十一
「はっ……!」
朝だ。時計が五時半を指している。寝る時間はあまり無かった。そのためだろうか、心臓の動機が激しい。気分が悪い。本来ならば期待で胸を膨らませているはずだというのに……。
学校へ来るとやはり一番乗りだった。後にやってきた用務員に物好きだねと笑われたが、俺は働き者ですねと返した。深い意味はない。そして、教室へ赴くと、俺は北条さんの机にラブレターを差し込む。緊張した。しかし、手紙からそっと手を話すと、心中にあったのは解放感だった。
教室では一人である。今日は怖くない。次に来るのは委員長の星野だろう。星野も物好きだねと喋りかけてくるだろうか、いや、おはようだ。毎朝、星野は顔が合ったクラスメイトにはそう言っている。きっと用務員は、この時間に見る生徒が誰であっても物好きだねと声をかけるはずだ。用務員にとっても、星野にとっても、今日はただの日常だからな。
そう考えると、途端に心がウキウキしてくる。そうだ。今日俺は北条さん、北条詩織さんに告白するのだ! なんという日だろう。故人のいかほどがこの経験を得てそうなっているのだろうか?
やがて彼女が登校してくる。合わせて俺は机に顔をうずめ、狸寝入りをしつつ腕と腕の間から彼女の様子を隙見する。おやや、手紙を見つけたようだ。首をかしげている。あっ、封筒から中を取り出した! さぁ、君は何を感じるのか!
と思ったが、彼女は手紙を胸に抱えていそいそと教室を抜け、チャイムが鳴るぎりぎりの所で帰ってきた。手紙を読んでいる時の彼女の様子が楽しみの一つでもあった。しかし……、これでは彼女の様子がわからないので俺の方が赤面してしまうではないか。
その後、今日ばかりは通例のことであった彼女との談笑に向かう気にはなれなかった。なので、狸寝入りから本当に寝入ってしまうことで逃げようとする。今、彼女の前に行けば呂律が回らず、うっかり白状してしまいそうだ。告白するころまでにはどうにかして気を落ち着けなければならない。いやはや、くわばらくわばら。
「……大丈夫?」
俺は身震いする。声主は彼女だった。
「はいっ⁈ 問題ないぜ。すこぶる快調。もしかすると、国民健康保険なんていらないんじゃないのか?」
俺は意味不明なことを口走った。そして、錆び付いたブリキ人形のようにぎこちなく彼女の方を向き、とりあえず今日見る予定の映画のあらすじでも話すことにする。気を紛らわそうと矢継ぎ早に口を開いた。しかし、目だけは合わせられなかった。
いつにもまして彼女が愛しく見える。実際に彼女は端麗であるのだが、それは俺の心持ちによるところもあるだろう。彼女の何気ない動作がついつい気になって一瞥してしまうし、今日だけは彼女に目の届かない所へ行ってほしくない。
学校が終わるまでの時間は退屈なものどころか感じることさえなかった。彼女を眺めていると、うたた寝をして時間を一つ飛ばすかのような感覚に襲われる。ただただ幸せだ。そして、学校に少し残って昼食を取った後は彼女と名画座へ行くのだ。今日の映画は三時間もある。それが自分でも信じられない。三時間もの長い間ずっと彼女の隣にいることが嬉しくてたまらない反面、気の落ち着けようがないからだ。
彼女と学校を後にし、制服のまま名画座へ向かった。一歩分だけ遅れて彼女と歩いた。そうすれば普段通りに喋ることができる。君は冴えているから、黙りこくってしまうと何かを感づかれない。
二十数分で名画座に着き、俺と彼女はそれぞれ、Dの5、Dの6に座った。俺と彼女が来るようになってから、いつもそこだけは空いていた。そして、学校よりも長い時間が過ぎたのではないかと思えるほどになると、映画ブレイブハートの上映が始まった。
体温が上がり、じっとしていることが窮屈に思えてくる。知っているか? 君はすっかり俺の心を奪っているのだ。それに君がどう触れるのか、もっと言えば迎え入れるのか突き放すのか、気になって仕方ない。昨日は告白を断られても平気だと思っていたが、いざそれが間近に迫ると、依然として受け入れる覚悟は持ち合わせているものの平気ではいられないように思える。目尻から一粒の雫が頬をつたっていくかもしれない。その時は走ってその場から逃げ出し、後で告白は気の迷いだったとでも伝えよう。そして、彼女が幸せになることを秘かに願いつつ恋愛から身を引こう。何しろ、俺には彼女以上に心惹かれる女性に出会える気が全くしないのだ。
恋仲。俺がそうなりたいと思い、彼女もまたそうなりたいと思わねば意味がない。そうでなければ、俺は強姦魔と変わりないのだから。君は俺と時を過ごして本当に楽しかったのか、君は俺に魅力を感じているのか。もうじきそれを知ることになる。
俺は耳を澄ます。自分の内なる声に耳を傾ける。あぁ、そうだ! 俺は北条さんと愛し合いたいのだ!
もう迷いはない。
映画が終わり、名画座を出ると、辺りはきつね色に包まれていた。塩キャラメルの匂いが香る。また、薄い雲の先に夕陽がある。彼女はどことなくそわそわしていた。俺が腕時計に目をやれば、五時まで後十分程度だった。ここから先の切り出し方を考えようとはしなかった。ここからは自然体でいるべきだ。
俺は腕を組み、深呼吸する。そして、やっと彼女と目を合わせる。彼女ははっとした。瞬きを繰り返す。きっと悟ったのだろう。
「答え合わせをしよう」
俺は目を細めて言った。少し気障だったかもしれない。しかしそれが俺だ。彼女はこくりと頷く。それを見て俺は後ろを振り返り、手招きをして彼女を公園に連れていく。もうお互いに何が起きるかは分かっていた。故にその間は沈黙だった。人々の喧騒から離れ、次第にこつこつとお互いの足音だけが響く。とても心地よい。
石造りの階段を前にして、俺は彼女が横に来るのを待つ。そして、ゆっくりと同じスピードで階段を共に上ってゆく。こつこつがこつとなった。並んだ二人の影が見えてくる。その姿に少し照れ、歩調をちょっと速めてしまう。階段を上がるとそこが公園だった。俺と彼女はなおも真っ直ぐに歩いた。すると、目の前で戯れていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。しかし、彼らはそのまま木の上で止まり、枝から俺と彼女を眺める。それが唯一の観客だった。
俺は後ろ手に彼女を制止する。はたと足音が止まる。それを感じてから俺は彼女の影の先まで歩いた。そして、足元でざっざっと砂をはらいながら後ろを振り向く。
「…………」
ここに俺がいて、そこに君がいる。ずっと待ち望んでいた機会だ。頬に焔がぽっと湧いた君の両目には、似たような頬をした俺が見えているだろう。腕時計を一瞥すると五時まで後僅か十数秒だった。それを心中で数え、頭で記憶の扉をたたく。そうすると刹那に多くのことが思い出される。逡巡の果てにあった決意、共に過ごした時間、数々の切なる願い。あぁ、ありがとう。
時が満ちた。
「手紙を読んでくれたか?」
君は無言で頷く。
「あれを書いたのは俺だ」
君は無言で頷く。
俺はそんな君を見つめる。心臓が早鐘を打つ。もう言いたくてたまらない。
「俺は君が好きだ!」
目一杯叫んだ。彼女の髪がふわっと舞い上がる。そして、俺は右手を胸におき、左手を大きく広げ、君を愛したその瞬間に抱いた純粋な気持ちを伝える。
「付き合ってください!」
俺は言った。共に君は体を背ける。たちまち俺の顔が崩れる。不安が現実になったと、そう思う。しかし、そうではなかった。幾ばくか経った後、君はそっと俺の方を向き、震えで緩んだ口元と眼鏡を外した美しい瞳で言う。
「……私もあなたにそう伝えたかった」
その君の声が甘い風に乗って俺に届けられる。後になって思えば、俺はまだ君に愛を伝えていなかった。だから、君の答えは得てはならない至上の喜びだった。
あなたが私に告白することは予期していた。あなたが手紙を書いたということは一目で分かっていた。それ故、手紙を読んでも驚きはしなかった。ばかりか、失望感さえ感じた。必要とされている、なければならない、一つの意味を持つ言葉。それが手紙の中には見当たらなかった。あなたは手紙の中でさえ避けてしまった。
しかし、あなたは私の様子を窺い、私に口下手に話題を振り、私のことで自問自答を繰り返した。それがすべて見えていた。私は感じる、あなたからの愛を。では、私は? 私はあなたに何を感じている?
すると、微かに見えた。眼前に広がる無知故の暗闇、その中にある私の感情。それを切り払う手段はきっと楓の言説通り。そして、記憶に刻み込まれている男と女が眼の裏に浮かび上がった。愛は存在するのか、ただ踊らされているのではないか、空虚な希望に寄りすがっているだけではないか、男と女はその姿のみでそう雄弁に語った。私は怖い、そして憎い。あなたの気持ちに応えると裏切られるかもしれないということに、そしてあなたを信用することのできない自分が。それでも、私は、私は……。
「付き合って下さい!」
嬉しかった。あなたの真剣な眼差しと共に言われたその言葉が。感情が急激に昂る。臨界には届かない。しかし、十分だった。私は溢れ出るものを抑えきれない。その姿をあなたに見られるのは少し恥ずかしい。だから背後を振り返る。
必死に堪えようとする。握りしめる手の中で爪を立て、眉間に力をこめる。私は愛を確かなものであると思っていないはずだから。でも、不可能だった。一度胸中で起こったさざ波は一段と激しさを増していく。そして、それは熱く瞳に押し寄せ、私から零れ落ちる。涙だ。
私は眼鏡を外し、袖で涙を拭う。眼鏡はかけ直さない。私はあなたに向き合う、併せて自分自身にも。だから、これが最初の一歩。
「……私もあなたにそう伝えたかった」
でもその一歩はあなたに手を引かれたから。自らの意思のみではない。少し待って、もう少しで無知の暗闇は晴れそう。その時こそ私から伝える、愛してると。
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