03 交渉

 僕らが着地したのは、広場から少し離れた――五百メートルくらいだろうか――裏路地だった。安全な距離とは言えない。もっと遠くに逃げなければ、そのうちすぐに見つかって処刑台に連行されてしまうだろう。


 何よりマズいのは、この服装だった。白い軍服。僕みたいな少年が軍服を着ていれば、きっとすぐ人目について、正体を見破られてしまうだろう。


「ぼっちゃま、着替えた方が良いですよ」隣に立つコルトが言った。「できるだけ質素な服を……できれば平民が着ていそうな服を着ましょう。なんなら布切れを体に巻き付けるだけでもいい」


 コルトはそう言うと、辺りを見回した。裏路地は閑としている。人がみんな広場に集まっているせいで、人通りが減っているのだ。昨日降った雨のせいで地面はドロドロにぬかるんでいた。


 しかし、一体どうすればいいのだろう? この服装のまま商店街に出れば、さすがに目立ってしまう。かと言ってずっとこの狭い路地に留まるにも限界がある。


「ちょっと覗いてくる」そう言って僕は、少し進んで大通りの方に向かった。


 馬車が並んで三台は通れそうな広い通りだ。左右には木造の商店が並んでいる。僕は路地裏からこっそり顔だけ出して、通りの様子を窺った。人通りはまばらといった感じだ。けれども、だからと言って軍服で出歩けるほど人通りが少ないわけでもない。


 と、次の瞬間、最悪の事態が起こった! ――スリの女が、僕の胸にあった勲章をひったくりやがったんだ! 花の形をした金色の勲章。軍人なら、それを見ただけで僕が王子だと分かってしまう。


 スリの女と言っても、彼女は僕より明らかに年下だった。けれども、だからこそすばしっこいんだ。僕は通りに出て彼女を追いかけた。これがマズかった。白い軍服はとにかく人目に付く。僕は走って少女を追いかけたが、さらに不幸なことに、彼女が向かっている先は広場の方角だった。このままじゃ、自分から処刑台に向かうようなものじゃないか!


「止まれって!」僕はそう叫んだが、あまり大声を出すわけにもいかず、ちょっと控えめな声量だった。どうやらそのせいで、彼女には声が届いていないらしい。「おい頼むから、止まってくれって!」


 少女が角を右に曲がった。と、ここでラッキーなことが。コルトが待ち伏せしていたのだ! やるじゃないか財務官!


 コルトは走って来る少女の正面に立ちふさがった――が、あの女、ただ者じゃなさそうだ。走りながら短剣を取り出すと、それを手に持ってコルトの右足を一閃。コルトがその場に倒れた。


「大丈夫かコルト!」僕は慌てて彼に駆け寄った。


「ええ、問題ありません! ちょっと切られただけですから……」


 どうやらその言葉の通り、ただの切り傷らしい。でも燕尾服には血が滲んでいて、すねの辺りが赤黒くなっている。


「追いかけてください!」コルトは地面に横になったまま言った。


「ああ、言われなくてもそうするよ!」


 僕は再び走り出した。だが、このまま走り続けると広場にたどり着いてしまう。というわけで僕は決断を下した。一旦路地裏に入り、軍服を脱いだのだ。結果として僕は白シャツと半ズボンだけになった。恥ずかしい恰好だけど、命には替えられない。


 服はその場に脱ぎ捨てた。おかげで体が軽くなって、走るのも楽になった。けれども一番の障害は、やはりこの靴だ。革靴は走るのに向いていない。このままじゃ差を広げられるばかりだ。


 さらに運の悪いことが続いた。後ろから何者かに押し倒されたのだ! 僕は地面にうつ伏せになった。背中に重みを感じる。誰かが僕の上に乗っかっているみたいだ。


「誰だよ放せ!」僕は手足を暴れさせて抵抗したが、次の瞬間ザクっと音がして、僕の右横の地面に短剣が刺さった。見覚えのある剣――さっきの女の子だ。わざわざ僕を殺しにでも来たのか!?


