~第三章~
七
四限目の授業が終わり、解散することを許されると、俺は詫摩と古川に緊急招集をかけ、北条さんがデートの誘いを受けてくれたと伝えた。思いのほか二人は驚かず、スタートラインに立ったなと冷ややかな反応を示した。まぁ、実際その通りなのかもしれない。
次いで、授業中に考えたデートプランを俺は二人に話した。すると、
「いいか、凛堂。世界広しと言えども、デートのプランに自分が言う予定のセリフまで盛り込むのはお前くらいだ」
と言われた。無論、俺も考え過ぎているとは思ったのだが、如何せん不安でたまらなかったんだ。古川は、もっと自然体でいた方がいいよ、そんなに毎回気を張り詰めていたらデートの回数を重ねていくごとに君がすりつぶれてしまう、そう主張した。
なるほど確かにその通りだ。加えて、そもそも俺は彼女にデートなどという単語は使ってない。ただ、映画館に誘っただけだ。ならば、映画を見終わったらそこでお開き、解散だ。予定もへったくれもない。だから俺は彼女に、映画上映開始の三十分程前に中央駅の改札口に来てくれ、と電話で伝えるだけでいい。まだそれだけだ。
他にも、服がどうだとか、髪はこうすべきだとか、詫摩は俺にまくし立ててきたが、いざ家に帰ってみると、ジョブズ式か何かか、似たような服だけが折り重なっていた。また、髪のセットアップなんてのは百聞しようが、一見しようが、そう簡単にできるものではなく、実際に練習すると出来損ないの前衛芸術作品が生まれた。
結局のところ、特殊なことは何もしないことにした。そして、日が沈む前、俺は北条さんの家に電話をする。それを誰かが受け取ると、反射的に背筋がピンと伸び、ややこわばった声色で俺は、すみません、と発した。すると、誰ですか? と警戒した声が返ってきたが、それから察するに電話口にいるのは北条さんではない。だが、俺が軽い自己紹介をすると急に猫なで声になり、北条さんに伝えて欲しいことを言い終える頃には鼻歌まじりの返事が来た。
そうして俺は電話を切った。気の抜けるようなことだった。しかし、これで後は映画館への用事をすませば明日の準備は整うので俺も鼻歌まじりで支度を始める。曲は第三の男だ。
日曜日だ。
「…………」
目覚まし時計にセットした時間の一分前に目が覚めた。正直なところ、朝が来たことに度肝を抜かれている。しかし、恙なく体調は快適で、カーテンの向こうからでも存在を強く主張する日光が今日の天気をよく表していた。
雀が可愛らしく鳴く。そこで俺は飛び跳ねた。あぁ、そうだっ、日曜日! 今日のような日曜日が人生に訪れるとは思ってもいなかった!
突如俺は家をどたどたと走りだし、まだ時間は十分にあるというのに空襲警報を聞いたかのような騒ぎを起こしだす。クローゼットを見れば自分のファッションセンスに落胆し、時計を見れば、どうして一秒と二秒の間には一秒も時間があるんだ! と叫び、鏡で自分の顔を見た時にはそれを割ってやろうかと考えた。
今頃、詫摩は進学塾に行っており、古川は教会に行っている。じゃあ、俺は?
「北条さんと映画を見に行くのさ」
流行はオプティミズム、ペシミズムなんて時代遅れだ。
「わぁはっはっはっ!」
気が狂ったように笑うのは道化師の役柄だが、今朝ばかりは俺もそれを演じよう。緊張も、不安も心の片隅にあるだけで、大部分を占めてはいない。何せ、そこには喜びがあるんだ!
俺は小刻みに指パッチンを繰り返す。そして、CDプレイヤーにQUEENのアルバムを差し込み、Somebody To Loveを流した。フレディの歌声を聞いて思う、この曲を聴かなくなる日が近いかもしれないと。
中央駅には歩いていくより近くの東駅から電車で向かった方が断然早い。そのために俺はひとまず東駅に向かう。九時半に待ち合わせをしているので、九時二十分の電車に乗れば何の問題もなく間に合う、はずだった。
どこかの駅でアクシデントが起きたらしく、電車が七分遅れでやってきたのだ。そのことに俺は泡を食ったようになり、あたふたと慌てだす。彼女を待たせたくない。それどころか、本来彼女から「待った?」と聞かれるのがセオリーだろうに、遅刻というのは人間性を疑われかねない!
電車が中央駅に着くと、俺はプラットフォームに文字通り飛び出した。電車に乗っている時でさえ走りたかったのだから、我慢するのは到底無理な話だ。そして、階段を駆け降り、改札口を突き抜ける。そこで俺は辺りを見回した。すると背後から、
「二分十二秒の遅刻」
俺はさっと振り向く。彼女がいた。なぜか今日も制服だ。それを少し残念に思いながらも俺は恐る恐る尋ねる。
「す、すいません! ……怒ってます?」
彼女は切なそうに下を向いて、
「いえ、冗談……」
俺は目を白黒させる。彼女が冗談を言う気質とは思っていなかったからだ。
「そ、そうですか、なら良かったです。いやなに、キャデラックとリンカーンのどちらで行こうか迷っていて……」
「でも、あなたは電車で来た」
「免許がなかったんですよ」
冗談には冗談で返答しておく。
「では、言葉遣いは何故?」
彼女はきょとんとした目で聞いた。
「え、あぁ……はははっ、不思議だな」
それを意識していたわけではなかった。
「じゃあ、行こう」
俺は正面出入口を指して言った。
「何を見るの?」
俺は彼女に今日見る映画の題名をあえて伝えなかった。事前情報を得てもらいたくなかったからだ。しかし、彼女も気に入ってくれるだろう。
「フォレスト・ガンプさ」
中央駅に付設している巨大商業施設にはしっかりとした映画館が設置されている。だが、今日俺が彼女と向かう映画館はそこではない。叔父さんが経営する例の名画座だ。最新映画に冒険するのは少し気が進まなかった。俺は面白いと確信できる映画を彼女に見せたい。何しろ、彼女に楽しんでもらいたいからな。それは駅付近の商店街の中にある。ポップコーンも売り出せないし、従業員も雇えないような小さい所だが、俺は何度も足を運んでいる。叔父さんは無口だった。子供の時はそれが少し怖く見えたが、今日のような日にはありがたい。揶揄されるのはごめんだ。
俺は軽い世間話や性悪男とクリスチャンの話をしながら彼女を連れていく。彼女は、
「そう……」
と呟くばかりでもう既に退屈しているのではないかと心配になるが、彼女が時折見せる微笑がなんとなしにそうではないことを教えてくれる。
商店街に入り、俺は慣れた足取りで右折し、左折し、また右折した。そして種明かしをするかのように彼女に名画座を紹介する。
「映画はあまり見ないからより新鮮」
彼女はそう言ったと思う。あまりよく覚えていない。この次の言葉に俺は我を忘れかけたからだ。
「男の人と歩くことも」
客の出入りはほどほどにある。俺はその往来に少し目をやるが、当然というか何というか、俺たちが一番若い。すると、彼女はチケットを買いに行こうとする。
「ああ、それはいいんだ別に」
俺は彼女を引き止め、
「ここは叔父さんの店なんだ」
そう言われると彼女はこくりと頷き、俺の後を付いてくる。映画の代金は昨日払った。しかし、俺の言葉は噓ではない。はぐらかしただけだ。あまり二人分の代金を俺が負担する姿は見せたくない。それが日本人だろう?
席の先頭よりは中央の方が見やすいと思う。俺と彼女はそれぞれDの5、Dの6に座った。それは初めてのことで、とても気が落ち着かない。自然に背筋が立つ。気付けば、その様子を彼女がまじまじと見つめており、小さな、とても小さな声で、
「怖い映画?」
俺は小さな声で、
「とんでもない。ジャンルはヒューマンドラマだ」
そして、俺と彼女は共にスクリーンに目を向ける。同じ方向だ。
やがて照明が落ち、映画が始まる。
この映画を見るのは四回目だ。一回目は家、それ以外はここだ。1994年に公開され、主演はトム・ハンクス。20年以上前だから今よりも凄く若い。監督はバックトゥザフューチャーのロバート・ゼメキスで、アメリカでの興行収入はハリーポッターとかアイアンマンよりは高かったはずだ。まぁ、歴代順位で言えば67位だが、アメリカ映画史は長いからな。なんたって、第二次世界大戦の最中にスーパーマンを作り上げるんだぜ。
あらすじを話そう。知能指数が普通の人より少し低い主人公フォレスト・ガンプ。しかし、彼には丈夫な体と清らかな心があった。そんなフォレストが、アメフト選手として米大統領に会ったり、ベトナム戦争の傷で米大統領に会ったり、卓球選手として米大統領に会ったり、軍隊の元上司、ダン小隊長とエビ漁を始めたり、失望からアメリカ中を走り出したり、と数奇で成功に満ちた人生を送る姿をアメリカ現代史と共に追うのだ。中でも見どころなのはやはり、幼馴染の恋人ジェニーとの出会いと別れを何度もくり返していくその様だろう。
笑いと悲しみに包まれた映画フォレスト・ガンプ、やはり相も変わらず面白い。
腕時計が十二時二十分を指す頃に、頭上から光が落ちてきた。反対にスクリーンが光を失う。映画が終わった。下手に舞い上がっていた気分もすっかり落ち着き、優しく力強い喜びが残っている。俺は腕を伸ばして体をほぐす。そして、彼女の様子を窺おうと思って、顔を横に向けると、
「な、なんというか、満足したようで……」
俺がそう言うと、彼女は肩をびくっと震わせて顔を膝にうずめる。とても恍惚とした表情をしていた。熱心にスタッフロールまで見ているな、と思ったがなるほど。
俺と彼女は名画座を出た。そして、商店街を抜ける。その間、互いに沈黙を貫いていた。ただ、それは仲が悪くなったというわけではないと思う。俺も彼女も何かを言い出せない、そんな雰囲気だ。ぼんやりとした足取りで商店街を抜けると、なだらかな坂の先に中央駅がそびえたっている。歩いて八分程度で改札口前に戻れるだろう。元よりその予定だった。けれども、少なくとも俺はその坂を上るのが嫌になっている。もっと彼女と一緒にいたいのだ。
俺は立ち止まった。すると彼女が、数歩歩いたところで何やら嬉しそうに振り返り、
「どうしたの?」
そんな彼女から目を逸らして、
「ど、どうだ? 面白かったか?」
「えぇ……、とてもそう。あなたには感謝する」
「そうか……、それは俺も嬉しいさ」
俺は動揺している。心中で一方的な愛情が配慮を上回ろうとしているからだ。一種の所有欲だ。しかし、それは親が子を持つ時でさえ働く感情だろうに、それを弱さだとか、悪だとか、と決めつけられないのでは?
そういえば、俺が一昨日彼女を誘ったのだった。
「少し公園に寄らないか?」
そう思うと自然に言葉が出た。すると、彼女は薄く驚いて空を見上げる。だが、直ぐに俺の方を向き直し、こくりと頷いてくれた。
俺と彼女はまたしても沈黙を貫いて歩きだす。しかし、それが素敵な時間であるように段々と思えてくる。彼女はさっき頷いてから顔を下に向けたままだった。横髪が顔を見られることを拒んでいるかのように揺れている。それが妙に魅力的で神秘的だった。
商店街の裏手に丁度三角形の公園がある。絶え間なく降り注ぐ日光にも負けじと、天に向かって枝を伸ばす木々が特徴の良い公園だ。俺はそこのベンチが占拠されていないか心配だったが、無事にというよりは意外にも公園には誰もいなかった。神の贈り物だろうか。
「座ろう」
俺は言った。すると、彼女がやっと前を向く。緩やかな眼をしていた。
歩いている間に色々と話題を考えたが、着飾るのはやめておくことにしていたので、
「フォレスト・ガンプの中で最も印象的な言葉とかあったか?」
すると彼女は弾んだ声で、
「私は、ダン小隊長が海に飛び込んだ時の『小隊長は神と仲直りしたのだ』という表現が好き」
「あぁ、良い表現だったな。しかしどうだ、やっぱり俺が一番好きなのは、フォレストのお母さんの『人生はチョコレートの箱、食べてみるまで中身は分からない』っていうのだな。とても希望に満ちている」
俺は身振り手振りを使って情熱的に語った。そして更に続ける。
「ただ、あの映画の原作小説は読まなくてもいいと思う。俺は一度読んだんだが、構成が映画の方がすっきりしていた」
彼女は眼鏡を支えながら俺の方を向き、
「でも、読んでみるまで中身は分からない」
そう言われて俺は軽く吹き出した。どうやら映画は彼女の冗談を鍛えたようだ。そして、それからというもの俺と彼女はどんどんと会話を展開させていく。
登場人物のあの構図を自分の小説で再現したいとか、映画に映った情景を文字でどう表現しようかとか、アメリカの国民性がどういう風にどこで強調されていたか、とか様々なところへ話題は広がった。それにしても、彼女のアメリカについての知識がやけに深かった。
「昔、風と共に去りぬを読んだ。そのため、一時期アメリカへの興味が強かった」
という訳らしい。文学少女の解答としてはこれ以上ないんじゃないか。
まぁ、とにかく、俺と彼女の間は普段の部活動以上に盛り上がった。周りの音も、時間も、何もかもが消え失せ、そこは二人だけの空間だった。
時には、
「対照的という関係はフォレストとジェニーにも当てはまるんだろうな」
「私もそう思う。運命を与えられているのか風に乗ってただ彷徨っているだけなのか」
意見が合い、
時には、
「私はジェニーに心情を寄せてしまう」
「本当か⁈ 俺はダン小隊長だった……」
意見が合わなかった。それでもなお彼女と話すことは楽しく、時が経つごとにその思いはより深まっていった。このよどみなく進む会話の流れ、それが途切れるとは到底思えないし、途切れてほしくない、がしかし、
「お腹が空いたな」
と俺が迂闊に言ったおかげで彼女がいきなり立ち上がり、
「楓が待っている……」
そう零した。そして、俺の方に向き直って申し訳なさそうに目を震わせ、
「そういえば私が帰ってから昼食を作ると妹が言っていた……」
俺は腕時計を見る。二時半だった。あぁ、さすがに駄目だ。
「そ、そうか、なら妹さんのためにも今日はもう帰ろうか」
「……ごめんなさい」
空を快適に飛ぶ若鳥が突如猟銃に撃ち落されたような不幸だった。それでも俺は足に力を入れて立ち上がる。そして、言葉に出すことを憚られる寂しさを抱えて彼女と歩き出した。しかし、よくよく考えてみれば問題は俺自身にあった。こう思考するのがいいのだろう。
今日彼女と別れるのは明日また彼女と会うため、と。
恒久的な幸せというのは元来そういうものだ。退屈と退屈の狭間にある。だから俺は笑顔で彼女にこう言える。
「とても楽しかった! ありがとう!」
すると彼女はまた顔を下に向ける。顔が見えなくなる。
「私も楽しかった」
直後に横を自動車が高速で通り抜けていき、彼女の髪が前になびく。
可憐な笑顔だった。
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