至上の喜び
ゴシック
~序章~
一
今になって思えば、彼女の様子は朝からおかしかった。最近になってやっと心を開き始めてくれたかと思うと、何故か今日は随分と他人行儀な姿勢で必要最低限の会話しか取り合ってくれなかったのだ。その上、彼女の方から俺を呼び出すというのは一体どういう風の吹き回しだろうか。いやなに、これは喜ばしい出来事に違いないのだが、彼女の朝からの行動を鑑みると額面通りには受け取れない。
既に日は沈みかけている。夕陽を背に受けて椅子に座る彼女の姿はどこか不確実な存在に見えた。それにしてもこの頃、ヒグラシの鳴き声が落ち着きを見せているため、人の声の消えた教室というのは静寂極まりない。しかし、彼女の犀利な視線は俺が口火を切ることを明らかに拒んでいる。つまりはただ沈黙の時間のみが過ぎ去っていくのだ。もう一時間半にもなる。段々と俺の額にも汗が浮かび上がってくるが、彼女に至っては微動だにせずに同じ姿勢を取り続けている。
すると、一陣の風が教室に吹き込んできた。それは俺と彼女の間を通り抜け、向かいの窓に抜けていく。なるほど、これが契機だったのか。
「どうして私が好きなの?」
彼女は深淵に水を一滴落とすようにそう言った。
「…………」
そして、それは想像以上に思いがけないことであった。俺には狼狽することしかできない。ただ、これは彼女の言動ただ一つによるところではない。惜しくも、俺はこの問いに答える術を持っていないのだ。
「答え……られない?」
俺は静かにうつむく。図星だ。
「そう……」
彼女は吐息まじりに言った。その表情には微小ながらも切なさが含まれている。それがより一層、俺の自分自身に対する慙愧の念を増幅させた。
実のところ、彼女に言われる前から俺の心中にこの問いはあった。ただ、俺はそれを無視していたのだ。告白したときの言葉が表面的で薄っぺらいものだと自分で断じることは、到底恐ろしくて仕様のないことだったからだ。ならば、彼女の言動と俺の沈黙はその罪への刑罰なのだろうか?
ふいに彼女は少し頭を傾ける。
「好きになることに理由なんてない、ということは有り得ない。それはただの逃げ口上。人間には必ず行動原理が存在しているから」
俺は突然の事に戸惑いながらも頷く。実際、その通りであるとは思う。
「では、あなたの場合は何故? あなたと私はこれまでの一定の期間恋愛関係を紡いできたけれどもあなたは何故それを望んだの?」
俺は唇を震わせながら答える。
「それは……、君のことが好きだったからだよ」
「その答えは私の問いに対する答えにはなり得ない」
彼女は俺の言葉を表情一つ変えずに一蹴した。そして、彼女はなおも無表情で驚愕の言葉を続ける。
「ともすると、気が弱く世間知らずな私であれば口説き落とせると感じたから?」
俺はぎょっと目を見開き、彼女の言葉に愕然とする。しかし、そのことを感じる間もなく、矢継ぎ早に口を開く。
「ち、違う! 決してそんな想いじゃないんだ!」
しかし、彼女の無機質な問いは俺をさらに追い詰めて行く。
「或いは、恋人を持っているという肩書きが欲しかったから?」
「いや、そうでもないんだ! 俺は……」
焦った俺はとにかく何かを言おうとした。だが、彼女は語勢を弱めることなく、
「それとも……、私の身体が目的? そうであれば、深夜に街を徘徊している売女にでも声をかければいいと考えられる」
俺は脳髄に杭を打ちつけられたような衝撃を受け、
「なっ、違う、違うんだっ、俺は決してそんなつもりで君を見ていたんじゃない!」
それを聞いた彼女は落ち着き払って一言、
「そう……」
微かに呟いた。
それからは暫時の静けさが訪れた。しかし、俺にとってはもはやここに自分が存在するという事実だけでも吐き出しそうだった。俺の彼女に対する背信的行為の結果が、俺の心臓をきつく縛り上げているのだ。
俺は彼女に何を言えばいいのだろうか。容姿が好みだったからか? 同じ文芸部の部員だったからか? 雰囲気に惹かれたからか? いや、違う、できない。俺は彼女に噓をつきたくない。何かもっと――、
「根源的なもの」
――彼女は再び微かに呟いた。
「えっ……」
俺は目を見開いて驚き、汗が額から滴り落ちる。しかし、彼女は続けて言葉を織りなす。
「私はあなたにもう一度聞きたい。それは私のあなたに対する根源的な問い」
彼女は俺の目を真っ直ぐに捉えて言った。そして、俺にぐっと迫ると弱々しく口を開く。
「どうして私が好きなの?」
その言葉は、ラインの守りにも似た彼女の最後の希望だったのだろう。だが俺はもう耐えきれなかった。彼女の問いに応えることができない自分が存在するということに。だから、その感情の表れか、俺は無言で目を逸らしてしまった。
「そう……」
彼女は悲しげに言った。そして、彼女はおもむろに椅子から立ち上がり、荷物を手に取ると教室から去っていった。
俺はうなだれながらその後を一瞥する。床に寂しい雫が滴り落ちていた。それはきっと彼女の感情そのものだ……。
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