ノーマルテープ、三十分。夏休みの初恋。
畳縁(タタミベリ)
▶︎再生
“好き”という言葉は、あまりにも重たい。
聞かせた相手を繋ぎ止めてしまうのだから。
こういう言葉は、呪いだと思う。
僕も、君に言ってあげたかったのだ。
今時ちょっと旧い吊り下げ式の照明。本当なら和室向けのやつが、たまたま余っていたので、この部屋にある。
ベッドに転がるのは。僕だ。
部屋で一番乱れているやつ。
中学の頃に知ったアーティストの笑顔が見えた。四隅を壁用テープで留めていたけれど、端がちょっと丸まっている。
高校に入るぐらいに、結婚宣言してくれたっけ。
僕は両耳に詰まったイヤホンを直す。
そして、腰のあたりのシーツをまさぐり、四角い機械を掴んだ。春のフリーマーケットで手に入れた、古びたカセットテープ式のウォークマン。天井を見ながら、親指の爪で手掛かりを探り、蓋を開いて。
カセットテープを抜き出す。
眩しいリング状の蛍光灯に翳した、ベージュのカセットには、ただ“初恋”とだけ書かれていた。
片面15分。両面で30分のテープには、トラックの継ぎ目は無い。入っているのは一曲だけ。A面はこの間聴いたから、今回はB面を表にして、ウォークマン本体に刺した。蓋を閉じる。
そして、固い再生ボタンを押し込めば、ヘッドが下がって読み込みが始まる。
テープに付きものの、ヒスノイズは嫌いじゃない。
目を瞑って、開いた。
乱れたベッドに寝転がる自分の足下に、知らない制服を着た女の子が、居心地悪そうに座っている。健康そうな長い黒髪が、白いシャツの肩を流れて落ちてゆく。整った鼻梁、柔らかな頬の稜線。横から見た胸もその、結構あるな。
細いフレームの眼鏡の横から窺える、憂いを含んだ目。
いま肩を思い切り掴んだら、彼女は泣きだすだろう。
いわゆる美少女だ。間違いなく。
「……部屋で再生するなんて、初めてじゃない」
やや震える声で、少女は言った。
「とうとう、その気になったの」
「いや。なんとなくだよ……分かってるだろ、僕が気にかけているのは」
「夏休みで会えなくて、残念ね」
「何か話してくれ」
エアコンの吐き出す風が、剥き出しの腕に当たる。
多分、僕でなかったら寒い。
「ここじゃ居心地が悪いわ。外へ行って」
「わかった」
停止ボタンを押し込む。ガチャリと機械が噛み合って、女の子の姿が消えた。
彼女は、このテープを再生すると出てくるのだ。
素性は一切知らない。
“初恋”を入れたウォークマンを手に取ったとき、フリーマーケットのおっさんがニヤついていた気がしたが、何も分からない。少しは聞いてみれば良かった。
今は夏休みの真ん中だ。
僕には何の義務も課されていないので、昼間で寝ていてもいいし、こうして起きて出かけてもいい。
だらしない服を着直して、ドアを開けた。ぬるい風が吹き付けてくる。じりじりと暑い日差しは、部屋のただ眩しい蛍光灯とはレベルが違う。
腰まで水に浸かったように、重い足取りで歩いた。
日は高く、蝉が狂ったように鳴き続けている。
Tシャツを濡らして、汗が止まらない。
そうして、近くの公園に脚を踏み入れた。
木々が陰を生み出しているけれど、やはり暑いのだ。
誰も居ない。幾つか並んだ、錆の付いた金属製ベンチは、触れられないほど焼けていた。ひとつだけ、木陰に位置するベンチがあったので、僕は腰掛ける。
蝉の声は止まない。
そして、両耳にクリアパーツのイヤホンをねじ込み、ウォークマンの再生スイッチを押し込んだ。長い髪の“初恋”が横に座っていた。
「話って、私が話すの。聞く方が得意なんだから、貴方が話してよ。いつも抱えてる事、あるでしょ?」
「そうだな……」
だから僕は、堂々巡りの問題を口にした。
同級生の、ボブヘアの彼女。
大きな目で、笑顔が綺麗で、感情豊かな、夏休みは会えない人に。
「僕は、言いたいんだよ」
僕は胸が苦しくて、今にも口から出そうな想いを彼女に聞かせようとした。
「君が好き」と、言わずにいられなかったのだ。だから、傍に居てくれる“初恋”がどんなに綺麗でも、それに惹かれている余裕はない。
でも、どんなタイミングで言えばいい?
