三
100m走は私の予想以上に体力を消耗するものだった。それ故、ふらつく足でどうにか自分の順位の列に並ぶ。順位は最下位だった。しかし、恥ずかしくはない。何処であろうと咲き誇る花など存在しないのだから。その上、私の性格がそうなることを更に困難にしている。けれども、どちらにせよ過剰な欲求が不幸の温床であることに間違いはない。ラッセルがそう言っていたから。
「詩織ちゃん! お疲れ!」
委員長が駆け寄って来た。彼女には私の眼鏡を預かってもらっていたのだ。
「眼鏡、返すね」
それは委員長の提案だった。私は彼女の優しさにこくりとお辞儀をする。
「ものすごく頑張ったんだね!」
委員長は私の身体を凝視して言った。確かに、私の前髪や手の先からは汗が滴り落ち、普段は固く閉じている口も酸素を供給する為に開閉を繰り返している。しかし、それを委員長以外の人が言ったのならば私は悪意を感じていただろう。
私は切れ切れに、
「ありがとう、眼鏡に関しても」
そして水分補給をしようと思い、私は荷物置き場へときびすを返した。すると、背後から委員長の声がする。
「体育祭はどう? 楽しんでる?」
私は委員長に見返り、考える間もなく、
「ええ……」
そして私は歩き出す。無論噓ではない。
空から照りつける日光がとても不快。だけど、それを知らないままでいることよりは幸せだと思う。荷物置き場に着くと、私は品もなく座り込んだ。魔法瓶の中のお茶がよく冷えている。とても美味しい。体温が少しは低くなったことが感じられる。元気が出た。歩こう。
-私はテントの下に移動した。そこでは、幾らか見知った顔が談笑に花を咲かせていた。だから、テントの隅で腰を下ろす。元々、積極的に人と交わる性格ではなかったし、この一年でそれに拍車がかかっている気がするから。しかし、構わない。小説を書くことができれば、世界の果てで一人きりでも構わ……なかった、いや、ない。
私は少し顔を歪める。ただ、そう思うことによってそう思ったことにする。
ともかく私は好き、小説を書くことが。小説の中であれば、重力の存在すらないことにできる。それほどに自由な世界。だから私は好き、小説を書くことが。それに、物語によって何らかの命題の真偽を解き明かしたときは胸が熱くなる。とても熱くなる。
体育祭は楽しめなかった。でも、委員長には違うことを言った。何故なら、体育祭を楽しんでいる人達の姿を見ると私も少し幸せになれたから。私は彼ら彼女らの熱い歓声の輪には入れないし、それを浴びることもないけど、そうした姿には人間性を感じることができる。
すると、不意に私の上でアナウンスが鳴り響く。
「それではっ、次の種目は選抜者によるスウェーデンリレーです!」
その言葉を聞き、体育祭がもう終盤に差し掛かっていることを自覚する。そして、スウェーデンリレーの走者の名簿の中に委員長の名前があったことを思い出した。
彼女は私の走りを応援していた。なら、私も見に行くべき。それに、もう少し体育祭に近寄ってみても良いかもしれない。
私はそう考え、また歩き出す。
テントの外では辺りを往来する人々で溢れかえっていた。私はその中で立派なカメラを抱えている人を探す。恐らくその人についていけば委員長の姿を見やすい位置に向かえると思うから。
「…………」
それは目を凝らすまでもなく見つかった。緑の鳥打ち帽を被った筋肉質の男性。私はその人の後を追う。
数分ほど歩くと、人々の往来から離れ、見通しがきく場所に来た。グラウンドを見ると、既に競技は始まっている。しかし、まだ第一走者。彼女は第四走者のはず。問題はない。
と、考えている間に第一走者は役目を終えた。選抜者であるが故にその脚力はめざましい。そして、200mを走る第二走者が風を切る。幾重の歓声の中、選抜者達は前へ前へと足を送ってゆく。全員が他者の足を踏み抜くかのような鬼気迫る勢い。返って、それがドラマチックに見えている私がいる。不思議。
次いで、リレーのバトンは全員が似たタイミングで第三走者に渡る。たしか、彼女は第二レーン。だから、ほどなく私は第二レーンを注視する。
ためらうことなく言えば、第二レーンの第三走者は踏み込みに失敗した。その結果、他の走者の背中を見ることになった。歓声は相も変わらずと言うどころか、より大きなうねりとなっている。それは第二レーンの走者にとって、焦りに繋がっているかもしれない。次第に、私は手を強く握りしめていた。そして、第二レーンを応援する声が上がった時、私は群衆との一体感を感じた。声が喉まで出かかる。頑張って。