「あんたのこの勲章」と少女は、僕の首を後ろから地面に押さえつけて言った。女のくせにやけに低い声だった。「王子だろ。王子パルだ。さっき急いで質屋に駆け込んだら、おっちゃんが言ったんだ。これは王族の勲章だって」


「だからなんだってんだ!? 早く放せ! そのうち財務官がやって来てお前を……」


 僕が続きの言葉を言おうとしたら、彼女は僕の後ろ髪を掴んで、僕の頭を地面にぐっと押し付けた。唇に土のザラザラを感じる。これじゃあ喋れない。


「処刑台に送り込む」と彼女は言った。「そういえばさっき、王がギロチンにかけられたらしいな。次は王妃か」


 すると唐突に、彼女が僕の後ろ髪を引っ張って顔を持ち上げた。「なんか言えよ」


「しょ、処刑台に連れて行くのは、やめてくれ」僕は前を向いて言った。まるで背筋でもしているかのような姿勢だ。でも、女は僕の背中に乗っているから、もちろんその顔は見えない。「金はいくらでもやるさ! な? ていうか僕がパルとは限らないぞ! ほらみろ、服装だってさっきと違って……」


「さっきと違うとか言ってる時点で、本人ってことだろ」


「そ、そうだが、しかしだ、僕はだね、王族の末裔なわけだし……ほら、さっき脱ぎ捨てた軍服を、売りに出してもいい。きっと高い値段で売れる」


「軍服なんて質にかけても怪しまれるだけだ。さっき勲章を質にかけた時にも、おっちゃんにキツく睨まれたんだ。こんなモノどこで手に入れたんだって」


「とにかく、お金が欲しいなら工面するさ。なんてったって、僕には財務官が……」


「だったらお前を処刑台に連れて行った方が早い。それで金をせびれる」


「正気か?」


「正気だよ」


「馬鹿言え、そんなことしたら、軍部大臣のハルクが黙ってないぞ」


「どうしてだ? 軍部が逃がしちまった王子を代わりに捕まえてやったのに、報奨金もくれないのか?」


「好きにしろよ、そんなことしたって、お前はハルクにやられておしまいさ。あいつは女に当たりが強いからな」


「それはどうかな」


 女はやけに冷静だった。さっきその姿を見た時は、僕より背が低くて、見た目はただの可愛らしい女の子だったのに、まさかこんな奴だとは思いもしなかった。しかし不思議だな、この子の体重なんて大したことないはずなのに、どうして全く抵抗できないんだ? ……きっと上手いこと押さえ付けられているに違いない。やはりこの女、ただ者じゃないな。


 突然に女が、僕を服ごと引っ張った。そのまま僕を引きずり進み出す。地面の石ころが体にこすれて痛かった。このまま僕を処刑台に連れて行くつもりだろう。いよいよ本当にマズいことになった。


