~第二章~
四
光陰矢の如しとはよく言ったものだ。体育祭が終わったかと思えば、今や期末テストが始まろうとしている。それにしても、今年も変わることなくオホーツク海気団と小笠原気団は熾烈な闘争を繰り広げているようで、さしづめ梅雨前線異常なしと言ったところだろうか。全くおかげさまで本日は豪雨となっている。どこかの詩人でもあれば、こんなものにも情趣を見いだすのだろうが、俺たち一般人にとっては気持ちのいいものではない。いや待て、こうしよう。このまま仲良く三人で傘もささずに市中を歌って回るのだ、タップダンスも交えて。そうすれば、きっと大雨とも友情を分かち合える。さながらジーン・ケリーのように!
「よせよ、よせったら。ここはガダルカナルじゃないんだから、ポテトぐらいいくらでもあるよ!」
古川が語勢を強めて言った。そこで始めて俺と詫摩、いや、詫摩と俺はポテトを取る手を止める。
「金を出せば、だがな」
俺はおどけて言った。横で詫摩が忌々しそうに、
「資本主義者め……」
「だから、俺はこの馬鹿とこうしてしのぎを削っているんだ。悪いな」
そう言って俺は再び機械のようにポテトを手に取る。
「おい、待てよ!」
そして、詫摩も続いた。
「はぁ……、僕はもういいや。どうぞお好きに」
古川は肘をついて言った。少し不憫だ。
「あ、いや……、悪い」
俺は諸手を挙げて残りは全部古川に差し出す。すると何を勘違いしたのか、詫摩がそれに手を伸ばし、憎たらしくも口の中に放り込んでいく。古川と俺はその様子を啞然として見つめた。なるほど、厚顔無恥という表現があったな。
「いやぁ、美味かった。しかも、古川のおごりとは。今日は何の日だ?」
詫摩は悪代官のように言った。うむ、ますますそうである。
「僕が友人を一人失った日……」
一方で古川は体をわなわなと震わせて言った。しかし、詫摩は全く悪びれず、というよりは何も理解していないのか、ただただ首をかしげるばかりだ。
俺は古川の背中に手をやり、軽くフォローする。古川、後で俺がお前におごってやるよ。
「しかしまぁ、かなりの大雨ときたもんだぜ。これは当分やみそうにないな」
「もっと、俺たちと一緒にいたいのか?」
詫摩は腕を後ろに回し、
「バカヤロー、何だって友人に遠回しにそう言うんだ。けどよ、話のネタなら一つあるな」
そう聞くと俺の眉が少し上がる。ほう、一体何だと言うのだろうか。お前の武勇伝か、サクセスストーリーか、それとも興味深い雑学か……、何故かはわからんが「詫摩の」と聞くと全て冴えないな。
束の間があって、やたらに難しい顔をしたかと思うと詫摩は突然ニヤリと笑い、
「気分はどうだ?」
意味が分からない。
「どういうことだ?」
俺は聞き返す。
「気分はどうだって言ってるんだよ」
「いつから医者になったんだ?」
俺はぶっきらぼうにそう言った。
「ブラックジャックを読んだ頃から……、いや、違うっ。そういう話じゃないんだよ。俺が言いたいのは、北条とはどうなってるんだってことだ。好きなんだろう?」
「…………」
俺は詫摩から目をそらす。どうもこの話は気が乗らないからだ。
俺は正直者だが、恥ずかしがり屋でもある。恋愛を楽しんでるくせして、さも自分は恋愛に興味ありませんよという風な態度をとっているのだ。これも年のせいだろう。いつかは治る。といっても、適当にはぐらかすのも詫摩相手には悪手だ。イニシアティブを握られ、結局は根掘り葉掘り事を尋ねられる。ここは一つ、冷静さを装っておこう。
「なんで気になるんだそんなこと。他人の色恋沙汰に興味があるなら、ティーンズ雑誌でも読めよ」
詫摩は人差し指を右に左に揺らしながら、
「最近浮かない顔してるぜ」
そう言われて俺は少し動揺する。しかし、どうせ詫摩の戯言、冷静でいよう。
「僕もそう思うね」
本当か! 俺はそう思い、粘土をこねるように顔を触ってみる。ふむ、異常は感じられないようだが。
