05 涙ながらの決断
老人が一階に下りて行く。二階に残されたのは僕とセリアだけだ。
「とりあえず押し入れに」セリアはそう言って僕を押し入れに突っ込んだ。
そしてなぜか、セリアまで押し入れに入って来る。
「どうしてお前まで来るんだよっ」
「私だってさっきの一件で軍人に顔を知られてるんだ」そう言うと彼女は、狭い押し入れの中で僕に抱き着いた。「動くなよ、絶対にだ。あと声も出すな」
扉が閉められると、目の前が真っ暗になった。何も見えない。彼女の顔さえも見えない。加えて二人も居るせいで、ひどく暑苦しい。ただし、一階で軍人の対応をする老人の声は、こちらまでハッキリと聞こえてくる。
「うちには何もありゃしないよ」老人は気だるげに言っていた。
「質屋のくせにか?」
「そんなの関係ないさ」
やがて、家具を物色するガタガタという物音が、下から何度も聞こえてきた。かなり乱雑に物を扱っているらしい。何かを投げ捨てる音も聞こえる。
「それじゃあ次は、二階を見せてもらおうか」
軍人はそう言うと、階段をのぼり始めた。規則正しい足音が聞こえてくる。トン、トン、トン、トン、と、一段ずつ丁寧にのぼる革靴の足音だ。
「これは女の部屋か?」二階に来た軍人の声は、どこか訝し気だった。「ずいぶんと質素な部屋だな」
軍人はぐるぐると部屋を歩き回った。ダメだ、このままだとバレる、もはや時間の問題だ。一刻も早く何か策を打たないと。けれども声は出せない。すぐそこには軍人がいるのだから……。
「子供の部屋まで隅々見るつもりですか?」老人が尋ねた。
「そりゃもちろん。むしろ、隠したい物がある奴は子供部屋に隠すからな。そうすれば疑われないだろうという、安易な考えに走るのさ」
安易な考え……まさにその通りだ、安易だったのかもしれない。けれども考える時間なんて無かった。セリアがパッと思いついた手段、それが押し入れだったのだろう。でも今思えば、窓を開けて外に出ることもできたはずだ。
……息が詰まる。暑い、とても暑い。彼女の吐息が直接首元にかかる。すごく熱い吐息だ。呼吸も速い。緊張しているのだろう。だがそれは僕も同じだ。なかなか落ち着けない。深呼吸をしようにも、肺が言うことを聞かないのだ。
扉の外側から、ひっきりなしに物音が聞こえてくる。どうやらタンスを倒したらしい。ドスンと大きな音がして、建物全体が揺れた。
「ったくよお、ハルクの野郎、俺たちに雑務を押し付けやがって!」軍人はそう言ってドタドタ音を立てながら部屋を歩き回った。足音でわかる、こいつは気が動転しているな。
そのあとも次々に騒音が聞こえた。ドン、バン、ダンダン、その繰り返しだ。そのたびに部屋が揺れて、そのたびに軍人の愚痴が聞こえた。きっともう部屋の中はメチャクチャなのだろう。この押し入れに手が伸びるのも、きっともう間もなくだ。
……そしていよいよその時が来た。ガチャ――押し入れのノブに手がかかったのだ。扉がガタガタ揺れる。
「鍵がかかってるのか?」扉のすぐ向こうから軍人の声が聞こえた。
むろん、この押し入れに鍵はない。彼女が内側から扉を引っ張っているだけだ。そのせいで扉は開かなくなっている。
軍人の鍵という発言でそのことを察したらしい老人は、状況に乗じて冷静にこう言った。
「……ええそうです、鍵がかかっています」
「なら開けてくれ」
「そうは言われても、あいにく娘は今、外出しておりまして、鍵は彼女が……」
「ったく使えねえな。んじゃあ無理やり開けるだけだ」
「そんなことしたら、扉が壊れて――」
「知るかそんなもん! こっちは王族のガキを探してるんだよ!」
いよいよ大きな音がして、扉が開かれた。彼女の抵抗も虚しく、押し入れに明かりが差し込んで、目の前に立っていた軍人は、僕を見つけると驚いたのか目を見開いた。
「ほう……意外なところに」
僕は咄嗟に走った、が、腕を捕まえられた。ダメだ、大人の男は力が強すぎる。抵抗なんてできっこない。腕を引っ張られて、逃げようにも前へ進めないのだ。
「落ち着けガキ! ああ、これで俺もようやく昇進が近づくな!」
そう言って軍人が僕を地面にねじ伏せた。背中で腕を組まされ、地面に押し付けられる。もはや逃げ場はない。クソっ、こいつ、セリアと違って体重がとてつもなく重いな。肺が押し潰されそうで、呼吸もままならないじゃないか……。
僕の手に手錠がかけられた。もう体の自由がきかない。後ろで組まされた手は、手錠によって動きを阻まれている。ああもう終わりだ、いよいよ本当に何もかも終わりだ、このまま断頭台行きか、僕は。
「アンタらさ」軍人は僕の背中に乗ったまま言った。「自分たちがやったことの重大さ、理解してるのか? お前らはこのガキをかくまった。どういう理由でかは知らないが、何がともあれ、こいつは王族のガキだ。それも末裔、次期国王、いや、正確に言えばもう国王になっている。そのことを、お前らが知っていたにしろ知らなかったにしろ、これが重罪であることに変わりはない。だからお前らにも来てもらう」
「来てもらうって、どこに」セリアの声は不安気だった。
「とりあえずアンタらは、牢獄行きだろうな。きっと高等法院がお前らを裁判にかける。よくて禁固刑、場合によっては死ぬまで牢屋暮らしだ」
