~第四章~

 それは補習三日目、水曜日の放課後のことだった。俺は担任の先生に成績関係の面談で小一時間ほどの居残りを受けていた。北条さんと書店に行く約束をしていたが、暇を持て余させるのも気が引けたので先に帰ってもらった。詫摩は進学塾、古川は知らん。だが二人とも既に帰宅している。


 ……珍しく一人だった。担任に解放され、荷物を取りに教室に来ても誰もいない。誰が最後にこの教室を退出したのかは分からないが、丁寧に机の整理整頓と電気の消灯はしているのに窓は全開だ。そこから風が勢い良く吹き込み、カーテンがはためている。すると、ふっと廊下の電気が消え、季節にそぐわない寒気がぶわっと湧き上がる。光りもそこからのみ教室に差し込むことになった。俺は恐る恐る教室に足を踏み入れる。だが、片足を出したところで体が硬直した。それ以上は進めない。額に冷たい汗が湧く。肩が小刻みに振動する。

 恐怖。何かに俺は怯えている。姿、形のない何かに。逃げ出したくある。荷物はもうどうでもよかった。安心とを、平穏とを、俺は渇望している。

するとじわじわと背後から何かが寄ってくるのを俺は感じ取った。しかし、それが場の雰囲気故なのかは分からない。背後を振り返って事を確認したくなるような――、


「――凛堂伊織さん?」


 その声に俺は身の毛がよだち、ガクンと背筋を折り曲げ、声にならない声で叫びあがった。そしてわなわなと震えながら後ろを振り向くと、そこには一人の艶やかな女子生徒が腰に手を当て、妖艶な笑みを浮かべて立っていた。

「どうしたんですか? 顔、真っ青ですよ?」

 その女子生徒はおどけて俺に聞いてみせる。

「……君は誰だ?」

 女子生徒は唇の上に人差し指を重ね、

「北条詩織の妹、北条楓です。よろしくお願いします」

 そこで俺はほっと息をついた。あぁ、知っている人だ。そして共にその名を聞いて俺は沸々とあることを思い出した。

「君の噂は色々と聞いてるが……」

「そう……ですか、まぁ、そうですよね。お姉にばれてないだけ幸運ですから。どんな噂を聞いたかはわかりませんけど、きっと全部本当のことです」

 途端に俺は赤面し、

「大淫婦バビロンの真似事でもしに来たのか?」

 楓は腰を左右に揺らし、

「さぁ、一体どうなんでしょう?」

 肯定も否定もしなかった。

 俺は深くため息をつき、

「まぁいい、それでどうして俺を訪ねてきたんだ?」

「お姉の顔が最近とても明るいんです。だから私は理由を聞いたんですが、そこであなたの話がよく出てきたのでお礼を言いに来たんです」

 楓はにこやかに笑って言った。素敵な笑顔だが何とも言えない違和感が残る。

「そして、ちょっぴり個人的な好奇心も兼ねて」


 楓は家での北条さんの様子を話してくれた。笑顔を見ることが増えただとか、身なりに気を使うようになったとか、そういうことを聞くと心がこそばゆくなる。また、それ以上に、楓は俺自身について知りたがった。隠し事なんてのは俺が補習最終日に告白しようと思っていることくらいで、楓の質問に俺は全て答えた。その意欲は彼女のそれを上回るものだ。楓は北条さんとは全く違う性格をしている。話し上手にして聞き上手、誰とでも直ぐに打ち解けてしまいそうな明るい性格だ。


 しかし、楓は妙な雰囲気を纏っており、気づけば楓は俺に見せつけるように制服をはだけさせていった。シャツのボタンを胸元まで外していき、スカートのホックを外す。たわわに実ったものがシャツから零れ落ちそうになり、俺は思わずそれに釘付けになる。恐怖はどこへやら。俺は顔が好調しあがり、過呼吸になった。このままではいけない。立つ瀬がなくなる。

 俺は周りを見回す。しかし誰もいない。その中、楓はじりじりと俺を壁際に押し込んでいく。何度かたしなめようと思ったが、口の回る楓はそういったことを話す機会を与えてくれない。

 楓が耳元で囁く。

「ねぇ、私のことは楓と呼んでくれていいので、私はあなたのことを伊織と呼んでもいいですか?」

 俺は何も言わなかった。そして彼女がこのまま離れることを真剣に祈る。

「私のことどう思います?」

 そう言って楓は俺の腰に手を回す。なまめかしい雰囲気を醸し出していた。手慣れている。辺りには誰にもいない。流石に彼女が何をしようとしているのかは分かる。俺も男だ。そういった面で楓に魅力を感じている。だが、

