サムバディ

八田部壱乃介

サムバディ

 胸部がぺろりと剥けて、心臓を落っことしそうになった。僕は慌ててホッチキスを引き出しから取り出すと、ぱちんぱちんと留めていく。皮膚が脆くなったようだ。もう何年も使っているから、替え時かもしれない。

 人間が死んだら一番困るのは、新陳代謝が止まることだ。お陰で怪我は治らないし、汚れたらそのまま腐っていく。破損した部位はその都度培養して貰うから金がかかる。継ぎ接ぎだらけの肉体には、それはもう雑多な遺伝子で溢れている。たまに有名人の腕や耳なんかを身につけた者が居て、羨ましいなあと思ったりするけれど、買おうにも桁が多くて買えやしない。

 給料日は明後日だから、胸部パーツを買うにももう少しばかり耐えなければならない。いつもより多めにホッチキスでくっ付けると、まあこれで良いだろうと妥協する。

 数世紀前までは、少子高齢化社会と言われていたらしい。今や彼岸の国などと揶揄されるくらいには死者の方が多くなっている。それもそうだ。人間は死んでも生き延びる方法を見つけたから、天国と地獄をここに併設した。どうやら人間は出来ることはなんでもするようだ。そのうち新技術は規則によって制度に代わり、やがてつまらない毎日へと変化する。

 神は僕たちを見捨てる前に、存命アンデッド制度を作らせたと言う。見捨てる代わりに永遠を約束したのだそうだ。でも、果たしてそれは本当だろうか。僕らは本当に神に見捨てられたのか、疑問だった。

 神が僕らを見捨てたのではなくて、僕らの方が神を見限ったのではないか、と思うのだ。曰く、

「生も死も要りませんから、ここに居させてください」

 と言って、僕らは肉体をここに残していったのではないか──なんて考えたりする。なんたって、すべては僕らの自由意志なのだから。

 脳味噌を人工神経回路クラゲに作り替えて、電池で身体を動かしていく。昔を知っている人は、「極めてなにか生命に対する侮辱を感じる」とお気持ちを表明していたが、僕はそこまで気にならない。生きても活きてもいないが、少なくとも死んでもいないのだから問題はない。それに、常識が移り変わるのが倫理というものだろう。

 僕は鼻の奥の細道に溜まった膿みを洗うため、ぽかりと顔から取り外すと、歯ブラシでごしごしと丹念に磨いた。鼻の消費期限はとうに過ぎていたから、やわになっていた。ブラシに負けて、ほんのちょっぴり破れてしまったが気にしない。

 先ほども言ったが、金欠貧乏人間に買い換える金はないので、耐えるしかないのだ。なんと悲しいことだろう。道路を見れば、人工魂クラゲより先に朽ちてしまった人が、崩れた身体を排水溝に流している。

 僕はああなりたくない。だから今日も必死に働くのだ。胸のスイッチを切り替えて、僕は仕事モードに入る。ペースメーカーがクラゲと接続を切って、僕は魂を失う。つまりは無意識状態スリープモードに入るのだ。

 気がつけば終業時間になっていた。指先は欠けていて、これじゃあ明日は使い物にならない。破損部位と料金を計算して、幾らお金が残るのか計算する。少しでも残ったら、孫とひ孫、その赤子の赤子、ずっと先の赤子までお小遣いをあげたい。そしてまた、金欠貧乏の日常が僕を待っているだろう。

 飽き飽きするのもしょうがない。友人の何人かはもうさっさと解脱してしまったし、いつかは僕もそうするだろうから、悪いことは言えない。その上、地球上の資源がすべて死体へと成り果てているらしく、いつかは生者も絶滅するようだ、と報道されていた。顔色の悪いニュースキャスターは「ぞっとしませんね」と破顔し、僕はぞっとするけどなと思った。

 仕事帰り、僕は偶然にも旧友と出会った。彼と思い出話に花を咲かせ、或いはそんなこともあったっけなどと惚けあいながら、記憶の整合性をとっていく。サーバーに記憶出来る容量も限られているから、必要ない事柄は熱心な聞き手役を演じる。

「俺はね、今体内で納豆菌を繁殖させる仕事に就いているんだけど」

 と彼は言い、僕は思わず吹き出した。無駄話で記憶を上書きしそうになってしまったが、記録しないようクラゲを設定しておいたので、大事なことを忘れてしまったりはしないだろう。彼と別れる際には、あれなんて名前だったっけとベイカーベイカーパラドクスを体験した。それから誰かと会った気がしたけれど、きっと恐らく多分、思い出そうとしても無駄なことだろうから、深く思い出そうとはしなかった。