「頼むからやめてくれっ」僕は小声で懇願した。「本当に、金ならいくらでも恵んでやるよ。だから処刑だけは……」


 女がなぜか、いきなり立ち止まった。何事かと思ったら、どうやら目の前にコルトがいたらしい。


「あんた……」と少女が言った。「ほふく前進してここまで追いかけて来たのか」


「ぼっちゃんを立派な青年にすると、約束してしまったものですから」


「何のことだか知らないが、どけ、邪魔だ」


 そう言って少女はコルトを蹴った。コルトは道の脇のほうに蹴り上げられた。なんという足の力。恐ろしい女だ。


 僕は彼女に引きずられたままコルトを追い抜いた。コルトがこっちに向かってほふく前進を続けているが、その顔は泥まみれで見ているのも辛い。


「ぼっちゃま……ああ、私はさっそく約束を破ってしまった……」


 次第に歓声が近づいて来た。広場から聞こえる歓声だ。心臓の鼓動が早まって、体が震え始めた。このままきっと死ぬんだな、僕は。


 石畳の広場は群衆でいっぱいになっていた。その群衆を取り囲むように、軍の人間が拳銃を胸に抱えて巡回している。処刑の邪魔が来ないよう監視しているのだろう。


「なあ」少女が軍人に話しかけた。「処刑はどこまで進んでる?」


「んだよ女々しい顔して、処刑の見物か? ガキには早いぜ。ほら、帰った帰った」


「処刑はどこまで進んでる?」


「うるせえな、家に帰ってろよ」


「処刑はどこまで進んでる?」


「ああ?」


「処刑はどこまで進んでる?」


「懲りねえ奴だな。すぐに王妃の処刑が始まるよ。王はずいぶん前に殺された。まったく、俺は王こそ最後に処刑するべきだと思うんだがな。絶対その方が盛り上がるのに」


「ということは、王子のパルはまだ殺されていないんだな?」


「まあな。奴が今回のトリを飾る。王族の末裔だ。一族みんな根絶やしにしようってわけさ」


「でも王子はいないんだろ?」


「……どうしてそれを知ってる?」


「今私が王子を連れて来たから」


 そう言って彼女は僕を立ち上がらせた。軍人と目が合う。このまま逃げようかと思ったが、少女が僕の足を踏んでいて、手まで握っていたので、逃げることができなかった。


「こいつがパルだろう? メルトン家の王子、パル・メルトン。違うのか?」


 少女がそう言うと、軍人が僕の方を見た。どうやら僕の顔を確認しているらしい。軍人の手には写真があって、それと僕の顔とを比べているみたいだ。


「確かに顔は似てるな……わかった、ついてこい」


 軍人が歩き出した。少女も歩き出す。彼女に手を引っ張られ、僕もいやいや付いて行った。着いた先は処刑の執行部だ。ちょうど人々の集団のそばに位置していて、処刑を取り仕切っているらしい。そこには椅子に座って足を組んでいる、白い軍服のハルク・カーソンが居た。


「カーソン卿」と、僕らを連れてきた軍人は言った。「この女が、パルを連れて来たとか何とか」


「ほう?」ハルクがこちらに顔を向けた。「ふむ、確かにパルだ」


 ハルクは立ち上がると、僕を少女から奪おうとした。だが、突然少女が短剣を取り出し、近づいて来たハルクにそれを差し向ける。


「タダじゃやらないぞ」


「ほう?」ハルクがにやりと笑う。「こりゃ強情な女だな。きっと将来、男を尻に敷くに違いない」


「冗談じゃないぞ! 金をくれないとコイツは引き渡さないからな!」


「あんた歳は?」


「十一だ!」


「いいかい、その歳の女ってのは、もっと可愛く振る舞うもんだぜ?」


「年齢なんか関係ないぞ! 金だ金! 一万ヘントはもらう!」


「一万ヘント? 十一のガキがそんな大金で何を買うんだ?」


「そんなことお前には関係ないだろ! とにかく金だよ!」


「面倒だな」ハルクはそう言うと屈み込んだ。少女が差し向けている短剣を目の前に、にっこりと笑みを浮かべる。「いいから大人しく引き渡すんだ。金は……そうだな」


 そう呟くとハルクは、軍服のズボンから小銭を三枚差し出した。


「これで毛糸玉でも買うといい」


「そんなんじゃ足りない! 王子を連れて来たんだぞ! 一万ヘントだ!」


 ハルクが舌打ちした。差し出した小銭をぐっと握り込むと、そのまま少女を殴った。が、少女はびくともしない。


「ほう、なかなかやるな。本気で一万ヘント取りに来たってわけか」


 少女は棒立ちしたまま、短剣を差し向けてハルクを睨んでいる。ただ、その体は震えていた。僕の手を握っている手が、ぶるぶる震えているのだ。


「そもそもお前らのミスで王子が逃げ出したんだ。それを私が連れて来てやったんだから、大人しく金を出せよ」


 彼女が強気にそう言うと、ハルクがもう一回少女を殴った。さっきより勢いが強い。だが少女はまだ立っている。一瞬体がよろついたけれど、ちゃんと背すじを伸ばしたままだ。僕の手を握る小さな手も、震えているけれどガッシリ僕を離さないでいる。