詫摩は一度深くため息をつき、それを凌ぐ勢いで息を吸うと、
「いいか、再三言ってるがあの女はやめとけ。誰かと私語をしてるのを一回でも見たか? 陰気なんだよ、北条は。外見からでもそれくらいわかるだろう。しかも、成績はさして良くない。どこに取り柄があるんだ? なぁ凛堂、俺はお前のために言ってるんだぜ。なに早まることはない、お前はまだ若いんだからもっといい出会いを待てよ」
そう言い終わるころには、詫摩は老婆心を体現するような顔つきをしていた。本気のようだ。しかし、俺が納得するわけがなく、むしろ怒りを募らせるばかりで、
「北条さんは陰気なんじゃない。大人びてるんだ。俺やお前なんかよりもよっぽど。勉学は……まぁ、良くないかもしれんが、彼女には魅力的な文才がある。それに彼女は美しいさ。ケネディとフルシチョフが仲直りするくらいには」
俺は怪訝な顔つきで言った。
詫摩には彼女の良さがわからないのだろうか。もしくは、それが分かっているからこそ、俺に彼女を諦めさせようとしているのか――、
「――じゃあお前、ドン・ホセの傍に北条がいたらカルメンは死ななかったのかよ」
「どうして俺の傍じゃないんだっ!」
俺は机に拳を強く叩きつけた。床が揺れ、グラスの中の水が波打つ。そして、店員や客の視線は一挙に集まり、詫摩と古川は目を白黒させる。地に降りしきる雨音が消えた。辺りが凍てつく。しかし、それも寸刻。俺は果てに気づいた。
恥ずかしいことをした、と。
「あっ……、いや違うんだ。どうも慢性怒りんぼ症に罹患していてな。こ、こう、たまに癇癪持ちみたいになるんだよ」
俺は肩をすくめて言った。そして暗くうつむく。それ以上は何も言いたくはない。俺は恥ずかしがり屋なのだ。
すると、詫摩と古川がおもむろに顔を見合わせて、
「あはははは!」
腹を抱えて笑った。その様子に今度は俺が目を白黒させる。だが、横目に店員と客の時間も動き出し、雨音が俺の耳に届いた。あぁ、事が収まったのか。
「あっはっはっは……、なるほどなるほど、そうか凛堂。そこまでか。愛してるんだな」
詫摩は何かを達観しているかのように言った。やや癪に障る。しかし、俺はしわの寄った額に手を当てながら頷く。
そうとも、と口の中で詫摩に答えよう。大体、実のところああ言ったことに恥じらいはあっても悪い気はしない。何せ、誰かを愛せることだけでも十二分に幸せだと思うからだ。好きなどという感情はとうに越している。彼女が望むのなら蓬莱の玉の枝を探しに行こうじゃないか。それともアウグストゥスと闘えと? まぁ、それで死んだとしても結構。北条さんに愛されるのは至上の喜び、そこまで求めるのは強欲なのかもしれない。
だがまぁ、この想いは一体なぜだろ――、
「――いやなに、俺はお前の気持ちの程をまだよく知らなかったようだな。良心的な異端審問官のような心持で話を切り出したはずだが、今となっては事を成そうとする息子を持った親のそれだ。もう堰は切れかかっているようで、そうなると、行くところまで行ってしまえよ。俺も手伝ってやるからさ。何せ、友人の初恋だからな」
詫摩は安らかな顔で言った。旧知の仲だが初めてかもしれない。俺は少々顔が火照る。詫摩の言葉が不思議な暖かみを含んでいたのだ。そのおかげで違和感もふっと頭から消える。
「そうだね、それがいいよきっと。僕は北条さんのことはあまり知らないけど、君のような奴が好きになるんだから悪い人じゃないんだろうしね。それにしても、ねぇ、何かアプローチはかけてるのかい? 教室ではできなくても、文芸部の部室でなら何かできるかも」
どうも古川も興味津々なご様子、それに対し俺は口元を隠して、
「……毎日部室でお互いの小説の校正をしているくらいだ」
「ほお、驚いた。アプローチとは言えないが、良いんじゃねえの」
その詫摩の声は驚きというよりは嘲り。若干俺の眉が吊り上がる。いつもの活力が戻ったのだ。俺は罵詈雑言を胃の中に飲み込み、
