06 追い詰められて

 こうなったらもう、逃げるしか手立てはない。しばらく泣きじゃくったのち、どうやらセリアも覚悟がついたようだ。僕の手にかけられていた手錠を、彼女が短剣を使って二つに裂いてくれた。


「こんな事になるって分かってたら、最初からアンタの勲章なんてひったくらなかったのに」


「もう遅いさ」僕は言った。そのことは正直申し訳なかったが、今更どうすることもできない。「後悔してもしょうがない。とにかく逃げよう、ほら」


 僕は窓を開けた。冷たい風が吹き込んでくる。汗をかいたせいか、体中がひんやりした。窓から顔を出してみる。すると目に入ったのは、建物に挟まれた狭い通路だ。思うに人ひとりがやっと通れるくらいだろう。けれども、向こうの建物が一階建てなので、その上に飛び乗るという手も考えられる――いや、そっちの方が良さそうだ。


「大丈夫だ、これくらいなら飛び乗れる」そう言ってセリアの方を振り返った。「もう行けるか?」


「ちょっと待って」


彼女はそう言うと、持っていたルビーを半ズボンのポケットにしまって、そのあと倒れたタンスを一人で立て直した。どうやら引き出しに何か大切な物がしまってあるらしい。


 セリアは一番上の引き出しから何かを取り出した。ペンダントだ。「お母さんの写真なの」


 彼女はそう言ってペンダントを首にかけた。


 思うに、老人に引き取られた養子、という彼女の境遇から察すると、彼女の両親はもう他界しているのだろう。母親の写真は宝物に違いない。


「じゃあ行こう」


 彼女はまだ決めかねている様子だったが、黙ってじっと待っているわけにもいかなかった。僕はひょいと窓を飛び出し、向かいの建物の上に着地した。足が少し痛んだが、これくらいならどうってことない。


 見上げるとセリアが、窓から顔を出して僕を見下ろしている。陽光に照らされた彼女の顔は、不安のせいか不自然に強張っていた。


 彼女がいつ飛び降りて来るか、僕はそれを待ちわびながら、周囲を見回した。建物の上とあって、街を展望することが出来る。広場の方では変わらず群衆が何かを叫んでいて、遠くではチラホラと狼煙が上がっていた。


 やがて、ようやく彼女が窓から飛び降りて来た。トンッと軽やかに僕の目の前に着地すると、立ち上がって僕を見つめる。目は充血したままだが、涙はもう流れていない。けれどもやっぱり僕を恨んでいるのか、目にはかなりの力がこもっている。


「駅に行く」と彼女は言った。「上手くいけば、建物の上を飛び移って、地面に足を付けないまま駅まで行けると思う。もちろん、やってみないと分からないけど」


「そうだね、そうしよう。でもお金は? 電車に乗るならルビーを売らないと」


「……飛び降りる前に言うべきだった。やっぱルビーじゃなくてお金をくれって」


「確かにその通りだ。でももう質屋には戻れない。ここから二階の窓に飛んで戻るのは無理だし、一階から入ろうにも軍が道をうろついてる」


「そうね。でも、じゃあどうするの?」


 ……どうするの、と訊かれても、僕には何も言えない。唯一確かなのは、このままだといつか居場所がバレて、すべてが台無しになるだろう、という事だけだ。


「駅舎に行って考えよう」と僕は言った。「駅の方になら、ルビーを買ってくれる金持ちがいるかもしれない」


 僕はすぐに走り出した。建物と建物の間を飛び、進み、走り、風を切る。


 僕は自分なりに速く走っていたのだが、彼女はそんな僕を、すぐさま追い抜いてしまった。あの子、なんて足が速いんだろう。飛び移るたびに黒い髪が舞っている。彼女はどんどん遠ざかるばかりだ。僕ももっと早く走らないと。


 走っている間、いつ軍に居場所がバレるか、それが気がかりで仕方なかった。でも大丈夫だ、まだ軍には知られていない。あいつらもまさか、僕が建物の上を飛び回っているとは夢にも思わないだろう。僕は雑念を振り払い、彼女を追いかけることに集中した。


