アンデッド・ゲームズ・メモリー

文月ヒロ

アンデッド・ゲームズ・メモリー

 ――夏、鹿羽しかばね市。


「ったく、こんだけしか持ってねーのかよ。シケてやがんなぁ」

「なら、返せよ、クソったれ…ッ」

 富志ヶ峰ふしがみね高校旧校舎裏にて、三浦みうら袈刃音かばねは激しく尻餅を付いた後そんな言葉を眼前の少年に吐き捨てた。

 少年の名は霞雅かすが阿久弥あくや

 袈刃音の敵。

 いや、それではこの2人の関係が対等であるように聞こえてしまうし、袈刃音が彼にまともな反抗が出来ている事になってしまう。

「あ?はっ、まさかお前、俺に命令出来るとか勘違いしてんじゃねぇよな?おい、何か言えよッ」

「カ――ハッ」

 霞雅の蹴りが袈刃音の腹に突き刺さる。

 そう、抵抗など袈刃音に出来る訳がなかった。

 腹の痛みに苦悶の表情をしながら、霞雅の背後へ目を向けた。

 そこには4人の男子生徒――霞雅の取り巻きが、ヘラヘラした顔で自分を見下ろしている様子があった。

 1人相手でも不安が残るのに、5人相手では最早喧嘩にすらならない。

 勝ち確ならぬ"負け確"のゲームをするほど袈刃音は馬鹿ではなかった。

 しかし、金だって取られて困る物だし、取られる額も段々増えて来ている。

 故に訂正しよう、霞雅阿久弥は袈刃音にとっての『天敵』だと。

 別に、何かをした訳じゃない。何か人に馬鹿にされるような要素もない。

 三浦袈刃音がイジメられることなど普通ならばあり得ない。


 ない“はず”だったのだ。


「大丈夫?」

 そう、目の前で袈刃音に声を掛けた


「…集団恐喝されてぶっ倒れてる奴が、大丈夫な訳ないだろあさひ


 霞雅達が去って20分以上が過ぎた頃、現れた彼女――朝比奈あさひなあさひに対し、袈刃音は不機嫌な顔を向けて言った。

 だが、対する旭は穏やかな笑みを浮かべ。

「そう言ってられる内は大丈夫だよ。…じゃ、行こっか」

「……そだな」

 この一連の流れが袈刃音にとっての日常だった。

「はぁ…何で何時も、私が来た時にはもう霞雅君達いなくなってるんだろ?文句言えないじゃんっ」

 下校途中、旭がそう言葉を溢した。

 それは初めて聞く言葉ではなく、寧ろほとんど毎日耳にしている何気ない言葉だった。

 ただ、今回は袈刃音の精神がかなり落ち込んでいた。だから、彼は溜め息混じりにこう返した。

「絶対すんな」

「え、何で?」

「…仮にそんな機会があったとして、霞雅の奴は猫被ってやり過ごすに決まってる。んで、後で俺が告げ口したとか思われて、ぶちギレたアイツにボコられるんだよ」

「いや、流石にぶちギレるまではいかないでしょ…」

「そこまで、いくんだよ。……霞雅はだって、旭の事、す、好きだからさ。絶対、そうなる」

 その手の話が絡むと、途端言葉に切れがなくなって声も小さくなる辺り袈刃音がヘタレであると分かるが、発言自体は旭の耳にしっかり届いていたようだ。もっとも、ピンとは来ていないようだが…。

 朝比奈旭。

 長い茶髪の髪に整った顔立ち、抜群のスタイル、おまけに文武両道。

 それが彼女であり、所謂いわゆる、高嶺の花。

 幼馴染みでもなければ、袈刃音のような平凡な男子生徒が彼女と親しく接する事など出来ない。

 それがクラスメイト全員の共通認識、いや、正確に言うならば『旭を抜いた』を文頭に入れる必要があるだろう。彼女は自分の魅力に関してかなり疎いのだから。

 そして、知ったのはごく最近だが、霞雅阿久弥は旭に恋心を抱いている。

 しかし、彼女との接点は皆無。対する袈刃音は彼女の幼馴染み。

 大方、霞雅は袈刃音という存在が気に食わなかったのだ。笑えない、笑いたくもない真実だ。

「じゃあさ、袈刃音は私の事――好き?」

 それは突然だった。

 唐突に旭は、はにかむような微笑をこちらに向け、そう言ったのだ。

「……………俺が、旭…を……?」

 きっと、袈刃音がイジメられている理由を彼女は知らない。

 きっと、何時もの袈刃音なら、顔を赤く染めて彼女の言葉をはぐらかしたりしていた。

 きっと、何時もの彼になら、その言葉は日常に溶け込む甘味になり得ただろう。

 しかし、今の袈刃音の精神状態では、その言葉は速効性を持った猛毒だった。

「好き…好き?」

 その2文字の言葉の為に、感情の為に、毎日悩まされ続けている自分が、元凶である彼女を好きかだと?

 馬鹿にしているのだと思った。

 笑わせるなと思った。

 自分を追い詰めている人間を、苦しめている人間を。


「好きな訳、ないだろッ…!誰の所為でこんなになってると思ってんだ…。お前が、お前が霞雅をたぶらかさなけりゃ、俺はイジメられてなかったんだッ…!」


 袈刃音の言葉には正当性など欠片程もなかった。

 それは酷く自己中心的で、的外れな怒りでしかなかったのだ。

 しかし。

「…え、え?あ、あぁ……そ、そっか……そう、だよ、ね……。な、何かごめん………ッ…」

 言い終えて、ようやく自分の目から涙が流れ出している事に、旭は気付き顔を隠した。

 ほぼ同時に、彼女の涙を見た袈刃音も自らの発言の愚かさを悟った。

 ただ、今さら気付いた所で後の祭りだ。

 直後、『ごめん』と言って旭は走り出した。

 慌てて追い掛けようとするも、袈刃音は立ち止まった。吐き気がする程の自己嫌悪が足を引っ張ったのだ。

 『誤解だ』とか言って、この嫌な雰囲気を今すぐ終わらせたい。

 そんな事を考えている自分に気付き、心底嫌いになった。

 だから、彼女を追い掛けるのを止めた。

 出来るものなら、ゲームのようにセーブポイントからやり直したい。そんな思いを抱きながら、とぼとぼと道を歩く。


 すると。


「あ、旭…?」

 少し先で、旭が立ち止まっていた。

 ――謝ら、ないと…。

 そう思った。

 自己嫌悪が一瞬邪魔をしたが、その気持ちは純粋な物で、だからこそ伝えたかった。

 近寄り、そして。

「そ、その…旭、さっきは――」

『ごめん』と、言い掛けた所で袈刃音は、ふと旭の怯えた横顔を見て彼女の視線の先を辿った。

 すると、道路の真ん中、そこで――倒れた女性の上に覆い被さるように男が四つん這いになっていた。

 不審、という言葉よりも性犯罪者という言葉が袈刃音の脳裏を過った。

「な、何だよ…アレ?」

「わ、分かんない…」

 袈刃音の疑問の声に旭の返答が返ってきた。

 しかし、妙だ。

 こんな人気のある場所で、しかも、夕暮れ時という微妙なタイミングで…。

 旭も同じ事を思っていたようで、目の前の光景に震えながらも、男にいぶかしむような目を向けていた。

「って、そ、そうだ袈刃音、警察ッ…」

「あぁ、いやそれは旭がやれ。…男の相手は、お、俺がや――ッ…!?」

「ど、どうしたの。――ぇッ…!?」

 2人は騒ぎ過ぎた。だから、男は2人の方を向いた。

 いや、それ自体に恐怖は感じなかった。

 寧ろ、恐怖を覚えたのは男の顔。

 逆光で見え難かったとはいえ、しかし、見えていたのだ。

 異様に変色し所々ただれた肌を、ペンキで塗りたくったように濡らす赤い血液が。

 ――その姿は、まるでゾンビのようだった。

 不意に、


『それじゃあ始めようか、アンデッド・ゲームを』


 ◆◇◆◇◆


 その日、神を名乗る者の手によっては始まった。

 名を『アンデッド・ゲーム』。

 プレイヤーは鹿羽市にいる人間全員であり、ゲームの攻略クリア条件は『1年間生き抜く事』と至極単純な物だった。

 そして、袈刃音を含めたプレイヤー達が神の存在を信じたか否かについてだが……結論から言うと、

 別に彼等が、異常なまでに信心深い、という事はなかったのだ。

 ただ、それを信じ得るに足る、超常的な“何か”が彼らの前で起こり過ぎたというだけの話である。

 原因は、このゲームにおける敵とルールに関係する。

 敵は――ゾンビだった。『アンデッド』とも言うのかもしれないが、呼び名など些細な事。問題は、そんな空想上の化け物が現実に現れたという点だった。この時点で多くの者が、何かのウイルスの可能性を考えた。