遂にバトンは第四走者に渡り始める。各レーンでばらつきがあった。第二レーンは最も遅れている。しかし、私が待った彼女はその足を豪快に振り、恥じらいのない苦悶の表情で他の走者を追う。始まった。私は息を吞み、見張った眼で彼女の姿を追いかける。まるで、疾風。速度が加速度的に上がってゆく。速い。これならば、フリードリヒ大王のような奇跡を起こすことも……。
彼女が一人を追い抜く。そのことに群衆が驚くと、また一人を追い抜く。今となっては空に流れるウィリアムテルも耳障りな不協和音。獅子奮迅と活躍する彼女の輝きには敵わない。私の鼓動も早くなる。そして、彼女は順々に前を走る者を超えてゆき、果てには彼女の前を走る者はおしなべて過去のこととなった。つまるところ、彼女が一位。
良かった。私の中で小さな歓声がそう上がる。微小ながらも目元が緩み、顔もほころぶ。とても久しい感覚、どこか遠くにいってしまったものだと……。そう思いつつ、しかし私は違和感を覚える。何か煮え切らない。私はまだ正直でないような気がする。何故? 本当はもっと別のもの? ただ、それによる副次的なものが今だったということ? ならば彼へ――、
――不意に、背後から一陣の風が吹き付ける。
私は瞬く間にぞっとし、あまりの気味悪さに後ろをはっと振り返る。何も無い。至極当然。でも、ハインに触れられたような不快感が背中に残る。怖い。
すると、再び背後で事が起こる。今度は鼓膜を打ち破るような大喝采だった。それを聞いた私は彼女がゴールを迎えたものだと思い振り返る。
そして、
私の血はざわめきを失う。
「……ごめんなさい」
私は冷めた表情で謝った。だが、それも僅差。振り向いた直後の私は違ったのだから。その時沸き立った感情は憎悪、嫉妬、懐疑……そういった色々。けれども、委員……星野美紀にはその感情を向けることは道理に合わないと思われる。謝罪はそのためのもの。
私は機械仕掛けのように、
「……おめでとう」
これが本来おくるべき言葉。ただ、どちらにしても遠くにいる星野美紀には聞こえない。ならばこれらは自己満足に過ぎないのかもしれない。それでもいい。どうでもいい。
私は胸に手を当て、しばらくした後に、その場を去る。
一位の星野美紀は、ゴール直後に家族と抱き合っていた。
青々としていた空模様が次第に赤みを帯びてゆき、やがては黄昏時を迎えるだろうと予測できる頃に体育祭は終わった。人々の声は散り散りになり、彼らもグラウンドも今までの熱気を忘れ始めている。
私は眼鏡を外し、辺りを見回す。それに意味はない。単なる時間稼ぎ。しかし、
私は荷物を背負うと、楓の下へ足を運ぶ。
楓とは東館の玄関で待ち合わせている。朝にそう取り決めた。しかし、私は楓に連絡を送る手段を持っていない。したがって、楓が予定通りに行動できていない可能性がある。
そう思いつつ、それは杞憂だった。東館の玄関に来ると、楓が支柱にもたれかかっていたから。立ち姿が際立っている。ただ、登下校の出で立ちとしては少し派手かもしれない。
「やっほー、お姉!」
楓が私に気付き、明るく手を振る。私はそれにこくりと頷く。そして、少し歩調を早め、楓の下へ辿り着く。
「待たせてしまった」
「いや全然。さっ、行きましょ?」
楓は体を横に折り曲げ、屈託のない笑顔を見せた。楓には恋人がいる。私には何故その人と帰らないのかが常々の疑問。思えば、一年ほど前に突然この申し出を受けて以来毎日そうしている。
「分かった」
楓は私に一種の憂いを感じているのかもしれない。風船のように、手放したままでいるとどこかに飛び去ってしまうかもと。いつの日かその旨を問いたい。
私は横に並んだ楓と共に帰路につく。体育祭について話し合った。楓は活発で、私は内気。しかし、楓の前では不思議と口が開く。話を聞く限り、楓は心ゆくまで体育祭を楽しんだそう。すると、私の記憶の中の体育祭が美しくなった。ありがとう。たしかに、楓はチアガールとして体育祭で大きく活躍していたし、何より元々周りによく人がいた。
逆にお姉はどうだったの? と聞かれたとき、私は困惑で顔をうずめた。何を言えばいいかわからなかったから。そうすると、楓は如才なく話題を変えてくれる。
そして、後は坂を登れば家に帰り着くというところで、私は少し気を許し過ぎてしまった。
「楓、あなたは家に帰りたい?」