 クラゲの負荷をなくすため、僕は次の就業時間まで意識を落とす。身体が目覚めたら無意識のうちに働いて、これまた帰路にて意識が戻るのだ。これを繰り返しながら身体を交換して、生き存えていく。

 これと言った趣味も健康のために辞めたから、本当に退屈だ。映画は水晶体と網膜を傷つける。音楽は蝸牛管を痛めつける。スポーツは単純に負荷がかかるし、眠る以外に楽しみはない。

 眠れば楽しい夢が見れるから、僕はずっと眠り続ける。クラゲにいつもの夢をお願いして、目蓋を閉じた。目蓋の裏はクラゲの足で代用した血管で輝いている。眩しいな、と思いながら意識を落とす。五感は失われ、僅かに記憶された思い出が、ホロ映像となって蘇った。

 妻が、僕を見て微笑んでいる。

 何か言っているのだろう、口を動かしているが、声は聞こえない。それから楽しそうに目を三日月にして、

「どうしたの?」と、言った。

 僕は気がついて、彼女を見据える。声も見た目もあの頃のまま。鏡を見れば、それは僕も同じだった。

「懐かしいな」

「なに言ってるの」

 彼女が笑ったので、僕も釣られて笑う。

 時計のない昔住んだ部屋には、覚えている限りの家具や小物が並び置かれていた。触れてみて、その時の記憶を思い出す。ああ、そうだった、こんな会話をしたな。そうだそうだ、こんなことがあった。

 僕は物思いに耽ると、いつの間にか涙を流していた。そういえば目から滴が流れるのだったっけ、と驚きながら、これまた懐かしくて面白くなった。

「機嫌が良いね」

 妻の問いかけに、

「今日は天気が良いから」

 西日の差し込む窓際に、僕は手をついた。暖かいと感じてから、これも久しく忘れていた感覚だと自覚する。

「懐かしいな……」しみじみとした声色が、僕の口から耳へと移動した。「ね、今日はどうしようか」

「どこかに遊びに行かない?」

「良いね。どこが良いかな」

「海に行きたい」

「今から?」

「悪くないでしょう?」

「ああ──」僕は頷いた。「そうだね。悪くないかも」

 電車の中は僕たちふたりだけだった。他の人たちはどこへ行ったのだろうと思って、ふと窓から外を見つめた。流れる景色には錆色の街が浮かんでいる。瞬きすれば、それは一瞬で青色の海へと様変わりする。

「着いたね」

 妻はもうホームの上。

「行こうか」

 階段を上り、ゲートを通過する。

 日差しが視界を遮った。

 僕の足首を半透明な水が濡らしている。

 水飛沫がかかり、僕は顔を上げる。

 妻が悪戯っ子のように目を輝かせながら、手で水を掬い取り、僕にかけた。

 何だか遠い世界まで来てしまったようだ。

 僕はまた涙を流した。

「ねえ、奥まで泳ごうよ」

 彼女はそう言って、海を渡っていく。

 どこまでも暖かな日の光が僕を照らした。

 僕は手を伸ばす。

 妻は振り返って、何かを呟いた。

 さざ波の音が遮り、僕の元には届かない。

 彼女はやがて海深くへと潜っていく。

 追いかけようとして、僕は海の上を走った。

 ただただ青い地面だけがそこには残った。

「おはようございます」

 空から無機質なクラゲの声がしたと思えば、僕はここが仮想世界だと思い出し、目蓋の裏から目が醒める。渇いた瞳には何かが足りない気がして、すぐに胸のスイッチを切り替えた。

 あっと言う間に帰り道。

 仮想銀行にアクセスしてみれば、給料が振り込まれていた。身体はいつの間に取り替えられている。売買記録を確認してみれば、成る程。勤め先で身体を壊したので、急遽その場で買い換えたらしい。残金はため息程度しかなかった。

 僕は残りをすべて親族全員に分け与えると、クラゲから運営に繋いでもらい、存命措置の停止をお願いした。ここは彼岸とは言え仮初だ。どこにも妻は居ない。それに、これ以上夢を見続けるのも飽きてしまった。夏の夜の夢ももう終わり。夏が過ぎれば秋が来る。僕は胸のスイッチを下ろすと尊厳死を要請した。

 これは自殺ではない。だって、もう死んでいるのだから。誰も僕を咎めることはない。それに、彼女に会いに行くためにここを離れるだけだ。とても前向きな動機だと僕は思う。人によってはそう思わないかもしれないけれど、倫理って移り変わるものだろう?

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