 次にルール。

 ゲーム終了まではプレイヤーは鹿羽市から出られない。

 プレイヤーは一定の条件を満たした場合、神より【ポイント】を贈られる。

 【初期ボーナス】として、プレイヤーには【ポイント】を100贈呈する。

 死んだ、もしくはゾンビに噛まれたプレイヤーはゾンビになる。

 そして実際、誰も鹿羽市からの脱出は出来ず、不思議な事にその【ポイント】とやらも貰えた。

【ポイント表示】と唱えると、薄く黒い板がプレイヤーの目の前に現れ、そこに白い字で現在の【ポイント】が明記されていたのだ。…そして、人間のゾンビ化も実際に起こった。

 この時点で、少数の者が神の存在を信じた。

 当然というべきか、全員ではなかった。

 が、それも【ポイント】の恩恵とその真実性の周知により一変した。

【ポイント】を消費したプレイヤーの望む物が【ギフト】として目の前に現れたのだ。

 …まぁ、だからこそ。

「地獄を見てる気分だ……」

 自身の左側に張られた巨大な透明ガラスから見える外の様子を、壁にもたれ生気の感じられない目でぼんやり眺めていた三浦袈刃音はは、視線を逸らし呟いた。

 この馬鹿げたゲームが始まって3ヵ月。

 ゲーム開始時、遭遇したゾンビに訳が分からぬまま襲われ、袈刃音は旭と共に逃走を図り成功。

 以来、基本2人で行動しており、現在はショッピングモール3階でのトイレ休憩中。ライフラインは途切れており、昼前だというのに店内には照明一つ付いていない。そして先にトイレを済ませた袈刃音は、女子トイレへと入って行った旭と交代し、周囲の警戒をしていた。

 …大人数で徒党を組んだ方が良いのは当然だろうが、袈刃音達には出来なかった。

 袈刃音は再び、上から駐車場の光景をガラス越しに覗き見る。

 そこには、今まさにゾンビ化した一般人を殺そうとする人間の集団の姿があった。

 もちろん、チキンな袈刃音は、ゾンビの最期を見届ける前に顔を素早く背けた。

「【ポイント】の為に2やからとなんて、絶対つるめない…」

 溜め息を付きながら袈刃音は言った。

 人間が人間を殺す惨状、それを多くの者が異常と思わなくなった世界に彼はいた。

 神のルールにおいて唯一人々を救済する為の物だと思えた【ポイント】という存在は、現状最悪のルールに成り下がっていたのだ。

 原因は、神が提示してきた【ポイント】の入手方。


 1:ゾンビを殺す。

 2:人間を絶命させる。

 3:一定期間アンデッドに見つからない(触れないでも可。ただし、その場合ポイントは減少する)。


 そう、このふざけた方法システムが悪辣だった。

 流石『神』と言うべきか、【ポイント】さえあれば文字通り

 しかし、裏を返せば、それがないと何も手に入らない。

 それでも、最初の内は良かったのだ。

 幾ら市内をゾンビが闊歩する奇怪な現実があろうとも、警察がその怪物共の対処に動いてくれた。

 水やガス、電気や食料も問題なく手に入った。

 問題が起こったのは、ゲーム開始から数日後だった。

 恐るべき事実がプレイヤー達に突き付けられたのだ。

 ――ゾンビは殺せない。

 いや、殺せはしたのだ。

 そう。【ポイント】を使って手に入れた武器でならば…。

 当然の話、ゾンビの全身を跡形もなく消し飛ばしたりでもすれば話は別だが、生憎とそんな物騒な武器など、この平和な日本くにでは探すだけ無駄というもの。

【ポイント】を消費して武器を手に入れる方が早い。

 だが、人々がそれに気付いた頃にはもう既に遅かった。

 死なない怪物達に殺され喰われる一方的な蹂躙により、ゲーム開始から1週間後、ゾンビの数は爆発的に増加。

 その時点でプレイヤーの約1割が脱落ゾンビ化した。

 ライフラインも徐々にスットプしていった。

 文字通り生命線が絶たれたのだ、生きる為には物資の調達が必要となり、それには当然ゾンビとの遭遇という危険が付き纏う。

 そう、その時点で必須になったのが【ポイント】による武器の獲得だ。

 ただ、武器も劣化もすれば破損もする、紛失だってあり得た。

 故に、プレイヤー達は必死に武器を手に入れる為【ポイント】を稼ごうと模索した。

 そして、悪魔的な方法を思い付いたのだ。

 

 無論、出来なかった者もいた。

 単純にその力がなかったのか、殺す前に前に殺されたのか、あるいは殺人に忌避感を覚えたのか…。いずれにせよ、その多くが死んだ。

 ゲーム開始から3ヵ月が経過した現在、殺人歴のないプレイヤーはちょっとしたレアキャラだろう。

 当然、朝比奈旭と三浦袈刃音もその部類に入るプレイヤーだった。

 彼等の家族は、死んだ。正確に言えば、目の前でゾンビ達に殺された。

「クソッ、嫌な事思い出した……」

 そう言って、袈刃音は背中を支える壁を拳の側面で殴り付けた。

 思った以上に壁の強度が高く、加減も考えないでやった為、割に痛かったのは内緒。

 いや、それよりもその衝撃により立て掛けておいた袈刃音の武器―――バールが床に倒れてぶつかり、自己主張の激しい金属音を鳴らした事が問題だった。

 袈刃音は一瞬、自分の心臓が止まったのではないかと本気で錯覚した。

 現在、もうどれほどの人間がゾンビになったのか、少年には見当もつかない。

 ただ1つ、確実に言えるとすれば、

 どこにいてもおかしくない、寧ろどこにでもいるものだと考えおくべきだ。

 そして、だからこそ、バールなんて目覚まし時計のようによく鳴る物の音によって、ゾンビ達が寄って来る可能性だってあり得た。

「袈刃音、どうしたのッ?今の音何!?」

「あっ、あぁいや、ちょっとバール落としただけッ。だ、大丈夫だ旭」

 女子トイレの中から聞こえた旭の声に、慌ててそう返した袈刃音。

 バールを拾い、隠すようにそれを抱き締め、音を生み出す振動を握る両手で殺しながら言うその様は、中々に滑稽だった。

「そう、気を付けてね」

 なんて、旭の台詞を聞いた後、袈刃音はバールを見た。

 護身用として所持しているのだが、正直ここ最近邪魔だと感じ始めている彼の相棒ならぬ“相バール”である。もちろん、この頑丈な釘抜きは緊急時には心強い武器となってくれる為、捨てるつもりはない。そもそも、これは袈刃音の【ポイント】を消費して手に入れた物、それを捨てるなど馬鹿としか言いようがない。

「はぁ…重くて振り回すのすら億劫なんだけどなコレ…」

 手放せないのにはもう1つだけ理由があった。

 いや、寧ろそれが一番の理由と言えた。

 ――敵はもう、ゾンビだけじゃないんだッ……。

 神の与えた【ポイント】の恩恵は絶大だ。

 しかし、袈刃音達のようにゾンビ達から逃げ回っている人間には貰える恩恵が少なく、例えそうでなくても、貰える恩恵の多さには個人差が生まれて来る。

 そして人間は欲深い。ある者は生きる為に、またある者は薄汚い我欲の為に【ポイント】を欲した。

 もう既に、【ポイント】争奪戦が始まっているのだ。

 袈刃音がさっきガラス越しに見た外の様子がまさにそれだったと言えるし、彼もそれを理解している。

 少年は憤慨していた。彼等のその傍若無人ぶりに、彼等のその残虐さに、今この瞬間にも発狂してやりたいくらいの耐え難い怒りを覚えていたのだ。

 この3ヵ月で、ゾンビは増えに増え、対する袈刃音達は少数かつ武器もバール1つという状況。

 数が多い所為だろう…正直、最近ゾンビが単体で行動している事は珍しい。

 多対一で戦えるのか?と聞かれれば、答えは『そうするしかない』だ。

 出来る出来ないに関わらず、あるいは勝敗に関わらず、戦うしかないのだ。

 だって、袈刃音が囮になれば、ゾンビ達は彼に意識を向けざるを得ない。そうでなくとも数は減らせる、

 つまり、ビビりで軟弱な袈刃音にとってゾンビと遭遇する事は死とほぼ同等だった。

 誰もがゾンビ達との鬼ごっこをしている中、少年は1人そもそも見つかってはいけない“かくれんぼ”をしていたのだ。袈刃音の精神は徐々に疲弊してきていた。

 それでも、【ポイント】の為に殺人を起こそうとは思わなかった。

 超えてはいけない一線の前で1人悩み、苦しみ、踏み止まっていた。

 だが、倫理観が引いた不可視のラインを多くの者は無遠慮に踏み付け、その先へ軽々と越えて行ったのだ。

 騙されたような感覚が、人を簡単に殺してしまう彼等を見る度に衝撃となって袈刃音の胸を穿った。

 ゾンビでさえ元は人間で、その面影が残っている者だっていて、殺す事に抵抗を覚えるはずだろう。

 いや、覚えるのだ、。袈刃音は知っている、何故なら彼は自分と旭の両親を――。

 だからこそ、人間は殺せなかったし、それは正しいのだと思っていた。

「でも、アイツらは違った。…チクショウ、何で…何でそんな簡単に、殺せんだよッ」

 声を押し殺し、止めどない感情の嵐が生み出す言葉を袈刃音は吐き出した。

 まるで『法律があるから温厚なフリをしているだけだ』なんて暗黙の了解が最初から存在していて、それを自分だけが知らなかったような錯覚さえ彼は覚えていた。それ程に誰も自らの殺人行為おこないに疑問を持っていなかった、それ程に多くの残虐な人間を見て来てしまった。