呼ぶのか。この夏休みに電話してみるか。だけど、不自然じゃないか? 確実に、間違えずに済む選択は無いか? 嫌われないか? 僕はアガらずに、それが言えるか? だが、遅れたら誰かに先を越されるのではないか? もしかしたら、もう誰かのモノなんじゃないか? だったら、諦めるのか。
言わないよりは言った方がいいじゃないか。
「でも、答えが出ないんだ」
考えた。考え続けていた。
夏休みは、もう真ん中まで来ているのに。
「うう……」
僕は頭を抱える。
そうしていると、イヤホンから、抑えるような笑い声が漏れてきた。声はウォークマン経由だが、目に映る“初恋”も、お腹を押さえて震えている。
「プッ、クフフ……」
清楚な見た目で、周りに構わず脚をばたばたさせて。
「アハハッ」
小さな子供みたいに、大笑いしてみせた。
「可笑しいか」
恨みがましく、僕は彼女を睨む。
“初恋”が指で涙を拭って、答えた。
「ひー。だって、同じ話ばかりするんだもの。まるでカセットテープみたい」
「この夏じゅう、頭がいっぱいなんだよ……」
“初恋”は、何処の物か分からない制服のスカートを直した。
「一生懸命、相手のことを考えてくれて。それが嫌な人なんて、居ないよ……はぁ。いいな」
まだ涙が出ていた。しつこい。
「私に何もしないでいられるのは、その子が頭に住み着いているからなんだね。でも大丈夫。貴方は、私を繰り返し再生するうちに、それが言えるようになる。……もう夏も真ん中だね」
不意に、彼女が消えた。
ヒスノイズだけが、耳に入ってくる。
僕はウォークマンを止め、カセットをA面に切り替える。
“初恋”が再び現れた。
「……私の話、してあげる」
「珍しいな」
気弱そうな眼鏡を直して、“初恋”は言った。
「貴方みたいな持ち主の方が、ずっと珍しいよ。私は……」
カセットテープに彼女の魂が封入されたのは今から数十年前。16歳の、終わりかけていた自分の病床に、魔法使いが現れた。そいつは、彼女がしてみたかったことをみんな叶えてくれると言ったのだ。
もっと命を永らえたい、笑いたい、泣きたい。
普通の人みたいに恋がしたい、恋をしたら、すること全部、してみたい……。
是非も無く、彼女は契約を結んだ。
終わりかけていた身体は、魔法使いが引き取った。後には誰もいない病院のベッドと、嘆く両親が残された、というお話だ。
彼女は以来、一本のカセットテープとなった。
「私は、数え切れないほどの“好き”を受け止めてきた」
眼鏡の隙間から、彼女の本当の目が見える。
遠い眼差しで、彼女は語っていた。
……唐突にB面が終わる。
彼女の消えたベンチで。
何を。
何を、聞いた。
……身体が震えた。
何も考えず、無為に再生を繰り返していたテープは。僕が散々、親にも言えない自分の弱みを並べていた彼女は。元々ひとりの人間だったのだ。
僕は魔法の存在を信じないわけではない。でも、彼女をずっと、不思議な方法で創られた、作り物のキャラクターだと思っていた。他の大勢の誰かと同じように、都合の良いように彼女を再生し、利用し、消費していたなんて。
……僕は立ち上がり、ぐらつく脚で帰ろうとした。
逡巡してから、テープを裏返し、再生ボタンを押し込む。
“初恋”は目の前に居た。
「話を続けてもいいの?」
「聞くよ。いいから全部、話せ……」
「……いいの。嬉しい」
彼女の目に、光るものが滲む。こんなに暑いのに、テープが動く間、蝉は黙っていたし、長い髪は汗に濡れることも無かった。とても美しかった。
ボブヘアの彼女に取り憑かれた僕だけど、その時初めて、“初恋”の弱くて柔らかいところに触れてしまった気がして、胸が苦しくなった。何十年も、僕以外の誰にも言わなかったことなのだろう。
切っ掛けは幾つもある。見た目が男受けするというのも、それはそうだろう。どうあれ、再生する度、溜まってきた想いを、このとき自覚させられた。
僕は、もう一人の人間を好きになっていた。