「君は北条さんの妹、それだけだ」

 俺は楓の手首を握り、それを押し戻してさっと壁際から飛び出る。そして、手の甲をつねり、冷静でいようとした。人間性を捨てたくはなかった。


 すると楓はいきなり高笑いを見せ、

「あははははっ! やっぱりお姉は幸せです。嫉妬しちゃいますよ!」

 制服を正し始める。俺はうろたえるとともに安堵する。あぁ、姉と親しくしている人間が簡単に体の関係を持つ野蛮な奴ではないかどうか確かめに来たのか、手段は危なくとも姉想いの良い人だ、俺はそう思い、安心しだした。

 俺も楓に呼応して笑う。まさしくこれが求めていた平和だった。

「最後に一つ教えてください」

 楓が笑い声交じりに言い、


「お姉を愛す最大の理由は何です?」


 俺の心臓は打ち破られる。

「…………」

 開いた口が塞がらない。その質問にはどう答えれば良いか分からないのだ。そして体育祭とあの雨の日のことが思い出される。頭から抜け落ちていた。そうだ。何故なのだ。彼女の魅力は多岐にわたる。しかし、最大のものと聞かれたときにはどう答える? それに答えはない? いや、有り得ない。答えはある。根源的な理由が。


「答え……られない?」

 楓は言った。俺はしどろもどろに頷く。すると、楓はたちまち猛然とした剣幕になり、髪の毛のその一本、一本を逆立て、

「何をやってるんですかあなたは! それでは駄目です! それはあなた方に悲惨な結果をもたらす。あなたも作家でしょう⁈ どうして言葉にできないんですか、この出来損ないのクズめ! 私たち姉妹がどれだけ思い悩んできたか知らないでしょう? 私もお姉もたった一つの真理を事実として知ろうとし、互いに違う行動を取った。結果、私は諦めた。しかし、お姉にはあなたという一筋の希望があるのに!」

 俺には楓が人間ではない何か巨大な意思に見え、冷たい床に思わず座り込む。

「今までを振り返ってみてください! どうせ逃げてきたんでしょう? 幸せなものだけに目を向けて、痛みを享受しようとしなかった。苦痛も人生です。甲斐性なしの憶病者!」

 楓は激流のように身をうねらせ、俺の顔に詰め寄る。

「しかし! なお弱さと立ち向かっても答えを見つけられないのであれば、あなたはさっさとお姉の下を去った方がいい。残酷な運命! あなた方は出会ってはいけない二人となり、お姉は永遠に愛を見限ることになる。そして、真実の愛がないのにも拘わらず、あなたが色情に溺れてお姉の周りにたかったままでいるのなら、きっとあなたは自らの血に溺れて死ぬでしょう!」

 最後に楓は窓を指差して、

「……でもまだ空は晴れてますね」

 そう言い、ふっと煙柱を立てて姿を消した。


俺はただただ啞然と長い間その後を見つめた。




 補習五日目の夜、俺は自室で悶え苦しんでいる。いやはや、さてどうしよう。彼女にラブレターを作ろうと試行錯誤しているのだが、どう構成したらいいのだろうか。

 俺は補習最終日、つまり明日彼女に告白しようと考えている。愛を伝え、更には恋人同士になって欲しいと打ち明けるのだ。行き過ぎた欲望かもしれないが、心中に秘め続けるのにはもう耐えかねない。俺の中で何度も反響を繰り返してきたそれは果てに零れ落ちてしまいそうになっている。ただ、相思相愛になりたいなどというのは、最終的には彼女自身に委ねられるため、やはり行き過ぎた欲望なのだ。俺の行動はそれを踏まえてもなおということなのだ!


 嫌悪感を抱かられるだろうか。しかし、流石に少なからずの好印象を持たれているはずだ。そうでなければ、この二十数日間彼女を自分勝手に連れまわしたことになる。その点は恐らく問題ない。そして、このことは詫摩にも古川にも伝えていない。己の力で道を切り開くべきだからな。


 重要なのは作戦だ。ただ闇雲に想いを伝えてもしょうがない。雰囲気というのを互いの間に構築するべきだ。誰を愛したこともない奴はそれを小手先の技術だとか言うかもしれないが、俺は立派な戦術だと思う。

 まず、明日一番に学校へ行き、午後五時に商店街の裏手の公園に来てほしいという旨の匿名のラブレターを彼女の机の中に投函する。順当に考えれば、きっと彼女はその送り主を俺だと思うだろうが、俺は昨日彼女に補習最終日の放課後は再び一緒に映画を見に行こうと誘っているので彼女は当惑する。そして、共に映画を見ている間、彼女の心はメトロノームのように揺れ続け、心情がロマンスに覆われるはず。その時になって、俺は正体を明かし、愛を告白する!