 そして、だからこそ。

「覚悟…、決めなきゃな…」

 手に握る唯一の武器バールを見つめ袈刃音は呟いた。

 早々に覚悟を決めねばならない、そう、自分達に害をなそうとして来る人間を殺す覚悟を。

「さてと、そろそろ移動の準備でも」


 ――ヒタ…ヒタ…ヒタ…。


「……………………………………………えっ?」


 微かに、聞き逃してしまいそうになる程微かに、誰かの歩く音が女子トイレの近くから聞こえた。

 旭の足音ではなかった、靴が出す音ではなかったのだ。

 途轍もない胸騒ぎが袈刃音を襲った。

 とは何度か鉢合わせた事がある。

 不意に、その時の五感の感覚が記憶の底から、強烈な恐怖を伴って蘇って来た。

 ゾッとした。

 生まれた可能性は確信に近い予感へ進化する。

 この音は、こののろく不気味な足音は――。

「あさっ、旭ッ…!」

 駆け出した袈刃音は、女子トイレへ辿り着きドアノブに手を掛け捻ると、ドアを吹き飛ばすような勢いで思い切り開けた。

 そこで袈刃音は目にした。

「はいはい、どうしたの袈刃ね…――ッ!ひッ…!」

 ドアを開け、個室から出た旭とその前に立つ姿

 袈刃音にとって、予想が確信へと変貌を遂げた瞬間。

 旭にとっては恐怖が始まった瞬間。

 だが、そこから彼女が立ち直るまでの猶予を、この意思無き不死者は与えてくれなかった。

「ヴォガァァァァァァァァァァァァァァアアアッッ!」

 耳を塞ぎたくなる程の咆哮を上げ、ゾンビが旭へ噛み付こうと襲い掛かる。

 旭は死を確信した。

 既に目の端に溜まっていた涙は、彼女が瞼をキュッと思い切り閉じた事により頬を流れた。

 暗闇と恐怖の中で旭は願った、『せめて痛いのは少しの間だけがいい』と。

 しかし、訪れるはずの凶暴な歯が皮膚を突き破る感覚は、何時までも訪れる事はなかった。

 恐る恐る、重い瞼を旭は開く。

「え…?」

 そこには。

「…んのッ!」

 自分とゾンビの間に割って入る形で袈刃音が立ち、ゾンビにバールを咥えさせ足止めをしていた。

 そして。

「させる…かァァァァァァァァアアッ!!」

 力の限りバールを振り回し、ゾンビを吹き飛ばした。

 壁に激突したゾンビの元へ、息つく間もなく袈刃音は向かっていく。

 ――

 袈刃音と旭の両親がゾンビとなった日。

 その日、袈刃音は自分と幼馴染の親だった者達を殺した。

 最初は逆。恐怖と混乱で動けなかった袈刃音に対し、旭は、自分の両親を殺そうとしていた。


 けれど、涙を流していた。


 それを見た瞬間、思ったのだ。

 旭は自分なんかよりも強い。

 ――でも、だからって別に傷付かない訳じゃないッ…。

 完全なるエゴだったと自覚している。

 いや、今自分が動いているのだって同じ理由だ。

 ――そんな顔すんな、似合わないんだよ、嫌いなんだよお前のその表情がッ。

 朝比奈旭は常に呆れる程ポジティブで、こんなどうしようもない程情けない袈刃音にだって優しくて、少し天然で、そして何時だって笑っていなければならないのだ。

 だから袈刃音は、バールを思い切り振り被り。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁアアアッ!!」

 マヌケな顔をしたゾンビの脳天をバールで叩き潰した。

 恐らく絶命した。だが、興奮状態の袈刃音は武器を振り上げ、何度も、何度も、何度もゾンビの頭へと振り下ろす。

「…はぁ…はぁ…はぁ…――うおぇぇ……ッ!」

 興奮が冷めた後、ゾンビの原型を留めていない頭を見て、袈刃音は強烈な嘔吐感に襲われその上に吐いた。

 ――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いッ……。

 だが、未だに続く吐き気を抑え、吐しゃ物で汚れた口元を腕で拭いながら袈刃音は幼馴染の方を振り向き。

「だ、大丈夫か…旭ッ」

 旭は膝から崩れ落ち、そう尋ねる少年の顔を呆然とした表情で見て、頷きながら『うん』と言った。


 ◆◇◆◇◆


 その後、他のゾンビがいないかを確認した袈刃音達は、ショッピングモール一階の食品売り場で食料を調達していた。

 もっとも、“買い物”をしている訳ではない。棚から食べられそうな物や飲み物をリュックに詰められるだけ詰め込んでいるのだ。

 仕方ない、金を払おうにもレジには誰もいないのだから。

 殺人などの凶悪犯罪が横行するこんな法律や倫理観が消え去った世界で、しかもゾンビの脅威まで抱えながら働ける人間はいないだろう。もし仮に存在したとして、それは十中八九途轍もないドマゾだ。

 そんな訳で、二手に分かれ当面生活できる分の食料を漁っていたのだが…。

「あぁぁぁッ、死にたい死にたい死にたいぃぃッ…!」

 死がより身近になった世界で、しかし、袈刃音は本気でそう思いながら四つん這いになり奇声染みた声で叫んだ。

 死者を冒涜する、かつ、幼馴染の前で無様にゲロを撒き散らすという恥ずかしい事をしたのだ。

 幾ら気持ち悪かったからといって、死体の上に吐くだとか、女子でなくてもドン引きである。

 穴があったら入りたい、寧ろ、そこで死ぬまで引き籠っていたい。

「こらーっ、袈刃音!『死にたい』とか冗談でも言っちゃダメでしょ?」

「げっ、旭…!?」

 一人悶えていると、いつの間にか戻って来ていた旭が腰に両手を当て言って来た。

 慌てて彼女の方を向くが、時既に遅し。またしても幼馴染の前で醜態を晒した袈刃音。

「『げっ』って何?私がいちゃダメだった?」

「い、いや、そうだったりそうじゃなかったり……」

「どっちかハッキリしてよ…。というか、まだ気持ち悪いんなら休憩してたら?それかもう一度吐いちゃうとか」

「き、気持ち悪くねぇし!吐きもしねぇよ!これ以上醜態晒して堪るかってんだ…」

 実はゾンビとなった自分と旭の両親を殺した直後も、同じように気持ちが悪くなり胃の中の物を盛大に撒き散らした袈刃音。

 いや、それ以前にも同級生からイジメられているなど、そもそも日常生活でもかなりの痴態を晒しているのだ。

 今更その程度の事で旭は動じない。

 それどころか。

「…さっきは格好良かったんだけどなぁ」

 もっとも、そんな旭の呟きは袈刃音に聞えていなかった。

「ん?今何か言ったか」

「ふふ、内緒っ」

 悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言う幼馴染の顔を見ながら、袈刃音はきょとんとした顔になったが、直後何かに気が付いたのか口を開いた。