「なら、もっと驚くことを教えてやろうか。北条さんが書いてる小説のジャンルは何だと思う?」
「あの女が書く小説……? SFか?」
そう答えたのは詫摩。
「じゃあ、僕はミステリーにベットするよ」
こう答えたのは古川。
問題なく二人とも不正解。まぁ、当たるわけがないだろう。答えは、
「恋愛小説さ」
俺がそう言うや否や、吉本新喜劇のように二人は椅子から転げ落ち、後頭部を床にぶつける。そろそろ出禁になるぞ。
二人は軽く咳ばらいをしながら椅子になおり、ほぼ同時に背筋を正す。そして、詫摩が震える声で、
「マ、マジか……。あの女の見た目でそれはないだろうよ。むむむ、どうせあれだろ。滅茶苦茶理屈っぽいことを並べて情緒を破壊しつくしてるんだろ」
俺は詫摩の頭を軽くこづく。
「彼女は小説に真剣なんだよ。だから、憶測で語るのは失礼極まりない」
古川が猫のように低く擦り寄り、
「じゃぁ、凛堂が小説を書いてるのは北条さんといたいから?」
その質問に俺は胃を痛める。
「ひ、否定はしない……そう、そのことを否定はしない。だが、俺が小説を書くことが好きなのはれっきとした事実だ。現に北条さんに会うよりもずっと前からそうしていたし、俺の中学校の成績は何の犠牲だったのか分からなくなるじゃないか」
俺は言った。言い訳がましく聞こえるかもしれんがこれは事実であるのだし、それとこれに何の関係もないわけではないような気がする。ただ漠然とそう思う。蜃気楼を掴もうとするような感覚でしかないが。
「まっ、とにかくどうするんだって話だ。お前もできることなら北条をガールフレンドとして迎え入れたいだろ?」
俺はそっぽを向き、
「……まぁな」
そうすると、詫摩は胡散臭い情報商材業者のように
「恋愛は攻撃あるのみだぜ。攻めて、攻めて、攻めまくるんだ。イタリア人を見ろよ、下手なジョークだろうがなんだろうがやたらめったらに話しかけて、徐々に互いの間にロマンスを作りだしているじゃねぇか」
「お前、イタリア人に謝れよ。ローマの末裔は怖いぞ」
俺は詫摩の言葉を聞き流しつつも、イタリア人の名誉の為にそう言った。だが、それは詫摩も同じだったようで、
「それに今は六月。攻めまくる電撃戦にはもってこいだ。おっ、そうだっ! 恋のバルバロッサでも仕掛けてみろよ。瞬く間に北条を篭絡できるぜ」
俺は詫摩の道化師ぶりに呆れつつ、
「その名前だと冬には失敗するな」
そしてトイレを指差し、気分転換も兼ねてそこに向かうために立ち上がる。すると、後ろで容赦ない追い討ちを古川が買って出る。
「そもそも、恋愛においての詫摩の助言ってのが何か変な話だね。だって、君なんかは告白が成功した試しがないじゃないか」
苦い過去の話を持ち出された詫摩は恐らく毛を逆立て、仰々しく腕を振り回しながら、
「なんだと童顔野郎! あれは総じて全能なる神の思し召しだ。お前はもっといい女と出会える。だから失敗させてやる。そういうわけだ!」
俺はその怒号のあまり一瞬その方を振り向くが、触らぬ神に祟りなしということですぐに向き直し、詫摩が告白した幾人の女を思い出して、彼女らの英断に胸中で拍手を贈る。
それはそうと、俺が北条さんを愛すように彼女が俺を愛してくれるなら万々歳だし、俺もそうなれるように努める気でいる。何しろ、好機がないわけではないはずだ。あの北条さんと恋人になれる好機が……! まぁ、頃合いだろうか。ただしかし、俺には社交性がないから、その手の話になると途端億劫になる。誰か愛すことによって得られる代償は痛みというわけか。目の背けたい事実だこと。
俺は無為に気になって窓を除く。おや、太陽がのぞいている。しかし周りには曇もある。
ふむ、少しの間は晴れそうだな。
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