「立っているだけか?」ハルクは屈んだまま低い声で言った。「その短剣はお飾りか? 俺に差し向けておいて、本当は怖くて振る勇気も出ないのか? え?」


 少女の体の震えが強くなった。


「一万ヘント、くれないと」少女はそう言ったが、声は明らかに震えていて、そのまま溶けて消えそうだった。「くれないと、コイツは、渡さない」


 二人はじっと睨み合っている。すると突然、群衆が大声をあげた。とんでもない大きさの歓声だ。


「どうやら王妃の処刑が執行間近のようだな」


 ハルクは立ち上がってそう言った。僕らのすぐそばでは、処刑の瞬間を待ちわびた群衆が、飛び跳ねたり旗を振ったりして叫んでいる。


「次は僕の番ってことか」僕は言った。


「そうなるな」ハルクが呟く。「気の毒だが、これが時代の流れってやつさ……さあ可愛い子ちゃん、大人しくそいつを渡すんだ」


「嫌だ、一万ヘント」


「まだ懲りねえのか。そんな大金渡せるわけ――」


 その時、少女が動き出した。短剣を片手に、ハルクに向かっていく。彼女の手が僕から離れた。逃げられる、今なら逃げられる!


 僕は走り出した。が、軍人の壁に目の前を塞がれ、逃げ場がない。どうしようか迷っていると、少女が叫んだ。


「だったら王子は私のもんだ! 金は私がコイツからせびる!」


 少女はそう言うと、短剣で軍人を振り払い、再び僕の手を掴んだ。「お前からは、あとでたんまり貰うからな!」


 短剣のおかげで一部の軍人は守りの体勢に入ったが、しかし、周りを軍人に囲まれている状況に変化はない。どうする? 彼女は片手に短剣、けれども僕は丸腰だ。


 するとこちらに駆けつけて来る軍人が一人。


「ハルクさん!」とやって来た軍人は叫んだ。「ギロチンの刃が下がりません! ずっと宙に浮いたままです! 分かりませんが、重力に反しているような動きを……」


「もう一度ギロチン台を点検しろ!」


「何度も点検しましたが、それでも刃が下りないんです……」


「クソったれどいつもこいつも!」


 と、その時、彼らの会話を隙と見たのか、少女が走り出した。僕は手を引っ張られ、そのまま軍人の壁に突っ込んでいく。周りの軍人が銃をこちらに向けた。


 ……このまま突っ込んで、一体どうするつもりだ!? どうせ殺されるだけ……いや待て、軍人たちの足の隙間の奥に、財務官の姿が見える。コルト、来ていたのか、ほふく前進でここまで! 軍人たちの足の間を通して、彼と目が合った。コルトはニヤニヤしている。


 次の瞬間、コルトが立っていた軍人の足を、うつ伏せのまま殴った。軍人がひとり、突然後ろから足を殴られ、あっけなく転ぶ。


「飛び越えてください、おぼっちゃま!」


 叫ぶコルト。なるほど、そういうことか――


 転んだ軍人の上を、僕らはひょいと飛び越えた。飛び交う銃声もなんとかかわした。これがいわゆる奇跡ってやつだ! 


「走ってください! 私のことなど放っておいて!」


 後ろからコルトの声がする。銃声に混じった彼の声は、必死の叫びといった感じた。そうだな、逃げるよコルト。また絶対、どこかで会えるさ!


「さああんた!」僕の手を握る少女が、勢いよく引っ張りながら言った。「走るよ! うんと遠くまで!」


 そうだな、その通りだ。走らなきゃ、もっと遠くまで、うんと遠くまで、走らないと。じゃないと殺される、父さんと母さんみたいに。広場のど真ん中、噴水前のギロチン台で、父さんと母さんがされたみたいに、仰向けのまま生首にされるんだろう。だから走らなきゃ、走って遠くに逃げなきゃ、じゃないと殺さるから、とにかく走って逃げなきゃ!

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