「そういや旭、リュックの中随分少ないな?それで全部だったのか」

「え?あ、そういえばまだ途中だったっ。ごめん、ちょっと待ってて。直ぐ終わらせるから」

 そう言って、旭は去って行った。


 しかし、旭は―――何時まで待っても帰って来なかった。


 ◆◇◆◇◆


「ったく、旭の奴どこまで食料取りに行ったんだよ。はは…まさか、こんな所で迷子になんてなってないだろうな……?」

 食品売り場の中を一人歩きながら、袈刃音は呟いた。

 あれから20分以上経っても帰って来ない旭を探し、このエリアをもう一通り回り終わろうとしていた。しかし、それにも関わらず旭は見つからなかったのだ。

 心音は徐々に早まり、体のそこかしこから嫌な汗が滲み出て来る。

 先程の軽口も、全身に纏わり付く不安を誤魔化すように言った物なのだと袈刃音は知っていた。

 立ち止まる。

 ―――大丈夫、大丈夫、大丈夫だきっと……ッ。

 心にそう言い聞かせても不安は全く拭えない。

 もしかすれば、既にもう手遅れの可能性だって―――。

 そんな思考が過った瞬間、袈刃音は頭を左右に振って一瞬浮かんだ『絶望』の2文字を振り払う。

「……早く、探そう」

 嫌な妄想ばかり生まれて来るのは仕方がない。だが、それで足も思考も止めていては本末転倒。

 ズボンで両手の手汗を拭き取って、浅く早くなっていた呼吸を整える。

 歩き出し始めた袈刃音は、しかし、次の瞬間に立ち止まった。

 視線の先、袈刃音のいるお菓子売りコーナー端から、次のコーナーへと吸い込まれて行くように過ぎ去っていく人影。

「まさか、旭…ッ」

 安堵から表情が一気に明るくなった袈刃音は、旭を追って走り出す。

 やはり、途中で運悪くすれ違っただけだったのだ。

「おい旭ぃー。ったく心配させ―――」

 言いかけて、袈刃音は自分の口を掴むように押さえ付け言葉を殺す。

 どころか、先程自分がいたコーナー近くの棚にそれと同化するように背中を付け身を隠した。


 袈刃音が見た人影は旭ではなく―――


 死んだ声、激しく鼓動する心臓。

 汗は全身から、一瞬にして吹き出て来た。

 ―――ヤバい、ヤバい、ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい…ッ!!

 確認したのはたったの1体。

 だが、その姿を見た瞬間、袈刃音は戦慄し混乱した。

 見た目が酷いだとか、唐突の事だったからだとか、そんな次元の話ではなかった。

 ―――なんで、なんで…こんなとこにいるんだよッ……ッ!

 ほんの数十分前、ほんの数フロアだけしか離れていない距離で遭遇したばかりだ。散々煩い音と声で騒いだはずだった。だというのに、何故あの時現れなかった?

 そして何よりも、何故、朝比奈旭より先に邂逅してしまったのか。

 不可解な異常、身の毛もよだつ程に悲惨な未来予測。

 しかし、袈刃音の思考はそこで停止していた。

 ―――ど、どど、どうすればいいんだよ……。

 現状把握、想像される未来、今すべき事、不安、難解、恐怖、無理、危険。一瞬にして脳内に流れ込んで来た尋常でない情報量に、袈刃音の脳はパンク寸前だった。今隠れているのだって、袈刃音の本能によるものであってそこに彼自身の意思は皆無。

 最適解どころか回答すら困難な状況で、しかし、ゾンビが空気を読むなんて事あり得なかった。

 ―――ヒタ…ヒタ…ヒタ…。

 来る、来る、歩いて来る。

 こちらに近付いて来るのだ、ゾンビがおもむろに。

 最悪だ。もし今ゾンビに見つかってしまえば、思考不全に陥った袈刃音ではまともに動けないだろう。

 そうこうしている内にも、自分とゾンビとの距離が近くなって来ているのが不気味な足音によって分かってしまう。

 不意に、真横を見て袈刃音の顔は蒼褪めた。

 ゾンビのマヌケ顔が、少年を覗き込むように見ていたからだ。

 見つかった、終わった、これ完全に死ぬ。

 早々に生を諦めた袈刃音は―――疑問を抱いた。

 ―――あれ?俺を見つけたのに、な、何で、攻撃してこないんだ、コイツ…?

 眼前のゾンビは、何時まで経っても袈刃音を襲って来る気配がなかった。

 あり得ない事態だ。そう思い始めた矢先、ふと、とある仮説が袈刃音の脳裏に浮かんだ。

 ゾンビはもしかして、目が見えていないのではないか。

 いや、それ以前に五感は死んでいるだろう。

 所詮、ゾンビはどこまで行っても死体なのだから。

 だが、聞いたことがある、死体も死後数分間だけ『耳は聞こえている』らしい。

 つまり、その状態で正常でない蘇生をしたのがゾンビだったのなら、奴等が感じ取っているのは音だけかもしれないのだ。

 背中側の棚に並んでいる、飴の詰まった缶を袈刃音は恐る恐る音を殺して取った。

 直後、それを―――遠くへと投げた。

 ほぼ同時。

「ガァァァァァァァァァァッ!!」

 予想は的中、ゾンビは地面を転がった飴の缶に飛び付いた。

 一瞬ゾンビの豹変ぷりに焦ったが、試みが成功した事によりその場から忍び足で離脱した。

「―――ゴホッ、ゴホッゴホッゴホッ……!ッハア…と、取り敢えず、ハアッ…ハアッ…こ、ここで休憩を…」

 途中から呼吸まで止めていた袈刃音は、安全を確認しようとした直後、遂に耐え切れず激しくむせる羽目になった。幸い、さっきのゾンビには気付かれない程度には離れたが、正直まだ安心はできないだろう。

 ゾンビとの遭遇と不可解な行動。

 こんな異常な状態で何故ゾンビがあの一体だけだと断言できるだろうか。

 おまけに旭は依然として見つからない。

 呼吸を整えた袈刃音は、思考を加速させる。

 どうやらここは服売り場らしい。

 一瞬、食品売り場まで戻らなければと考えたが止めた。

 ゾンビを恐れているだとか、そういう話ではなく、ただ単純にまた同じように出鱈目に歩き回るのでは危険で効率が悪いのだ。

 確か、2階から食品売り場全体を見渡せる場所があったはずだ。

「よしッ……」

 思い立ったが吉日、いな、“吉時”と造語を叫ぶべきだろう。袈刃音はすぐさま2階へと走った。

 辿り着き、食品売り場の様子を上から物陰に隠れながら覗き見ると―――そこに旭の姿はなく、先程のゾンビの姿だけがあった。

 驚愕、不安、深まる謎。

「ゾンビの様子も変だし、旭が本格的に行方不明だし…どうなってんだよ、ったく……」

 何もかも分からない、しかし、今この瞬間にも事態が悪化の一途を辿っている事は確実だろう。

 そんな思考が、後手の立場にいる袈刃音に歯痒さを与える。

「仕方ない、この辺りを手当たり次第に探すしか…」

 少し手間が掛かり危険も伴うが、袈刃音が旭を探そうとしたその矢先。

「…なッ、マジかよ……!」

 振り返った瞬間、袈刃音はゾンビを発見した。

 当たって欲しくない時に限って予想は的中する物なのか、やはりゾンビはあの一体だけではなかった。

 即座に物陰に隠れやり過ごす。

 安堵の溜息を吐き、気を引き締める。

 ここからはより慎重な行動が求められるだろう、袈刃音は可能な限り気配を消し移動を開始した。

 しかし。

「―――!…チッ、またか」

 移動した先でもゾンビが徘徊していた、しかも2体。

「チクショッ、冗談じゃねーぞ…!」

 女子トイレの一件も含めれば、このショッピングモールには少なくとも5体はいたのだ。

 やはりおかしい。初めは偶然かと思ったが、それだけの数のゾンビがいて、最初の時に袈刃音達の存在に気付かなかったはずがないのだ。

 ここまで異常だと、まるで意図的に袈刃音達を追わなかったかのような、そんなあり得ない事が起こったのかと錯覚してしまう。

「それに、そっちの方が辻褄が合う…か……」

 行く先々でゾンビが徘徊している、そして、遭遇したもしくはしかけた。

 偶然で片付けられるレベルを超えている。

 何か陰謀めいた事態が進んでいると考えた方がこの状況にも納得がいった。

「つっても…、やっぱりそんなのあり得ないし…」

 なんて、結論に至りかけた袈刃音の意識と視線は1つの場所に縫い付けられた。

「あれ…?」

 最初は小さな違和感からだった。

 しかし、違和感は確かな疑念へと変化したのだ。

 視線の先、斜め数十メートル前方にあったはずの本屋のシャッターが下りていた。

 