「私、辛かった。くだらない話をいっぱい聞かされて、笑ったふりをいっぱいした。自分の年齢の倍を足しても追いつかないぐらいの男の人を受け入れたことだってある。自分の意思なんてないの。再生されたら、決して断れない。苦しくて、いっぱい泣いたよ?」
僕は、知らず彼女を抱きしめていた。
異性と手も繋いだ経験も無いのに。
自分にこんなことができるなんて、思わなかったが。
「悲しくても、辛くても、巻き戻せば元通りになる。だけど、テープを回す度、心には刻まれてゆく……」
彼女の背中の、長い髪にやさしく触れた。初めて押し付けられる胸が、柔らかくて、その身体からいい匂いがして、でも、心臓の鼓動は止まっていた。
「確かに恋をしたら、すること全部、したよ……でも、こんな形にして欲しいなんて、誰も言ってない! 言ってないんだ!」
そう、イヤホンでしか聞こえない声で叫んで、再生した者にしか視えない彼女は、僕の腕の中で泣いた。
どれくらい時間が経っただろう。
それはカセットのA面が終わるまでの、15分以内の出来事には違いない。
それきり黙っていた彼女は、身体を離し、潤んだ目で。
「貴方は優しい人だから。本当はこんなこと、頼みたくないけれど。お願いがあるの。私の魔法を、解いてほしい」
僕は君が好きになった。心の一部では、どんなに苦しくても、ずっとそのままでいてほしいと思っている。だから、ここで僕が口から出すのを抑えている“好き”という言葉は、相手を繋ぎ止めるだけなのだということも、分かる。
「私には、魔法を解くその言葉が何か言えない」
僕の服を掴み、すがるように“初恋”は願う。
僕が言うべき言葉は、ひとつだけあった。
それを言えば、彼女はここから居なくなる。
「分かった」
身勝手な“好き”を注ぎ込んできた者達が、彼女に決して言わなかったこと。そいつらが彼女に飽いて捨てる、その前にも、口にしなかった一言。
僕は所詮いい人止まりだから、言ってやるんだ。
「“さよなら”……これだろ?」
“初恋”は微笑んで、頷いた。両の目尻から涙が落ちた。
「やっとだね。貴方は、私を繰り返し再生するうちに、言えるようになる。そう言ってきたでしょ」
相手を繋ぎ留める“好き”ではなく、解き放つための“さよなら”を、僕は口にできるようになったのだ。
「……ありがとう……」
ザッ、と大きなノイズ音が入り、僕は反射的に耳を押さえた。気が付いた時には、彼女はもう居ない。ウォークマンを開くと、“初恋”のテープはちぎれて、二度と再生することはできなかった。
夏休みの半ば。
盆送りに合わせて、“初恋”は消えたかったのだ。
それを知り、遅れて僕は泣いた。
恋愛の、始まりと終わり。
相手を想って言うのは、どちらも同じ。
“好き”と“さよなら”は、物事のA面とB面だ。
再び始まった学校で、僕は迷わなかった。
級友に「正気か?」と疑われたけれど。
ボブヘアの彼女に、声をかけて。
放課後の校舎裏に呼び出して。
誰が窓から首を出して観察してようが、構わなかった。
僕は言う。
「君が・・・・・・」
B面を再生できるなら。
A面だって、容易いはずだ。
「好きです。付き合って下さい」
頭を下げた。答えはすぐだった。
ありがとう、でも先にそう言ってくれた人がいるから。
友達でいたい。本当にごめんね。
急いでいるから、帰るね。
・・・・・・ざわつく生徒が、夕日の橙色が、うるさい。
一年間、溜めていた想いを吐き出して。
僕は、目が熱かったけれど、“初恋”の言った通り、簡単に“好き”が言えるようになった自分を、笑った。そうだ、笑ってやれ。
赤い糸は丸まって、鞠玉のようになり、僕の胸に納まっている。それはボブヘアの彼女や、カセットテープの“初恋”に出会って以来、どんどん大きくなるばかりで、苦しいけれど。いつか。これを贈れる相手が見つかるまで。
僕は捨てずに抱えて生きていこうと、思うのだ。
ノーマルテープ、三十分。夏休みの初恋。 畳縁(タタミベリ) @flat_nomi
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