02 受け継がれし力


「そんな馬鹿な……」財務官がこちらを見上げて呟いた。「浮かぶなんて、そんな、非科学的なこと……」


「これで信じてくれる?」


 母さんはそう言うと、開いていた手をゆっくり閉じた。それと同時に僕の体もそっと降りていき、母さんの手が完全に閉じられた頃には、僕は再び母の膝の上に腰を下ろしていた。


「信じますが、しかし、どうしてそれを今頃……」


「秘密なのよ」母さんは目をしっかり開いて言った。「私たち家族の、大切な秘密なの。でも、もし私と夫が処刑され、息子までギロチンにかけられたら、魔法はこの世から完全に消えてしまうかもしれない。他に魔法の使える家系があるかは、私にも分からないから」


 母の言葉を、僕はなかなか信じることができなかった。けれども、上から見下ろした食堂の光景が、目に焼き付いて離れない。一体何が起きているのか、理解が追いつかず頭がこんがらがっている。


「僕も、魔法が使えるの?」恐る恐る訊いた。


「ええ」母さんが、膝に座った僕を見つめて頷く。「使えるようになるわ、きっと。とっておきの魔法が」


「どんなの?」


「そのうち分かるわ」


「どうして今教えてくれないの?」


「……契約があるのよ」


「契約?」


「そう、神様との大切な契約」


 母はそう言うと、僕を膝から降ろし、食堂の扉に向かった。僕も小走りでそれを追いかけた。母が指さす先は、天国を描いたという、あの木製の彫刻だ。豪華絢爛な扉には、飛び交う天使たちや竜、読めない文字などが彫り込まれていた。


「魔法の力はね、天国から来ているのよ」母はそう言って、扉の上方で大きく手を広げ直立している男の像を指さした。「これが、私たちの祖先。いい? よく聞いてパル。メルトン家の人間はね、命を落とすと天国に行くの。そして、天国に行くと、地上にいる末裔の一人を選んで、その人に魔法の力を授けるのよ」


 そう言って母は、ひとさし指の先を、直立した男から、その下に彫られた、合掌をしている少女に向き変えた。


「この女の子が、上に居る先祖から魔法の力を与えられたわけね」


「ていうことは、死んだら天国で人を選ぶの? 誰に魔法を授けるかを、選ぶってこと?」


「そう。そして父さんは、処刑されて天国に行ったあと、その一人に私を選んだのよ」


「そうか……えっ! じゃあもう父さんは――」


「ええ、きっともうギロチンにかけられたのよ。そして天国に行き、魔力の後継者に私を指名したの。そうしてあの人は私に、物を浮かせる力を与えたのね。……きっと、パルをこの宮殿から逃がしてあげるためじゃないかしら」


 僕は言葉を失った。父さんはもう死んだのだ。天国に行き、魔力を母さんに与えたのだ。そしてその魔力は、僕を助けるためのものなのだ。


「じきに私も処刑されるわ。その前に、この力を使ってパルをこの宮殿から出す。……ねえコルト――」母さんが財務官を名前で呼んだ。「――あなたのことも、この浮遊の力を使って宮殿の外に連れて行ってあげるから、外の世界でパルをよろしく頼むわ」


「そんな、私なんかに――」


「じゃあ他に誰が居るって言うの? 今のところはすべて夫の計算通りなのよ。ここで計画を狂わせないで」


 母さんの強い口調に押されたのか、財務官はキョロキョロと周囲を見回した。そして十秒ほど悩み抜くと、声を震わせながら「分かりました」と言い、ゆっくり頷いた。


「それでこそ財務官よ」と母は優しく言い、コルトに微笑みを向けた。「私は処刑され次第、パルに能力を継承させるわ。どんな能力かは、私にも分からない。そもそも天国がどんな場所かも分からない。けれども、できるだけ素敵な力を授けようと思うの」


 いつの間にかに母さんの目が潤んでいた。その細い手は、今、僕の両頬を挟んでいる。暖かい手だった。でももう、この手に触れることは二度とないだろう。そう思うと無性に苦しくなってくる。