「あそこ…行ってみるか」

 もっとも、袈刃音が近付いてシャッターを持ち上げようとしても、全く上がりはしなかった。

「バールでじ開けるか?…いや、それだとゾンビが寄って来るし……。―――ん?」

 顔を上に向け唸っていると、不意にとある事に気付いた。

 シャッターの閉まっている本屋は、丁度ショッピングモールの出口前の真横にある。

 そして、ここの本屋はそれなりに広く、その奥にある読書スペースには窓として巨大な透明ガラスが2段に分けて張られており外の様子を見る事が出来る。

 直ぐに出口へ向かい外に出て確認すると、やはりガラス窓から本屋の様子が確認できた。

「あぁッ…けど、見えてんのはほんの一部だけだ。チクショウ」

 何とかして中へ侵入したいのだが、無理だ。

 とはいえ、方法がない訳ではない。

 2段に張られた巨大なガラス窓達の内、一組のガラスが割れていたのだ。そこからならば中に入れる。とはいえ、窓までの高さは…。 

「大体4メートル越えだろ?…ざっと、走り高跳びの世界記録くらいか」

 というのは、袈刃音の足りない知識によるお粗末な見積もり。

 走り高跳びなら、実際には世界記録を1メートル50センチ以上も更新する必要がある。

 また、それ程飛べなくとも、助走をつけてから2メートルと少しのジャンプを決め込めば2段目の窓の窓枠に手が届き、懸垂の要領で登れなくもないが。

 もっとも、どちらも一介の高校生程度に出来る芸当ではないし、もし出来たのであれば袈刃音はイジメられてなどいない。

 どちらにしろ現実的でない話である為、袈刃音は早々に諦めた。

 ―――人間離れした筋力さえあれば楽なんだけどな…。

 そして、ダメ元で【ポイント】を使って筋力を手に入れられるか確認してやろう、なんて純度100パーセントの冗談が一瞬浮かんだ結果。


「いやいや、流石にそれは無理だろ―――って…へ?……………?」


 ◆◇◆◇◆


【ギフト名:剛力。50ポイント消費に付き、身体フィジカル能力アビリティーの内、膂力を1強化】

【保有ポイント:1000→0】

【膂力値:5→25(剛力による補正値+20)】


「マジか、マジかよマジですか…」

 浮かぶ薄く黒い板を前に、袈刃音は盛大に頭を抱えた。

 結論から言って、三浦袈刃音は4メートルの高さまで。そして、本屋への侵入は成功。

 彼が筋力を望んだ時、ルールが発動し、眼前の薄く黒い板が現れたのだ。

 そこにはこう書かれていた。


【プレイヤー・三浦袈刃音の要望を受諾。ポイントを消費し、ギフト・剛力を取得しますか? →はい/いいえ】


 そう、袈刃音がバールを得た時と同じ現象だった。

【剛力】による身体能力の向上がどれ程なのか分からなかった。

 また、【ポイント】自体は今日ゾンビを殺した事と、長期間ゾンビに触られなかった事………そしてゾンビとなった自分と旭の両親を殺した事で1000まで増えていた。

 その為、【ポイント】をあるだけ使い、筋力の向上を図ったのである。

 が、やり過ぎた。

 幾ら助走を付け全力で跳んだとはいえ、靴裏と地上との距離が4メートルを軽く超えたのだ。

 最早、袈刃音は人間を辞めたも同然だった。右手に握ったバールも異様に軽く感じる上に、そこまで力を入れていないにも関わらず体に力が入り過ぎてしまう。

 正直これでは日常生活にも影響が出て来るのは必至。

 …もっとも、日常らしい日常はもう存在せず、あるのはリスキーでサバイバルな日々だけだ。

「って、そうじゃない。…今は余計な雑念は要らないんだ」

 少年にとって、現在最優先事項は朝比奈旭を見つける事。

 息を殺し、辺りを見渡す。

 陽の光が入り込んでいるとはいえ、全体を照らす程ではなく、袈刃音のいるこの場所と違って奥の方は薄暗い。

 そして、誰もいない、そう思いかけた矢先に―――ゾンビを発見した。

 唐突な事態に慣れたのか、袈刃音はあまり驚かなかった。

 直ぐに本棚に背中を引っ付け身を隠す。

【剛力】を手に入れた今の袈刃音ならば、ゾンビなど容易く殺せる。数値だけで言えば以前の5倍になっているのだから。

 しかし、最早敵はゾンビ達だけでなくなった現在、何があるか分からないし余計な時間も体力も食いたくない。

 袈刃音は即座に移動を開始した。

「暗いな…」

 ライフラインの途絶えた店内なら妥当な暗さで、その暗さはさっきまで動き回っていたショッピングモール内のどことも然して変わらない。

 が、いざという時、ここの逃げ場は先程飛び越えた割れた窓だけ。今まで以上に慎重な動きを求められる袈刃音にとって、視界の悪さはかなりの障害だった。

 そして。

「…っと、またゾンビ」

 声を押さえ呟く袈刃音。

 今度は3体。加えて、奥からその3体以外のゾンビの声らしきものが複数響いて来た。

「まさか、誰かがここにゾンビを閉じ込めたのか?」

 もしくは、ここで籠城していた人間がゾンビ化したか…といった所か。

 どちらにしろ、10体近く、あるいはそれ以上の数のゾンビがここにはいそうだった。

 そんな事を考えている内に、既に全体の4分の1程度は探し終わったが何も見つからない。

「……読みが外れたか」

 旭とはぐれ、既に1時間が経過しようとしていた。

 不安や焦りから、探しにくいこの場所での旭の捜索は中断し、他の場所を当たってみようかと考え始めた袈刃音。


 しかし、不意に、一瞬、微かに―――誰かの声が奥から聞こえた。


「―――ッ!落ち着け、慎重に…行くぞ……!」

 歩く、歩く、迅速に注意を周囲に払い歩みを進める。

 ―――誰だ、誰がいるんだ…ッ?

 期待に心臓の鼓動が早まるのを感じる。

 ―――そこにいるのか、旭?

 これ程もどかしい事はない。

 今直ぐにでも走り出したい体が、心が、激しくくのを理性に全力で引き留められているのだから。

 そして、旭の存在を発見し―――呼吸が死んだ。

 本屋中央の、円状に置かれた数台の本棚の中。

 そこで仰向あおむけに倒れる旭の上に、誰かがまたがっていた。

「…………………………………は?」

 聞き取れない程小さい疑問の声が、袈刃音の口から漏れた。

 予想外の展開に加え、何故か本棚の周りに10体程のゾンビが辺りを警戒するように立っていたのだ。

 

 もしかしたら、サークル状の本棚の中で旭に跨っている人間が命令しているのかもしれなかった。

 実際、2人は襲われていない。

 だが、あり得るのか?

 分からない、そんな事情も、この状況も分からないのだ。

 しかし、ただ1つ確実と言えるだろう事は、旭が危険だという事。

 近くの本棚の陰に隠れた袈刃音が目を凝らし、謎の人間の姿を見ると。

「嘘、だろ…?」

 驚愕に、袈刃音は目を見開いた。

 だって、何故って、彼はその人間を知っていたのだから…。

 ―――藍刃あいば愛羅あいら

 同じ高校で同級生、しかもクラスまで同じの、薄青髪に髪を染めた少女が袈刃音の瞳に映った。しかも、片手にサバイバルナイフを握っている。

「あ、いば…さん?」

 不意に、旭が目覚めた。

 その様子に愛羅は。

「あっ、やっとやっと、やーっと目が覚めたんだね。こんにちわぁ、♪」

 口元を三日月のように歪めて旭を罵った。

「雌ぶ…ッ!?え?」

「意味不明、って感じの顔だね。―――あぁ、うっざ」

 侮蔑の眼差しを向けられた旭は、しかし、怯まず尋ねた。

「…これ、どういう、事?」

「フッ」

 彼女がそう聞くと、愛羅は笑った。

「フフッ」

 笑った。

「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッ!!」

 狂ったように高笑いした。

「あぁ…笑った、嗤った、嘲笑ったぁ……。まったく、本当に、本気で言ってるんだから救えないよね貴方。どういう事?―――それは私が聞きたいなぁ、この雌豚がッ」

 内臓が底冷えするような冷たい声が、袈刃音の耳に届いた。

 ―――なんだ、藍刃さん…こんなだっけ……?

 袈刃音の記憶では、藍刃愛羅は、派手な髪の割に口数が少なくて目立たない少女だった。

 それが一転、何だこの饒舌と毒舌は。

 だが。

「ねぇ、聞いてるんだよぉ…


 驚愕はここからだったのだと、袈刃音は知る。


「袈…刃音?」

「うん、そうだよ袈刃音君だよ袈刃音君!…出会いは1年前、私達が高校生になって間もない頃っ。一目惚れしたんだぁ。フフッ、いーぃ世の中になったよねぇ?誰にも邪魔されず、想うだけ、望むだけ―――…」

 ゾッとした、ゾッとしない、なんだそれは…見守る、だと……?