私はそう言った。しかし、すぐさまそれが思慮に欠けた言動であると思い、楓の方を向いて撤回しようとする。すると、
「お姉は少なくともそうではないですよね」
楓の顔には暗雲立ち込めていた。
「だって、私たちの親があれですから」
髪をたくし上げ、あれと楓は真意を不明瞭にした。
私は目を細め、慎重な物言いで、
「……話しても構わない?」
楓はにこやかに笑って答える。今まで、私たちはあれについて話すことを意識的に避けてきた。ごく稀に話題に上がるとしても、それは禅問答のようなもの。しかし、疲労感や体育祭の余韻から、お互いに話すことができると私は悟った。
私の両親は互いに不貞行為を犯している。歯に衣着せぬ言い方で表せば不倫。そして、私と楓はそれを知っている。私が知ったのは一年前。楓はそれよりも一ヶ月ほど前。楓がその事実を私に打ち明けた時、私の表情はゴヤの黒い絵よりも絶望に満ち、悲しみを除く全ての心が救いようのない地下牢に繋ぎ止められていった。そして、悲しみは破壊衝動に変わり、何かを事を起こそうと猛り立ったが、結局は再び悲しみの渦に沈んでいき、ただ妹の胸に涙を零したと。
さすがに今はそうではない。ある程度は受け入れている。ただ、その日まで信じていたものに一時期は巨大な不信感を得ていたし、今でも疑念を晴らすことはできない。
それは、
「楓、愛とは存在するの?」
私は目線を下げて言った。
「えっ、いきなり重たい話! そうですねぇ……、正直わかりません。ただ、あってほしいとは思いますけど。そう言うお姉はどう思ってるんです?」
「私も断言はできない。ただ、天秤はないという方に大きく傾いている。両親は教会で愛を誓い合ったはず、そしてその後にもそれは二人の間に存在していたと思われる。そうでなければ、私たちが五体満足に育つのは難しい」
楓は腰を曲げて屈み、視線だけを私の顔に上げると、
「お姉の身長はそうとは言えませんけどね」
それを聞き、私はしおらしく話を続ける。
「……しかし、今二人が愛し合っていないこともまた事実。つまり、彼らが誓い合ったものは愛ではなかった」
「一過性のものは愛ではないんですか?」
「それを愛とするのならば、世界と歴史はその美しさを失う」
私は毅然とそう言い放った。だから、その態度の分だけ私は瞬く間に恥ずかしくなり、静かにうつむきながら、
「……いえ、今のは忘れて」
すると、楓は何か私の隙を感じ取ったのか、あまり良いとは言えない笑みを浮かべると、
「それにしても意外ですねー。お姉が『楓、愛とは存在するの?』なんて言うのは」
「……何故?」
楓は鼻歌を交えながら私のそばに近づき、
「だって、お姉には愛し、愛される素敵な人がいるのですから! そうっ、あの文芸部の――」
――私は耳を塞ぐ。断じて焦ってはいない。焦ってはいない。無論、楓が誰を指し示しているかはわからない。わからない。ただ、10の24乗分の1の確率で、それが……、その、凛堂伊織であるとする。そうだとして、私は彼のことを愛してなどいない。愛してなどいない。しかし、こう言い聞かせないとそう思えない気がする。
私は夕陽を覆い隠すように立ち、楓を指差す。そして、調子の狂ったフルートのように、
「い、いらい……」
「あははっ! 肯定と否定が混ざってますよ、お姉。それに顔も真っ赤、もう正直に言ったらどうです?」
「……これ以上は黙秘権を行使する」
私は紅潮した顔でそう言い、半ば走るように家に向かう。すると、横目に楓の顔が目に映る。それは愉快というよりは安堵であったが、確かめるために足を止めるのも気が引け、私はそのまま家に向かう。
そういえば、多くの人は私が理性を偏重していると言う。それは私の性。仕方のないこと。しかし、私は人間の本質は感情にあると考えている。これは理性的に下した結論。そして、愛とは数多ある感情の中で最も甘美なる果実、歓喜の源泉にして苦痛の源泉である、と確信していた。そう言うのも、私は愛を裏切った彼と彼女の姿を基にして結論を組み立てたから。
ならば、愛は存在しない?
そう思うと、既に家の門が差し迫っていることに気づく。すると、足先が糸を張るように硬直した。けれども、それは刹那の出来事。結局は何することもなく私の影はそこに溶け込む。
ねえ、あなたは一体何? 私を二律背反に導くあなたはメフィスト? それともメシア?
……愛は存在する?
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