 母は胸に手を当てて呼吸を整えると、椅子に座って溜め息をついた。


「残念だけど、あまり長居はできないわ、パル。早くしないと、軍人さんが来て私たちを広場に連れて行ってしまうから」


「じゃあ、早くこの私を浮かび上がらせてくださいよ!」なぜか愉快そうに財務官が言った。「なあ少年、浮かび上がるってのはどんな感覚なんだい?」


「ふざけないで」母がきっぱりと言う。「あなたは今後、パルを養っていくことになるかもしれないのよ?」


「わ、わかっていますとも! ただその、魔法を目の当たりにして、少し気が動転しているんですよ。どうかお許しを……」


「まったく、しょうがないわね。ほら――」


 不意に母が手を財務官の方にかざすと、財務官の体もふわりと宙に浮かんだ。


「わっ、なんだこれは! せ、世紀の大発見ではないですか!」


「ねえコルト、頼むから絶対に口外しちゃだめよ。これはメルトン家の秘密なの。あなたには守秘義務があるわ。なんなら、口外した途端に命の灯が消えるよう、天国で新しく契約を交わしてきてもいいのよ?」


「そ、それは困ります!」宙に浮かんだまま、コルトは手足をバタバタ動かして地団太を踏んだ。「私は絶対、口外など致しません。ええ、絶対にです。王妃様の命令とあれば、絶対というのは本当に絶対なのです!」


「コルトってば、あなた本当に信用ならないのね」


「そんなことありません! 絶対にパル様を立派な青年に育てて見せますよ」


「そう……その言葉、忘れないでね」


「はい、忘れません!」


「それじゃあ、行ってらっしゃい、二人とも」


「もう!?」僕は驚いて母さんに駆け寄ったが、その時にはもう体が少し浮かんでいて、地面を蹴り上げることが出来なかった。これじゃあ前に進めない。「嫌だよ! ねえ待ってよ! まだ時間は――」


「我慢してパル」母さんが遠のいていく。こちらを見上げる綺麗な顔には、涙が浮かんでいた。「天国で二人のこと、ずっと見守ってるわ」


「ねえ待ってってば! まだ早いよ! 話そうよ、色んなこと!」


「ダメよ……ほら、軍人さんの足音が聞こえるわ」母はそう言って、座ったまま扉の方に目を向けた。そして突然声を荒げ、「なんの用ですかっ! 用件を言ってから入りなさいっ!」と怒鳴った。


 そう叫ぶ母さんの手は、まだこちらに向けられている。僕とコルトは並んで宙に浮かんだまま、やがて窓の方へと流れて行き、コルトが窓を開けると、そのままするりと外に出た。


 冷たい空気で鼻がツンとする。季節は秋だ。少し肌寒い。潤んだ目が凍えるような気がした。


 しばらくして、宮殿の窓――自分たちが抜け出した窓だ――から声が漏れてくる。


「おいクソ女! ガキはどこ行った! ったくあの野郎、見張り番をしろと、あれほど釘を刺しておいたのに……おいお前、ガキの場所を言え!」


 聞こえてくる声も、だんだん小さくなる。僕らの体は浮いたまま、空の高い方へと登って行った。宮殿の全景が目に入る。周りをぐるりと群衆に囲まれた、静かな、けれども豪華絢爛な、宮殿の美しい全景。庭の芝生の緑が鮮やかだった。


「パルってばどこに行ったの!?」芝居をする母さんの声は、もうかすかにしか聞こえない。「ねえパル! まったく、あの子ったら隠れるのが上手なんだから!」


 僕は大の字になって空へのぼって行った。やがて人が米粒くらいの大きさになると、僕らは宮殿から離れて行った。首を曲げて横を見ると、楽しそうなコルトが居て、僕に笑みを向けている。


「私たちはどうやら、空を飛んだ最初の人間になったようですね」そう言ってコルトは嬉しそうに笑った。

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