 藍刃愛羅の、彼女のそれは、見守るというよりは。

「この3ヵ月間、ずっと私達をしてたって言うの……?」

「ううん別に貴方に興味ない。フフフ、私の注意は、視線は、心は、愛は全部全部ぜ~んぶっ―――袈刃音君に捧げてるの♪」

 旭に対しどこまでも無関心で凍て付いた声は、しかし、袈刃音の話になると途端恍惚こうこつとした物へと変化した。

「そう、そうそうつまりねぇ、こんなお遊びゲームで袈刃音君を死なせない為に私は動いてたの。目に付いたゾンビは全部殺したし、私の両親にも死んでポイントになってもらった」

「りょ、両親を……ッ!?」

「うんっ、ちゃ~んと2、殺したの♪お陰で良い【ギフト】を貰ってねぇ?―――【死霊術ネクロマンシー】、死者達、つまりを手に入れたっ。これで安心、これで安泰、ずっとずっとずぅ~っと袈刃音君を見守れるっ。そして、タイミングを見計らって、全てを計算し尽くして、私を愛して…愛して愛して、愛し尽くしてもらえるようにするんだぁ……。そう、まさに相思相愛の関係にぃ…あぁ………ッ」

 頬を薄紅色に紅潮させ、息を荒立てながら、呆けたような目で愛羅は自らの願望を吐露した。

 話の途中で出た【死霊術ネクロマンシー】というふざけた能力名が何でもない様に、犯した罪がまるで罪でない様に、過剰な愛を異常なまでに吐き散らしたのだ。

 だが、突然、一転、愛羅は蔑んだ目を旭に向けた。

「完璧だった、その“はず”だった…少し前まではね?」

 空気が変わったのを、袈刃音も旭も肌で感じ取った。

「貴方はただの袈刃音君の幼馴染、きっと無害、ずっと無害、私の計画の邪魔にはならない。―――けど、違ったの…。ねぇ、私聞きたかったんだぁ。

「……え?」

 青天の霹靂、まさにそう表現するのが正しい程に旭の表情が驚愕の色へと染まった。

「アハッ、何その反応!?はぁ……うっざ。その手には乗らないからね私。この前から、そして今日も、袈刃音君に言い寄ってたじゃんアンタ。フフッ、だから、ゾンビをけしかけたの。…でも、羨ましくて腹立たしい事に、袈刃音君がアンタを助けちゃった。挙句に、また袈刃音君に色目を使った。アンタ顔は良いもんね。……そんなだから…もう、本気出すしかないじゃん」

「そ、それって…」

「うん、貴方を殺す事にしたよ朝比奈さん」

 恐怖した旭。

 それ以上に恐れ、愛羅へ敵対心を抱いた袈刃音。

 しかし、愛羅は袈刃音に未だ気付かず言葉を続けた。

「でも、その前に、聞きたいんだよ。ほら、答えて、?」

「…え?」

「え、じゃなくてさぁ。―――だって貴方、袈刃音君に嫌われてるでしょ?」

「……ッ!」

 途端旭は、ハッとしたような顔をした。

「………あぁ、そっかぁ…忘れてたんだね?でも、思い出したでしょ?あの日、このゲームが始まった日、貴方は袈刃音君に拒絶された、否定された。最早、絶交の台詞と言って良い言葉を送られたの」

 愛羅の言う通り、思い出したのだ。

 覚えていない訳がなかった、旭が、それ以上に袈刃音が忘れるわけがなかった。

 ただ、その日から衝撃的な出来事の連続で、その問題に割く頭と時間の余裕がなかっただけだった。

「なし崩し的に、あの日の事なかったみたいに感じちゃってた。…それが事の顛末、笑っちゃうね?」

 旭を見下ろし、心底滑稽そうに愛羅は嗤った。

「そうだ、ね…。笑っちゃうよね、私………」

「?」

 不意に、旭が口を開いた。

「忘れたみたい今までやって来たんだ…。本当は知ってた、たまに思い出してた。その度に、辛くって…けど、その頻度が段々少なくなって来て、私、本当に忘れかけてた…ッ。そうだよ、私―――袈刃音に嫌われてた………」

 泣きそうな声で喋る旭の声に、袈刃音の胸が激しく締め付けられた。

 あの時の想いや言葉は全て本物で、けれど、全て偽物だった。ただの誤りだった。

 だって本当は、袈刃音は本当は―――。

「…ッ」

 袈刃音は、自分が許せず歯噛みした。拳を、爪の跡が残る程強く握り締めた。

 それが今の彼に出来た、怒りを収めるための精一杯の自傷行為だった。

 今は様子を窺い、隙を見て旭を助け出す事に全力を注ぐべきだと理解していたから。

「…藍刃さん、これから…どうするつもり……?」

「決まってるじゃん。アンタ殺した後、偶然を装って袈刃音君に接触するつもりっ」

「私を…殺したことは?」

「誤・魔・化・す♪」

 残念ながら、その計画は既に破綻している。

 何故って、至極単純で当然な話だ。藍刃愛羅という人間を、袈刃音は完全なる敵としか認識していなかったのだから。

 刃物のように鋭い目付きで、袈刃音は愛羅を睨み付ける。動き出すタイミングを見逃さない、その為に意識を集中させながら。

 だからこそ。

「そっか…っ。……本当、私…何で今まで生きてたんだろ…」

「フフッ、激しく同意だよ朝比奈さん。貴方、邪魔にしかなってないもんねぇ」

 その話は。


 ―――寝耳に水だった。


「………えっ、それ、どういう…?」

「あれ、私の言った事分かんなかった?」

 いや、理解出来ていた。彼女が何をしたのかは、旭はちゃんと分かったのだ。だが、彼女はそういう事が聞きたかった訳じゃない。袈刃音はその辺りの事情を知っている。彼も同じ無理解の中にいたのだから。

 だから。

「意味…分かん、ないよっ。え…ッ?何で…何で他の人使って、袈刃音を傷付けられるの!?おかしい、だって…貴方袈刃音が好きなんでしょッ。何も感じない訳ないじゃない!」

「フフッ、変なんかじゃないよぉ。だって、私の袈刃音君に近付く女なんて私だけで良いでしょ?」

 つまり、初めから仕組まれていた事だった。

 霞雅の袈刃音に対するイジメも、それによって袈刃音がした旭への八つ当たりも、全て藍刃愛羅が仕掛けた物だったのだ。

「愛の為だよぉ、朝比奈さん。分っかんないかなぁ♪」

 違う、それは欺瞞ぎまんだ、恋に酔った者の戯言ざれごとだ。彼女の行為は、全て自分の為でしかない。

「私は袈刃音君が大大だ~い好きッ。だから、これは愛の使命、愛の試練、そう全ては愛の為っ♪」

 頬を紅潮させながら吐く、愛羅のその独りよがりの台詞を聞く度に、心の奥底からマグマのような怒りが沸き上がって来る。………そのはずなのに、何故か欠片程も憤りを感じない。

