~第一章~
二
どうやら地球は五月の気温というものを忘れてしまったらしい。恐らく、どんなに我慢強い雪だるまでも今日の暑さの前にはただの水と化すだろう。俺の記憶によれば去年の五月はまだましだったはずだが、今日のこれは一体なんだ? 流石にもう地球温暖化懐疑説などは疑似科学行きだな。
ともあれ、今日はマジョリティが待ちに待った体育祭でもある。数日も前から既に学校全体が熱気に満ち溢れていたが、当日ともなればそれは凄いものだ。ひょっとすると、今日の暑さの一因なのかもな。
俺はグラウンドにちらりと目をやる。すると、女子の100m走が始まろうとしていた。
「…………」
全力で一位を狙おうとする者、単純に楽しもうとする者、及び腰になっている者、そしてただただやる気のない者、と様々な顔が出揃っていた。しかしまぁ、結果がどうなろうとさして興味は湧かないんだがな。
一方で、俺の右隣の詫摩は傍観者というよりは観察者を装っている。
「今日は全校の女子が一堂に会する日。そうとなりゃ、俺にはやらねばならんことがある!」
だいぶ意気込んだ調子だが、何をするかと思えばこいつはオペラグラスをバッグから取り出した。
「くっくっくっ、さぁ、俺はこの親父からパックてきた双眼鏡で……」
「そいつはオペラグラスだ。この歴史的バカモンが」
俺が横から口をはさんだ。すると、詫摩は一瞬驚いたような素振りを見せ、オペラグラスをまじまじと見つめる。しかし、こいつにとってそれは大した問題ではなかったのか、すぐにレンズを覗き直した。
俺はその様子を訝しげに思った。そして、なんとなくの予想はつくものの、
「その上品な玩具で何をする気だ?」
詫摩はニヤリと口元にしわを寄せると、
「女子の品定めだよ」
なるほど、予想通りに低俗の限りを尽くしていた。こと詫摩の行動に関してはノストラダムスよりも正確に予言可能だからな。
「ほどほどにね」
左隣の古川が言った。その口調は相も変わらず飄々としている。一方で俺は、
「はぁ……」
低くため息をつき、何と無しに空を見上げる。横で詫摩が何かを解説し始めたが、そんな話よりも小鳥のさえずりに耳を傾ける方がよほど健康的で文化的だ。
しかし、別段詫摩の行動を止める気も毛頭ない。釈迦、イエス、ムハンマドらが三人揃って説法を説き聞かせたとしても、こいつの心に届くものは何も無いだろうから、俺ごときの言葉もまたそうなのだ。それに、な。
「…………」
それはそうと、見上げた空はいつも通りに青と白とが混在していた。我が校の体育祭なぞにお天道様が配慮を見せるとは夢にも思わなんだが、今日は実際によく晴れている。もしかしたら、ひでり神の悪戯かもしれないが、当人らからすればそれはオペラグラスと双眼鏡のようなどうだっていい違いだろう。俺もそう思う。しばらくの間はこれを眺めていたいものだ。大地に身を置き、風の流れを味わい、広がる空をゆくゆくまで楽しむのだ。おっと、そういえば、今のような情緒ある心に水をさすことを最も得意とする人間が横にいるのだった。
詫摩が俺の肩をとんとんと叩き、
「いやぁ、素晴らしいな。大いに情欲を搔き立てられたよ。21世紀万歳!」
「あぁ、まったくその通り、21世紀はとてもいい時代だ。お前さえいなければな」
泥をかけられた気分になった俺はぶっきらぼうに言う。
「つれないな。お前も見るか? 貸してやるぞ」
詫摩は多分、きっと、恐らく親切心でそう言った。
「きついジョークだ。俺が悪事の片棒を担ぐとでも?」
そう言いながら俺は首を横に振り、さらには両手を挙げるまでして詫摩の下衆な誘いを明確に拒否する。しかし、どうも詫摩は諦めが悪く、
「……本当にいいのかぁ」
いやに重々しい声で尋ねてきた。こいつに限ってなぜ――、
「――だって、今走ってんの彼女だぜ」
詫摩は言った。すると、瞬時に詫摩が奇声を上げる。それは怒号のようだった。いや待て、そうではない。順序がおかしい。瞬時に動いたのはこちらだ。それから詫摩は声を上げたのだ。何を? どこで? いつ? なぜ? 誰が? どのように? オペラグラスを、ここで、たった今、俺が、奪った?
気付けば、俺の手には詫摩のオペラグラスが握られている。あぁ、そうか。反射的に詫摩から取り上げたのだった。冷静に自己矛盾している。けれども、正当化できるだけの理由があるような気がする。
やがて俺は詫摩と目を合わせた。一分経ったのか、一秒経ったのかは分からないが、不思議な時間だ。詫摩は俺を強くにらみつける。俺はそれに対し真顔で応える。お互いにひどい面をしていたことだろう。おや? どこかでピストルの音が鳴った。
「はぁぁ、気高きナイト様は、愛しく思うあの娘を劣情の視線にさらすことが耐えられないってわけか」
詫摩は顔に手を当てながら言った。その言葉に俺はすっかり赤面してしまい、黙ってオペラグラスを返す。そこでやっと現実が戻ってきた。
古川が何事もなかったように、
「相変わらずなのかい⁈ 一途だね、僕は応援してるよ」
俺は恥ずかしさのあまり手の中に顔をうずくめる。俺らしくはないが仕方ないだろ。その手の話は胸の奥までこそばゆくなるのだから。だが、まぁそうだ。大胆に言えば、彼女もとい北条詩織は俺の片想いの相手である。それもぼんやりしているとついつい考えてしまうくらいには! 教育委員会よ。惚気ているのは悪いことか?
しかし、詫摩は首をかしげつつ、
「分からんね。あんな女のどこがいいんだか。背は平均、髪は黒、見てくれは地味な眼鏡女。その上、人付き合いも悪いと来た。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるというけれどさ、少しくらいは的を絞ったらどうだ?」
「そう言うこともないんじゃないかな。個性的な魅力だと思うよ。でも、僕もどうして好きになったかは気になるね」
「まあな」
俺は古川の質問をはぐらかした。答えようがないのだ。ただ、一目惚れではなかった。北条さんとは同じ文芸部に所属しているが、共に活動している内にそう自覚するまでに至ったのだ。何かしら要因があるとは思うのだがな……。
すると、詫摩が卑しい目つきで、
「バカヤロー、お前、男が女に恋する理由なんざ、D=0でただの一つ、せい――、」
「――はいはい、黙ってようね。凛堂って意外と清純だからさ」
しかし、古川が詫摩の口を無理矢理抑え込んだ。そのため、俺は親指を立てて古川に感謝を伝える。だが、詫摩のうわごとを完全に否定できないことは、不愉快ながらも認めざるを得ない事実だ。何せ、自分自身でもそれがわからないのだから。
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