 が、考えが甘かった。銃声だ――全部で三発。バン、バン、バン。威嚇射撃か? 驚いて足を止めていると、すぐに近くから怒鳴り声が聞こえた。


「建物の上にいます!」軍人と思われる声の主は、そう言って辺りに声を響かせた。「それと女も! 良く分かりませんが、一緒に逃げてるようです!」


「ったくあのガキめ!」愚痴に似た返事が聞こえた。……この声は、ハルク・カーソンだ。「奴は建物の上にいる! 全員上にあがれ!」


 バン、バン。また銃声だ。今度は二発。どういう意味かは分からないが、直後、近くで何かが空に舞い上がり、赤い色の煙の柱が上がった。


 先を走っていた彼女が立ち止まる。体の向きを変えて、すぐさま僕の方に駆け寄って来た。


「ねえ居場所がバレてる! あの赤い煙は何? 私たちの場所を示してるの!?」


「ああ、きっとそうだ」 


「……もう最悪、ホントに最悪、逃げ場がない、どうするの……ねえ!?」


 彼女が僕の肩をゆすった。視界がぐらぐら揺れる。そのせいで思考が乱されて、打開策を考えようにも頭が動かなかった。


「分かったから、分かったから、手を放してくれ!」


 ダメだ、こんなところで喧嘩をしていたら、本当にダメだ、終わりだ。


 追い打ちをかけるように、僕らが立っていた建物の上に、軍人が三人あがって来る。逃げようと思い体の向きを変えたが、後ろにはハルク・カーソンがいた。


 ――やられたな。


「本当に手のかかるガキだ」遅れてあがって来たハルク・カーソンが、元から居た軍人に会釈をしながら、僕の目の前にやって来る。「その女は誰だ?」


「関係ない」僕は言った。「この子は関係ない」


「関係ないわけあるか」ハルクが火縄銃を僕に向ける。「一緒に逃げているからには、何か理由があるんだろう……ん? よく見たらさっきの嬢ちゃんじゃねえか。ふーん……まあ、何があったかは分からんが、残念だな、嬢ちゃんの方も放っておくわけにはいかない」


 ハルクがこちらに歩み寄って来る。その距離は五メートルといったところか。白い軍服に、ありったけの勲章をギラギラ輝かせて、陽光の下、その巨体を僕に近づけて来る。


 僕は奴を睨んだ。正確に言えば、睨むことしか出来なかった。何か手立てがある風を装って堂々としていたが、実際は手立てなど何もないのだ。僕の後ろではセリアが体を震わせている。その声が、荒ぶる吐息が、はっきりと耳に聞こえて来るのだ。


「きっともう終わりなの」彼女は言った。「こうなったらやるしかない……」


 一瞬だけ振り返ると、彼女は右手に短剣を構えていた。最後の抵抗ということだろう。けれどもその短剣で、一体何ができると言うんだ? 四人もの軍人相手じゃ、短剣なんてただのオモチャでしかない。


「前を向いて」彼女が言う。僕は言われた通り前を向いた。だが彼女はそのあとも、後ろから僕に何かをささやき続けてくる。「今から私の言うことを聞いて」


 彼女の声はほとんど吐息に近い。明らかに震えているが、何か強い意志を感じる。


「攻撃の間合いは……」


 ――この女、この期に及んで何を言ってるんだ? 理解が出来ない。攻撃の間合い?


「いち、で前に大きく足を蹴り上げる。に、で極限まで低姿勢。さん、で高く跳躍」


「意味が分からないぞ」僕は前を向いたまま言った。


「……大丈夫、今に分かるから。とにかく言うと通りにして」


 何が何だかよく分からないが、言う通りにするしかなさそうだ。


「ええっと、いちに……?」確認のため尋ねた。


「足を大きく蹴り上げる」


「に、で……」


「極限まで低姿勢」


「さんは?」


「跳躍」


「跳躍?」


「そう、跳躍」


「真上に飛ぶのか?」


「うん」


 こうして顔を合わせず会話をしている間にも、ハルクはこちらに歩み寄っている。


 ――彼女が僕の横を駆け抜けたのは、ハルクが何かを言おうとして口を開けたのと同時だった。


 僕の横を、風が颯爽と抜ける。


 そのまま彼女は横を通り過ぎ、今度は僕とハルクの間を突き進んでいく。右手の短剣が陽光を受けてキラリと煌めいた――


「うあああああああああああ!」


 彼女が雄叫びを上げる。走りながら少し右にずれ、ハルクの視線がそれを追った。彼女は、ハルクの脇腹あたりに来ると、そのままハルクの奥に消える。慌てた彼が後ろを振り返ったが、その瞬間、彼の持っていた銃が地面に落ちた。


 僕には何も見えない。ハルクは今、僕に背を向け、彼女と対峙しているようだ。けれども銃は落ちている。ハルクが丸腰で彼女に立ち向かうわけがない。


 するとハルクが倒れた。こっちに。こっちに倒れて来る。


「いちいいいい!」


 彼女が向こうで叫んだ。


 ――いち?