「私は成功させる、きっと上手くいく。だって、世界一袈刃音君の事を愛しているのは私だからっ」

 衝撃的な事実だったとか、許せないだとか……それ以前に。

「アハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」

 何というか、ここまで来ると。


「―――気持ち悪い………………………………」


 思わず、そんな言葉が袈刃音口から漏れた。

 そして。

「え…袈刃音、君…?」

 声に反応した愛羅に、袈刃音の存在がバレた。

「あ、あぁ…え、えっとね袈刃音君ッ。こ、これは…その、ち、違うの!」

 咄嗟に言い訳は始めた愛羅を他所に、袈刃音は完全に固まっていた。

 意図せず、しかし、既にさいは投げられた。

 ―――動け…。

 すべき事は、本能が分かってる。

 だからこそ。

 ―――動け、動け、動けッ…旭を、助けろ!。

 パニックを起こし、動こうとく体の足枷となっている精神を、使命感の拳で殴り付ける。

「……ッ!!」

 刹那、床を割らんとする勢いで踏み込んだ袈刃音が跳び出した。【剛力】による筋力増加効果は絶大だった。そう、幾ら唐突とはいえ、少年の動きの速さに

 旭の直前、地を擦り急停止。

 直後、彼女の腹に馬乗りになっていた藍刃愛羅を腕で薙ぎ払う。

 異様な膂力により、それだけで愛羅は吹き飛び、本棚へ背中を激突した。

「……ぅ、くッ…捕まえろ!」

 愛羅の命令が飛び、本棚の周りで見張りをしていた10体近くのゾンビが袈刃音達の元へ四方から群がって来る。

 不味い、と焦った袈刃音は旭をお姫様抱っこし―――跳躍。

 正面にあった本棚の上に着地すると、そこから前に飛び降り駆け出す。

 向かう先は本屋を密室たらしめるシャッター、それが降ろされた出口だ。

 袈刃音が入って来る時に使った入口兼出口は小さ過ぎたし、ここからだと遠過ぎた。

 正面、ゾンビ2体が行く手を阻む。

「んのッ、こちとら戦ってる暇なんざねぇんだよ!」

 言いながら、跳躍しゾンビ達の頭上を飛び越えた。

【剛力】の恩恵を噛み締めながら、袈刃音は再び駆け出す。

 そして。

「でぇぇぇッ、りゃぁぁぁァァァアア!」

 やったこともない跳び蹴りを、上りに上がった身体能力に任せて猿真似し、シャッターの壁に叩きつけた。

 しかし、吹き飛ぶことはなく、出口は閉ざされたまま。

 おまけに蹴った方の足を激痛が襲う。

 それにより転びかけた体を、根性で踏み止めた。

 ―――後ろから、もう…ゾンビ共が迫って来てる…!立ち止まってる場合じゃ、ないだろッ。

 そして、もう一度、シャッターを蹴り付ける。

「くそッ…あとちょっとだってのに…ッ」

 確実にシャッターは壊れて来ている。しかし、まだ破れない。

 蹴る、蹴る、蹴り付ける。何度も、文字通り突破口を開くため。

「吹っ飛べぇぇぇえッ!」

 遂にシャッターが吹き飛び、袈刃音は旭を連れて外へ出た。

 だが…。

「うそ、だろ……!?」

 視界の先には、その場を埋め尽くすほどの数のゾンビ達がいた。

「まだだッ!」

 それでも、袈刃音は諦めようとはせず走った。

 走った。

 走った。

 走った。

 途中複数のゾンビに掴まれても、それを何とか振り切って全力で駆けた。

「ここだ…ッ」

 ゾンビ達を何とか撒いた後、旭を降ろして一緒に物陰に隠れた。

 現在、ショッピングモール2階に袈刃音達はいた。正確には、1階からここまで追い詰められた、だ。

 幾ら『個』として人間離れした身体能力を手に入れたとしても、『数』の暴力には敵わない。

 戦えないのなら身を隠すしかない、そういう考えでの行動だった。

 もっとも、あれだけのゾンビを相手に、こんなかくれんぼが何時まで通用するかは分からない。

 ざっと300体…いや、もっといるかもしれなかった。

 おまけに、多分もう出口は塞がれてる頃合いだ。

 これは所謂いわゆる、“詰み”というヤツだろう。

 それを理解していたのは、袈刃音だけではなく隣にいた旭もだった。

 旭に服の袖を軽く引っ張られ、袈刃音がそちらを向くと、彼女は視線を合わそうとせずに小さく言った。

「……いいよ、もう…ッ」

「……………………は?ど、どういう意味だよ、旭…?」

 言葉の意味が分かってしまいそうで、分かりたくなくて、だから咄嗟に惚けたのだ。

「袈刃音が何でか、凄く力つよくなってるのは知ってる。……けど、逃げきれない、でしょ…?無理でしょ?だから、もういいよ、こんな無駄な事しなくていいよ?」

 確かに、それで万事上手くいくのかもしれない。

 何故って当然だ、藍刃愛羅の狙いは。

「藍刃さんは、私を殺そうとしてるんだから」

「…まだ、やれる、動ける」

「でも、ずっとは続かないよ…」

「だ、だったら、何とかする方法を」

「思い付かないから、詰んでるんだよ袈刃音…」

 遅いか早いか、つまりそう言いたいのだろう。

 何が、など聞くまでもない。旭の死だ。

 でも…そうじゃない、袈刃音が言いたいのは出来る出来ないなんて理屈いいわけじゃない。

「うる、せぇよ…」

「何が?合理的じゃん!それが一番じゃ―――」

「うるせぇ!そんなモンに興味なんてないんだよ、黙って守られてろよ!!」

「か、勝手言わないでッ」

「お互い様だろ!?だから、俺止めたきゃ勝手にし―――ッ」

 刹那、袈刃音は声を殺した。

 ゾンビが、視界の端にいたのだ。

 未だに気付いていない旭の口を手で塞ぐ。

 だが、もうこちらに近付いて来ている。

 咄嗟に手に握っていたバールを向こうに投げ、金属音を響かせる事でゾンビの注意を逸らす事に成功した。

 身をひそめながら、息を殺し、静寂に支配された数十秒。

 ゾンビがいなくなったのを確認した袈刃音は、旭からスッと離れる。


「……一つだけ、方法を思い付いた。


 そう言った後、何も言わずに袈刃音は歩き出した。


 ◆◇◆◇◆


 ―――ショッピングモール1階。

 薄暗い視界の中、袈刃音は無警戒に歩いていた。

 武器であるバールは紛失し、ゾンビに襲われれば一巻の終わりだろうに、しかし袈刃音は怯えた様子もなく歩みを進める。

 目の前に、ゾンビが3体立っていた。

 袈刃音がそこを通ろうとすると、

 警戒なんてする必要はなかった。

 決まっている、藍刃愛羅は愛する袈刃音を攻撃できない。

 従って、ゾンビ達も袈刃音には手出しできない。

 わざわざ彼の方からやって来ているのだから、尚更だろう。

「さっきは吹き飛ばしてごめん…。怪我とかない、藍刃さん?」

 立ち止まり、袈刃音は視線の先でたたずむ藍刃愛羅に向かってそう語り掛けた。

「うん、大丈夫だよ袈刃音君。…えっと、あの……」

「?そうだ、藍刃さんに伝えたい事があったんだ」

「…え?」

「藍刃さん、いや愛羅」

 直後、袈刃音は彼女に近付き―――抱き締めた。

 突然の事に戸惑う愛羅に対し、袈刃音は吐息を吐きかけるように、彼女の耳元でこう囁いた。

「好きだ」

 簡潔でいて、毒薬のように激しい意味を持つ言葉を囁いたのだ。

「あんなに思ってくれてるだなんて、俺、思わなかった。初めてだ…こんな気持ち……」

「そ、そんな…私、てっきり嫌われちゃったと思って…ッ」

「気持ちの整理が付かなかったんだ。それで混乱してさ。…でも、後で気付いたんだ。―――君が好きなんだって」

「―――ッ!」

 その短い台詞を聞くだけで、愛羅の頬は赤く染め上がり、胸の鼓動は急激に早まる。思考は上手く機能せず、心が、体が、多幸感に満たされる。

「旭は置いて来た。これからは、君だけを見てるから、君だけを好きでいるから。…それと、愛羅」

「は、はい…ッ」

「ゾンビをどうにかしてくれないか。…ゾンビになった両親を殺した日以来、あいつ等が動いてるの見るとその日の事を思い出すから。頼めるか?」

「わ、分かったよ袈刃音君」

 そう言うと、途端、ゾンビ達は糸が切れたようにその場に倒れた。

「死んだのか?」

「ううん、もともと死んでたんだよぉ。それを操ってただけだから、能力の効果が切れたら動かなくなる。…これで、大丈夫かな?」

「いいや」

「え?」

「これからは、俺が君を守る。…だから、サバイバルナイフなんて君には必要ない」

 太股のナイフホルダーから、サバイバルナイフを袈刃音は抜き取りながら言った。

 愛羅を放し、見つめる

「……袈刃音君が…っ。私、幸せだよぉ…」

 恍惚とした表情と声の愛羅に、彼女の愛は本物なのだと感じた。

「…愛羅」

 でも。

「どうしたのぉ、袈刃音君?」

 だからこそ、こう思わずにはいられなかった。

「―――ごめん」


 次の瞬間、袈刃音は手に握ったサバイバルナイフで愛羅の首を頸動脈ごと切り裂いた。


「……………ぇ?」

 愛羅は、返り血に染まった袈刃音をきょとんとした表情で見つめた。

 そして、その血が自分の物であると理解した直後、首の強烈な熱が激痛に変わった。

 だが、彼女は痛みに呻くでもなく、ただ絶望に涙を流した。

「ごめん、噓付いて。俺はが嫌いだ」

 覚悟を、決めたつもりだった。

 後悔はない。

 しかし、藍刃愛羅の表情を見ていると改めて実感してしまう。

「ごめん、殺してしまって。でも、これしか方法がなかった…」

 自分は、人殺しどころか、とんでもない外道に堕ちたのだ。

 数時間前まで忌避し、蔑んですらいた奴等と同類に自らなりに行ったのだから救えない。

