではどうやって判断すればいいのだ! 見てもいいのか、見たらいかんのか、どのくらいなら見てもいいのか、全て人によって違うとでもいうのか!」
「そりゃそうだよ……」
「なら、毎回あのような服の女が現れる度、俺は『なりたい自分は何ですか?』などと聞きまわる必要があるっていうのか?」
「その前に通報されるよ……」
その言い回しはほとんど危ない新興宗教だ。いや、問題はそこじゃないけど。
コジロウは、がーん……という擬音? 擬態?が聞こえてきそうな勢いでショックを受け、そのままよろよろと、テーブルに崩れ落ちた。僕はとっさに、コジロウの顔が料理にダイブしないよう皿をどけた。
「そんな……それでは、俺は……これからあのような服を着ている女性に遭遇したとき、どうすればいいのだ……目の前に現れるだけでなく、視界に入るたび、俺は越権行為によって女性の自由を侵害している……これは由々しき事態だ」
「そんなにいうなら、見なきゃいいじゃん……」
「馬鹿者! 男が谷間に視線を寄せるのは、もうほとんど反射に近い! 『大きな音がしたから振り返った』のとほとんど同じだ! 視界に入れるまでのプロセスに性的なニュアンスはない! ない、のだが……」
「のだが?」
「視界に入った後、事後的に卑猥なイメージが、浮かんでしまうのだ……それこそ、恐らくその女性の『見られたい自分』像からかけ離れたものだ!」
コジロウは心底悔しそうにテーブルを拳で叩いた。その様子に嘘偽りはなく、心に迫るものがあったが、冷静になればなるほど、コイツは何に悩んでいるんだと馬鹿馬鹿しくなってきた。
「あーもう、めんどくさいな!! みんなそんなにゴチャゴチャ考えてないよ。お互いそれなりの対応すればいいんだって。あ、谷間見れた。ラッキー、とか思えばいいだろ」
「そ、そんな。『あ、ここフリーWiFi飛んでたんだ。ラッキー』みたいなノリでいいのか……?」
「あ、それって『皆つながれる』的な隠喩?」
「違う……そんな高度なレトリックじゃない……」
突っ伏していたコジロウは、ゆっくりと顔をあげた。どうやら少しだけ酔いがさめてきたらしい。先ほどまでとは違い、目線が緩やかになっている。
「すまん……少し取り乱した」
「少しって感じじゃなかったけど……まあ、いいよ。いつものことだし」
「お前くらいだ。この歳になってもこんな話に付き合ってくれるのは」
「まあね。でもこういう話聞いてるの嫌いじゃないからさ」
僕がそう言うと、コジロウは少し照れ臭そうに笑った。
彼自身もある程度理解しているのだ。この手の議論を考えすぎても、何の意味もないと。そんなに複雑に物事を考えている人間など、ほとんどいないのだと。「拗学」は、酒の場でそれなりに楽しむものに過ぎないと。
ちょうどそのタイミングで、話題に出ていた谷間の女の子(あんまりなネーミングだ)が店から出て行った。僕が何となく彼女を目で追っていると、コジロウが口を開いた。
「そういうお前は、どうなんだ? 目の前にあんな服の女が現れたら……」
「え? 揉めないおっぱいのこと考えるのって時間の無駄じゃない?」
「……」
コジロウが怪訝そうな目、というか汚いものを見るような目で僕のことを見てきた。
「……お前、拗らせてんな」
「黙れ」
お前にだけは言われたくない。
現代「拗」学基礎理論 1103教室最後尾左端 @indo-1103
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。現代「拗」学基礎理論の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます