信じられなかった。それはあなたに対してではない、私に対して。

 この数日間、あなたに何らかしらの変化が起きていたことは私にも分かっていた。そのため、交際に誘われることも想定の範囲内だった。あなたが私に好意を持っていることは知っているから。何がそれに起因するのかも理解している、疑問によって大きく揺らいではいるけれど。

 とにかくそうではない。私が信じられなかったことは、私が彼の誘いを反射的に了承しようとし、あまつさえ嬉しかったということ。


「……ありがとう」

 彼は屈託のない笑顔で、

「もしかして、YESってことか?」

「いえ、それは明日の朝に回答する。ただ、ありがとうと。では、さようなら」

「あ、ああ、さようなら」

 彼はそう言って何かを思いだしたかのように部室へと戻る。無粋だった。ごめんなさい。しかし、今はどのような手段でも良いからこの場を離れたい。私は歩調を強めて玄関へと向かう。

 楓が携帯電話を手にして待っていた。私は急いで靴を履き替え、彼女に近づく。

「あっ、お姉、どうでしたか今日の学校は?」

 外に出ると、下弦の月が私を見ていた。心を見透かされている様。落ち着かない。

 しかし、私があなたの誘いを受けようとした? あなたは嫌いではない。でも、これでは私があなたを愛しているかのような……、それが本当、いえ、違う。そうではない。私は左右の区別がつかないような年齢ではない。

「お姉、聞いてます?」

 あなたの好意が分からない。実のところは分かってい……やめて、私はそう思っているはず。ただ、あなたはまだ知らない。しかし、きっと無意識下ではそうである。それはあなたの遊び。違う。

「もしもし、接続が悪いんですか?」

 顔が熱い。現実がまどろむ。感情が渦を巻いている。そう思っているだけなのかもしれない。実際には決まりきっていて、私がそれにヴェールを幾重にも重ねている。そうなの? 違う、そう思ったのならそれが事実。でも、影を見て、とても楽しそう。

「あまりに無視してると、公衆の面前でお姉の秘密をばらしますよ?」

 一つだけ確かなことはある。それは何? 私は今、愛に存在してもらいたいと思っている。えぇ、確かに私はそう思っている。

「お姉の秘密一つ目――」




「――あら、おかえりなさい」

 家のドアを開けると、女が私たちを出迎えた。心に亀裂が走る。また、女が外出の準備を終えているため、より一層そう感じる。

「お母さん、ただいまー」

「……ただいま」

 そう言いたくはない。女と男が慎ましく生きていたのであれば、いえ、それは難しい。しかし、無知でいたかった。その点に限れば、私はまだお嬢さんでも構わない。

「夜ご飯を丁度作り終わったから早く食べてね。じゃあお母さん出かけてくるから」

 女の面に垣間見える醜さは私の心を歪め、男の面に垣間見える卑しさは私の心を犯した。今夜もそれは変わらない。あの混在した気持ちはその様とは違って、澄み渡った空が近くにあったのだから。

 私たちはリビングに向かった。二人分の食事がある。違和感はない。かなり前からそういった日が連続することを数えなくなった。

 私はそれを黙々と食す。しかし、楓は沈黙が我慢できない。

「さっき私の話を聞いてましたか?」

 そう言われて私の手が止まる。

「……ごめんなさい」

 楓は胸に拳をあて、

「何かあったんですか? 私はお姉のカウンセラーですよ。何でも相談してください!」

「給与は払えない」

「ボランティアでやってるんですよ。そんな世俗的なものいりません」

「ボランティアは秩序ある私益の追求以上には公益の最大化に繋がらない。ただその思いは賞賛されて然るべき」

 私は話の筋を意図的に曲げようと試みる。楓に先程のことを伝えるのは気が進まないから。

「アダム・スミスなんてどうでもいいんです! お姉の話です!」

 そして、楓は口角を上げ、

「もしかして、凛堂伊織さんと何かあったりして」

神は一体楓にどんな役割を与えたのだろうか?

「……そう」

 すると、楓は目を輝かせて、

「えーっ! それ物凄く興味あります。教えてください!」

 私は楓の気迫に少し動揺する。でも、私は楓の申し出にこくりと頷き、

「では、後で私の部屋に来て」

 せめてリビングでは話したくなかった。


 私が本を購入したことはない。私が所持しているのは、女のお父さんが亡くなられたときにもらった物。それは五年以上たっても読みきれない量。私はなるべくそれを種類ごとに分けて書棚に並べているが、書棚に入りきらなかった物は床に積み重ねているので部屋が実際よりも狭く感じる。そして、楓が来るまでの間、不思議と気になる下弦の月の様子を私は窓から伺う。

「…………」

 あのまま弓を引けば、矢は天を射抜くだろう。しかし、私が弓を引けるのならその矢先は地上に向ける、私の矢が届かないということを知りつつも。

 私は思わずはっとする。そう考えてしまうことが意外だったから。やはり彼のことが頭から離れていない……。

「お姉、こんばんは。いたいけな淑女の恋の悩みを聞きに来た楓さんです!」

 背後から声がそう聞こえ、私は扉の方を振り向く。楓は制服から部屋着に着替えていた。

「こんばんは、座って」

 私は楓と位置を図りあいながら床に座り、お互いに落ち着いたところで楓が意味ありげな薄笑いを浮かべる。

「電気をつけないんですね」

 私は間を置かずに、

「月が綺麗だから」

 楓は体全体を横に傾けて私の背後を見る。すると、やや顔を赤らめて、

「そうですね……。とても綺麗。でも、話してください。何があったんですか?」

 そう言うと共に楓は食い入るような姿勢になっていく。話したいとは思えないが、話すべきなのかもしれない。私一人では処理しきれていないように感じる。

 私は蠟燭の火を消すように息を吹きかけ、やがて、この八日間の彼の様子と部室での一切を語った。言葉を重ねていくごとに楓は罪人の顔つきをしていき、私が話し終わるころには押し黙った。それが私には終始不思議だった。

 暫くして、楓は引きつったように笑いながら、

「なるほど、お姉は想像ではなく事実として知りつつあるんですね。私は少し前に諦めましたが早計でした」

 それは楓の独り言。私にはおぼろげにそう聞こえ、一方で楓は長い後ろ髪をたくし上げてそのまま机に肘をつく。

「……しかし、行ってあげたらいいじゃないですか? 伊織さんのことを愛してるんですから」

 私は片手で月光を遮り、

「……いえ、そうではない」

 すると楓は一閃を放ちながら顔を上げ、再び薄笑いを浮かべる。そして、

「へぇ、というか、そもそも伊織さんはそれをデートだとか言ってませんよね?」

 私の意表を突いた。

「……彼は私に好意を持っているから」

「でも、お姉はそれに嫌悪感を感じていない。即ち、少なくともお姉は伊織さんを嫌っていない。そうですよね?」

「…………」

 楓の深い眼に糺された私は言葉に詰まる。彼のことを嫌いとはとても言えないから。どうしようもない。私はそう思って頷く。

「その上、お姉たちにはトライアングルがあるわけでもなく、社会の掟に背くわけでもない。とても分かりやすい構図! それなのに、何故か行くかどうか迷っている」

 楓は私に顔をゆっくりと近づけ、芝居がかった口調で語り掛けた。その様に私は段々と引き込まれてゆく。雄弁家もしくは扇動者、楓にはそういった気質を感じることがあった。そして、今日は特にそう思う。でも、楓は前にいるのではなく後ろから私を押している気がする、とても希望に満ちた表情で。

「お姉、別に矛盾はしていないんです、お姉の感情、理屈と、事実は。ただ、その事実があまりにも強烈すぎたため、それがお姉の中で一種の強迫観念となっている。それを打ち破る為にはお姉自身が爆発的な感情を得るしかないでしょうね」

 楓の目はその口調や言動と違って次第に懇願するようなものに変わっていった。その時に私は分かった。楓は単なる好奇心で私に語り掛けているのではなく、彼の誘いを受けて欲しいと願っているからだと。

「でも頑張ってください、そうすればいつか呪いは解けます」

 楓は言い、そうして私は決めた。


 下弦の月がこちらを見ている。でも、明日まで待って欲しい。

 そして、密かに願う。

だから今は雲に隠れて、と。






「あぁ、そうだな。明日に期待するよ、古川」

 俺は居ても立っても居られず、詫摩と古川にそれぞれ電話で北条さんとのことについて相談していた。

「神よ、凛堂伊織に加護を、神の御名において。アーメン」

 古川はクリスチャンだった。俺はそうではないが、祈られるだけも悪いので胸で十字を切る。

「じゃあ、長いこと付き合わせたな。お休み」

「あっ、待って。窓を見てみなよ」

 俺は電話を切ろうとしたが、古川にそう言われて指が止まる。そして、俺は窓の方を向き、カーテンをめくる。すると、

「今夜は月が綺麗だろう。じゃあね、お休み」

 古川は電話を切った。俺は一人になる。しかし、夜空には目を離すことができない程美しい下弦の月が君臨していた。

 思わず息を漏らす。こんなものが見られると俺は知らなかった。写真に収めるというのはあまりにもおこがましいだろう。

「なぁ、お月様」

 俺は感極まる情景に恍惚とし、不可思議にも月に話しかけだした。

「そっからだと北条さんの家が見えるだろう? 彼女は俺の誘いをどう言ってる?」

 俺は機嫌を損ねないようにと慎重な声色を使った。しかし、たちまち群雲が横から現れ、月を覆ってしまう。そのため、俺は冷水をかけられた気分になり、

「あんたも恥ずかしがり屋なんだな」

 それ以降月は見えなくなり、俺は何もかも手につかなかった。あぁ、早く明日になって欲しい。




 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。とどのつまり、朝が来たのだ。ベッドに入ったときは、今夜は眠れないだろうなと決めつけていたが存外に深く眠ることができた。とても気分がいい。

 はっきりとした目で時間を確認する。午前五時半。俺の感覚ではかなり早い方だが、今日は丁度良かった。また、いつもなら土曜の午前授業なんて気だるいものでしかないが、今日は兎にも角にも早く学校へ向かいたい。


 まだ家族は誰も起きていない。楓にもこのことは黙っていた。

 制服に着替え、足音を忍ばせて階段を降りる。そして、洗面台と台所を何度か往復し、二つの作業を並行して行う。きっと昨夜は彼も思い悩んでいた。だから少しでも早く学校に向かわなければならない。また、無意識に五分おき程に時計を見てしまうことが、私が焦っていることを殊更に意識させる。

 ブラッシングの準備が終わり、台所に向かおうとすると、丁度朝食が出来る音がした。


 いや、待てよ。落ち着くんだ。そう焦って白米を口にかき込む必要はないじゃないか。思い出せ、かの偉い人はこう言っている、過度な期待は失望の温床だと。断られてもいいように心の余裕を作った方がいい。

 俺は電話をポケットから取り出し、グリーグのペール・ギュントを流す。白米よりはトーストが似合う曲だがあいにく俺は日本人でね。朝、昼、晩、全ての主食は白米なんだよ。まぁ、米粉パンくらいでなら多少妥協できる、

 などと考えている内に、箸が陶器にぶつかる音がする。無駄だった。


 しかし、よくよく考えると、私は彼に了解を伝えたいと思っている。それは欲求。決して課せられた使命などではない。

 私は鏡に目を移し、自分の顔を見つめる。愛想が悪いと昔から言われてきた。でも、それよりももっと昔から私は表情があまり変わらない人間だった。

「彼に失礼?」

 私は両手の人差指で頬を押し、無理に笑顔を作ってみる。


 ……とても不自然。


 髪の立て方も最新のファッションも知らなんだが、靴くらいは高いのを履こう。たしか中学の卒業の時に一度だけ履いたドクターマーチンのブーツが靴箱にあるはずだ。

 俺は取るもの直さずに略奪者のごとく靴箱を漁る。そして、何かの弾みでなくしたりしていないか心配だったが、意外と早くに見つかり、大急ぎでそれを履く。

 俺は玄関のドアを押し開ける。玄関は靴で散らかっていた。しかし、さして気にならなかった。


 少し息を整える。昨日はこの反対側から扉を開けるのが嫌だった。今日はこちら側……いえ、撤回する。今日この扉を開けることは嫌ではない。ただ、なお愛に存在してもらいたいと思う私のこの気持ちが背理的なものでないか心配。

「…………」

 そう思うと、自ずと楓の言葉が思い出される。私は矛盾していない。楓はそう言った。それについてはまだ納得できていない。しかし、いつか納得できる気がする。

 私は外に出た。


 朝靄が次第に濃くなってきた。前が見えづらい。だが、それすらも舞台装置に思える。いやなに、断られてもいい。俺は彼女に一歩近づいただけで満足なのさ、その結果彼女から二歩遠ざかられても! しかしまぁ、それは大満足に遠く及ばないがな。

 さぁ、後はあそこを右に曲がれば――、

 

 朝靄が次第に濃くなってくる。視界不良。でも、足が止まらない。一歩一歩、足を踏み出すごとに速度が上がっていく。止められない。止まらなくていい。

 後は交差点を左折するだけ――、


 ――そうして、俺と私は必然にも校門の前で再会した。


 俺は目を見開く。それは驚嘆に値することだった。だが、間もなく俺は走り出す。

「おはよう。今日は早いんだな」

 彼女の下へ駆け寄った俺はいの一番にそう言った。最初から昨日の話を持ち出すのは少し急ぎ過ぎている気がするからだ。

「……えぇ、あなたに早く伝えたくて」

 しかし、意外にも彼女がそうではない。俺はまたぞろ目を見開く。すると、その俺の目に彼女が視線を合わせてくる。どうも本当にそう思っているようだ。

 俺は瞬きを何度か繰り返して、

「そ、そうか。ありがとう。それで、どうだ? 嫌なんだったら別に構わんが……」

 そう言いつつ、少し怖い。彼女に拒絶されたら二度とこういった話は持ち掛けない気でいるから余計にそうなのだ。四月には好調でも五月には撃ち落される。それでも六月にもう一度羽ばたいてみせ、七月まで待って何もなかったら――、


「――そうではない。私はあなたの誘いを受けるという旨を伝えに来た」

 彼女は言った。そして、俺は耳を疑う。

「今なんて?」

 彼女は背伸びして俺に顔を近づけ、

「私はあなたの誘いを受ける」

「わぁっ!」

 俺は驚いて後ろに飛び跳ねる。そして、会心の笑みで、

「本当か⁈」

 逆に彼女は淡々と、

「……予定は?」

 そう言われて初めて俺は失敗に気づく。しまった! どうも誘うことばかり考えていたので、何の予定も立てていなかった!

「あぁ、そうだな、それについては今日の午後に電話するよ。電話代は俺が払うぜ。だから、番号を教えてくれないか?」

 俺はしどろもどろに言った。すると彼女はこくりと頷き、固定電話の番号を教えてくれる。そして、俺は辺りに言い聞かせるように、

「ありがとう! 今日は人生で最高の朝だ!」


 もしかしたら至上の喜びに出会う機会を与えられたのかもしれなかった。

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