 けれど、仕方がなかった。

 合理的な選択よりも、自らの名誉よりも、袈刃音はを優先したかったのだから。


「ごめん、気持ちに応えられなくて。―――俺は他の誰でもなく、朝比奈旭が好きなんだ」


 それが全てで、彼の罪の原動力だった。

「…ひ、どい…よぉ……」

『ごめん』と袈刃音が謝ると、藍刃愛羅は崩れるように膝を付いて倒れ―――息を引き取った。

「……………………………………ッ!」

 吐きそうだった、いっそ吐いてしまいたかった。人の心をもてあそび、裏切り、挙げ句命を奪って…何も感じなかった訳がなかった。

 でも、だからこそ、その想いごと全て吐いて捨てて楽になるような真似をしたくなかった。

 犯した罪から逃げず、向き合う事が、殺した藍刃愛羅へのせめてもの贖罪だった。

 ゾンビとなった愛羅を再びサバイバルナイフで刺した後、やはりナイフは【ポイント】を消費し手に入れた物らしく、彼女は完全な意味で死んだ。

 強烈な嘔吐感を堪え、堪え、堪えまくって歩いた、歩いた、歩いた、1人になるために…。

 気が付けば、外にいた。

「―――袈刃音ッ…」

 不意に、誰かが後ろから袈刃音を抱き締めた。

「……終わったよ旭、全部…終わったよ。だから、ちょっとだけ…一人にさせてくれ」

 少年の言葉に、しかし、旭はそれを拒むようにして、彼の背中に自分の顔を横に何度も擦り付けた。

「させない…ッ」

「…頼む」

「させないよ、袈刃音。言ったよね?『勝手にしろ』って…。だから、勝手に私を助けて傷付いた袈刃音を、私は勝手に慰めるよ」

 意図せず、涙が込み上げ、少年の頬を流れた。

「……俺しか、藍刃さんに近付けなかったし、隙を作って彼女を殺せなかった。あの方法しか思い付かなかったんだ…ッ」

「…知ってる。本当、馬鹿なんだから…ッ」

 自己嫌悪に狂いそうな心を、旭の言葉と無遠慮な抱擁が急速に癒していく。

「…放さないよ。何を言われたって、どれだけ振り払われても…絶対、絶対1人になんてさせない……。『好きだ』って、そう言ってくれた。それで、自分に正直になって良いんだって、…だから、私が側にいてあげるんだ。そう決めたんだッ」

 少年が振り返ると、旭は泣きながらも笑みを浮かべていた。

 それが嬉しくて、恋しくて、この笑顔の為に戦ったのだと思い出して。


 ―――袈刃音はそっと、旭の唇に自分の唇を重ねた。


 彼は旭をスッと放した。

 ファーストキスはあっさりと終わり、けれど、

 心は晴れているはずなのに、

 ―――なん、だ…?

 分からない。しかし、のか、と思ってしまったのだ。

 ―――それに…。

 何か、少しだが何か嫌な予感みたいなのを感じる。

 多分気のせいだ、とそういう風に片付けてしまった。

 だって、これ以上何があるというのだろうか?

 周りにはゾンビもいない、人もいない。

 

「霞、雅…?え、俺今なんでアイツの事……」

 何故、今思い出したのだろうか。

 繋がりそうなキーワードとが、あと少しで繋がらない。

 しかし、繋がらずとも、先程から感じ続けている直観めいたその感覚は正しかったのだ。

 そして、それを信じなかった事を袈刃音は一生後悔する事となった。

「ん?あさひ…?」

 急に前のめりに倒れた旭の両肩を掴んで支えると、彼女は―――口から大量に吐血していた。

「お、おい、旭ッ!旭、旭、一体どうしたんだよ旭!」

 言っても、彼女は何も答えず、何の外傷もなかった。

 意味が分からなかった。

 無理解の時間の中で、旭は赤い命の原液を口の中から流し続けるだけ。

 どうしていいかも分からず、ただ激しい焦燥感に駆られるままに袈刃音は彼女の名を叫ぶ。


「う、嘘だ…。…?そ、そんなッ、何で……」


「……………え?」

 聞こえた声に、その声が聞こえた正面の方を見る。

 そこには、さっきまでは姿がなかった霞雅阿久弥が呆然とした表情で立っていた。

「【ポイント】使って、遠くから、お前を呪い殺そうとしたのに…のに、なのにッ、何でお前が生きてんだよ袈刃音ぇ!!」

「………は?」

 呪い、だと…?

「お、おい…」

 そして、自分は死なず、旭が吐血したということは―――。

「まて、よ…。まさか、そんなまさか…だよな?」

 震える声を出しながら、袈刃音は旭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

 心臓が機能しているのかの確認の為、恐る恐るその右手を、彼女の左胸の方へと持っていく。

 乳房を押し潰す程に掌を彼女の心臓へ近付け、しかし、感じたのは胸の柔らかい感触だけだった。


 朝比奈旭は―――死んでいた。


 言葉が、出なかった。

 あまりに、唐突過ぎた。

 嘘だ、と誰かにそう言って欲しかった。

 おもむろに顔を上げ、霞雅を見た。

「は、ははッ…違う、俺、俺は悪くない。だ、だって、朝比奈が悪いんだ。アイツが袈刃音とキスなんかして、だからついカッとなって…。しかも、袈刃音の近くにいたから呪いが当たったんだッ。あぁ…そうだ、そうだ、みんなあの淫乱女が悪いんだ!はは、はははは…フッ…ハハハハハハハハハハハハハ」

 嗤っていた。

 自らの罪も認めず、逃げて、挙句死者の所為にした。

 どうして好きだったはずの人を殺して笑う事が出来る、どうして罵る。

 …ふざ、けるな…ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなッ……!

「……かす、がぁ……………ッッ」

 涙が零れ流れた。

 悲しみが溢れ辛かった。

 そして、激しい怒りの焔に心が焼かれ囚われた。

 そこからの事は、覚えていない。

 何も聞こえていなかった。

 見えていたはずの物すら見えなくなっていた。

 ただ、気が付けば雨に打たれていて、近くには顔が潰れた霞雅らしき屍が転がっていた。

 両手を見てみると、血塗れで、それを雨がシャワーのように洗い流している最中だった。

 遠くにひっそりと横たわる旭の遺体に近付くと、袈刃音は彼女の開いたままのまぶたをそっと手で閉じた。

「…………………………………」

 瞳は虚ろに、思考は朧気に…。

 袈刃音はただ、旭を見つめていた。

 全てが、もうどうでも良かった。こんな苦しみしかない世界で、罪だけを背負わなければならない世界で、生きている意味を見い出せなかった。死にたかった。

 呪いの所為か、旭はゾンビにならず、それだけが救いだった。


【条件を満たしました。時間遡行者・三浦袈刃音の全記憶メモリーを再ダウンロードします。記憶メモリー閲覧条件を達成させる必要があります、手紙を読んでください】


「…は?何だよ、それ……」

 眼前に現れた薄く黒い板を見て、少年は掠れた声で呟いた。

 理解出来ず、嘘っぱちなのだと内心決め付けた。

 しかし、彼のそんな気持ちとは裏腹に、虚空から手紙が現れ落ちた。

 それを拾い、意味のない行為だと思いながらも読み始めた。

『2周目の俺へ、この手紙を読んでいるということは、2周目の世界でも旭が命を落としたんだろう。嫌な予想だが、歴史の調整力が働いて、旭はまた霞雅の呪いで殺されたのかもしれないな―――』

【1周目の記憶メモリーが閲覧可能になりました】

 読み終えると同時、脳内にそんな音声が響き、1周目の記憶が流れ込んで来た。

『3周目の俺へ―――』

 また、音声と共に記憶が流れ込んで来た。

『4周目の俺へ―――』

 まただ。

『5周目の俺へ―――』

 次々に入って来る記憶、そのどれもが多少行動に違いはあれど、同じような3ヶ月間を送り同じ結末を迎えた記憶だった。

 それは今回の周回に生きる袈刃音も同様。

 そして、共通点はもう1つ。


『20周目の俺へ、今回は結論だけ言わせてもらう。【ポイント】を稼ぎまたそちらに送った、これで【ポイント】は19回分だ、これは19回分の願いだ。―――それを使ってこの糞っタレなゲームを終わらせ、時間をゲームが始まる前まで巻き戻せ。…朝比奈旭を救い出せッ……!』


 自分が自分へ課した、宿命的な使命を果たそうとする意志が、行動や声として記憶の最後にも毎回存在していた。

【再ダウンロードした記憶メモリーの内容はこれで全てです】

 最後に流れた音声を聞き終わると、袈刃音は込み上げる想いを抑えながら言った。

「申請、記憶メモリーの永久保存…」

【プレイヤー・三浦袈刃音の要望を受諾】

 体が、心が、震えて止まない。

「…あぁ、受け取った、確かに受け取ったよ全部。チク、ショウッ…」

 記憶に紛れた様々な想いが、袈刃音の心に溢れて来るのだ。抑えても、抑えきれないのだ。

 だから。

「だから、終わらせてやる……ッ」

 そして、袈刃音は。


「申請、―――――――――――――――――」


 ◆◇◆◇◆


 ―――夏、鹿羽市。


 青空の元から降り注ぐ強烈な日差しを背負いながら、三浦袈刃音は1人高校へと向かっていた。


「お~い、袈刃音ーっ!おはよー!」


 不意に、後ろから声が聞こえ振り向くと、そこには少女がいた。

 そして、袈刃音は少女を見て微笑んだ。












「あぁ、おはよう―――旭」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アンデッド・ゲームズ・メモリー 文月ヒロ @3910hiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