 おい、待てよ、そう言うことか。


 思い切って足を蹴り上げる。すると、倒れて来たハルクを下から突き上げる形になって、彼がうめき声を上げた。僕の蹴りで背中をやられた彼は、そのまま地べたに仰向けのまま倒れる。おかげで視界が晴れ、向こうに居た彼女が目に入った。……彼女は銃をこちらに向けている。ハルクのものを拾ったのだろう。


「にいいい!」


 極限まで低姿勢――僕はぐっと屈んだ。途端に銃弾が一発、僕の頭の上を抜けた。薬莢が音を立てて落ちる。後ろの軍人が一人倒れた。


 残るは二人。


「さあああん!」


 跳躍? でもどうして跳躍を? ……だがやるしかない。僕はその場で上に飛び跳ねた。


 途端、僕の足元を、彼女の投げた短剣が抜けて行く。倒れたハルクの体の上を越え、僕の足元を抜けたそれは、シュンッと音を立ててまっすぐ宙を裂いた。振り返ると、僕の後ろにいた別の軍人の足に、剣が突き刺さっている。彼もまた、うめき声をあげて地面に倒れた。


 これで言われたことは全てやり終えた。が、軍人はもう一人残っている。彼は振り返った僕の目の前に立ち、微動だにせず銃を構えていた。目つきが鋭い。針のような視線だ。 


「どうするんだ!」彼と目を合わせたまま、僕は後ろにいるセリアに向かって叫んだ。


「無理よ! これが私にできる限界!」


「ここまでやっておいてそれはないだろ!」


「そうは言っても限界は限界よ! 剣はもう投げちゃったし、使えるものは何もないんだから!」


 ……となるとあとはもう、目の前にいるこの見知らぬ軍人を、どうにかするしかないのか。彼は相変わらず僕に銃を向けている。こちらを見下ろす彼は、太陽を背に顔全体を影に染めていた。彼が口を開く。


「いいかガキ、大人しくしろ」抑揚のない冷たい声だった。「俺を殺したところで、もうこの場所は完全に包囲されている。逃げ道はないんだ」


 確かにコイツの言う通りだった。僕らは散々逃げ回ってきたが、今はもう軍の手中にはまり、完全に退路を閉ざされている。


「処刑は全て執行された。残すはお前だけなんだ」そう言って彼が、一歩こちらに歩み寄って来た。「逃げたところで誰が助けてくれる? この国にはもう、お前の家族はいない。王も、その妻も、みんなギロチンにかけられたんだ。いい加減あきらめた方が、俺は無難だと思うな」


 その通りだった。どこまでもその通りだった。しかし悔しい、ここまで逃げておいて、今さら捕まるなんて、悔しくて涙が出そうだ。だがもう、僕はいよいよ死ぬんだな。今まで何度も似たようなことを考えて来たが、今度は本当に殺されるみたいだ。


 ――いや、待てよ。


 この軍人の言葉が正しければ、母さんはもう処刑されたということだ――


「ガキ、いいから大人しく建物から飛び降りろ。広場じゃ民衆が待ちくたびれてるぞ」


 母さんが殺されたということは、魔力はすでに継承されている――


「早くしろよ、まだ抵抗する気か?」


 となれば今、僕は魔法が使える――


「さっさと飛び降りて降伏したほうが身のためさ」


 そう考えると、何か、体に満ち満ちてくる、正体不明の力を感じた。


「おいガキ、聞いてるのか?」


「……聞いてる」


 僕はそう言って、前方に手をかざした。


 何かが起きると願って――

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革命で両親を殺された王子、しかし彼の家族には大いなる力があって…… @nakayama1234

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