 なお、この作戦の中核を担っているのはラブレターだ。ラブレターがどれほどに彼女の心をときめかせるかが告白の成功の鍵だ。間違いない。そして、俺も作家の端くれ。全身全霊をかけて見事と文豪に言わしめるものを作ってやる。


 ファンシーな雑貨店で買ってきた便箋に俺は鉛筆で想いを描く。手書きだ。その方がいいだろう? PCの字は幾何学的すぎる。それにしても、書きたい言葉というものがよくよく溢れ出てくる。しかし、頭に湧き上がる語群を優柔不断に書き連ねるのは褒められることではない。スマートさというものも意識する必要がある。そのため、俺は手元にある材料をじっくりと吟味し、それを便箋に飾り付けていく。時には辞書を開き、彼女のことを思い浮かべ、言葉と言葉を紡いでいく。楽なことではない。

 そして、様々な逡巡を乗り越え、二時間もすると書き終わった。

 これは中々にいい出来なのではないだろうか。彼女の琴線に触れ、想いというのが深く伝わるのではないだろうか。浅はかな言葉を使ったつもり、ましてや噓を書いたつもりもない。純粋に、実直に、創り上げた。もしかしたら、彼女と愛を分かち合えるやも……。

 しかし、どうにも煮え切らない違和感が残る。俺は便箋をひょいと持ち上げ、月光に照らしてみた。すると、


「……物恐ろしいことだったな」


 楓の言葉が思い出され、瞬く間に悪寒が走った。鮮明によく覚えている、鬼気迫る表情で語気を荒げて俺を追い詰めていくその様を! 楓の言葉が何を意味しているのかは分からなかった。だが、何かを必死に伝えているということはよく分かった。あれは間違いなく意思そのものだ。

 そう思うと、俺は便箋を机上に戻し、再び鉛筆を立てる。


 さらに一時間、二時間、三時間、と時計の針が回っていった。その間、遂に俺はただの一文字も書き加えることはなかった。疲労と眠気が俺に憑りつき、頭痛に苛まれ始める。何度も俺は自分になぜ彼女のことを愛しているのかと問いかけ、決まっていくつか答えは思い浮かぶのだが、どれも腑に落ちない。しかし、そうであるのなら一体なんだ? 分からない。それが辛い。

 耳鳴りも起き、視界がまどろみの中でぼやけていく。答えが見つからないのだ。そもそも、彼女の魅力はラブレターの中に既に織り込んでいる。最大のものかと聞かれれば、そうではないが噓でもない。答えは出ているじゃないか。どこが不完全なラブレターなのか? 大体、誰だって一つに絞るというのは難しいだろう。恋人同士になった後に気づいていくかもしれない。別段、今結論付ける必要はない。ひょっとするとそうであると思い込んでいただけ……いやしかし、今そうでないと思い込もうとしているのでは。


 俺は鉛筆を投げ飛ばす。正直なところ、もう、ちょっと苦しかった。その苦痛が次第にこの文面を完璧なものに仕立て上げていくような気がするが、抵抗する気は水面で跳ねるのみだ。楓のことも記憶の中で浮き沈みを繰り返している。

「今日思いつかなくとも告白を延期すればいいじゃないですか⁈」

 それは嫌だよ。俺は愛しき彼女と夏休みを恋仲として過ごしたいのだ。

「駄目です! お姉だけでなくあなたですら不幸になってしまいます!」

 俺は彼女を愛している。彼女が望まないことは絶対にしない。告白が断られても受け入れるさ。

「私はいつか必要とされる時のことを――」


 ――俺はベッドに入った。既に日をまたいでいる。朝が近い。もう寝よう。そう、俺は静かに目を閉じる。

 その時、一陣の風が部屋に吹き込んだような気がしたが俺は意に介さなかった。




拝啓

 蝉時雨が賑やかに降り注ぐ季節となりました。


 さて、私がこの手紙を書き起こすに至ったのには二つの理由があります。一つは私が君に恋心を抱いているから、もう一つはそのことを君に直接伝えたいからです。

そうなれば、この手紙はラブレターということになりますが、まさしくその通りです。私は自身の内々にある想いを秘めることができなくなったのです。逆に言えば、想いがそれほどまでに昂ったからこそ、こうして手紙を執筆することになったのかもしれません。


 とにもかくにも、私は君の全てに惹きつけられました。おしとやかなその佇まい、清楚な印象をうかがわせる容姿、そして清水のように優しく透き通った心に。

匿名からの手紙ということもあり、私は君を怖がらせているかもしれませんが、それに関しては地に頭を伏して謝りたいと思います。本当にごめんなさい。ただ、日に日に想いは高まっていくばかりでこのようなことは人生で初めてだったのです。あぁ、どうしよう、君を愛している理由の全てを言葉にすることができません。なにせ、私が持つ語彙ではあまりに表現力不足すぎるからです。


 ……話は変わりますが、君に比べて私は随分と粗野な男でしょう。使う言葉は上品とは言えないし、風貌もそうです。キャデラックで迎えに行ったとしても、貧相な農夫が白馬に乗っているように見えると思います。しかし、恋とは存外に良いものです。愛する人ができるというのはこれまでにないくらい幸せなことです。そして、もし君が私に振り向いてくれるのであれば、それは至上の喜びと言えるでしょう!

 それでは午後五時に中央駅付近の商店街の裏手にある公園でお待ちしております。

                                   敬具                                                             

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