「そんなのない」セリアは慌てたように言った。「こいつが王子なんて知らなかったんだ」
明らかに嘘をついている。でも、そのうちバレるだろう。セリアはもうハルク・カーソンと顔を合わせているのだから。
「私はただ……」
「うるせえんだよ! とにかくお前らは大人しく俺に――」
いきなり、高くて鋭い音がした。ガラスのような物が割れた音だ。間もなく、うつ伏せになった僕の横に、キラキラ光る破片のようなものが散らばった。途端、僕を押さえつけていた軍人が、ドサッと横に倒れた。
……どうやらガラス瓶で軍人の頭を一発殴ったらしい。軍人は血を流して倒れている。
僕は立ち上がってセリアに顔を向けた。
「そこまでしなくても……」
「私じゃない、おっちゃんが」
「ああそうだ、私がやった」その言葉を証明するように、老人の手には飲み口だけになった緑のガラス瓶が握られていた。「私がやったんだよ……一生牢獄暮らしなんて、絶対にゴメンだからな……」
「どうするの!?」セリアが老人に向かって言う。「これじゃあもう弁解の余地がない、人を殺しちゃったんだ……結局牢屋行きだよ!」
「確かにそう言われればそうだな」老人はなぜか笑い、ハアハア言いながら椅子に座り込んだ。そして持っていたガラス瓶の飲み口を床に投げ置くと、そのまま頭を抱えた。「どうやら俺も気が狂っていたみたいだ。まったく、もう歳かもしれないな……二人はここを出て、どこか遠くの街に行くといい。俺はここに残る」
「なに言ってるの!?」セリアが老人に駆け寄った。その皺くちゃな手を握りしめ、地面に膝をついて、上目遣いで必死に訴えている。「一緒に行けばいいじゃん! ここに残る必要なんて――」
「ダメだ」老人はきっぱりと言い切った。「質に入れてもらった品物たちがある。客の大切な品だ。それを放って街を出ることはできん」
「そんな……嫌だ、嫌だ、そんなの知らない、捨てればいいんだ、全部まとめて……」
「いいかセリア」老人は彼女の頬に手を当て、優しくささやいた。「荷物をまとめろ。今すぐここを出るんだ。お前を養子に貰った時から、俺はお前を立派な女にすると決めていた。だがまさか、王子から勲章をひったくるとはな……笑えるよ、お前は本当に強くなったなあ!」
老人が大笑いする。いよいよ本当に気が狂い出したようだ。笑っているのに、目は涙にあふれ、その雫が数滴、頬を伝っていた。
「ほら、これを」老人はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。さっきのルビーだった。「よく聞けセリア。これをどこか別の質屋に入れなさい。そうすればかなりの金になる。そのお金で切符を買って、遠くの街に行くんだ」
セリアの手にルビーが託される。窓から差した陽光で、その赤が鮮やかに輝いた。
「おい王子さん、いや、国王さん」老人はそう言うと、座ったまま、泣き崩れるセリアを前に、僕をじっと見つめた。「こうなったのもアンタのせいだ。それ相応の責任はとってもらう。俺はこの軍人を殺したから、大人しく罪を償う。だが、お前は断頭台に行く気がないんだろう?」
僕は頷いた。
「それでいい。いくら国王とて、子供は子供だ。思うに、子供ってのは、無垢で、純粋なんだ。考えれば分かるさ、国王さん、お前は何もしていない。そうだろう?」
僕はもう一度頷いた。すると老人は、ゆっくりと、一つ一つの言葉を井戸から汲み出すように、そっとこう語った。
「だったらこの子を、責任をもって立派な女にしてくれ。約束できるか?」
僕はまた頷いた。断る理由なんて無かった。
「よし、それでいい。セリア、お前はこの国王さんと、一緒に逃げるんだ。あとは全て二人で決めなさい」
「嫌だ! 嫌だ! なんでこんな奴と!? コイツは私たちの敵なんだ! どうせ私なんかすぐに裏切って、そのまま置いていくんだ!」
「そんなの分からんだろ……」老人はセリアの頭を撫でながら、僕に目を向けた。「おい国王さん、そんなことはしないと、誓ってくれ。この子を裏切って、ひとりぼっちにはしないと、そう誓ってくれ。今、ここでだ」
「しない、そんなことしないよ――」僕は言った。「――するわけがない。する理由がない。大体君は、僕を助けてくれたんだ。君からすれば不本意な形かもしれないけど、結果として僕はまだ処刑されずに済んでいる」
「だから何よ!?」
「だから君を……ひとりぼっちにはしない。逃げよう、一緒に逃げるんだ」
「どうして……どうしてそうなるの……」
セリアのむせび泣きが段々大きくなる。老人が彼女をなだめるが、なかなか涙は収まらない。僕はその場に立ち尽くしていた。けれどもセリアが良いと言えば、今すぐにでも逃げ出す覚悟はあった。
「恨むから、一生恨むから!」そう言うとセリアは、立ち上がって僕の前に立った。目は充血し、顔は怒りに歪んでいる。頬は涙にまみれ、何度も鼻をすすっていた。「……でも一生助けてもらうんだからっ! 死ぬまで一緒に逃げてもらうんだからっ! 絶対に、絶対に、私を……」
セリアはそう言って再び泣き崩れ、顔を手で覆いながら地面に膝をついた。僕も老人も、何も言えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます