さてさて、あの日は調子よく自分の中で啖呵を切ったが、どうも俺の社交性のなさというのはこの時分によく発揮されてくる。


 二人は俺に「まずはデートに誘って距離を詰めた方がいい」と言い、俺もそうしたいのだが如何せんそれを言い出せない。ただ、文芸部の部室に二人きりという状況下では別段北条さんと口をきくのは恥ずかしくなく、特にそういった事は切り出しにくいという次第だ。


 いつまでもこの状態を引っ張ってはいけないと毎晩思うのだが、いざ彼女の前に出ると途端億劫になる。嫌な汗が額に湧きだし、心臓が鎖にがんじがらめにされるような気分を覚え、事を明日に回そうと、今日は話したくない、と思ってしまうのだ。それはきっと、断られることへの恐怖や北条さんに一歩歩み寄る勇気の不足の為だ。

 しかし、あの日というのが先週の木曜のことだったから、既に八日経っている。つまり今日は金曜日だ。そして、来週からは期末テストの準備期間が始まるので当分部活はない。だから今日、もっと言えば、これからの放課後に彼女にこの件を持ち出せなければ、俺は靄がかった気分で当分を過ごさなければなくなる。

 それは末恐ろしいことだ。また、どうしようもない程のもどかしさも併せ持っているだろう。となると、この背水において反転攻勢にでるべきなのだが、いざ実際にそうなると前述したとおりになる。


 かくして、前に進みたいのか後ろに進みたいのか分からないような足取りで、俺は今日も部室に向かっている。願わくば、かつての英国人のような女性に慇懃な伊達男の振る舞いを見せたいのだが、この奇妙なステップだったり、見る人の記憶に悪く残る落ち着きのない態度では無理な話だ。大体、北条さんの前で何か他の人格を演じるというのは失礼な話じゃないか? 例えば、仮に彼女がさっきも言った伊達男のような人格を好んでいたとして、俺がそれを見事に真似たとしよう。ところがどっこい、実の俺は感情的で売れないコメディアンみたいな性格をしているのだし、他の人格にはなりきれない。

 なので、仮にをそのまま実行すると、俺は北条さんを騙すことになり、その噓が白日の下に晒されたときなんてのはあまり想像したくない。うむ、やめておこう。しかし、


 突如として俺は、しかし、と思ったことに、気持ち悪い違和感を感じ、慌ててそれを飲み込む。そして、意思に反して口を押さえ、眼球を右に左に揺らしながら思考を上手く整えようとした。

「…………」

 そういえばそうだ。さっきのデートに誘いたくないが誘いたいとか、人格を演じたいが演じたくない、といった二律背反的なことはこの八日間で何度も立ち会ってきた迷いだ。どうも盲目的に道を彷徨っている。すると、そのままでは何をすることもなく時間が流れてゆき、時期に彼女と離れ離れになるかもしれない。


 いいか俺、もうそんなのはやめよう。強気な決断力をもって迷いを断ち切り、良心に基づいた行動を起こすべきだ。あの時、チャーチルが第三帝国と戦わなければ世界はどうなっていたことか。それに結局のるかそるかは賽子のようなものさ!


 そう思うと、忽ちがらんどうの自信が体中にみなぎる。どうも今日ばかりは勇気を出せそうな気がする。事を自分の中でやや壮大にし過ぎているような気がするが、大した問題ではない。むしろ、そっちの方がいいんじゃないか?

 足がずんずんと進む。横を通り過ぎる生徒や先生は今までとは違った意味で俺に一瞥をくれる。だが、俺には前だけが見えた。気分だけは既に走っている。

 段々と部室のドアが見えてきた。それと共に気持ちは高まる。足の速さは落ちる。そして、俺は勢い良くドアノブに手を伸ばして、くるりとそれを右に回す。


「あっ……!」


 彼女が視界に入った。すると上半身と下半身とで意識が分離する。体は大きく前のめりになりつつも両足がぴたりと硬直しているという滑稽な恰好だ。俺はひどく焦る。何度か前に行こうと体を揺らすが、足だけが頑なに拒否する。二律背反のそれだ。

「……どうしたの?」

 彼女は僅かに首を傾げて言った。そして、そこには彼女だけがいた。ずっと前から文芸部はその様子だった。

 部室の窓から夕陽の赤みがかった光が差し込み、彼女がそれを纏っているかのように見える。おかげで端正な顔立ちがより輝きを増していた。息を吞むほど美しい。俺の心臓が高鳴る。ところが、それどころではないはずだ。

「あ、いや、新しいパントマイムさ……、ブロードウェイで見たんだ」

 俺は舌足らずに言った。また、いつも通りから脱却できなかった。

 傍から見れば段々と腹が立つかもしれない。しかし、人生はクローズアップで見れば悲劇だがロングショットで見ると喜劇だ、とある男も言っていたじゃないか。いや、誤用か?

「そう……」

 彼女は再び執筆に戻る。原稿用紙に直接書き込むといういささか古い手法だ。俺は心音が外に漏れ出ることを心配して胸に手を抑えながら彼女の先隣りの席に座る。

 俺はPCで執筆していた。全ての作家がこうなれば、筆をとるという表現は使えないのではないか。そんなどうでもいい思い付きで気を紛らわす。俺の胸はいまだなお鳴り続けているのだ。

 体が汗ばんでくる。顔は紅潮する。先程までの威勢はどうにも思い出したくない。だが、デートには誘いたい。少し彼女とのその様子を想像してみる。

 すると、顔がほころび、俄然やる気が湧く。

「あ、あのさ……!」

 俺は彼女の方に顔を向ける。彼女もそれに応じる。ガラス細工のような目と合った。そうなるともう駄目だった。動揺しきって呂律が回らなくなる。

「い、いや、何でもない」

「……そう」

 彼女はガラス細工の麗しい目を物憂げなものに変えて言った。

 俺はもう一度PCのスクリーンと向き合う。電源のついてないスクリーンは鏡の役割をわずかながら果たす。そのため、今の俺の顔がよく分かる。瞳孔が開ききっているのだ。


 しばらくは自分の顔を見つめたままでいた。鉛筆と紙がこすれ合う音だけが部室に広がっている。普段はそこにキーボードを叩く音も混じっているのにな。しかし、早鐘を打つ胸は自分が恋愛をしているという事実を何よりも明らかにしている。この状態では小説の執筆なんてのはできるはずがない。あぁ、小説……、そうだな、少し思い出してみよう。気分の入れ替えだ。


 俺は元々映画が好きだった。叔父さんが、旧作映画ばかりを上映する映画館を経営していたからだ。そこで様々なジャンルの映画を見た。アクション、ドキュメンタリー、歴史、ロマンス、SFとか色々だ。すると、十三にもなるころに俺はストーリーというものを表現したくなった。もしかしたら、それは初恋に近いほどに衝動的で強烈な感情だったかもしれない。とにかく、俺は思いついたストーリーを箇条書きにし、想像を膨らませた。だが、箇条書きより先には中々進めなかった。

 俺はストーリーを表現するために、ビデオカメラで動画も撮ったし、絵も描いたし、作曲にも挑戦した。しかし、全てにおいて才能はなく、関心も続かなかった。そうして、やがて執筆という手段を俺は見つけた。すると、俺は釘のようにぴったりとはまり、より情熱的に打ち込めるようになった。だから文芸部に入った。その上彼女と出会えたのだからこの運命に感謝感激――、


「――いる?」


 その声に俺は全身が波立ち、絶望したピアニストのようにキーボードに指を押し込む。そして、おもむろに後ろを振り返った。

「良かったら」

 北条さんは微かに切なげな表情でそう言った。また彼女は、湯気がもくもくと上がる茶飲みと小さな紙包みを乗せたお盆を持っていた。

 それが何を意味するかを理解するまでに十数秒を要した。だが、そうすることができるとたちまち俺の感情は燃え上がり、

「はい、喜んで!」

 瞬く間に俺の心は歓喜で打ち震える。Freudeフロイデ, schönerシュェ―ネル Götterfunkenゲッテルフンケン,Tochterトフタル,ausアオス ,Elysiumエリュイジム……(歓喜よ、神々の麗しき霊感よ。天上楽園の乙女よ……)。

 北条さんは表情を緩め、

「そう……、何か苦しそうだったから。体調が優れない?」

 彼女は言った。そして、それは胸に感動を呼び起こす表情だった! 彼女の優しさ、美しさ。比肩するものなどいるのだろうか! どうも抑えきれない。それはそれで良かった。俺は勢い良く立ち上がり、誘いの言葉をかけようとする。酔いが回っているようだ。恥じらいがない。このまま愛の告白すらできそうだ!

「あの、北条さ――」

 

「――おい二人、いるか?」


 不意に顧問が部室のドアを開けた。俺も目を見開く。信じられない。そのために俺は一気に混乱し、開きつつあった口を舌と共に嚙み締める。痛みは感じない。

 顧問は俺たちの顔を確認すると、

「文化祭の部誌の件、通ったからな。自由に進めていいぞ。じゃあ、さよなら」

 そして、憎たらしいほどに僅かな時間でドアを閉めた。普段は知りもしない間に帰っているのになぜ今日に限って! 人生の中で類を見ないほどに間の悪い奴だ。

俺はそう思い、低く舌打ちする。

「それで……、どうしたの?」

 しかし、横に北条さんの顔があることを束の間忘れていた俺は瞬く間に顔を赤く染め上げ、

「あぁ、いや、いいんだ。し、執筆に戻ろう」

 すっかり俺はいつも通りになってしまった。


 燃え上がる感情が一旦冷めると、妙な脱力感に襲われる。ニヒリズムに浸りそうだ。しかし、どうにもやりきれない気持ちで包まれているが、彼女に話を切り出すのはやはり憚られる。そう考えると、自分に緩やかな怒りが湧きたつ。もう小説を書くほかなかった。

 電源を付け、ワードを開き、昨日の作業を振り返る。ほう、そういえば、作中屈指の名場面となりそうな一節を執筆しているのだった。すると、立ちどころに執筆の欲求が湧き上がる。それは俺の弱さ故でもあった。だが、やおらに指が押し込まれてゆく。どうしようもなかった。

 運命に賭けた孤狼、それが小説の題名だ。人にはよくファンタジー小説か何かと間違えられるがそうではない。歴史小説だ。時は1944年末、西の連合国と東のソ連に挟まれ、大戦で得た領土のほとんどを失いつつあるナチス政権は窮地に陥っていた。その中、ナチスの総統たるアドルフ・ヒトラーはドイツ軍最期の一大反攻作戦ラインの守りを発動した。俺はその九日間を劇的に描き、全体主義の終焉、虚しさを表現しようと考えている。


 なるほど不思議に意識が執筆へと傾いていく。小説が持つ魔力の一種だ。苦しいはずなのに、一旦水車が回りだすと延々止まらなくなる、俺の知らない所で時計の針も同じように回っているというのに。

気付けば、十八時半にもなっていた。それを見て思ったことは、

「校正の時間だ」

 そう言うと共に、鉛筆が横になる音がする。彼女も時計を見ていた。それが偶然であると思いつつ、必然であってほしい。この時間が一日で最も楽しいからだ。

俺は席を立ち、先隣りの彼女の下へ行く。

「今日はどうだった? 進んだか?」

「いえ……、あなたは?」

「今日ばかりは俺も同じだ。まぁ、文化祭までには全く問題ないと思うが、君は大変そうだな」

 彼女は少し俯いて、

「ごめんなさい。構成が上手く纏まらないから……」

 すると、俺はのけぞって、

「あぁ、いや、別に人それぞれだな。君のは芸術のようなものなのだし」

「……ありがとう」

 俺は少し照れる。

「それじゃあ、今日書いた分を」

 ご多分に漏れず、彼女は律儀にも会釈して原稿用紙を渡し、俺はそれをおずおずと受け取る。彼女が触れていた物を触る事には緊張が伴うのだ。

 さて、俺は彼女の恋愛小説に目を通す。ざっと三百文字程度の書き出しだ。もう何日もそれを繰り返している。作っては捨て、作っては捨て、と。確かに表現力は優れているものの、感情的な踏み込みが足りなかった。何か神秘的なものに触れるかのような慎重さだが、読者には軽薄だと読み取られかねない。

 原稿用紙を盾に彼女の顔を盗み見ると、やはりではありつつ珍しくそわそわした表情だ。だが、噓は言わない。以前、噓を言ってやや過剰に褒めると、その日以降俺が謝るまでは読ませてくれなくなったのだ。痛みよりは悲しみの方が重い。

 俺は口元を隠して、

「いつもの通りだな。地に影が身重く横たわる、っていうところでやるせなさを表現するその力には本当に尊敬しているんだが、どうも装飾品が高価なだけに見えてしまう」

「…………」

「少し違うジャンルのものを書いてみたらどうだ? 何か新しいものが見えてくるかもしれない」

彼女は眼差しを切り出ったものに変え、一言。

「不可能」

 なるほどですね、お嬢さん。俺は両手を大きく開き、会話の主導権を彼女に譲る。そして、彼女と共に俺の席へ移動する。

 俺は椅子を彼女に譲った。すると、一瞬だけ彼女の動きが止まったように見えたが俺は何も言わなかった。トークショーの司会者ですらそうするはずだ。


 彼女に俺の小説を読まれることはどうも上手く慣れない。気恥ずかしさと不安が込み上げてくる。なぜなら、彼女の指摘は総じて正しいのだ。

 やがて彼女は読み終わり、

「何日目?」

「九日ある内の七日目だ。ただ、物語の佳境はここからだから先が結構あるな」

「そう……」

 彼女は眼鏡を深くかけ直し、

「このアンソニー・マコーリフの『NUTS』という言葉を強調したいのは理解できる。とても心を動かされた」

 俺が見ている様子に限って言えばそうとは露知らず、ただ嬉しい感想である。

「しかし、原文を使うのは推奨できない。その文字が不自然に見えて、あなたの小説が持つ雰囲気を傷つける」

「そうか……、なるほど。たしか訳は『馬鹿め!」だったが君はそちらの方がいいと?」

 彼女はこちらを振り向き、少し躊躇してから、

「えぇ……」

 そう言われて、俺はこくこくと頷く。耳には痛いがもっともな意見だった。たしかに英文字を使ったのはこの場面が初めてだった上、使う場面が物語の山場に近づいている所であるから尚更だ。


 俺は彼女に指摘されたところを書き換える。そして、彼女は俺の小説の構造的な欠陥についての説明を始めた。またもや納得のいく言説だった。少々手直しには時間がかかるが、残る時間はまだ十分だ。そこで俺は彼女の小説に戻った。物語の展開について助言できればと思ったのだ。

 主人公の探求ではなく、主人公と登場人物の摺り合わせによって物語の結論を導くのはどうだとか、物語の主軸を物に置いてみると良いんじゃないかとか、そういった思い付きを俺は彼女に提案した。彼女は熱心に聞いていたと思う。時折原稿用紙を見つめ、走り書きのようなものを残すからだ。役に立てているのであればとても嬉しい。

 充実した三十分だった。俺たちが執筆活動をしている者だからそう言える。


「ありがとう。やはりあなたに会えて良かった」

 彼女はそう言って荷物をまとめだす。文筆家らしい一言だったが、あやうく意味を取り違えそうになって俺はどぎまぎとする。そして、気を落ち着けようと思って時計を見た。

 十八時三十分から三十分経過したのだから今は十九時だった。横で彼女は帰り支度を終え、俺に頭を下げて部室から出ようとしている。俺は気づく、末恐ろしいことが起きようとしていると。

「まずいっ、なんということか!」

 俺は自分の荷物を強奪するように持ち上げ、USBメモリをPCから引き離す。そして、戸締りも何もかも忘れて、矢のように教室から飛び出た。

 目的から逃げていた。立ち向かわなければ、彼女に伝えなければ! 臆病であってはいけない。今日言えなくて次の日に言える道理が一体どこに存在する? 今日ほどに俺を焦らせる条件が整っておいて勇気を出せないのであれば、恐らく、いや、必ずや俺は永遠にそうであろう! 伝える、伝えてみせる、彼女との時間を得るために、彼女に振り向いてもらうために。それが至上の喜びなのだ。

 踊り場に出ると、彼女が階段を下りてゆく姿が見えた。窓に映る下弦の月の光が俺に劇場のごとく振り注がれ、その反面彼女は闇に溶け込みかかっている。一瞬、一瞬、彼女が少しずつ消えてゆく。彼女が俺の元から離れていこうとしているようだ。胸がぐっと締め付けられる。愛する人に嫌われてもいい、ただ愛せなくなるのはあまりにも辛い。あぁ、最後の好機、不思議にもそう確信できる。言え、言うんだっ、凛堂伊織!


「待ってくれ!」


 俺は彼女に勢い良く右手を伸ばして言った。彼女が振り向く音がする。姿はよく見えない。

「……妹が待っている」

 俺は過呼吸になって、 

「すぐ終わるよ」

 そして、口をつぐむ。辺りは静寂に包まれた。この世の全てが俺の言葉を待っている気がする。俺は殻を打ち破れるのか、新しい運命を切り開けるのか。偽りであれば無理だったかもしれない。

しかし――、


「週末に俺と、映画館に行き……ませんか?」


――真実である。

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